第7話

 ――ガチャ。ガチャ。ガチャ。

 フリントの重い足音が地下空間の空気を何倍も濃く重くさせた。それが何重になって反響して、鉛のように重苦しくなる。新鮮な空気を吸おうとしても、どの道肺に入るのは湿気だけ。

 狭い階段を下りた先、地下二〇〇メートルの重大犯罪房の奥深く。そこに収監される囚人の前にフリントは足を止めた。


「……」


 鉄格子の向こう側、壁にもたれかかっている灰色の長髪の女性。前回会った時と同じ人物だとは思えない程、優美とはかけ離れた姿は胸が締め付けられる思いがした。ボロボロな布一枚に包まれた細身、絶望に塗り固められた横顔。

 一ヶ月。前回会った時からたったの一ヶ月。

 それなのに、人はこんなに変わるものなのかと驚きを禁じ得ない。地に落ちた鳥とは、正しくこのことであろう。何より、知人のこんな姿を目の当たりにすると、心が痛む。


「……わたしを笑いに来たの」


「ただレンさんに会いに」


「なんだ。あっちの方だったのか」


 乱れた髪を顔の前に垂らして俯いていたレンの落胆した声色に唇を引き結ぶフリント。まるで、“こっち”の方がお呼びではないみたいに。


「俺では、頼りないだろうか」


 知らず知らず、強く拳を握り締めていた途中でハッとなり、緩めた。仮にもフリントは聖騎士の中で最も位の高い騎士だ。

 王家の紋章を背負っている人間が一般人の前、ましてや囚人の前で弱気な言葉を言ってはいけない。言ってはならないのだ。


 石膏のような沈黙が続く。

 皮肉の一つや二つを受け止められるように身構えるも、


「別に貴方の問題ではないわ。今のわたしには他人を信用できない。だから頼る頼らない以前に、これはわたし一個人の問題なの。ごめんなさい」


 予想外の配慮に内心で胸を撫で下ろした。彼女自身も切羽詰まっている状態にあるはずなのに、まだ気遣いができるとは。

 良かった。知っている優しい彼女のままだ。


「一つ質問させてくれ。レンさん、貴女は本当に天使なのか」


「……答えにくいわね、その質問は」


「それでも聞かせてくれ」


「貴方を騙すかもしれないのよ? そんな簡単に犯罪者の言葉を信じない方がいいわ」


「……それでも俺は、レンさんの口から答えを聞きたいんだ」


「お人好しね」


 石壁の沈黙が静かにのしかかる。

 永遠のような時間が続くと、レンが「そうね」と立ち上がって鉄格子に近付いてきた。


「どうせなら、証拠で叩きのめしたいですし。貴方、何か刃物を持ってない?」


「持ってるが、何に使うつもりなんだ」


「いいから」


 何をするつもりなんだ、と疑問に思いながらも護身用のナイフを鉄格子越しに手渡すフリント。レンが「では、手始めに」という前置きしつつ、襟を引っ張る。


「ちょ、ちょっとレンさん、何を――っ」


 布切れ一枚を纏っているという少々刺激的な姿に彼は最初はドギマギしたが、次第に頬から血の気が引いていく。

 左胸のやや上。鎖骨のやや下。禁忌とされていた天使の片翼と思われる模様が姿を現したのだ。驚かずにはいられない。


 まだ震えている深緑の双眸を無視するように、今度レンは刃先を自分の心臓に向ける。

 「何をするつもりだ止めろ」――制止する間もなく、彼女が歯を食いしばってねじり込んだ。

 刹那の後、見開いたフリントの目の前でレンの身体は大きく傾き倒れ込んでは血溜まりを作る――それが本来ならば、起こり得た未来だっただろう。


「――え」


 心臓への一突き。それだけで人を死に至らしめる、効果的なやり方だ。

 布切れの服も見る見る内に紅く染まっていき、石畳の上に鮮血の絨毯を編み始める。口から血が糸を引いていて、いつ致死量に達してもおかしくないほどの大量出血。

 

 少しふらついたが、

 

「……こ、これで分かったでしょ。が答えよ」


 どういう意味だ――その疑問だけが脳を支配している。

 答えだと言われてもはいそうですかと受け止められる勇気はフリントの中にはない。これが世界の命運を脅かす花の調査部隊を任された聖騎士と聞いて呆れる。


 激痛で歪んだ顔の前で晒された間抜け面も、同様に苦痛に歪まれた。

 無理もない。先程レンを助けるという覚悟が大きく揺らいだのだ。どうか夢であって欲しいという現実逃避すらポツリと思い浮かぶ。

 思考回路が働きを投げ掛け、拒絶反応が起こるみたいに強靭な躰が固まり、強引的に表舞台から引きずり下ろされるように意識が遠のいていく――。


「全く、やり過ぎだ。人間女」


「あははは……こうすれば出てきてくれるじゃないかって……どうせ、死ねないんだしね」


 自嘲めいた言葉を最後に、ふらふらと藁ベッドに向かうレン。もたれかかるように座り込んだ痩身が石壁の上に血の線を描き、今度はベッドを紅く染め上げる。

 しかしそんな彼女を眺めても悪魔は、

 

