第8話
長い間同じ場所に閉じ込められると、曜日感覚が狂ってしまうもの。配膳された食事で分かるのは精々朝、昼、夜ぐらいで、それ以上のことは知りようがなかった。
もっとも、重犯罪房に収監されるのはレン一人だけだから、話し相手もいない。いるとしたら、ネズミぐらいだろうが。そもそもネズミ語が理解できないようでは話にならない。
「そもそも習得できるわけが……」
はあと吐き出した息が耳に残り、心を巣食う負の渦の餌食になる。
ここ最近のレンはずっとこんな感じだ。無益な思考に走っては絶望しかない現状に溜息をつく。そんな無意味な行動を繰り返すばかりだ。
しかし、閉鎖的な空間の中で一人で何かできることがあるのかと言えば、独り言か妄想かのどちらしかない。
前者は体力を消費するから没。後者は僅か少ない精神的な体力を消耗するから却下。結果、何もしないのが一番、という結論に至ったというわけだ。
(まあ、そもそもどうして生かされてるのか分からな――)
無骨な鉄扉の音が自虐的な考えを遮断した。
消灯時間を過ぎたことに気にしているのか、鎧を着込んだ足音はやや抑えめである。しかし、レンは小さく溜息を吐いた。
(……ここは聖騎士が頻繁に来てもいいような場所ではないはずなんだけど)
そんな感想を最後に、瞑目し寝たフリをする。暗闇の中で優しく響く足音が、ある時点を境に無遠慮に鳴るようになった。
今日は機嫌が悪いとか、という推測が思い浮かぶ。
やがて足音が止まった。恐らく房の前に着いたが、かと言って彼の中途半端な正義に付き合う義理など、こちらにはない。
元々レン一人の地獄だ。無関係……ではなくはないけど、彼まで巻き込む必要なんてない。何を言われようと無視しよう――そう決め込んだ時。
「寝たフリのつもりか、人間女」
「――え」
上半身を起こし鉄格子の方へ振り向くと、深紅の瞳がじっとこちらを見下ろしていた。
(前回強引的に出現させたから気付かなかったけど、悪魔が出る時って、必ずしも角も現れるわけではないんだ)
そもそも灯りが少ない牢屋ではフリントと悪魔の判別方法なんて口調ぐらいしかできないのが困りどころだ。せめて何か分かりやすいものを生えて欲しいものだが、そもそも頼み事できるほど仲が良いわけでもない。
「……なんで来たの」
「貴様のサポートをすると言ったからな」
背中を壁に預かり腕組みをする悪魔に内心で引いたレン。無理矢理眠らせたのが彼の言う“サポート”だとしたら、とんでもない認識のズレが。消極的な考えをよそに、唐突に張られた紫の結界にレンは目を白黒させた。
「何をそんなに驚いている。別にこれを目にするのは初めてわけではあるまい」
「いえ、そういうわけではないんですが……まさか、もう満月になってます?」
「いや、ただこれなら気兼ねなく話せるだろうと思って張っただけだ。我の気遣いに感謝するがいい」
「別に頼んだわけでは」
背中を丸め、両膝を抱え、ボソッと呟いたレンの声音は疲弊を訴えていた。今まで逃避にだけ前向きな彼女が珍しくいじけるモードになったのだ。
それもそのはず。必死に逃亡生活を続けた末に思わぬ形で捕まった挙句、翌朝になっても処刑されず。いつ来るのか分からない執行日の報せに怯えながら劣悪な環境で過ごさなければならないという生き地獄。
普段から消極的な思考に長けていた彼女がこんな環境下で生きていたら、絶望に打ちひしがれるのは時間の問題だと言えよう。
「ほう? 勝手に我の傍から離れた挙句、無様に捕まえられてまだ反抗期に入る余裕があるのか。まあ、貴様にしては遅すぎる反抗期ではあるがな」
沈黙。
それは重苦しく、強固な石壁のように続く。
「ねえ、わたしに何をしたの」
「何とは」
