うつつ
翌日。
この日はいつも通りの静かな朝だった。
女中から食事を受け取り、身体を拭くためのたらいに入ったお湯が続けて入れられた。
康介が来るようになってから鈴音は特に念入りに身体を拭くようになっていたが、女中は全く興味がないようだった。
だが家中の鈴音に対する無関心さは脱出計画を進めている現状にはひたすらに有り難かった。
半分ほど開いた小窓から吹き込む秋の空気は部屋をかなり冷やしていたが、脱出した後の事を考えていると全く気にならないどころか、小窓を見ていると康介との生活が想像されて自然に笑みが溢れる。
だが、夕方になった辺りで鈴音はある違和感に気付いた。
普段はいつも静まり返っている屋敷の中が、妙に騒がしい。
バタバタと言う足音が忙しなく聞こえ、時々何かを倒したような音も混ざっていたのだ。
鈴音はその音を聞いていると酷く怖くなってきた。
只事でない何かが起こっている。
この音は…何かが暴れている。
様子を見に行きたかったが、部屋の入口は鍵が掛かっておりびくともしない。
しばらくすると屋敷の物音はしなくなり、元の静けさが戻ってきた。
ただ、いつもなら食事を持ってくるはずの女中が小窓の外が真っ暗になってもやってこないことで鈴音の不安は確信に変わった。
屋敷で何か大変な事が起こっている。
鈴音の頭の中は康介の事で一杯だった。
兄様は!
何とか兄様に屋敷の事を伝えたい。
もう決してここに来ては行けない!何か大変な事が起こっている。
だが、鈴音に伝える術は無かった。
その夜、康介が姿を表さなかったのだが、鈴音はそのことに一晩中安堵と不安を行き来していた。
もしかしたら兄様は屋敷の事を聞いて逃げることが出来たのか?
もしかしたら屋敷の異変に巻き込まれてしまったのでは?
知りたい。
屋敷で何が起こったのか。兄様の安否が。
鈴音は康介からもらった小さなのこぎりで夢中になって格子を斬り始めた。
結局一晩中その作業に取り組んでいたが、翌朝になっても誰も姿を表さなかった。
鈴音はもう屋敷に人が居ないことに確信を持っていたが、それで不安を感じながらの作業だった。
いつまで経っても屋敷の人間が姿を現さなかった事で、以前のようにコソコソと作業することが無くなったせいか、進み方は非常に早かった。
だが、一番は康介の安否を確認したいという一心だった。
そして、その日の夕方に格子は全て切れた。
「…やった!」
鈴音は机を小窓の近くに寄せるとその上に乗り、小窓に頭を入れた。
やはりまだ少しキツかった。
「クッっ!」
それでも無理に頭をねじ込むと、康介が今までに僅かづつでも周辺を崩そうとしていた事が功を奏したのだろうか、突然ボロっと鈍い音を立てて、壁が少し崩れて頭が通った。
鈴音は心臓が大きく跳ねるように感じた。
頭が通れば身体は通る。
片腕を隙間に通すと壁を掴み半ば強引に身体を通すともともと、監禁生活でやつれていた鈴音の身体はついに小窓から全身を通すことが出来た。
いつ以来の外界だろうか。
陽の光が驚くほどに眩しくてまるで目に突き刺さるように感じてしまい、鈴音は思わず目を閉じて顔を背けた。
だが、やがて目が慣れてくると周囲の景色が信じられない程色鮮やかで美しく見えた。
…世界はこんなに美しかったんだ。
そしてずっと小窓から外の空気が入っていたにも関わらず、思わず大きく深呼吸をした。
私は自由だ。
だが、次の瞬間鈴音は全身が硬直した。
微かに鼻に飛び込んで来た臭いに鈴音は覚えがあった。
血の匂い。
鈴音の脳裏に真っ先に浮かんだのは物取りだった。
屋敷に入ったのだろうか?
