地下の小部屋はまるで座敷牢とでも言うべき簡素さだった。

 四畳半ほどの広さに最低限の衣類のみの入った簡素な箪笥。

 そして小さな机。

 隅には粗末な布団が一組。

 背伸びしてようやく届くくらいの高さに鉄格子のかかった小窓があった。

 覗き込んでみると、そこからは僅かに外が見えた。

 だが、視界が狭すぎて屋敷の何処かは分からない。

 隣にはさらに小部屋があったがそこは厠だった。

 これが鈴音の世界の全てだった。

 鈴音はこれ以上何もする気力もなく、ボンヤリと座り込んだ。

 兄様…

 康介の姿ばかりが浮かんでくる。

 鈴音は溢れる涙を堪えきれず、布団に潜り込むとそのまま身体を震わせて泣き続けた。


 その日から鈴音が見る人間は日に3回食事を運び、厠の掃除をする女中のみとなった。

 その女中も喜久雄から厳命されているのか、それとも既に後継者でなくなっている鈴音に価値を見出していないせいなのか、極めて淡々と言葉も出さずに一連の行為を行っていた。

 最初はその様子の変化に戸惑いと落胆を感じると共に、ここから出ることが本当に叶わない事を感じ自らの境遇に絶望し泣き続けていたが、1月立つ頃には何も感じなくなっていた。

 その頃の鈴音は既に現実を見ていなかった。

 起きてから寝るまでの間、ひたすらに空想と思い出に耽っていた。

 内容は康介との生活だった。

 康介と共に生活している自分。

 康介と自分の食事を作り、それを笑いながら食べている自分。

 絵を書いている康介にお茶を出していた自分。

 康介が話してくれたことのある、故郷の海のある風景。

 共に泳いだり海を見ながら絵を書いている自分達。

 そんなことを一日中考えて過ごしていると、時間が立つのを忘れる様だった。

 だが、そんな空想からふと我に返ると、康介の事が心配になる。

 父様は本当に兄様を見逃したのだろうか。

 一度でいいから何とか確かめたかった。

 女中に聞こうかと思うこともあったが、まるで鈴音の声が聞こえていないかのような態度だったので、諦めた。

 兄様…会いたい

 叶わぬ事と知りながらも鈴音は自らの死を強く臨んでいたが、せめてその前に康介に一目会いたかった。

 

 それからさらに1月がたったある夜。

 小窓から流れ込んでくる微かな冷気で秋が深まってきているのを鈴音は感じた。

 小窓からは土と木の根っこしか見えないため、季節の感覚も失い始めていたのだ。

 自分はこんな部屋で冬を越えられるのだろうか。

 この着物を来ていて良かった。

 ふと心配になったあと、そんな自分が可笑しくなり一人でクスクス笑った。

 冬を越えてどうなる。

 またずっとこの生活が続く。

 むしろ冬の寒さで凍え死んでしまったほうが救いになる。

 そう思って、布団に包まろうとしたその時、背後から声が聞こえた。

 それはこの部屋に入ってから何度も思い出してきた声だった。

 それを聞いたとき、鈴音は眠っていた意識が急激に覚醒するのを感じた。

 兄様が…

 急いで振り向くと、その声は小窓の方からだった。

 飛びつくように小窓を覗き込むと、そこには確かに康介の顔があった。

 康介も這いつくばっているのだろう。

 顔が半分ほどだったが、確かに康介だった。

「兄様…」

「すず…すずなんだね?」

「はい、すずです。兄様」

 そこまで言うと後は言葉にならなかった。

 何か言おうとするのだが、嗚咽で言葉にならなかった。

 ただ、子供のようにしゃくり上げながら「会いたかった…会いたかった」と繰り返す事しか出来なかったのだ。

「ごめん。遅くなって。あれから喜久雄様に二度と屋敷に近付くなと言われてしまって。でもすずの事を聞くと、心配で…何度か忍び込んだんだ。探して探して…ようやくここからすずの声が聞こえて」

