小さな旅
あの山での出来事から一週間がたった。
その日の仕事帰りの夜、幸寿は久々に店に顔を出した。
と、言うのも山から戻ってきてから急な出張が入ってしまい、ずっと県外に出ていたのだ。
帰ってきてからしばらくは現実感がなく、まだふとした時や目を閉じたとき、あの山の圧倒的暗闇や鈴音から聞いた話の中の村の姿が浮かんでいたが、それもあって堪らなく鈴音に会いたかった。
山での出来事を頭の中から払いたいのもあったが、それ以上に山から帰る途中幸寿の中にふとある考えが浮かんだのだ。
それは電話やメールでは伝えたくなかったので、店に顔を出したかった。
そのため、店に向かう幸寿の足取りは早く、途中からは早歩きのようになってしまったため、そんな自分に軽く苦笑いを浮かべた。
高校生の男児みたいだな。
店の前にようやく着くと、軽く息をつき中に入った。
すると店にはすでに何人か先客がいたので、幸寿は空いている端の席に座った。
鈴音はカウンターで五郎丸と共にコーヒーを淹れているのか、ゆっくりとした所作で何事かを行っていた。
その様子を見ていると山での経験や鈴音の話がまるで遠い世界の出来事のように感じられた。
自分達は本当にあの時間を共に過ごしたのだろうか。
そう思えるほど自分も鈴音もあの時の空気が消え去っているように感じる。
あれだけ濃密な、まるで纏わりつく煙のように感じられたあの山での空気は何処に消え去ったのだろう。
いや、消え去ってなどおらず実際はお互いの中に深く沈み込んでしまっているだけなのだろうが、それを実感することは出来なかった。
今迄もそうだったように、他のお客が居るときの鈴音は幸寿に対し、当然ながら他のお客と同様に接客していた。
それも新鮮に感じられ、見ているだけで楽しかった。
だが、鈴音がカウンターの奥に入って少ししたら幸寿の携帯にメールが入ったので確認すると鈴音からだった。
「最後までいて下さいますよね?お話出来るの楽しみにしてます」
幸寿は「もちろん、そのために来た」と短く返信した。
その後少しして鈴音はカウンターに戻ったため、幸寿はしばらく読書をしていた。
だが、鈴音にする話に気が向いてしまい、本の内容が頭に入ってこない。
本当にティーンエイジャーみたいだな。
それからしばらくして、最後のお客が帰り閉店時間になると鈴音が近付いて来た。
「お客様。そろそろ閉店の時間なので」
だが、鈴音の表情はイタズラっぽい笑顔だったので、幸寿も冗談めかして言った。
「すいません、じゃあ僕も失礼します」
鈴音はクスクス笑うとカウンターからコーヒーを取り、幸寿の前に置いた。
「どうぞ」
「有難う」
そう言って飲み始める幸寿を見ながら鈴音はシャッターを閉め始め、それが終わると自分に淹れたコーヒーを持って幸寿の前に座った。
「お久しぶりです」
「そうだね。と、言っても一週間だけどね」
「はい。でも私には長かったです。幸寿さんから出張の事を聞いていたのに、それでもずっと不安だったから。あの出来事の後だし」
そう言いながら、鈴音は上目遣いに幸寿を見た。
「大丈夫だよ」
短いながらも力強く鈴音の目をまっすぐ見ながら答えた。
鈴音は安心したように微笑むとコーヒーを口に運んだ。
「自分で言うのも何ですが、あの話をあなたにしてからこっちに帰ってからも変な気分になることがありました。本当に自分はここに居るのかな、って。あの話を誰かにしたのは当然ながら始めてだったし」
「僕もだよ。君と同じ事を考えてた。だから早く君に逢いたかった」
鈴音は小さく頷きまたコーヒーを飲んだ。
こうしてみると鈴音も普通の女の子なのか、と思えてくる。
と、言っても彼は明治生まれの241歳なのだが…
その間、彼は何を思って生きてきたのだろうか。
最初の二十年間は狂気の淵にいただろうが、それからは…
自分に会うまでに彼は二百年以上の時を過ごしてきた。
出張の間に考えてはいたが、とても想像出来ないものだった。
だが、幸寿はすぐに頭を切り替えた。
今日は久々に鈴音の顔を見たかったのもあるが、もう一つ目的があった。
幸寿は話そうとするが自分が緊張していることに気付き、落ち着かせるためにコーヒーを飲むと言った。
