神隠し

 それから鈴音にとって康介と会うことの出来る絵の授業の時だけが日々の楽しみだった。

 康介に見せるために着物をこっそりと街に選びに行き、道行く女性の姿を見ては真似をしてみた。

 それを見せて康介の驚く顔を見ていると、鈴音の中にじんわりと暖かい何かが染み出してくるのを感じた。

「ねえ、兄様。兄様は画家として身を立てようとはなさらないの?」

 鈴音はいつものように部屋のソファに座る康介の隣にストンと座ると言った。

 いつしか鈴音は康介の事を「兄様」と呼び、康介は鈴音の事を「すず」と読んでいた。

 そして康介の前でだけは、口調も振る舞いも完全に少女のそれになっていた。

「僕はそんな才能はないよ。本の口絵や挿絵を描いて何とか生活してるからね」

「私は兄様の絵は好きです」

「有難う。そう言ってくれるのはすずだけだよ」

「いずれはみんな気付きます。私もそのお手伝いがしたい」

「有難う。君はきっと僕以上の絵を描くようになると思う。でも君を見ているともしかしたらそれ以上に…新しい芸術を作れるんじゃないかと思うときがある。歌舞伎を産んだ出雲阿国のように。その時はすずは僕なんか必要としなくなるよ」

「そんなことはありません!」

 突然の鈴音の剣幕に康介は目を見開いた。

「すずが兄様を必要としなくなることは有り得ません。すずは…ずっとこの先も…兄様と生きて行きたい」

「すず…」

 鈴音は話しながら目の前がクラクラしてくるように感じた。

 自分は今何を言った?

 でも言葉は次々と溢れ出してくる。

「すずは、こんな家の跡継ぎなんか嫌です。兄様に会う前だったら受け入れたかも知れない。でも今は嫌です。父様や母様、家の皆が勝手に思う金崎鈴音になんてなりたくない。私はあなたと居るときのすずで生きていたい。武術も学問も嫌です。殿方の着物を着て足を開いて座るのなんか嫌です。すずは『僕』じゃありません!」

 鈴音は話しているうちにまた涙が溢れてきた。

 ああ、自分はずっとこれを誰かに聞いてほしかったんだ。

 そして、康介が自分を優しく抱きしめてくれるのが分かった。

 鈴音は酷く驚いた。

 かってないほど近くにある康介の体からは、紛れもなく男性の香りがした。

 それは鈴音にとって、何かが緩んでしまうほどの心地良さだった。

「兄様…すずはずっとお慕いしておりました。」

 康介はなにも言わず、代わりに鈴音を抱きしめる腕により力が入った。

 鈴音もまるで康介を自分の中に入れてしまおうとするように強く抱き締めた。

やがて康介の顔が自分に近付いて来るのを感じたが、鈴音はじっと目を閉じていた。

 本で読んで以来、何度も想像してたとはいえ恐れのあまり頭が真っ白だったため、康介に全てを委ねるしかできなかった。

 だが、それはこの上なく甘美な恐れだった。

 

 それから康介と鈴音は夜中にこっそりと会い、近くの山を二人で歩くようになった。

 今までのような絵画の授業の時間のみ、自室で会う。と言う形に鈴音が満足出来なかったからだ。

 そのため半ば強引に康介を誘っているのだ。

「こうしてると、逢引みたいですね」

「ああ。何だが緊張するよ」

「誰かに見られたら、と?」

「それも無いといえば嘘になる。でもそれ以上に君とこうして手を繋いで歩いているのは酷くドキドキする」

 鈴音はそれを聞いてクスクス笑った。

「すずもです。兄様とこうして…夜中だけとは言え歩けるなんて。…でもいつかは昼間にも堂々とこうしたい」

「そうだね。だが、僕はいつまでも金崎家に雇って貰えるわけでもない。そうなると…」

「その時はすずはあの家を出ます」

「えっ…」

「兄様がいない金崎家に私の居場所はありません。今も父様の手前男性として振る舞ってるけど、吐き気が止まりません。すずはもうあの家では生きて行くことは無理です」

「だが、君は唯一の跡取りだろう。喜久雄様が出ることは許さない」

「…」

 鈴音は俯いてくちびるを噛んだ。

 そうなのだ。

 鈴音の人生は鈴音だけのものではない。

 いや、産まれた時から人生に置いてどれほどの物が自分の物がだったのだろう?

 これからもずっとそうなのか?

