変わる世界

 次に幸寿が目覚めたのは自宅のベッドだった。


 見慣れた天井が目に入り、自分の布団を確認した途端、軽く混乱を生じた。


 あれは…夢?


 だが、あの時の首もとに感じた鈴音の唇の感触や、首元の痛み。そして、鈴音が自分の首から流れる血を飲んでいるであろう音もよく覚えている。


 でも何でここに…

 そう思いながら首元に手を当ててみる。

 特に何も感じない。

 やっぱり夢だったのか。

 確かにいきなり鈴音に血を吸われるなんて馬鹿げているにも程がある。


 服装はパジャマだが無意識に着替えたらしい。

 時計を確認すると午前四時。


 トイレに行ってもう一度寝るか。


 そう思いトイレに行ったあと手を洗いながら、幸寿は何気なく鏡に目を向けるとしばらく呆然とその場に立っていた。

 幸寿の左の首元に4箇所の赤い点がハッキリと見えていた。

 それは鈴音に噛まれたところと同じ場所だった。


 幸寿はどうしても仕事に行く気になれず、仮病を使って休んだ。

 だが、特に何をするでもなくじっと時計を見ていた。


 あと4時間。


 鈴音の店の開店時間をひたすら待っていたのだ。

 以前案内してもらった店の裏の自宅に行くことも考えたが、そうすることに何故かたまらない恐れを感じた。

 それよりも暖かいコーヒーの香りと鈴音の笑顔のあるあの店の方が、自分を現実に……これまでの世界に留めてくれるように感じていたのだ。


 そして、時間になると今にも走り出しかねない勢いで店に向かった。

 もし閉まっていたら…店が無くなっていたら。

 そんな不安を感じていたが、そんな心配をよそに店は開店していた。


 ドアを開けようとしたが、心臓が信じられない程大きな音を立てている。

 鈴音、何故あんなことを。


 しばらく躊躇していると、突然ドアが静かに開いた。


 驚いて顔を上げるとそこには鈴音がいた。

声を出せずに金魚のように口をパクパクさせている幸寿を見て、鈴音はクスクス笑った。


「あ、金魚さんがいる! なんて。どうぞ、入って下さい」


 鈴音はいつもと全く変わっていなかったので、かなり拍子抜けだった。

 てっきり……全てが以前とは変わってしまった事を鈴音の表情や態度、口調で思い知らされる所……いや、それで済めばよいが、もしかしたらまたもっと取り返しのつかない事になるかもと思っていた。


 ではなぜわざわざこの店に来たのだろう。

 あれは夢であったと否定して欲しかったのだろうか?

 それとも……自分は既に。


 そこまで考えた所で突然鼻腔をくすぐるコーヒーの香りで我に返ると、目の前にコーヒーが置かれていた。


「どうぞ。コーヒーで良かったですよね?」

「あ、有難う」


 幸寿は鈴音に目を合わせずコーヒーを飲み始めた。

 鈴音は何も言わずにその場を離れた。

 ちらりとカウンターを見ると、鈴音の祖父が何やら食材を切っているところだった。

その隣で鈴音がカップを片付けているのだろうか、カチャカチャと陶器の触れ合う音が小気味よく響いている。


 こうして二人を見ながらコーヒーを飲んでいると、昨日の事が夢みたいだった。

 そう、首筋の4つの斑点が無ければ間違いなく夢だったと思えていた。


 そう思いながらじっと二人を見ていると、突然鈴音が振り向いたので幸寿は慌ててコーヒーに視線を戻した。


 自分は何をしているのだろう。何がしたいんだ。

 このままではらちが明かないと思い、閉店間際になったら昨日の事を聞いてみようと思った。


 どんなふうに切り出そう。


 コーヒーカップをジッと見ながら考えていると、目の前にカチャと言う音が聞こえたので顔を上げた。

 そこにはカップを自分の前においている鈴音の姿があった。


「もうお客さんも来ないみたいなので。ここ、いいですか?」


 嫌だと言う理由もないが心の準備が出来ていない。

 だが、鈴音を見ていると緊張がほぐれ始めた事もあり、無言で頷いた。

 鈴音はニッコリと笑うとそっと向かいの席に座った。

 二人はそのまま無言でコーヒーを飲んでいた。

 だが、穏やかなようで何か張り詰めたような雰囲気に耐え難くなり幸寿が口を開こうとしたその時。


「私の事……怖いですか?」


 鈴音が幸寿をジッと見ながら言った。

 いつものような笑顔だったが、よく見ると目に表情が伺えなかった。

 この目…どこかで。


 ここまで考えた所でハッと気付いた。

 この目…これは自分だ。

 妻と娘を亡くした後、今の職場に移って無理やり自分は充実してるんだ、と騙していた時、ふと職場の鏡を見たときに映っていた自分の目だ。


 そう思ったとき、幸寿は事前に準備していた全ての言葉が消えた。

 代わりに思いもしなかった言葉が漏れた。


「ああ、とても怖い」


 鈴音は一切表情を変えずにジッと幸寿を見ている。

「それはそうだよ。いきなり血を吸われたんだ。『そんな事ないよ』と言う方が嘘だ。でも……何故か君に会いたかった。君の言葉を聞きたかった。何故あんなことをしたのか。それを教えて欲しかった」