だが、屋敷には屈強な男が何人もいる。
間違っても物取りなどに襲われるとは思えない。
鈴音は立ち上がると、よろよろと裏口に歩き出した。
ずっと部屋にいたせいか、足の筋力が酷く落ちている。
歩くのにも一苦労だ。
誰かに見付かるかも、と言う不安はあったが屋敷の異変を確認したい気持ちが強かったし、もしこの村から逃げるにしても必要な物は沢山あった。
どちらにせよこのままここを離れることは出来ない。
鈴音は何度も周囲を確認し、緊張で全身を震わせながらも裏口を開けた。
だが、そこで目に飛び込んだものを見て鈴音は呆然とその場に立ち尽くした。
そこには首のない女性が倒れていた。
「え…」
鈴音は最初、それが人形かもと思えた。
目に映るものが理解できずに、意識が現実に追いついていなかった。
だが、数秒の後鈴音は周囲を切り裂くような悲鳴を上げた。
その後、その場に座り込んで何度も嘔吐した。
血の匂いが鼻に飛び込むたびに、胃の中の物が逆流してくる。
やがて、何も出なくなってもしばらく嘔気は収まらなかった。
だが、鈴音は泣きながらも何とか立ち上がって屋敷の外に歩き出した。
しゃくり上げながら取り憑かれたように何度も「兄様」と呟きながら。
既に鈴音の意識は収集が付かないほど混乱していて、とにかくただ康介に会いたかった。
その時、鈴音の目の端に…先程出てきたばかりの小窓の近くに康介の姿が見えた。
ボンヤリと立ち、小窓を見つめているのは間違いなく康介だった。
「兄様…」
鈴音はふらつく足取りで懸命に康介の所に駆け寄り、身体にしがみついた。
「兄様…会いたかった」
康介は無言だったが鈴音は構わずに泣きながら話し続けた。
「すずは出られました。自分で。お屋敷で何か変な物音がしてたので気になって。そして、裏口から入ろうとしたら…」
そこまで話したところで突然康介が鈴音の両肩をガッシリと掴んだ。
「…兄様?」
次の瞬間、鈴音は自らの首に康介が噛みつくのを感じた。
それはあまりに強く、鈴音は自分の首元から血が吹き出るのを感じた。
「兄様、これは…」
身体が急速に冷えてくるのを感じながらも、鈴音は自分の身に起こったことが理解できなかった。
このまま…死ぬ。
そう思った瞬間、鈴音は恐怖で脳内が完全に支配されていた。
その時、反射的に腕が動き康介のみぞおちを突き飛ばした。
その勢いは強く、康介は蹌踉めいてそのまま倒れた。
鈴音は首から血を流しながらよろよろと歩き出した。
頭の中は死への恐怖…いや、もっと得体の知れない何かへの恐怖で支配されていた。
その本能的な何かから逃れるように鈴音は歩き出した。
後ろからは康介だろうか。
ユックリとした足音が聞こえる。
出血と足の衰えのせいか足取りは遅く、裏口に逃げ込んだ所ですぐに再び康介に追い付かれた。
再び康介は鈴音の首に噛み付いた。
また血が吹き出してくる。
それとともに何かが自分の体の中に流れ込んでくるのを感じた。
…死にたくない。嫌。兄様。
鈴音は半ば無意識に懐からある物を取り出した。
あの日、康介にもらったもの。
そして、何処からそんな力が出たのだろうか、身体を回転させるとその勢いで短刀を康介に向かって突き立てた。
それは子供の頃から教わってきた武術のせいだろうか。
狂いなく短刀は康介の心臓に刺さった。
その途端、康介から今までに聞いたことのない、まるで動物の咆哮のような声が聞こえた。
そして、心臓から激しく血が吹き出しそれは鈴音の全身をたちまちのうちに染め上げた。
そして、鈴音はその時始めて自分の行った事に気付いた。
「兄様…兄様。兄様!違う…違う!違う!違う!違う!」
鈴音はその場から飛び退くように下がると、叫び声を上げながら短刀を投げ捨て、再度康介に駆け寄った。
康介はすでに目から光が失われようとしていたが、鈴音を見ると口が小さく動いた。
「嫌だ!兄様!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
その時康介の口が微かに動いた様に見えた。
そして鈴音に手を伸ばそうとした。
「兄様!」
鈴音がその手を取ろうとしたその時。
康介の背後から何かが覆い被さり、康介の頭部を力任せに引っ張った。
そして何が起こったのか分からず呆然としている鈴音の前で、何か…若い男性は康介の首を引き千切った。
そして、鈴音の前でそこから流れる血を飲み始めた。
鈴音は目の前の現実を理解できずにただ、座り込んでいたが、やがて康介に目の前の男が行った事を把握した。
その後の事は記憶になかった。
ただ、気が付くと先程の男が心臓を貫かれると共に同じように首を引き千切られており、鈴音は自らの手でその首を持っていた。
美味しそう…
鈴音は先程の男のようにその血を飲もうと顔をその首に近付けたが、突然誰かに突き飛ばされてその場に倒れ込んだ。
「その血を飲むな。こいつらと同じようになる」
そう言ったのは見たことのない初老の男性だった。
鈴音は何の感情もない表情で男性を見た。
「先に殺られた男性…君の大切な人か。すまなかった。そして君にも。」
男性は苦しそうな、何かに耐えているような表情で絞り出すように言った。
なぜこの人は謝ってるんだろう。
鈴音はよく分からなかった。
それより兄様に会わないと。せっかく出られたのだから。
早く会って、共にこんな村から出ていくのだ。
そして一緒に絵を書きたい。
「この人達は知りません。それより兄様と行かないと行けないんです。約束したから。一緒にこの村を出て共に暮らすと」
「君のやり取りは一部始終見させてもらった。本当にすまない。でも彼はもう居ない…」
「兄様!どこに居るの!変な人が酷い事を言うんです。兄様がもういないって。早くすずを迎えに来て下さい!すずはこんな人と一緒に居るのは嫌です!」
男性は何も言わず鈴音をじっと見つめていた。
鈴音は何度も繰り返し康介を呼び続けた。
途中からは殆んど叫び声になっていたが、構わずに繰り返した。
「兄様!すずはここに居ます!すずはここに居ます!ここに居ます!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます