想春

 「あの時が、自分に気付いた瞬間でした。自分の本当に求めるものに」

 古びた扉の前で、すっかり闇に包まれた木々を見ながら鈴音はボンヤリと幸寿に話した。

 もうすっかり夜になってしまっていた。

 暗闇に目が慣れたせいもあるだろうが、明かりもない暗闇にも関わらず幸寿の目には鈴音の表情や目線までもハッキリ見えた。

 幸寿は何か言おうと思ったがなにも言えなかった。

 ただ、話の続きを聞きたかった。

 それと共に康介と言うすでにこの世にはいない人物に対して、言いようもない胸のざわつきを感じてもいた。

 この気持は何なんだろう。

「まだ、お話しても大丈夫ですか?本当は一旦場所を変えて、と言いたいところなんですが、この場所だからあなたに全てを話せる気がして。なので、出来ればワガママに付き合っって頂きたいです」

「大丈夫だよ」

 幸寿の返事に鈴音はホッとしたように軽く息をつくと話し始めた。

 

 その日から鈴音は毎夜毎夜、家人が寝静まった時間を見ては化粧をするようになった。

 馬術の訓練と称して近くの街に降りて、コッソリと化粧用品を買った。

 最初はそれで満足していたが、その内どうしても我慢が出来なくなり女性用の着物の買った。

 もし、屋敷の人間に見られたら妹のために買った、と言うつもりだったが幸い誰にも見咎められずに済んだ。

 化粧をして、着物を着た自分を見ると鈴音はたまらなく幸福な気持ちになった。

 鏡の中の自分は康介言うところの「心のままに」生きていた。

 それと共に、鈴音の中にある変化が生じた。

 今まで自分の人生の全てと思っていた馬術や武術の鍛錬がハッキリと違和感を感じるようになった。

 そしてそれに比例するように康介と絵を書いている時間に不思議な緊張感を感じるようになったのだ。

 おかしい。何でこんなに胸が高鳴るのだろう?

 康介の優しい目を見ていると、自分の夜の姿を見られているようで恥ずかしくなると共に、なんとも言えない心地良さを感じていた。

「さて、今日の授業はこのくらいにしようか」

 その声でボンヤリとしていた鈴音はハッと我に返った。

 もう終わるのか…

 いつもはそそくさと片付けを始めていたが、今回は中々手が動かない。

「どうしたんだい?調子でも悪い」

 心配そうに言う康介に鈴音は思い切って言った。

「もう一枚だけ…書いてもいいですか」

「え?まあ…このあとは何も用事は無いから大丈夫だけど。何を書こうか」

「お互いの絵を書きたいです」

 その言葉に康介はニッコリと笑った。

「分かった。お互いを書くのは絵の基本だからね。良いことだよ」

 それからしばらくお互いの絵を書く無言の時間が流れた。

 だが、鈴音は康介の絵が全く進まなかった。

 康介に見られていると思うと緊張して筆が進まない。

 また、康介を書こうとすると自分の中のイメージとどうにも釣り合わない。

 それに鈴音は堪らない悔しさを感じた。

 やがて康介が書き終わったようで、鈴音に絵を見せた。

 それは真剣に絵を書いている鈴音だったが、どこか凛とした雰囲気もまとっていた。

「…凄い」

「これでも君の良さは全然表現できてないよ。自分の技術の拙さに悔しくなる」

「あの…僕も同じです!さっきから書こうとすけど、あなたを理想通りに描けない」

「無理しなくていいよ。僕みたいな冴えない男を書くのは中々…」

「違います!」

 鈴音の突然の剣幕に康介は目を見開いた。

「僕の中のあなたはこんな絵よりもっと明るくて優しくて…暖かいんです。そして力強いなのにこんなんじゃ…」

 その時、鈴音の頭にポンと優しくが置かれた。

 康介は鈴音の頭を優しく撫でて言った。

「有難う。僕も君の魅力を全然書けなかった。そう思うと今は先生と生徒じゃなく、同じ絵が好きな人同士だね」

 頭に康介の手の暖かさを感じているうち、鈴音の中に抑えきれない衝動が溢れてくるのを感じた。

 この人に伝えたい。

「少し…待っててもらえますか?」

 そう言うと鈴音は隣の自分の中に部屋に入った。

 康介は戸惑いながらじっと待っていたが、やがて襖が開いて出てきた鈴音を見て呆然とした。

 底には化粧と着物を着た姿で康介の前に立つ鈴音の姿だった。

「あなたを信じられるのかどうか、正直分かりません。でも…あの時『心のままに』と言ったあなたの言葉が忘れられない。これが僕です。本当の金崎鈴音です」

 康介は返事もなくボンヤリと鈴音を見ていた。

 鈴音はこれで終わったと感じたが、頭の済では不思議な開放感も感じていた。

 自分は後悔していない。

「だれにも言わずに二人だけの秘密にしてほしい、なんて言いません。でも間違いなくこれが僕…私なんです。今思うと物心ついたときからそうだった」

 康介はまだ何も言葉を発しない。

 やっぱり。

 鈴音は康介に見せたことを後悔し始めていた。

 だが、ややあって康介の言った言葉に鈴音は耳を疑った。

「綺麗だ…」

「えっ?」

「こんなに綺麗な人を見たことがない。君はずっとそんな自分を隠してたのかい?」

「隠す…と言うより、閉じ込めてたのかも知れません。あなたに会って、心のままに表現すると言う事を知って、そこから気づき始めました。これが私なんだって。父様の望む強い男児にはなりたくなかったんだって」

「なら、君はその君でいるべきだ。今までの君はどこか苦しそうだった。何かに耐えているように、押さえつけているように見えた。きっとそれは本当の君を閉じ込めてた苦しさだったんだろう」

「でも…父様や母様は許さない。私はたった一人の跡取りだから」

「じゃあ僕の前だけ本当の鈴音君でいるといい。僕と居るときだけは自分を偽らなくいい」

「本当に?」

 康介はニッコリと笑って頷いた。

 その表情を見た時、鈴音はまた涙が溢れてくるのが分かった。

 だが、今度は驚かなかったし止めようとも思わなかった。

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