 その言葉を聞いた鈴音の目に微かに光が戻ったように見えた。


「もう、閉店の時間なので閉めてもいいですか? もし、お嫌じゃなければここからはお客様ではなく『砂田さん』に対してお話したいです」

「ああ、もちろん大丈夫だよ」


 その言葉が合図になったかのように、祖父がゆっくりと、だが有無を言わせない雰囲気で閉店の準備をし始めた。

 そしてシャッターを閉めると店内は、電灯の光のみとなった。

 その店内を見て、幸寿は自分はもう後戻り出来ないんだな、と思ったが、それを望んでいた自分も居ることを感じた。


「あなたを信じて……いえ、ここまで来て信じるも何も無いですね」


 そう言うと鈴音は自嘲気味に笑った。


「面倒な前置きは抜きで言います。私は吸血鬼です。私の頭がおかしくなったのでは、と思うでしょうが構いません」


 やっぱり…

 そう思いはしたが、どうしても自分の脳内が混乱しているのが分かる。


「吸血鬼…と、言う表現はあまり好きではありませんが、あなたに理解してもらうために止む無くこの言葉を使いました。でも、正しくは生き物の血を唯一の食料として生きている種族です」


そうか……それで。

幸寿の脳裏に依然訪れた鈴音の家のキッチンで感じた違和感が蘇った。

だから食器類が無かったのか……

鈴音はさらに続けた。


「私はあなたと同じく食料……血液を摂取して、それで命を繋いでいます。1日くらいなら食べなくても生きていけますが、空腹でフラフラになるし、何日も食べないと餓死します。あなたは肉や野菜。私は血液。その違いだけです」


 そう言ったあと、鈴音は優美な仕草でコーヒーを口に運び、ホッと吐息をつくと再び話し始めた。


「ただ、あなたの恐らく感じているであろう理解を訂正するなら、血を吸った相手を殺したりしません。太陽の光は苦手ですが灰になったりしません。疲労感を強く感じるだけです。ニンニクももちろん大丈夫です」


 そこまで一気に言った所で鈴音は、溜息をつきまたコーヒーを飲んだ。


「ただ、不老不死は聞いている通りです。正確に言うとあなた達は体の細胞が年齢と共に入れ代わり速度が遅くなり、組織の機能低下を起こしますが、私はその速度が極端に遅いんです。いえ、殆ど止まっていると言ってよいほど。原因は分かりません。私をこんなふうにした人はウイルスが原因ではないか、と言ってましたが。なので、心臓に杭を打たれると死ぬ、は正しいです。一応同じ種族なので。あなただって心臓に杭を打たれたら死んじゃうでしょ?」


 そう言うと鈴音はクスクス笑った。


「じゃあ……君は本当は何歳なんだ?」


 鈴音はからかうような笑みを向けた。


「あら、信じてくださるのですか? 私は……途中から興味無くなって数えて無いのですぐにはお答え出来ませんが、確かこうなったときは……日清戦争の起こった年でした」


 日清戦争は確か1894年の事だ。

 と言う事は…


「129歳ですね。すいません、わたし砂田さんよりずっと年上でした」


 そう言うと鈴音はまたコーヒーを飲もうとしたが、空だったようでため息をついた。

そして乱暴にカップを置くと、いつの間に来てたのか、祖父がコーヒーを幸寿と鈴音のカップに注いだ。


「砂田さんの血を飲んでしまったのは確かです。何も言わずにすいませんでした。あの時……砂田さんが御家族のお話をしてくださった時、私とても嬉しかった。私なんかをそんなに信じてくださっていることもそうだし、私達は同じなんだ、と。生きなくてはいけないから生きている。でもこの生に何の意味があるんだろう? ただ、毎日が通り過ぎている。過去も未来もない。今があるだけ。でもそれならそれで良いはずなのに、忌々しいけど時々ふと何気無いことに幸せを感じてしまう。そんな資格ないのに。私だけだと思ってた……こんな真っ白な部屋にいるのは。あなたが現れるまでは。だからあなたの血を飲みたかった。正直お腹は空いてなかった。ただ、あなたと1つになりたかった。自分と同じ世界を生きているかもしれないあなたと。あの人にとても似ているあなたと」


 鈴音は熱に浮かされたように話している。

 その目はもはや幸寿を見ていなかった。


「あの人って誰の事」

「私の……兄です。私の兄様。優しくてとても絵が上手だった。色んなお話も聞かせてくれて。それだけで私は生きていけた」


 そこまで話すと鈴音はぼんやりとした表情で壁の一点を見つめていた。

 しばらく待っていたが、鈴音はもう幸寿の方を見ては居なかった。


 自分はどうすればいいのだろう。

 どうしたいのだろう。


 だが、自分の方を見ていない鈴音と同じ空間にいるのが無性に居心地の悪さを感じ、一旦席を外したいと思った。


「そろそろ帰るよ。また明日続きを……」


 そこまで言った所で、テーブルに置いた幸寿の手を鈴音が突然強く握り締めた。

 

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