第4話
『逃走』という二文字が完全に頭から抜け落ちた程の衝撃を受けたレンが固まることに数分後、ハッとなった。
「いえ、これは、その……わたしはフィーではありませんし、フィーという人物に心当たりもありません。ひ、人違いではないですか?」
「勘違いするな、人間女。我は貴様などに用はない」
「なっ」
取り繕うにもあっさりと一蹴され。明らかにこちらに話しかけているのに、訳の分からないことを言われる始末。
パブで話した時の彼とはまるで別人のようで、頭がこんがらがってきた。
「我は貴様の中にある天使に用があるんだ。さっさと替わってくれ」
「替わるも何もありません。わたしはわたしです」
「でも、貴様の背中に生えているその羽はフィーのものだ。それこそ、貴様の中にもフィーが宿っている何よりの証拠ではないか」
「“も”……?」
彼が指差しているのは、誰もが忌み嫌う天使の羽だ。しかし一騎士であればこちらを逮捕するのが筋というもの、こんな悠長に世間話をするのではなく。
パブの時に見せた温厚な性格とは真逆の、高圧的な態度。まさか、と違和感を覚えたレンは意を決して疑問をぶつけてみることにした。
「貴方、さっきの聖騎士じゃない……?」
「何を今更、こんなに近くいるのに我の気配を感じることができないとでも言うのか、人間――いや待て、フィーの気配は大分薄い。そうか、その身に宿っているのはただの残滓だったということか」
なんだか勝手に納得して勝手に落胆したようだが、こちらの好奇心を解消するにはまだほど遠い。
「あの、そのフィーという方は……」
「貴様ら人間の言う、天使のことで我が大切な嫁だ。名は……む、何故我が嫁の真名をたかが人間に教えようとしている。バカバカしい」
頭を振る男に、ゆっくり立ち上がるレン。先程間抜け面を晒したとは思えないような、決意の色が塗り固められた顔で。
「わたしを教会に突き出さないですか」
「突き出すも何も……ああ、そうか。その手もあったか。確かに、教会に突き出して牢獄に閉じ込めておいた方が、世界も平和になるかもしれぬな。まあ、この人間にとっては、手柄を上げられるまととない機会になるが」
こちらに接近する騎士。制するように、素早くホーズからあるモノを取り出したレン。
月光に反射された銀色の輝きにそれ相応の、或いはそれ以上の鋭利さを孕む深紅の双眸に彼女も同様に睨みつける。
「……何の真似だ、人間女」
「別に。ただ地獄に落とされるくらいなら、一緒に来てもらうだけの話です――悪魔憑き」
「それを言うのなら、貴様だって悪魔憑きの類だろうが、人間女。もっとも我より貴様の方がよっぽど罪が重いがな、天使の残滓を宿る人間よ」
ドスの利いた低い声で二度凄まれても怯まず、対峙するレン。
悪魔憑きと呼ばれる者は、その体内に悪魔や精霊を宿していることから、世界を滅ぼす災いの源だと言われている。
実際、どこかの村の子供が遊び心で霊を召喚した結果、全滅寸前まで追い込まれたという話を聞いたことがあるぐらいだ。そのため、教会は彼らを火刑に処するように触れ回っていた。
もっとも、今はこの状況をどうにかしないと──ナイフの柄を握りしめ警戒心を壁のように張り巡らせるレン。
汗ばんだ沈黙が重くのしかかる中、
「こうしよう。我々が互いを蹴り落としても結局滅ぶのは我々自身だ。それでは何も成さぬ。一先ず落ち着いて、我の提案を聞くがいい」
「よくもそんなことを言えますね」
「まあ聞け」
口火を切った男にたしなめられても、聞き入れないとばかりに警戒態勢を維持するレン。
「確かに我は貴様などに用はないが、我は貴様の中にあるフィーの力に用がある。だから我の傍を離れられては困る。
そこでだ。我と協力関係を結べ、人間女。さすれば、我の目的も果たせる」
「……もし貴方と結んだとして、こちらのメリットは?」
「そうだな。この人間が今遠征調査に出向いていることを知ってるな?」
「初耳です」
「では、今知ったのなら問題はなかろう」
(ええ、無茶苦茶な……)
強引な態度にレンは内心で呆れたが、この有無を言わさぬ感じが実にそれらしい。
「この人間は例の災害を阻止すべくその原因究明に当たっている。もしこの調査で何か知りたいことがあれば、我が教えよう。無論、貴様のサポートもできるだけするつもりだ。その代わり、我の傍を離れるな」
「は、はあ? 何を言って――」
「無論、四六時中に我と共に行動しろなんて言うつもりはない。我の許可なしに勝手にこの村を出て行くなと言っている」
「そんな。人をなんだと思って――」
「当然だ。何しろ、貴様は悪魔と協力関係を結ぼうとするのだからな。これくらいの条件は安いものだろう」
「持ち掛けてきたのはどこの誰ですか」
「貴様にとっては悪くない話と思うが」
組んだ腕で木に背中を預けた悪魔の提案はこちらにとって悪い話ではない。むしろ、ようやく相談相手ができて好都合だ。
本物の悪魔なら解決策を持っているかもしれないし、持っていないにしても何かしらの対策を講じることだってできるかもしれない。
けれど、引っ越そうとした矢先に制限を喰らっては、余計なリスクを背負うことになる。
第一、今日初めて会ったばかりの男と組むなどと、そんな無謀な賭けに片足を突っ込む勇気はレンの中にはない。
「……もしわたしを裏切ったら――」
「その時はこの人間を教会に突き出すがいい」
「なっ」
信じられないとばかりに碧眼が見開く。そこまでしてまで自分と一緒にいたいという神経が理解できないとでも言いたげな様子だ。
「無論、逆の場合は、こっちも容赦なく貴様を教会に突き出す」
「嫌だと言ったら?」
「その時はこの人間の権力を行使して、貴様を捕らえるまでだ。その結末は貴様自身もよく存じておろう」
高圧な深紅の瞳に、容赦なく睨み据えるレン。
もし彼女が今ここで彼を拒絶して、地の果てまで逃げたとしても、結局無駄な足掻きに終わるだけだ。
ましてや相手は聖騎士で、こちらは何の権力を持っていない一般市民。もし捕まえられたら最後、行き着く結末は死あるのみ。
(もっともそれくらいで済ませたら、どんなによかったのか)
自嘲めいた感想の中に、見逃してもらうという希望が枯れかける。結局のところ、彼もまたレンと同じ。
お互いを手放すつもりなんてないんだ、と。
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