水の部屋
この日以来、幸寿と鈴音の距離は明らかに変わった。
毎日仕事終わりに店に通うのは変わらないが、他の客が居ないときは鈴音は当たり前のように幸寿の隣に座り、幸寿の話を聞いている。
そして、それが一段落すると幸寿の首から血を少し吸い、その後は頭を撫でてねぎらいの言葉をかけるのだ。
時に膝枕をしながらお互いの話をすることもあるが、もはやそれに対して全く違和感を感じることが無かった。
鈴音は血を吸う事と不老不死に近いほどの寿命を持つ以外は人間と変わらないと言ってたが本当なのだろうか? と思うときがある。
鈴音は恐らく自分に隠している事がいくつかあるように思える。
だが、それも時々どうでも良くなる。
彼女と居ることで自分の乾いた砂のようになっていた心が確実に潤いを取り戻している。
それで充分だし、血を吸われることもその対価と思えば問題ないことだった。
いつしか幸寿は自分でも気づかないうちに鈴音に心の奥近くまで支配されていた。
優しく甘く、水が砂に染み込むように。
この日は店が休みだったが、鈴音から家に遊びに来ないかと誘われたので、縁側に二人で座っていた。
朝から雨だったが、鈴音と二人で無言で雨を見ているとこの世界に二人だけになったような錯覚を覚える。
「わたし、雨って大好きなんです。子供の頃から。上手く言えないけど、水に包み込まれて色んなことから切り離されているような、あの感じが。今この時がずっと止まったままになって、自分しか世界に居ないような不思議な感じが」
僕も同じことを考えていた、と伝えると鈴音は静かに頷いた。
「きっと私は、終わりを迎えることが嫌いなんです。何でもそうだけど、始まったその時から終わりに向かっている。全ての人や物がいつかは終わる。私以外は。終わりは全ての生き物にとって救いでもあるんです。だって物事って良いことばかりじゃないから。終わりがあることで人は慈しむことが出来る。自分の幸せを感じることができる。私にとっての終わりは見届けるため、見送るためのもの」
少し間をおいて鈴音はポツリと言った。
「私の終わりは……」
幸寿はどう声をかけたら良いか分からずに鈴音を見た。
「僕が少しでも君の支えになれたらと思う」
その言葉に鈴音はほんの少し首を傾げた後、笑顔で言った。
「有難うございます。砂田さんの優しさが支えです」
幸寿はすぐに自分の言葉を後悔した。
あまりに薄っぺらく感じたのだ。
バツの悪さを少しでも払拭したくて、鈴音にある若者の話をした。
子供の頃に母親の死ぬ瞬間に立ち会ったショックで、大事な人を失うことに耐えきれず、世界を……自分の時間を平穏だった頃に戻そうと、言葉や動作を逆回転のように繰り返す強迫性障害になった外国の男性の事を。
鈴音はその話を熱心に聞いているように見えた。
「その人は最後はどうなったんですか?」
「最後は先生の熱意で改善したみたいだよ。その先生が『もう自分には治せない』と泣いたのを見て、目が覚めたらしい」
「強迫性障害はノイローゼのようなものですからね。気の持ちようで変わるんですよ。でも根っこは変わらないからぶり返すリスクはある。なので精神科医言うところの『寛解』なんでしょうけど」
「君の抱えている状況に比べると全然なんだろうな」
「そんなことはないです。人の苦しみや喜びなんてその人にしか本当の所は分からない。だから、苦しみもその人にとっては唯一無二なんです。だから人と比べて上下なんてないですよ」
そう話す鈴音からは周囲に対する深い拒絶を感じた。
悪意のある物ではなく、まるで天才が凡人の中に放り込まれたときのような根源的な孤独。
住む世界が違うゆえの孤独。
「何故君は……吸血鬼になったんだ?」
幸寿の問いに鈴音は答えなかった。
返事を迷っているようにも、話す時期ではないと思っているようにもどちらとも取れた。
白に藍色の花柄刺繍が施された和服を着て、静かに座っている鈴音からは、外見に似合わない高貴さや品格を感じた。
彼女は良い家の出なのかな。
それとも長く生きる中で達観したためのものなのか?
横顔を見ながら考えていたが解らなかった。
そもそも彼女にとって自分は何なんだろう。
手頃な食料。店の常連。それとも心の支え。
そして自分は鈴音にとってどういう存在になりたいのだろう。
雨は降り続いていたが、雨脚は強くなっており、庭の木々も霞んで見える。
鈴音の言った通り本当に水に包まれているようだ。
「膝……使います?」
幸寿はその言葉に何の躊躇もなく、鈴音の膝に頭を預けた。
そのままぼんやりとしていると、やがて鈴音の顔が首元に近付いてきたが、幸寿は目を閉じて気付かない振りをした。
3月を迎えたばかりの土曜日。
幸寿と鈴音は山間の高速道路を走る車の中にいた。
ある日突然鈴音が行きたいところがある、と言ったのだ。
「私達って何処かに行った事ないですもんね。そろそろどうですか?」
今までと同じ調子で言う鈴音に幸寿は笑顔で頷いた。
優しく寄り添うように話しているが、底には有無を言わせぬ調子がある。
それは意図的に支配しようとするものではなく、例えるなら女王が家臣に同行を希望しているような、母親が買い物に子供を誘うような。
そんな拒絶を考えもしないような無邪気な指示だった。
だが、そんな鈴音も幸寿は嫌いではなかった。
それも彼女の一部だと思うと自然に受け入れられるようだった。
ともかく、幸寿の仕事が多忙だった事もあり、2週間ぶりに会ったせいか車内ではお互いの近況報告等他愛もない話ばかりだが、笑い声も混じる心地良い時間になっていた。
「私、車に乗るのは久しぶりなんです。ドキドキしてます」
「え、どのくらいぶりなの?」
「う〜ん、もう50年くらい前かも」
彼女の小学生にしか見えないあまりに幼い容姿からのこのやり取りには未だに違和感を感じてしまう。
今は彼女の言葉、吸血鬼であると言う事は信じていたが、それでもまだその事実には馴染めずにいた。
「所でお祖父ちゃんは一緒に来ないの?」
幸寿は何気なく訪ねた。
違和感と言えば鈴音の祖父の存在もそうだった。
今まで殆ど喋っているのを聞いたことはなく、最初の頃に聞いた簡単な挨拶くらいで、偶に店にもいるものの鈴音の影のようにしており、その存在を忘れそうになる。
何より鈴音自体が祖父の存在を殆ど気にかけていないように感じる。
この問もそんな気持ちから出たものだった。
「お祖父ちゃんは留守番です。体力もないのであまり長い距離を出歩けないので」
鈴音は外の景色を見ながら何気ない調子で返した。
幸寿はこのドライブ中に鈴音の事を祖父の事も含めてもっと知りたいと思っていた。
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