地図にない所

 それからさらに山間を三十分程走った後、鈴音はやや開けた場所に車を停めて欲しいと言った。

 そして、そこから車を降りて歩こうと言い出した。


「ここからは車では行きにくいんです。何しろ地図にも無いところなので」


 そう言うと鈴音はゆっくりと歩き出した。

 空は澄み渡っていてこの季節にしては雲がほとんどなかった。

 春も近いせいか、空気が柔らかくて静かな風が吹いているせいかこの状況の不自然さが幾分和らげられているように感じた。


 だが目的地もハッキリせず、初めて聞くのが「地図にも無いところ」と言うのは流石に何も聞かずに着いていくには抵抗がある。


「今からどこに行くつもりなんだ? 地図にも無いって」


 鈴音はその問いに少し間をおいて答えた。


「私の育った村です」

「鈴音の育った所……」

「すいません。砂田さんなら断らないだろうと信じてるのですが、やっぱり不安になって……でも教えないのはおかしいですよね」


 幸寿はにわかに緊張し始めた。

 何故このタイミングで自分の故郷に連れて行くのだろう。

 今まで何度聞いてもはぐらかしていたのに。


 そう思った途端、まるで心が読まれているのかと思うくらいのタイミングで鈴音は振り返って幸寿の顔を見た。


「率直にお話すると、砂田さんは今や私の深いところまで干渉してると思っています。ここまで私に深入りしても離れないあなたの事を信じ始めているのもあります。あとは…」


 そう言うと鈴音は軽くため息をつき、幸寿に微笑みかけた。


「何でもないです。ここまで来て帰りたいは無しですよ」


 周囲は風が木々を揺らす音や、鳥の鳴き声しか聞こえず、当然ながら人の気配も無かった。

 その中を微かに道らしきものが見えるものの、殆ど獣道と言えるような所を鈴音は時々コンパスを使う以外は迷いなく進んでいく。


 幸寿はハンカチで首元の汗を拭った。

 もう何度目になるだろう。

 春先といえど山道をあるき続けるのは堪える。

 しかも鈴音がいるので迷う心配がないとはいえ、どこに行こうとしているのか分からない不安も手伝い疲労感が増してくる。

 幸寿は堪らず鈴音に休憩を提案すると、鈴音はバツの悪そうな表情で言った。


「すいません。私、つい夢中になってしまって……少し休みましょう」


 そう言うと近くの大きめの切り株に座り、幸寿に隣に座るよう促した。


「ゴメンね。隣に座っちゃって」

「いいえ、座れそうな所が1つしかないですから」


 そう言うとややあってポツリと呟いた。


「今更そんな事気にしなくていいのに」


 その言葉に幸寿は動揺したが、その恥ずかしさを打ち消すように話題を変えた。


「鈴音ちゃんは体力があるんだね。全く息も切れてない。前に昼間はそこまで活動的じゃないと言ってたけど」

「それ自体は問題ないです。私が昼間が苦手なのは、例えるなら私にとっての昼間がみんなにとっての夜中みたいなものなんです。夜中に出歩いてもテンション高かったり、昼間しっかり寝てたら動けますよね? それと同じです。まあ普通の人より多少体力もありますが」


 なるほど。

 じゃあ陽の光に当たると灰になるのはやはり迷信なんだ。


「はい。あれは闇夜を恐れる昔の人達の妄想です。まだ電灯が無かったような頃、人を襲う獣は夜行性が多いから、夜中は死の危険が激増していた。でも朝になるとそれらの獣は住処に帰り人は襲わなくなる。だから朝日イコール災厄を祓う、となったんです。ニンニクもそう。ニンニクが食べ物の毒性を消すのを経験則から知っていた昔の人達は、ニンニクが穢れを祓うとした。十字架は言わずもがなですね」

「人の恐れる気持ちが勝手にイメージを膨らませた訳か。そうなると伝承の人達、例えばドラキュラの元になったヴラド三世や血を好んでたエリザベート・バートリーはどうなんだろう」

