第5話

 熟考の末、レンは渋々とナイフを下ろす。


「一先ずその条件、呑みます。どの道わたしを逃がすつもりはない。そうでしょ?」


「察しが良くて助かる。では、契約成立だ」


 嫌味のつもりで言ったそれを、さも当然かのようにあっさりと認められ、きゅっと唇を引き結ぶレン。

 仕方ない。予定が狂ってしまったが、これを機に色々質問してもら──。


「もし力の解放が済んだらさっさと羽をしまえ。この人間はじきに起きる」


 そうとだけ忠告し瞑目した男の言葉に理解できぬまま、慌てて羽とナイフをしまった。一体どういうこと──瞬間の刹那、深紅の代わりに出たのは、困惑の色に満ちた深緑の瞳。


「あれ、貴女は先程のパブの……。俺はここで一体なにを……」


「ええと、それは……」


 疑問と当惑を一旦さておくとして、レンは必死に取り繕う言葉を探すも途中で彼がハッとな理、顔を曇らせた。


「まさか、もう一人の俺が何か迷惑をかけたとか」


「あいえ、ちょっとお喋りしただけです。あまりお気になさらないでください」


 よかったと胸を撫で下ろす聖騎士をよそに、内心でまだ困惑の首を捻るレン。二つの存在が同じ身体で共生する人間の話は一度だけ風の噂で耳にしたことがある。

 未だに病とオカルトとの境界線が不明瞭な謎の多い存在──多重人格者。もっとも彼の場合、ピッタリ嵌まらないとは言え、教会が彼のようなイレギュラーを許すはずもない。

 教会にバレたら最後、火刑台へのチケット一直線だ。


「すまないが、できればもう一人のことを内密に頼む」


「分かりました」と頷くと、聖騎士の安堵した表情にもう一つ疑惑が思い浮かべる。


(まさか、先程交わした会話を覚えていない……?)

 

 どういう仕組みなのかは分からないが、こちらにとって好都合だ。とは言え、相手は一国の聖騎士。油断ならない相手であることは、何ら変わりはない。


「では、わたしはこれで」


「あ、ああ」


 営業スマイルと共に目礼して、振り返る。

 あの悪魔と交わした契約はさておくとして、気が緩みすぎたからこういった状況になるんだ。

 これからはもっと気を引き締めないと──碧い双眸から微笑を消し立ち去るレンの背中に向けているのは、値踏みするような眼差しであることを気付かずに。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




 聖騎士三人組と同じ下宿先で暮らすようになってから早数日。

 警戒心の強いレンのことだ。たった同じの屋根の下で寝泊まりするだけでは到底距離を縮むことはできない。接触はあっても基本挨拶するだけで終わり。そんなやり取りが続く毎日だ。


「些かあからさますぎたでしょうか……」


 夜空を輝く三日月に呟いても答えが返ってこず、溜息だけが増えていく。とは言え、向こうも向こうで忙しかったらしく、こちらとしては大助かりだが。そもそもハウスメイトとしての距離感の開け方はこれで正解なんだろうか、という疑問がつく。

 かと言って彼らと仲良くなりたいのかと問われると答えはノーだ。だから理屈上、これでいいはずなんだが、やはり罪悪感が湧いてしまうだろう。


「とは言え、このままだといつかバレちゃうね……」


「何がだ」


 きゃっと小さな悲鳴を上げ振り返ると、視界の全体が真後ろに立たされた男で埋め尽くしていた。


「ちょっと何考えてるの! もう深夜ですよ!」


「貴様の帰りが遅いのがいけないではないか。人間女がこんな夜遅くまで働くなんて聞いたことないぞ」


「そ、それは……ほら、仕事熱心と言いますか」


 実はもう一人の貴方を避けてましたなんて言えるはずもなく、代わりに笑って濁す。そもそもこの状況はレンにとって、極めて異例。何せ三年間ずっと他人を部屋に入れなかったのだ。異性相手なら尚更。