「鈴音ちゃん、旅行とか興味ある?」
「えっ?」
「実は…君も知ってると思うけど」
そう言って幸寿は有名な某テーマパークの名前を言った。
「最近そこがテレビで特集されていてね。見ていると君と行きたいな、と思えてきて。良かったらどうだろう。知ってる?そのテーマパークは?」
話しながら幸寿は心臓が音を立てて居るのを感じた。
まるで初恋の人を始めて映画に誘ったときのようだった。
そんな自分を居敷の端では呆れながらも、鈴音から目を離せなかった。
鈴音は目を丸くして幸寿をじっと見ていた。
「…はい、知ってますけど」
「あまり興味がないなら無理にとは言わないけど」
鈴音はしばらく黙っていたが、やがてポツリと言った。
「それって…あの話を聞いたからですか?可愛そうだと…」
「違う」
幸寿はやや強い口調で言った。
「そんな気持ちはまったくない。ただ、君と少しでも長く同じ時間を過ごしたい。それだけ。僕のワガママなんだ」
鈴音は視線を左右に泳がせるとややあってポツリと言った。
「テーマパーク…」
「うん。君さえ良ければ」
「私…そんな旅、始めてかも。いいんですか」
「もちろん。一緒に行ってくれるかな?」
鈴音は小さく頷いた
「どうしよう。今、ビックリするほど嬉しいです」
その翌週の金曜日。
仕事帰りに帰ってから車をを出し、幸寿は待ち合わせ場所である店の近くのコインパーキングに向かっていた。
そこで鈴音を乗せてからテーマパークへ向かう予定なのだ。
店の近くは路上駐車になってしまうし、店の駐車場を使うのは気が咎めるため、このような形を幸寿が提案したのだ。
待ち合わせ時間にはまだかなりある。
家と店の距離を考えるともっと遅い時間に出ても充分だったのだが、待っている間に近くのコンビニで食べ物や飲み物、お菓子類を勝って置こうと思ったのだ。
そしてコインパーキングが見えると…
「あれっ」
幸寿は思わず声が出た。
コインパーキングの入口近くに赤いワンピースを来た少女が立っていたのだが、どう見ても鈴音だった。
学園風のワンピースにベレー帽と言う格好で、黒のキャリーバッグを横に立てていたが、ワンピースは赤地に襟やリボンの白がよく映えており、同じく白のベレー帽を合わせているその姿はまるで少女モデルのようだった。
和服とも店での服装とも違う、その姿に幸寿は緊張がさらに高まったがそれ以上でもそれ以下でもない驚きを感じていた。
まだ一時間前なのに。
と、言う事はそれより早くに来てたという事か。
幸寿は急いで、パーキングの近くで窓を空けて鈴音を呼んだ。
鈴音はボンヤリと夜空を見ていたが、幸寿の声にパッと振り向くと慌てたように駆けてきた。
「今晩は。よろしくお願いします」
そう言ってペコリと頭を下げる鈴音に幸寿は申し訳なさそうに言った。
「ごめん。待たせたね」
その言葉に鈴音は微笑むと首を振った。
「全然。待ってる時間を楽しみたいな、と思ってたのであっという間でした」
「そう言ってもらえると嬉しいな。じゃあキャリーバッグを載せようか。それはやるからいいよ」
「有難う御座います。すいません」
幸寿はキャリーバッグを積み込むと、鈴音に車に乗るよう促した。
「ちょっと待ってください。その前に…」
そう呟くと鈴音はキャリーバッグからさらに小振りのバッグを取り出した。
「はい、それでオッケーです」
鈴音はクルマに乗り込むと、シートベルトを締めバッグの中からバスケットを取り出した。
「これ、良かったら道中でと思って作って来たんです」
それはサンドイッチとクッキーだった。
「え!わざわざ有難う。大変だっただろう」
「いいえ、作ってる時も楽しくて。店で商品として作ってるときも嫌いでは無かったですが、やっぱり全然違いますね。つい作りすぎちゃった」
恥ずかしそうに話す鈴音を見ていると、幸寿は誘って良かったと心底思った。
鈴音は幸寿が想像もつかないほど遥かに強く、今回の旅行を楽しみにしてくれていたのだ。
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