金崎家
1894年。明治27年の春。この頃、東日本のとある集落は金崎家という地主の元、そこそこの繁栄を享受していた。
集落に有りがちな濃密に過ぎる住民同士の繋がりこそあったものの、当時の村にとってそれは決して珍しいものではなく当然、住民にとって自然に受け入れられる程度の負担だった。
そんな集落を支配していた金崎家の当主は金崎喜久雄と言う齢六十に近い男だった。
喜久雄は当時としては最晩年に達しようかという年齢ではあったが、まだ心身ともに男としての気力は十二分に持っていた。
その反面、そういった人物に有りがちな独善的な面も多分に持っており、その立場や家の格式も手伝い喜久雄は集落はもちろん、家中でも独裁的な存在として文字通り君臨していた。
金崎鈴音はそんな喜久雄の長男として産まれた。
俗に言う好色ではあったものの、妻と妾の間に中々子が産まれなかった喜久雄にとって、五十を越えてようやく産まれた跡継ぎの男児はまさしく待望の存在だった。
そんなこともあり、鈴音が4歳になろう頃から可能な限りの教育を与えていた。
勉学は当然ながら、音楽や絵画果ては乗馬や剣術、柔道まで。
山奥の集落の家が行うには滑稽とも言えるほどの英才教育だった。
だが、喜久雄は鈴音が時に泣いて許しを請うても構わず鍛え上げた。
それはまるで自らの理想の人物に作り上げようとする儀式のようにも見えた。
もちろんそれもあるが、喜久雄は七歳になろうかと言う鈴音の中に何か言い難い違和感を感じていた。
何故この子は紅や鏡にあんなに興味を持つのだろう?
何故この子は手毬に時を忘れる程夢中になるのだろう?
この子は心なしか女中と話している時の方が自然に見える…
そんな理解出来ない違和感を握り潰そうとするかのように、鈴音に対して繰り返し話した。
「お前は金崎家の跡取りとして、誰にも負けない優れた男児になるのだ。優れた男児になれないお前に価値などない」
家中でも絶対的独裁者である喜久雄に意見できる者は誰もおらず、実の母でさえ俯くばかりで何も言わなかった。
そんな環境で鈴音はただ、耐えて日々を生きていくだけだった。
父様の期待に答える優れた男児になる。
そうすれば父様も認めてくださる。
母様も喜んで下さる。
いつしか鈴音は紅も毬も見向きもしなくなり、眼光は冷たく鋭さを増した。
喜久雄はそんな鈴音を見て酷く喜んだが、鈴音はその頃から起床時に理由の分からない吐き気に見舞われるようになった。
だが、父様の望む男児はこんな軟弱ではない、と起床時にすぐ厠で嘔吐してからすぐに朝餉の席に着いていた。
いつしかそれは鈴音の習慣となっていた。
笑わず、余計なことは話さず。
時間があれば勉学と鍛錬に没頭する鈴音の姿は他者の存在がないのではと感じるほどだった。
そんな夏のある日。
鈴音は彼…棚田康介と出会った。
その日、鈴音屋敷近くの森でひとしきり木刀を振っていた。
普段は庭で行うのだが、時々訳もなく吐き気に見舞われるため、いつでも女中の目を気にせず嘔吐出来るよう最近は森の中で鍛錬するようになったのだ。
また、来た。
胃に云いようのない不快感を感じ、鈴音は剣を置いた。
そして、近くの切り株にフラフラと歩み寄ると座り込んだ。
今度は大丈夫か…
ホッとしていると突然前から声が聞こえた。
「君、大丈夫かい」
驚いて顔を上げると、そこには書生姿の優男が不安そうに鈴音を見ていた。
「…見たのか?」
睨みつけるように話す鈴音に、書生は慌てて首を縦に振った。
「ゴメンね。たまたま歩いてたら真っ青な顔で木刀を降っている君の姿が目に入って。その後フラフラと切り株に座り込んでたからさすがに声かけないと、と…」
「誰かは知らないが邪魔をするな。見ない顔だから恐らく外から商いで来たのだろうが」
「いやいや、違うよ。誤解させたならゴメンね。僕はここに教師として来たんだ。柳田康介と言います。よろしく」
「教師?」
「うん。父上から聞いてないのかい?新しく絵を教えに来たんだよ」
「絵を…」
そう言えば父様が新しく先生が来るので粗相がないように、と言ってたような気がする。
だが、最近何故か父様の声を聞くと胃のあたりが酷く不快感を感じてしまい、集中出来ないのだ。
そのため聞き流してしまっていたのかも知れない。
「それは失礼しました。知らぬとはいえ師に対して失礼な口を」
鈴音は立ち上がって深く一礼しながらいった。
「それに、こんな見苦しい姿も見せてしまい」
こんな優男に吐き気でよろめいている所を見られてしまった。
これではとても父様の望む男になど慣れない。
そう思った途端、酷い吐き気に見舞われた。
だが、胃を抑えて深呼吸を繰り返すとやがてそれは落ち着いたのでホッと息をついた。
「だ、大丈夫?」
心配そうに声をかける康介に鈴音は事も無げに言った。
「良くあることです。大丈夫」
「そうなんだ…君は強い人だね」
「この家の跡取りに相応しくあらねばなりませんから」
「そうか。でも、人は時には弱くてもいいんだよ」
「えっ?」
康介の言葉に鈴音は耳を疑った。
自分が弱くてもいい?そんな事言う人間は鈴音の周りに誰も居なかったので、信じられない気持ちだった。