「まあいい、貴様にも貴様の事情があるだろうが……む、その地図はなんだ?」


「あ、これは……」


 咄嗟に身体で覆い隠そうとしたが、


「なんだ。今更我に見られるのが不都合なモノがなかろう。よこせ」


 ぐうの音を出なくなったレンは大人しく手渡すことにした。彼はそれにざっと目を通すと、ほうと声を漏らす。


「大したものだな。彼らの他に被害に遭った場所を記録する人間がこうも身近にいるとは。フッ、もしあやつらに見せたらさぞかし驚くのであろうな」


 ×マーク26個が記されたユージェニシア国のマップ。全部、シダの花の災害でゴーストタウンになった町である。

 元々次の引っ越し先を割り出すためのものだったが、その目的が封印された今、ただ好奇心を満たすための道具に成り下がった。


「なるほど、貴様がパブここで働いてる理由はこれか」


「はい、ここでは情報が集まりますからね」


「しかし、もしこの人間がこのマップがあれば幾分仕事もしやすくなるだろう。とは言え──」


 唐突に投げ出された地図をレンが「あ、ちょっと」と慌ててキャッチ。


「我とは関係ないことだがな」


 人の物を勝手に投げるとは一体どういうつもり、という文句を言おうとしたら、組んだ腕で深くベッドに腰掛ける彼を見て、逆に居た堪れないものが込み上がってくる。

 普段見かけた銀の甲冑とは真逆の、白いシャツと黒ズボンといったラフな格好だ。精悍な顔つきのやや下。胸元のところで解けた紐から大胸筋中央部の深い溝がうっすらと見え──。


(って、なに意識してんの!)


 慌てて顔を逸らしたレンのことを、不思議そうに見ている悪魔。

 無理もない。異端者とは言えど、年頃の乙女だ。しかも、男慣れしていないタイプの。だから彼女には些か刺激が強すぎたのにも頷ける。

 得体の知れない感情の波を誤魔化すように、マップを引き出しに戻すことにした。


「さて、我には質問があるではなかろう? 今日特別に答えてやるからさっさと言え」


 では、と前置きをし、


「まずお名前から」


 ゆっくりと向き直るレン。動きがややぎこちなかったのは一旦さておくとして。


「名か。ふむ、とりあえず我のことは悪魔と呼べ。ああ、ちなみにこの人間の名はフリント・サリバンという」


「そこまで聞いてませんっ。けどその方はあの、今はどちらにいますか」


「どこって。ずっとここにいるが?」


「なる、ほど……?」


 ハテナマークの群れがレンの頭上で旋回しているに対し、「どうして分からないんだ」とばかりに悪魔も少し首を傾げる。やがて何かを察したのか、こちらに向けたまま溜息をついた。


「この人間の意識がなかった時に我が出てきて、逆に人間の意識が戻ったら、我が引っ込んで人間の方が出てくる。我が出る時に我が何をしたか何を話したのかはこの人間は知らぬ。だから、今この会話を覚えているのは我だけ。逆にこの人間がしてきたこと、話したことは我は覚えている。

 ちなみに、この人間は我のことをただの厄介な人格だと認識していて、我が悪魔であることを存じぬ。これで満足か?」


「は、はい」


 悪魔なのに意外と優しい──ぼんやりとした感想がレンの脳裏によぎる。

 とは言え、説明を聞いている感じだとやはり以前聞いた『多重人格』というものに似てる気が。


「前にも言ったと思うが、この人間の調査部隊というのは、あくまで花の災害を阻止すべくその原因究明及び対策を講じることだ。天使の捕獲など二の次。だから貴様は彼らともっと接触してもいい。それも怪しまれない程度にな」


「うぐ、わ、分かってますから」


 やはりバレてたのか、と今更ながらも後ろめたさを感じたレン。

 意図的に避けていたとは言え、改めて面と向かってそう言われるとやはりどこか引け目を感じたんだろう。


「ああ、ちなみに王都が災害の対処をすると発表したのはつい二週間前のことだから、まだ被害規模の確認をしている段階だ。だから安心するがいい」


「二週間前……手遅れですね。完全に」


 静かな怒りを鎮めるように、拳を握り締めるレン。

 今この瞬間でも誰かから居場所を追い出していたシダの花。初めて発見されたのは不明とされていたが、人々が居場所を求め王都に駆け込み始めたのは少なくとも五年前からだ。

 手遅れにも程がある。


「もっとも、もしこの人間がその地図を手に入れれば話は別だがな」


「うぐっ」


 痛いところを突かれた。実際に刺されたわけでもないのに何故だろう。この心臓をグサリとした鋭い痛みが走った気になったのは。

 誤魔化すように咳払い一つ置いてから、


「最後に一つだけ──あの花、シダの花についてどう思ってますか」


 そう真正面からぶつけた。

 夜になると淡く発光する物体にしか寄生していない、不思議な蒼白い花──シダの花。

 繁殖方法はまだ究明されていないが異常な生命力を持つこの花は、燃やしても根こそぎにしても翌日になると必ず復活する。そのことから、常識の範疇を超越した花だと囁かれていたが未だにそれを裏付ける証拠がない。

 何より、目の前に『不可思議』に近しい存在がいるんだ。聞かないわけがない。


 ほうと感心するように呻き、「いい質問だ」と一拍を置く。


「あの花――シダの花は元々我らへの贈り物でな。だからたかが贈り物のために奔走する人間を見るとフッ、どうしても笑っちまう」


「贈り物……それは誰から」


「誰って――そりゃあ神様に決まってるおろう」


 さも当然化のように言う悪魔を見る碧の双眸が震え出す。

 あり得ない。あの話は本当だったなんて……。

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