「とぼけないで。自分を刺したという感触があったのに傷痕の一つもない。それにどこにも血痕もないのは明らかにおかしい。……わたしに、何をしたの」
「なんだ、そんなことか」
「元々我は人間の精神と時間を操る魔法に長けていてな。貴様が刺す前の状態に時間を巻き戻しただけだ。もっとも、全盛期と比べたら全然劣っている方だがな」
「精神と時間……」
なるほど、とレンは納得の頷きを得た。だから一瞬で眠らせることも元の状態に戻すのもできるんだ。
「だからと言って、貴様が捕まる前までに時間を巻き戻せよなんて無茶はできないからな」
先回りされてもレンは押し黙るだけ。この場合の黙秘は肯定として捉えることもできなくはないが、胸中で既に諦念で満ちていた本人からすればどう答えたって無意味なものだ。
「……何をしに来たの」
「だからサポートだと言ったのではないか」
「……そんなの、信じらんない」
両膝に顔を埋めた彼女の消え入りそうな声音が虚しく響く。
「貴様が今までどんなことを経験したのかは分からぬが、貴様はもっと他人を信用することを学ぶべきだ。別に全ての人間を信じろなんて言うつもりはない。このままだと、また近い内に今回の二の舞になるぞ」
「それは……分かってる、つもり」
「フン、貴様自身だって自分の言った言葉、信じ切れてない癖に何を偉そうに」
なっと振り向いたのも束の間、すぐに顔を膝の上に置いた。
「じゃあ、誰を信じればいいと言うんですか。こんな……裏切りだらけの世界に」
負けじと返すつもりの言葉がいつしか霞んでいく。
無理もない。疑心暗鬼の逃亡生活に少しずつ精神を擦り減らされ。訳の分からない選抜に巻き込まれた上に何故か国王のお気に入りになってしまい。そのせいで敵の本拠地で逮捕されるという最悪なシチュエーションを招いたのだ。
長年胸中で蓄積していた疲労と諦めと孤独に心を蝕まれたレンに生への期待を持たせるなど、至難の業と言えよう。
「では手始めに、この男から信用してみてはどうだ」
「はは、今更聖騎士を信じろと言うんですか。どうせ、彼もいずれわたしを教会に突き出すに決まって……」
そして火刑台で永遠に焼かれる──悲観な未来が瞼裏によぎり、きゅっと唇を引き結んだ。他人からすれば一笑に付すようなありもしない妄想が、彼女にとって煉獄の未来である。
「よく聞け、レン・アッシュフォード。この人間男――フリント・サリバンは決して貴様を傷つくような男ではない。我が保証する」
沈んだ声が消極な想像を打ち消す。
「……まだ呼んでくれるんですね。その名前で」
「例え貴様に何百個何千個の偽名があるだろうが、この人間にとっては貴様はたった一人の『レン・アッシュフォード』だけだ。――貴様の真名とは関係なしにな」
ハッとなった唇が次第に微笑へと変化する。
「あーあ、その言い方からすると、今度はフリントさんにお説教されるパターンですか」
「これも通過すべき儀式だと思ってやられるがいい。もっとも、もし貴様が最初から協力的であるなら、こんなことにはならないがな」
「はいはい。全部はわたしのせいですよーだ」
嫌味で嫌味を返す。それがレンの心にほんの少しの余裕が生まれた、何よりの証拠である。フッと口角を持ち上げ瞑目する悪魔の様子は、まるで偉業を成し遂げたとでも言いたげだ。
「自覚あるだけでまだマシだ。この人間に替わるから、覚悟しとくんだな」
「ねえ」
「あん? なんだ、聞こえなかっ──」
「ありがとね」
「──……それは、この人間に言え」
「それもそうね」
全く、気の遣い方まで一緒だとは──そんな感想を最後に目を閉じる悪魔の顔からは、淋しげな影の見える微笑が零れた。
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