紅と絵画
そんな日々が続いていたある日の事。
いつもは仕事の帰りに立ち寄るのだが、今日は有給を取ってることもあり、いつもより少し早く夕方4時半頃に鈴音の店を訪ねてみた。
以前聞いたとき、4時頃から営業していると言っていたのを思い出したからだったが、生憎店はまだ閉まっているようで扉には「準備中」の札がかかっていた。
何か用事でも出来たかな、と思いながらしばらく扉の前でボンヤリとしていたが、十分くらい経っても開店しそうに無かったので、今日は帰ろうか、と思い扉に背を向けると頭上から「砂田さん」と呼ぶ声が聞こえた。
鈴音の声だった。
驚いて上を見ると、店の二階の窓から上半身を出してこちらを覗き込んでいる鈴音の姿が見えた。
鈴音はいつものワンピースでは無く、なぜか紺色の着物を来ていたが彼女のどこか浮世離れした神秘的な雰囲気によく合っている。
普段着なのかな?
普段の服装を思うと意外性はあるが、これもこれでよく似合っている。
むしろ、髪型や顔の造作は和風なので和服の方が似合っていると思った。
「今日は。ゴメンね、出掛けるところを邪魔しちゃって」
幸寿はいつもと異なる鈴音の姿に内心緊張しながらも平静を装って言ったが、それを聞いた鈴音は一瞬の間を置いて首をふった。
「この格好ですね、すいません。私、いつもはこういう風なんです。もしかしてお店に来て下さってたんですか?」
「ああ、今日は休みを取ったから少し早目に来てみたんだ。でもお邪魔だったかな」
「いいえ、とんでもない! いつも有難うございます。でも……すいません。今日は設備の調子が悪くて臨時休業にしようと思ってた所で」
「そうだったんだ。それは変なときに来ちゃって申し訳ない。また別の日に来るよ」
そう言って帰ろうとしたとき、少し間をおいて鈴音の声が聞こえた。
「あの……せっかく来て頂いて申し訳ないので、もし良かったらお家の方でお茶でもいかがですか?」
「えっ、いいの? もちろん、そちらが迷惑じゃなければ……」
まさか自宅に呼んでもらえるとは思わなかったのでかなり驚いたが、そこまで信頼されていると思うと嬉しかった。
「迷惑なんてとんでもない。いつもお店に来て頂いてますし、私の話も聞いてくださってるので、追い返すのも何ですし」
「いや、とんでもない。それを言うなら僕の方だよ。愚痴を聞いてもらってばかりで」
「ふふっ、じゃあお互い様ですね。あ、すいません。そんなところでずっと話させちゃって。今、そっちに行きますね」
そう言って窓から離れるとしばらくして店の裏側から現れた。
時間がかかったな、と思ったが理由がすぐに分かった。
鈴音は化粧をしていたのだ。
唇には
いつもの服装や時間帯、場所がいずれも異なっているところに、化粧もしていることも相まって、別人のように思えた。
「どうかしましたか?」
幸寿は正直に別人のように見えた、化粧してるといつも以上に綺麗になる、と伝えると鈴音は無言でうつむいた。
心なしか頬が赤く染まっているように見える。
「……どうぞ、こちらに」
そう言うと鈴音はそそくさと店の裏へ歩いて行く。
こんな子供に自分は何を言ってるんだ、と自己嫌悪になり、鈴音も気を悪くしたのでは、と心配になった。
「いきなり変なことを言ってごめん」
「本当ですよ。ああ言うことは言われ慣れてないので、どうしたらよいか……」
小声でボソボソと話しながら店の裏にある、ドアを開けた。
そして鈴音に
入ってまず目に入ったのは沢山の絵画だった。
縦横三十センチほどの小さい絵がほとんどで、どれも景色を書いたものだった。
だが、いずれも寒々とした農村の風景だったのに幸寿は違和感を感じた。
この年の女の子の趣味にしては無味乾燥な……見ていると不安をかき立てられる絵だった。
これは以前話に出た祖父の趣味だろうか。
他の調度品は最小限……と言うか何もなく、建てたときのままで住んでいるのでは? と思えるほどだったため、余計に絵の不思議な雰囲気が気になってしまう。
「絵が気になります?」
「ああ、これってお祖父ちゃんの趣味なのかな? 誰の描いたものだろう」
「これらは私が描いたものです」
「えっ、全部?」
「はい。下手の横好きなのでお恥ずかしいですが」
鈴音は謙遜するがとんでもない。確かに寒々とした雰囲気は鈴音のイメージとギャップが大きかったが、それを除けば色使いといい構図と言い、幸寿は絵を書くわけではなかったがそれでもかなりの出来なのは分かる。
「下手どころか、とても素晴らしいよ。画家の作品と思った」
鈴音は眩しそうに目を細めた。
「有難うございます。絵はずっと書いてたので」
「この風景はどこなんだろ? 何処かの寒村っぽいけど」
「これは全部架空の風景です。本なんかで読んで頭に浮かんだ光景を」
返答する前、鈴音がその問いに少し躊躇したような気がしたが、幸寿はすぐにその疑問を脳裏から消した。
自分は鈴音の事になると、妙に熱が入りすぎてしまう。
趣味くらい彼女の自由でいいだろう。
しかし、こんな絵を見ると前々から思ってたが、鈴音は何者なんだろう?