「だとしても、やり過ぎだ」


 眉一つ動かさず人除けの結界を張り、いとも容易く鉄格子を通過する。

 あははは、と弱々しくレンの微笑。痛みで笑えないというより、笑う元気がなくなったのそれと似だ。


「ねえ、同類の誼として頼みたいことがあるんだけど――わたしを殺して頂けないでしょうか」


 俯くまま問いかけても、返ってくる重い沈黙に耐えられず、最終的に唇を引き結ぶレン。


「――無理だ。貴様の体内にフィーの残滓がある限り、永遠に死なない。たとえ我が手を下しても貴様は生き永らえるであろう」


 奥歯を噛み締めても無念さが消えぬのなら、一層のこと砕いて欲しかった。

 そうすればこんな思いをしなずに済んだんだろうか。

 普通の人生を手に入れたんだろうか──益体もない思考が走ったその時。フッという嘲笑するような笑いが降り注ぐ。


「良かったな。一足先に不死身という祝福を体験して――」


「こんな呪いが祝福なはずがないっ!」


 刹那の瞬間、レンは激しい眩暈に襲われた。

 ぐわんぐわんとする頭を左右に振りながらゆっくりと視線を持ち上げる。鋭く吊り上げる赤く光る双眸を見て、瞬時に理解した。

 これは決して貧血症状から来るものではない、と。


「フッ、大量の血を流してるのに騒ぐとは、自業自得な女よ」


「な、なにを──」


 急速に薄れていく意識を逃すまいとしがみつき、重い目蓋をこじ開け続けると、謎の力が対抗して閉ざされる始末。まるで、見えないナニかに操られているかのように。

 

「そうだ。明日、貴様の尋問が始まる。それまでに精々回復するんだな」


 レンの意識が闇に落ちるその寸前──部屋全体が淡い緑色の光に包まれた。



 

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 


 聖騎士――フリント・サリバンの調査に協力すべく、特別に行われた一切の拷問が許されない尋問。こんな生温い尋問だけならいざ知らず、『天使』の疑いを持っている異端者の尋問なんて前代未聞。

 上から『丁寧に扱うように』という指示がなければ、今頃尋問室はレンの悲鳴で満ち溢れていた。いや、指示があるとないのでは関係ない。拷問して情報を得る。それが尋問室の存在意義だ。

 なのに――彼らはレンの存在に怯えている。剣を腰に差す二人の騎士が、手首が椅子に縛り付けた女性の存在に怖がっているのだ。

 

「自分の名前が分からなくなったわけではなかろう。さっさと答えんか!」


 片方が机を蹴り威嚇しても、レンは押し黙るのみ。

 このようなやり取りがかれこれ1時間ほど続いたが、未だに情報の一つも掴めていない。誰であれ苛立ちくらい覚えるものだろう。自分の名前すら頑なに口を割らなかった容疑者に対して。

 

「おい、聞こえないのか、レン・アッシュフォード! いい加減自分の名前を答えろ!」


 今度は彼女の椅子を蹴ったが、相変わらずのだんまりコースで腹が立った。それよりも、怯える様子おろか気配すらないこの現状こそが異常事態そのものだ。


 照明は二人の騎士が携帯するランタンしかない上に、ここは尋問室の皮を被っていた拷問部屋だ。薄暗さを利用して、本能的な恐怖を引き出すの心理的効果を狙うために用意された場所であることは一目瞭然。

 なのに、目の前の囚人は至って冷静だ。それも不気味なくらい、冷静である。顔は俯いたままではあるが、それでも彼女の肝が据わっていることは嫌でも伝わってきた。


「――名前、言えば解放するんですか」


 唐突に、静かに響く声に、虚をつかれた騎士たち。


「アホか。名前だけ言って解放するヤツなんてどこにいるんだよ」


「まあ、これ以上お二方の時間を無駄にするわけにはいきませんし、さっさと済ませちゃいましょ――レベッカ・アッカーマン」


「ん? なんだ、レン・アシュフォードはぎめ――」


「ミア・アドラー」


「は、はあ? おい、何をたくら――」


「アン・スミス、フローラ・マーチ、コニー・スコット、ジェニファー・ナイト、エリザベス・アンダーソン、キャロル・ホール、ナタリー・ページ、グレイス・ウィリアムズ、キャサリン・パーカー――」


 連続に綴られた何十個の名前を聞いて、最初は彼らが呆気を取られたが、次第にそれが恐怖へと変化する。これまで何人の屈強な囚人が泣き喚いたこの場所で、静かな声色で名を紡ぐだけなのに。

 それなのに、彼らは震え上がったのだ。彼女に恐怖を与えるはずの環境が、逆に術中に嵌められたのは二人となった。


「――さて、どれがわたしの本名だと思います?」


 ランタンの仄明かりに照らされる、静謐でかつ上品な顔がわらう。

 笑う、ではなく。どちらかと言うと、嗤うに似る。鋭くも危うい氷刃ひょうじんのように。狂気のようにレンが嗤う。

 凄絶なまでの鋭利さを孕んだ碧眼が鈍く光り、二人の騎士が同時に固唾を呑み込んだ。


 化け物だ。

 彼らが同時にそう思わせる程の、おぞましくも凄愴な表情がすぐそこにあった。

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