「人は強い。でも弱い。だから助け合うし、人の心を大切にできる。また相手の事を理解しようとする」
「…」
「ゴメンね、いきなり変なことを言って。これからよろしくね」
そう言うと康介はペコリと頭を下げて、屋敷の方に歩いていった。
その後ろ姿を鈴音はぼんやりと見ていた。
やがて、ゆっくり立ちあがると屋敷に帰り、喜久雄に康介に暇を出すよう頼んだ。
だが、結果としてそれは跳ね除けられた。
せっかく評判の教師を呼んだのにお前の一声で追い返す理由があるのか?という支局尤もな理由だった。
だが、鈴音は珍しく食い下がった。
康介の言葉を聞いたときの感情。
自分の中に湧き上がった今まで感じたことのない何かに鈴音は恐れを感じていたのだ。
自分の何かを決定的にあの男は変えてしまう。
だが、これまでの人生で何度も繰り返されたように、鈴音の要求は歯牙にもかけられなかった。
そして、康介は翌日から金崎家の住み込みの教師として、毎日鈴音に絵を教えることとなった。
鈴音は当初、意図的に距離を置くように接していたが、その努力はすぐに頓挫した。
元々絵は軟弱だとして意図的に避けていたが、康介の描いて見せる絵は鈴音にとって新鮮な驚きをもたらすものだったのだ。
目の前の何の変哲もない景色が、康介の描く色彩によって色鮮やかな世界になった。
康介に教えられながら絵を描いていると、鈴音の中に新しい感情が芽生えて来るようだった。
光はこんなに綺羅びやかなものだったのか。
空の青や雲の白はこんなにも包み込まれるようなものだったのか。
「絵の良さは自分の心に写った物を描ける事なんだ。目の前の景色が青だからといってそのままの青である必要はない。自分がもっと深い青がいい。いや、もっと明るい青がいい、と思えばそれがその人の表現なんだ」
「その人の表現」
「そう。絵は自由なんだよ。人がこうだ!と言った物に縛られる必要はない。自分の心のままでいいんだ」
康介のその言葉を聞いた時、鈴音は心臓が大きくて高鳴るのを感じた。
心のままに。人に縛られない。
「僕は…もっと書いてみたいかも知れない」
その言葉に康介はニッコリと笑った。
「それは良かった。絵は何より楽しいと思わないと」
「うん、ちょっと楽しくなってきたかも」
「いや!ちょっとじゃなくもっとだよ。もっと君には絵を好きになってもらいたい。君を見てると時々ぷつんときれてしまうんじゃないかと心配になる。いつも張り詰めていて。だからせめて絵を書いている時だけでも自分らしく、心のままに生きて欲しいんだ」
「僕は…今の生活に満足しています」
「それならいいんだけど…でもどうであれ絵を書いてるときの君が一番輝いているよ」
そうだろうか。
自分は父様の期待に答えているときが一番喜びを感じていると思っているのに。
でも、確かに絵を書いている時の喜びはそれとはまた異なる喜びだった。
「実はね…そんな鈴音君に渡したいものがあるんだ」
「えっ?」
キョトンとしている鈴音の前で康介は油紙に包まれた一枚の絵を取り出した。
それは鈴音を描いたもので、稽古着を着て切り株に座っている姿だった。
「始めて君と会ったあの日を絵にしたんだ。僕なりに感じた姿で」
「でも…これ」
鈴音は戸惑いながら言った。
確かに康介と始めて会ったあの日、鈴音はフラフラになって切り株に座っていたが、絵の姿はいくつか異なっていた。
あの時自分はいつもの吐き気に悩まされ、フラフラになりながら座っていたはずだったが、絵の中の鈴音は優しく微笑んでおり、その周りに鳥が何羽もとまっていた。
「これは…」
「だから、僕が感じたことのない君の姿だよ。言ったろ?絵はそのままを必ずしも書く必要はない。自分が感じたものを書けばいい。あの時、君を初めて見た時男性にこんな事を言うのは失礼だけど、まるで女性のような包み込む優しさと暖かさを感じたんだ」
それを聞いた途端、鈴音はカッと血が上るのを感じ、康介を思わず睨み付けた。
「僕は男性だ。女子ではない」
「ご、ごめん。僕の悪い癖で、つい思ったことを言ってしまう…」
だが、言葉とは裏腹に鈴音はその絵から目を離せなかった。
ややあって、鈴音はおずおずと言った。
「…この絵…もらってもいい?」
「も、もちろん!君にあげたいと思って書いたから大歓迎だよ」
「後…この絵の事はだれにも言わないで」
「ああ、約束する」
その夜、鈴音は夜闇の中蝋燭の僅かな明かりを頼りに康介の書いた自分の書いた絵をジッと見続けていた。
これが…自分。
やがて、自分の部屋なのに周囲を何度も見回すと、画材の中から赤の絵の具を出した。
そして、少量そっと指に付けるとしばらく躊躇った後、自らの唇にそっと付けた。
次に青い絵の具をつけると瞼にほんの少しつけ、鏡を覗き込んだ。
そこには妖しさも感じるほどの、紛れもない少女がいた。
鈴音は様々な角度から自分の顔を見たが、やがて目から涙が溢れてきた。
鈴音はそれを止めることが出来ず、その内声を殺して泣き始めた。
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