こんな小学生がいるのだろうか?
幸寿のそんな疑問など知りもしないと言う感じで、鈴音は奥のキッチンに幸寿を通した。
キッチンは幸寿の想像……あの店のようにシンプルだが華美になりすぎない程度の装飾が効果的に使われた内装ではなく、至って普通の民家のキッチンだった。
だが、それを見て幸寿は妙な違和感を感じていたが、それが何なのか分からなかった。
良くわからないけど、何かおかしい……
ここも入り口から廊下と同じく必要最低限のもの以外何もない。
そして、キッチンから隣の応接間だろうか、こちらもテーブルとニ枚の座布団以外何もない。
テレビも壁の飾りも、カレンダーさえ。
鈴音がいない状態で室内を見ていたら、誰も住んでいないのでは、と錯覚する程の無味乾燥ぶりだった。
「すいません。本当につまらない家で。何もないでしょう?」
苦笑しながら言う鈴音に幸寿は慌てて首を降った。
「いやいや、落ち着いててホッとするよ。僕もこういうシンプルな家の方が好きなんだ」
「有難うございます。良かったら隣の部屋でゆっくりしてて下さい。すぐにお茶を入れますので」
そう言うと鈴音はお湯を沸かし始めた。
幸寿は何もない部屋の座布団に正座で座った。
何もない部屋で正座してジッと座っていると、まるで座禅でもしている気持ちになる。
何とも落ち着かない気分になってきた。
そもそも、なぜ鈴音は自分をこの家に招いたのだろう?
そんな事を考えている幸寿の耳に、キッチンからお湯を沸かす音が聞こえる……
そんな疑問を打ち消すように日本茶の苦味と甘さの混ざった香りが鼻に飛び込んできたため、幸寿の疑問は隅に追いやられた。
「どうぞ」
「ありがとう。しかし鈴音ちゃん家ではお茶なんだね? 意外だな」
そう言うと鈴音はニッコリと笑った。
「コーヒーも日本茶もどちらも好きです。わたし欲張りだから。欲しいものはぜ〜んぶ! なんです。諦める、と言う事が苦手で」
そう言って小さく舌を出した鈴音を見て幸寿はホッとした。
良かった。いつもの店で見る鈴音だ。
「良いことだよ。君はまだ子供なんだから、少しくらいワガママになるといい」
「もう充分ワガママになってます」
「いや、全然だよ。君は頑張り過ぎ。もっと友達や好きな人どの時間を大切にして、小学生の女の子の生活を楽しんでよ」
「有難うございます。でもその点でも私は今、満足しています」
「ああ、店をやってる事? でもあれは仕事に近いだろう」
その言葉に鈴音が何かを言おうと口を開いた時、横の襖が突然開いた。
驚いて横を見ると、初老の男性が立っていた。
銀色の髪を上品に後ろに撫でつけ、茶色のハイネックのセーターと黒いズボンが非常に落ち着いた紳士的雰囲気を出してた。
「あ、お祖父ちゃん。おかえりなさい」
鈴音の言葉で幸寿はようやく落ち着いた。
この人が以前言っていた祖父か。
「ただいま。こちらはお客さんかい? 珍しいね」
「始めまして。砂田幸寿と言います。表の店で良くコーヒーを頂いてます。今日は臨時休業だったのですが、ご厚意でこちらにてお茶を、とお誘い頂き」
男性は柔らかい笑顔を浮かべると言った。
「それはそれは……わざわざ孫の我儘にお付き合い頂き有難うございます。鈴音。あまり無理に付き合わせては駄目だよ」
「うん、分かってる」
このやり取りを聞いて幸寿はさらに安心した。
鈴音もやはりお祖父ちゃんの前では年相応の女の子なんだな。
幸寿はそろそろ切り上げるタイミングだと感じた。
「今日は美味しいお茶を有難う。ご自宅まで見せてもらって嬉しかったよ」
「いえ、こちらこそワガママに突き合わせてしまいすいませんでした」
鈴音と祖父に見送られて家を出ると外はもう夕方だった。
まるで別世界にいたようだった。
そして、振り向いて視界に入った鈴音の家は心なしか自分を拒絶しているように感じられた。
その時、突然さっきキッチンを見た時に感じた違和感の正体に気付いた。
そうだ……あのキッチン、食器が全く無かった。
普通、食事をするのに皿や茶碗類は必要だが、それらが全く無かったのだ。
何で……
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