空洞

 それから2週間程、幸寿は鈴音の店に行かなかった。


 いや、正確には仕事が忙しくなり午前様が続いてたために、仕事が終わってからはまっすぐ家に帰ってすぐに寝てしまう、と言う毎日だったのだ。


 だが、そんな日々がようやく落ち着いた金曜の夜、鈴音の店に向かう幸寿の足取りは軽かった。

 鈴音に出会ってから1日2日の間は開いてたものの、これ程店に行かなかったことは無かったので、その間なんとも言えない空虚感に襲われていたのだ。


 そして、店に近付くと丁度店の外に鈴音の姿があった。

 彼女は店の周りを掃除しているようだったので、幸寿は近付くと後ろから背中をポンと叩いた。

 その途端鈴音はまさに「ビクッ」という擬音がピッタリ来るような感じで、肩をすくませた後すぐに振り向いたが幸寿の顔を見ると、眩しそうな笑みを浮かべた。


「おひさしぶりです」

「本当に久しぶりだね。最近仕事が忙しくて。やっと来れたよ」

「そう言って頂けて凄く嬉しいです。もう来られないかと思ったので」

「そうか。今までほぼ毎日来てたもんね」

「それもありますけど、この前お家にお招きしたのが気に触られたかな、と思って……」


 そうか、鈴音はあの家を見て自分が引いてしまったと思ってたのか。


「そんな事はないよ。僕はあの家はとてもいいな、と思ったんだ。静かで落ち着いててとても君らしい。何よりあの絵が惹きつけられた」


 その言葉の半分はお世辞だったが、もう半分は本心だった。

 幸寿はあの店もそうだが、鈴音の品の良いシンプルさを重視するセンスがとても好きだったのだ。

 だが、それを聞いた鈴音は突然無表情になり、幸寿の顔をじっと見た。


「本当に気に入ったんですか? あのお家やあの絵」


 突然の鈴音の変化に内心焦りを感じながらも幸寿は強く頷いた。


「うん。無駄がなくてシンプルだけど、不思議と暖かいんだ。内側に感情を感じるというか…何でか分からないけど」


 それまでガラス玉のように感情が見えなかった鈴音の瞳に何かが揺らいだのが見えたように幸寿は感じた。


「有難うございます。お店だけでなく、お家まで褒めて頂いて。ささ、入って下さい。2週間ぶりのコーヒーをお入れします」


 それまでの無表情から一転していつもの笑顔に戻り、店内に招きいれる鈴音に戸惑いを感じながらも幸寿は中に入った。

 店内に入るとやはりホッとする。

 いつしか幸寿にとって、この店は張り詰めた心をほぐす場所になっていたらしい。


「本当にお疲れさまでした。お仕事大変でしたね」


 そう言いながらコーヒーを置いた後、そっとケーキが置かれたので、驚いた。

ケーキは頼んでないのだが。

それを伝えると鈴音は笑って言った。


「サービスです。唯一の常連さんがやっと来てくださったので、たまには」


 この心遣いが疲れた心身に暖かく染みる気がした。

 気が緩んだのだろうか。

 鈴音を見ながらケーキとコーヒーを頂いていると、知らず知らずに言葉が溢れて、気がつくとここ2週間の愚痴が口をついて出ていた。


 メンバーが入院して自分に慣れない責任の重い仕事が回って着た事。

 癖の強いメンバー間の調整に眠れない日が多かったこと。


 こんな子供に愚痴を話すなんて、と自己嫌悪を感じながらも口が止まらない。

 いつしか鈴音は幸寿の隣に座っていたが、そんな事も気にならなくなるくらい話に夢中になっていた。


 どうしたんだ。まるで何かに引っ張られているような…


 自分の意志とは思えないくらいだった。

 そして話しながら感情がたかぶり始めた時。


 突然頭にそっと手が置かれるのを感じた。

 鈴音だった。


「分からずやばかりで辛かったですね。でもよく頑張りました。あなたじゃなかったら、ここまで進められないお仕事だったと思いますよ」


 幸寿は一瞬驚いたが、それ以上に張り詰めた心がまるでお風呂に入った時のように緩んでいくのを感じた。


「自信持ってください。あなたはとても強くて賢い人です。みんなもきっとあなたの価値にすぐ気付きますよ」


 その言葉を聞いていると、幸寿はある記憶が蘇ってくるのを感じた。