「え? 私がその人達と同じなんですか」


 悲しそうに話す鈴音に幸寿は慌てて手を振った。

 しまった疲れ過ぎてて、頭が回ってなかった。

 そんな幸寿を見て鈴音は声を上げて笑い出した。

 可笑しくてたまらないと言った感じで、所々に低く太めの声も混じっていたほどだった。

 鈴音にしては珍しい笑い方だと内心驚いた。


「砂田さん、可愛いですね。悪いなと思いながらついついからかいたくなります。すいません。お詫びにさっきの質問に真面目に答えると、どちらも違うと思います。ヴラド三世は、文献を読むと分かりますが、実際は賢明な君主でした。吸血鬼伝説の元となった『捕虜を串刺しにした』のくだりも実際は敵兵の戦意を消失させて早く争いを終わらせようと言う措置だったと言うのが定説です。それも既に死んでいた死体を串刺しにしていたので。当時の『戦場における残虐性』と言うのを今の基準で見ると真実を見誤ります。そのくらい価値観が異なってるんですよ。戦争における死と言うのは当時ずっと身近で、その方法もただの手段の相違でしかなかった。エリザベート・バートリーは現代の言葉で言うなら快楽殺人者と言う所ですね。その性癖を持った女性が権力を持ってしまった不幸な例です。何しろ快楽殺人の性癖を持った人間が誰にも咎められずに趣味に生きる事が出来れば、エスカレートするのは必然です。ジャンヌ・ダルクの腹心ジル・ド・レもそうですけど」


 鈴音の口から殺人を「趣味」と言う表現で話すことに幸寿は背筋を冷たいものを感じた。

 時々鈴音が別の生き物に見えるときがある。

 特に鈴音の外見との違和感が余計にそれを強くさせた。


「なるほど。じゃあ伝承の中で本当に吸血鬼と言えるのはごく僅かと言うことなんだ」

「いいえ、ゼロと言って差し支えないです。なぜなら前にお話ししたように吸血鬼と周囲に知られることは致命傷なんです。俗に言う吸血鬼と他の人達との違いは何度も言うように血を少量定期的に摂取する必要があることと、長生きな事。それ以外は何もありません。超能力が使えるわけでもないし、空を飛ぶ訳でもない。鉄骨も曲げるような力もない。そんな存在が周囲に知られたらその末路は2つ。迷信を信じた人に心臓に杭を打たれて、地獄の苦しみの末に殺されるか……実験動物にされるか。多分実験動物の方が可能性が高いと思います。何しろ『吸血鬼の身体には不老不死のヒントが隠されてる!』なんて功名心にかられた科学者が考えそうですし。実際私自身も自分の身体の現象は恐らく何らかのウイルスが細胞に影響を与えてるからだと思ってますし」


 そこまで言うと鈴音はフッと軽く笑った。


「でも絶対に役になんか立ってあげない。私だって人間なんだから。人間として死にたい。愛する人に看取られて静かに死んで行きたい。何十年、何百年先になるか分からないけど絶対に」


 鈴音は微かに身体を震わせながら抑揚のない口調で一気に話した。

 それは幸寿に対して話しているようにも、自分自身に対して話しているようにも思えた。


「……すいません。話が逸れましたね。だからそんな自覚を持つ存在が自分の事を伝承に残るほどアピールするわけがないです『どうぞ、実験動物がここにいます。早く動けなくするか心臓に杭を!』なんて言ってるようなものですから。だから実際はお互い干渉することもないし、お互いの存在を感知するほど近くに居ることもなく息を潜めて生活しているはずです。だから、幸寿さんにあんな事をしたのは通常あり得ない事です。だからすいません、あれから幸寿さんの事は密かに観察してました。もしあの時の事を誰かに少しでも言う気配があれば、すぐに国外へ逃げるつもりでした。そんなときのために用意してる所があるので」


「有難う。殺すといわれなくて嬉しかった」


 鈴音はまた苦笑した。

 今日は良く苦笑いをさせてしまう。

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