「もう…危ないことを」

 そう言いながらも鈴音は幸福感で満たされていた。

 康介は無事だったのだ。

 そして自分の事を忘れてはいなかった。

 それだけで堪らなく幸せだった。

 だが、突然鈴音は我に返って慌てて後ろに下がった。

「兄様、すぐに帰って下さい。誰かに見付かったら今度こそ本当に…」

「いいよ。それでも」

「えっ?」

「今迄言えなくてゴメンね。僕はすずを愛している。大切な人を僕は守れなかった。だからせめてこのくらいはさせてくれ。すずのために出来ることはしたい」

「兄様」

鈴音はポツリポツリと言った。 

「すずも…兄様を愛しております。この部屋に入ってから兄様の事ばかり考えておりました。兄様と共に暮らしている自分を考えることで生きる事が出来ておりました」

「僕もすずの事ばかり考えていた。すずとまた会えたら死んでもいいと」

「いや!兄様は死なないで。生きて幸せになって下さい。私の分まで」

「違う。一緒に幸せになろう。二人で。卜はいつか必ず君をここから出す。そしたら一緒に暮らそう。約束だよ。」

「…はい」

 鈴音はこの部屋に入って始めて笑った気がした。

 そして、ふと今の自分の姿に気付きポツリと言った。

「あの…あまりすずを見ないで下さい。私は酷く汚くなってしまっております…髪もバサバサで…その…臭いも…もう兄様に愛して頂いたすずではありません」

 鈴音はこの小部屋に入ってから週に一度たらいに入ったお湯で身体を拭く程度しか許されていなかった。

 最近はそれすらも行う気力が無くなっていたが、今さらながらに酷く後悔していた。


  それから康介は週に一度は夜に小窓からすずに会いに来るようになった。

 鈴音は誰かに見付かりはしないかと気が気でなかったが、会える嬉しさのほうが勝っていた。

 また、康介は鈴音に会うだけでなく、来るたびに小窓の周囲を少しずつだが削り始めていた。

 康介が何をしようとしているのか鈴音はすぐに理解出来た。

 康介は鈴音を本当にここから出そうとしているのだ。

 この小部屋は長らく使われていなかったせいか、あちこちが酷く老朽化していたが、小窓も例外ではなかったのだ。

 しかも、格子を取り除き周囲を少しの削ることが出来れば元々小柄な鈴音が通り抜けられる広さになる。

 鈴音は一気に目の前が開けてくるようだった。

 ここから出られる!

 鈴音も食事の配膳が終わった後、全ての時間を使って小窓を削る作業に夢中になって取り組んだ。

 康介はそれだけでなく、鈴音に最近の外界の子ども教えてくれた。

 それによると、以前話に聞いていた神隠しがさらに酷くなっているらしく、もはや住民の誰もが恐怖を感じているようだった。

「夜はおろか、昼間も閉じこもっている家が多くなっている。しかも死んだはずの人を見た、と言う村人も多数出てきた。怖がって村から出て行く家も出て来始めた」

「そんなに…」

 一体この村で何が起こっているのだろう。

 鈴音の頭に以前、康介と夜の森で見た不審な影を思い出した。

 まさかあの人が。

「だからすずは一刻も早くここからでなければ。喜久雄様も最近は酷く精神面で不安定になっているらしい。村から出ようとしている家族を探し出して無理やり連れ戻したり、自警団を作って毎日のように山狩りさせたり。その負担や神隠しの恐怖で村人もかなり追い詰められているようだ」

だから、最近は屋敷の方でやたら騒がしかったのか。

 いつもは静まり返っている屋敷の変化に不思議な気持ちはあったがそれで合点がいった。

「兄様…そんな中でこんな事。危ないです。もうお止めください」

「それは聞かない。それにここまで来て止められないよ」

 確かに格子は半分ほど取り去られている。

「よし、かなり良いところまで来たね。また明日の夜に来るよ。もう数日頑張れば格子は完全に開くようになる」

「有難うございます。でも…本当にお気を付けて、もし危なそうなら来るのはお控えになってください。必ず」

 その言葉に康介は小窓を覗き込むと笑顔で頷いた。

「あと、これ…」

 そう言って康介は鈴音に布に包まれた細長い棒のような物を渡した。

 鈴音が中を見てみるとそれは、短刀だった。

「これは…」

「念の為に。もし外に出られるようになったときに危険が無いように」

「有難うございます。でも私は大丈夫です」

「たしかにそうだね。でもなにかしてあげたいんだ。此のくらいしか出来ないけど」

「…ありがとう御座います。お守り代わりに」

 鈴音は微笑んで受け取った。

 

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