 鈴音以外にもこうして自分に寄り添ってくれていた人がいた。

 何より大切だった人達。

 幸寿は口から自然に言葉が漏れた。


「僕は…家族がいないんだ」

「え?」

「2年前の11月に自動車事故で。原因は僕だ。あの日……出張から帰って駅で待つ僕を妻と娘は迎えに来てくれようとしたんだ。最初2人は電車で行く、と行ってたんだけど僕が『寒いからタクシーで来て。そのまま帰れば寒くないだろ』と」

「……」


 何でこんな事を喋ってるんだろう、と思いながらも止まらなかった。


 誰にも言ったことが無かった。

 いや、話したくなかった。

 だが話しながら、自分が実はずっと誰かに聞いて欲しかったんだ、と気付いた。

 それが何故鈴音だったのかは分からない。

 彼女の優しさに甘えたかったのかも知れない。


「妻はペーパードライバーだったから。そうして無理にタクシーで来させて、その途中で飲酒運転の車と正面衝突して……即死だったらしい」

 

 話しながらもうやめろ、と脳内で警告みたいな声が響くのを感じたが、止められなかった。


「僕は施設で育ってたから、二人が唯一の肉親だった。妻の両親もその心労で少しして亡くなった」


 幸寿は話しながら声が震えて行くのを感じた。


「僕は自分のせいでこの世で最も大切な人達を無くした。でも1番辛いのはそれなのに生きてることに幸せを感じでしまうことがある。食事をしたときや布団に入ったとき。仕事が上手く行ったとき。幸せな気持ちになるんだ。でもそんな自分が嫌だ。こうしてこの店に来て君と話した時にもそう。幸せを感じる自分が嫌で仕方無い。妻と娘にどうつぐなったらいいんだって……」

「償わなくたっていいんじゃないですか?」

「えっ?」

「生きてることに意味なんてないんです。なぜか分からないけど生きている。だったら心臓が動かなくなるその時まで生きる。生きるべきだ、じゃなくて生きるしかないんです。そこに償いもなにもありません」


 幸寿は思わず鈴音の顔をじっと見た。

 鈴音は笑顔だがどこか泣き出しそうにも見えた。


「それに、もし私が幸寿さんの奥さんだったら……きっと天国から見たときに自分達の事でそんなに苦しんでるあなたを見たら辛くなります。むしろ幸せに過ごしていて欲しい。そして自分達の事を時々思い出して欲しい。私だったらそれだけで嬉しいです」


 幸寿は目の前の少女を信じられない気持ちで見つめた。

 この娘は何者なんだ。


 自分は今、この少女に完全に頼ってしまっている。

 いや、もしかしたら完全に囚われてしまっているのかも知れなかった。

 だが、それはとても甘美で心地良いものだったのだ。


「君は……何者なんだ」


 その問いに答えず、鈴音は笑っているような、泣いているような表情で言った。


「わたしと一緒にいたいですか?」

「え?」

「目を……閉じていてくれませんか?」


 鈴音の言葉に幸寿は言われるままに目を閉じた。

 心臓の音が信じられない速さで鳴っているのを感じる。

 全身の血が全部頭に集まっているようだ。

 そして、自分の顔の近くに何かが近づいてくる感じがした……いや、顔じゃない。首だ。

 そう思った瞬間、首元に柔らかい感触を感じた。


 これは……


 そして次の瞬間、小さな針で刺されたようなチクリとする痛みを感じた。

 驚いて目を開けると、鈴音が首に噛み付いていた。

 幸寿は信じられないような気持だった。


 何なんだこれは!


 慌てて離れようとしたが、何故か体が動かない。

 それどころか声も出せない。

 まるで鎮静剤を打たれているような感じで、現実なのか夢なのか分からない状態だ。

 ただ、首元に暖かい感触と何かを飲んでいるような音が聞こえてくる。


 それはまるで何かの儀式をしているかのような異様さと共に、どこまでも落ちていくような破滅願望を呼び覚まされる酩酊感だった。

そして、幸寿はいつしか意識を失った。 

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