第2話
~3年後 エントロヒッツ~
陽差しは宵闇に追われ、薄いベールのような雲にかかった満月と共に数え切れない陽気な笑い声が姿を現す。労働を終えた農民たちが、今宵も一日の締めくくりとして酒盛りに耽っている。
広大な麦畑を越えた先にある、村の中心に位置する2階建てのパブ。一階からは乾杯でジョッキのぶつかり合う音や哄笑が飛び交う。店内の明るい雰囲気に劣らぬよう、ウェイトレスたちの動きは実にハキハキしていて元気がいい。
けれど、明るければ明るいほど、落とす影が濃いというもの。
「ピルツェが全滅したらしいぜ。例の災害で」
「うわマジか。あそこの魚は美味かったけどな……。あの味はもう二度と食べられないのか。残念だ……」
「そういや、この間シンプソンのヤツ、家族を連れて王都に逃げたぜ。逃げたのはいいけどよ、こんな田舎から王都にって中々だぞ?」
「マジかよ。でも、賢いアイツのことだ。その辺のことは大方見当がついてるだろうよ。それよりも、ここがあの忌々しいシダの花に呑み込まれる前にオレらもとっとと逃げないとな」
「全く、
「まあ、あの天使様の考えなんて誰にも分かるはずがねえよ。それこそ、神様でない限りはな」
聞くだけでも眉間に皺を寄せてしまいそうな話題ばかりではあるが、それだけ状況が緊迫しているだろう。実際、訪れる客が日に日に減っていったし、このままでは店仕舞いなんて未来も徐々に現実味を帯びてきている。
もっとも、それが実現されるのは恐らく村に誰もいない時だろう。それまでに目いっぱい葡萄酒とパンを楽しんだ方が勝ちだというもの。
「はい。葡萄酒のお代わり二つ、ですね」
頭上から降り注ぐ銀鈴の声色。程なくして、二杯のジョッキと白いフィンガーレスニットグローブが同時に視界に入ってきた。
常連ならばこの特徴的な手袋を見るだけで運んできたウェイトレスは誰なのか判別がつくもの。
「サンキュー、レンちゃん」
「いつも悪いなあ」
「お店の従業員である手前、これを言うのはアレなんですけど。あまり飲み過ぎないようにお願いしますね」
けれど、どんな些細な悩みでも粉雪の美貌さえ見れば、溜息と共に記憶の引き出しに戻されるだろう。生憎、制服というものはないが、たとえ私服の上にエプロンだけという簡素な装いだとしても十分魅力的である。
「そんなつれないことを言わずにさー」
「どうだい、レンちゃん。偶にこの老いこぼれと一緒に晩酌でも……」
悪びれる様子ももなくて言う常連客。
片方は明らかに出来上がっている様子で、もう片方は濃い顎髭を触りながら誘い文句を放つ。しかしそれらを無視するように、レンは正門の方を見やる。
「あ、グレイスさんにアニーさん」
「「え!?」」
「ふふ、冗談ですよ」
お茶目なウインクを最後に、灰色のポニテを揺らしながら仕事に戻るレン。
「い、いきなり妻の名前は勘弁してくれよー、レンちゃんー」
「い、一瞬焦ったー。まんまと引っかかったが、相手がレンちゃんだからこそ気持ちいいってもんよ。ほっほっほ!」
背後から可愛らしい文句を受けた彼女は、小さな笑いで受け流しては仕事を続けるであった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
注文を取っている最中で店内のざわつきに気付くレン。なんだろうと入口の方にさり気なく見やると、
「え……?」
視線の先に興味津々に見回している銀色の甲冑を鎧う三人組の存在を確認した。
肩に直接取り付けられる白い外套の真ん中に刻まれたのは、王家の紋章。先頭に立った短く刈り込まれた金髪の男性の後に続く黒髪の男女ペアもまた珍奇なものだ。
この特徴的な色は、花の災害で滅ぼされたと言われている遥か東の集落の出身者でしか発見されないため、滅多に見られるものではない。
そんな稀有な者が二人同時に存在する上に、王家お抱えの騎士として入店したのだ。場違いにも程がある。
「え、こんな辺境に王家の犬がいるとは、飯もマズくなるなあ」
「おいよせ。下手したら不敬罪で牢屋にぶち込まれるかもしれないんだぞ」
「でも王家の犬がなんでこんなところに……?」
「さあ、ここら辺に逃げた罪人を捕まえにでも来たんじゃないか? 知らんけど」
何気ない発言が、レンの背筋を凍らせた。
(まさか、三年前に捕まえ損ねたわたしを、捕まえにきたのか)
そんなはずがと脳内で否定しようにも現に彼らは自分の職場に現れたのだ。いくら言い訳をしようとしたところでその事実は変わらない。
昔から教会と王家との関係はズブズブだと聞く。実際、教皇はこれまでに何度も国王に大神殿の修復費を申し入れたという話は聞いたことがある。数年前までは信じられない話だ。
教会の絶対的な威厳が綻び始めた今、昔の威厳を復活させようとして、人間の住処を追い出していた諸悪の根源と言われている『天使』の捕獲に躍起なのだ。
これまで何人ものの不審者と疑われる少女たちを処刑しても、シダの花の侵食がまだ止まっていないことに厭きた者もいれば、教会のやり方に嫌気が差す者も続出。
だからもし教会がこれまで取り逃がしてきた異端者を、もう一度片っ端から当たってもおかしくない話だ。
(でも王都の中で何度も名前を変えたし、この場所に突き止めたのもそもそもあり得ないはず。一体どうやって……。まさか……!)
また密告されたのか――教会の権力がこんなところまで伸びていたのかと思うと嫌でも肌が粟立ってしまう。
他人からしたら一笑に付すような与太話が、彼女にとっては笑えない冗談だ。王都での一件以来、レンは住人の職業を把握し、怪しい動きをする者がいればすぐに別の街へと引っ越し、名前を変える。
そうやって教会に目を付けられることもなく、逃亡生活を続けられているわけなんだが。その都度に人間関係がリセットされて、そろそろこんな生活に倦んできたところだ。
なんとかして彼らを避けないと――全身の血が冷えわたって動悸が高まる中、視界の端でちらつく紅い光に震え出す碧い瞳。
見間違うはずがない。これまで散々悪夢に登場してきた十字架のピンだ。
白い外套。王家の紋章。そして教会に認められた証である真っ赤な十字架のピン。この三つの証が揃ったら、彼らは上級騎士より一つ上のランク、聖騎士だと示すものだ。
もしかしたら、この生活も今日で終わるかもしれない――ひそひそ声に囲まれる中、平穏な日常の崩壊音が静かに、けれど確実に彼女を追い込んでいく。
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