 鈴音はぼんやりと考えた。

 その時ふと視界の隅を誰かが通った様に思えた。こんな時間に人が?

 目の前を凝視している鈴音を康介が心配そうに見ていた。

「大丈夫?すず」

 鈴音は軽く首を振ると言った

「大丈夫です。何かがサッと通ったような氣がしたから」

「そうか。ならいいけど。でも気を付けないと最近変な噂があるんだ」

「変な噂?」

「この集落で、神隠しが起こっているらしい」

「神隠し…」

「あの家の人達はすずに心配させまいと黙ってたんだね。2ヶ月前から村の外れに見知らぬ老人が住み着くようになって、それからだと村人は噂している。それに死んだはずの村人が歩いているのを見たと。喜久雄様もかなり問題視しているようだ」

鈴音は思わず身を震わせた。

「大丈夫?ゴメンね、怖がらせちゃって」

「いえ、神隠しそのものがこわかったのではありません。兄様がもし神隠しにあったら…と思ってしまい」

 康介はニッコリと笑って鈴音の頭を撫でた。

「有難う。でも僕は大丈夫。すずをこれからもずっと守って行くんだから」

 鈴音は康介の手の暖かさを感じ、自然と笑顔になった。

「はい。…ずっとずっとすずを守って下さい。でも、すずも兄様を守りたいです」

「そうだね。すずは僕なんかより遥かに腕っぷしが立つから、そこは大丈夫だろう」

 そう言って笑う康介を鈴音は軽く叩いた。

「もう!酷いよ兄様!」

 その時、突然近くから大きな笑い声が二人の耳に飛び込んできた。

 二人の男性と思われ、その下卑た響きは恐らく酒によっていると思われた。

 あの声は…

 声の主を理解した瞬間、鈴音は血の気が引くのを感じた。

 いつも屋敷に出入りしている、掃除とゴミ捨てを行う農民だった。

 鈴音は当然何度も顔を合わせている。

 もしこの姿を見られたら。

 逃げなくては…

 だが、既に声はすぐそこまで近付いており、間に合いそうに無い。

 何より鈴音は動揺のあまりその場に立ちすくんでしまっていた。

「兄様…」

 思わず康介にしがみつく鈴音に対して、康介が行った行動は鈴音が想像もしていないものだった。

 康介は鈴音をそのまま近くの木に押し付けると、包み込むように覆い被さりそのまま口吻をした。

 そして鈴音の身体を弄り始めたのだ。

 突然の事に頭が真っ白になった鈴音はただ、康介にしがみついてじっとしているのみだった。

 混乱しきった鈴音を余所に声の主は茂みのなかから急に出てきた。

 そして鈴音達に向かって松明を掲げ、しばらくじっとしていた。

 鈴音は康介の手の感触や唇の温もり、また自分を破滅に追いやるであろう男達がすぐ近くにいる事への恐怖で今にも気を失いそうになっていたが、必死に康介にしがみついて意識を保っていた。

 男の1人は口笛を吹いて「おっお盛んだね」と、少しの間二人をからかっていたが、もう一人が「あまりからかうな。それより早く行くぞ」とやや強い口調でたしなめたためすぐに二人に興味を失ったようだった。

そのせいか少し腹立ち紛れな口調で「お二人何処の家なの?またお熱いの見せてよ!」

 と言ってもう一人と共に通り過ぎて行った。

「あ〜あ、化け物退治とか無ければ俺も混ぜてもらってのに」

 と、吐き捨てるように言った一言が耳にとびこんだが、鈴音はそれを処理する余裕もなかった。

 助かった…

 あの言い方だと、恐らくあの二人は鈴音に気付いていない。

 康介は二人の声が聞こえなくなったのを確認すると、鈴音から身体を離した。

「…ゴメン。あの場はあれしか無かったと思って」

 そう言って頭を下げる康介に鈴音は今度は自分から近づき、包み込むように抱き締めた。

「謝らないで。もしすずの事を想って下さるなら顔を上げてください」

 すぐに顔を上げた康介に鈴音は口吻をした。

 顔を話すと驚いた表情の康介に言った。

「さっきはとても怖かった。自分の事がバレるのではないかと。でも…それ以上に嬉しかった」

「すず…」

「兄様…先程の続きを」

 鈴音は自分の言葉に酷く驚いていた。

 だが、再び康介に包み込まれるとそんな事はどうでも良くなるほどの喜びを感じていた。

「今度は邪魔者は来ません…」

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