第15話 桜吹雪

 冬が終わり、春がきた。

 雪が溶けて消え、桜の季節である。

 まだまだ朝晩は冷え込むが、日中は暖かい。春風が心地よい、いい季節である。

 帝都のみならず、蓬莱の全国各地には至る所に桜が植えられている。桜は蓬莱の象徴であり、蓬莱の人々は古来より桜を何よりも愛した。一斉に咲く華やかさも素晴らしいが、あっという間に散る姿も儚く、美しいからだ。


 晴海町のもう少し先に、海に面して日ノ出埠頭がある。

 今日はそこから外国行きの汽船が出ることになっている。


 この日、日ノ出埠頭は大混雑であった。

 蓬莱人のみではない。到着した者、出国する者を含めて多数の外国人もいる。ここはこの帝都の玄関口だ。混まない日はないが、今日は特に酷い。

「やっべー。一人で来てたら絶対迷子になってたわこれ」

 薄紫の行灯袴に桜色の小袖を来た少女が荷物を抱えて歩いている。

 彼女を先導するように紋付き袴の父と、留袖の母が。そして珍しく姉と手を繋いで、振り袖の妹が歩いている。

「姉ちゃん絶対向こうでも迷子になると思う」

「外国で迷子になったら絶対泣くわあたし。怖すぎる」

「お、こっちか。おいお前ら、ちゃんとついて来いよ」

 父に促されて、道を曲がると、そこには係留された大きな汽船が停泊していた。

 船体には大きく『浅間丸』と書かれており、大きな国旗が掲揚されている。

「でっけー」

「姉ちゃん船乗ったことないんでしょ? すげぇ酔うらしいよ」

「マジかよそういうのもうちょっと前に言っとけよ」

 優は実は船に乗るのは初めてである。これまでは公園の小舟で釣りをしたことが何度かあるだけだ。船酔いももちろん未経験である。

 浅間丸の乗り場に近づくと、そこでは乗客受付があり、見知った顔があった。

「あ、来たわね」

 待っていたのは、今回の女子柔術世話係の団長を務める宮若流柔術の津吹珠緒師範である。相変わらず恰幅のいい体格で、選抜試合の時と同じく留袖を着ている。

「どうも、津吹先生」

「あら、こんにちは八神先生。奥様もお元気そうで」

「ご無沙汰しております」

「八神さん、準備はしっかりしてきたわよね?」

「大丈夫です。多分」

 頼りない返事の優。

「旅券出して。出国手続きするから」

 出国には外務省発行の旅券が必要となる。これは所持者が蓬莱帝国臣民であることを示す、超重要証明書である。失くすと入出国が出来なくなる。

「旅券、旅券……。どこだっけ?」

「鞄の小さいほうに入れたって言ったでしょ。まったくあんたって子はすぐ忘れんだから」

 母が優の鞄を開けて、ひょいと取り出す。

「あ、そこかぁ」

「お母さんものすごく心配だわ」

 母は心配でこのしばらく、夜も眠れぬ日々を過ごしている。寝不足気味である。

「ところで八神さん、それ、全部持ってくのね」

 津吹が指摘したのは荷物のことだ。

 優は手に長さ六尺ほどの槍を持っている。穂の両側から湾曲した枝が付いている、千鳥十文字槍だ。また、帯には大小の刀も差している。

「はい。一応」

「八神無双流は剣術と槍術もやるんでしたものね。わかったわ」

 津吹は嬉しそうに笑っていた。

「ところで、あっちでお友達がさっきから待ってるわよ」

「え?」

 津吹が指差したのは、少し離れた所にある石造りの旅客待合所である。

「あなたがなかなか来ないから、首を長くして待ってるわ。行ってきたら?」

「あ、じゃあ行ってこよかな」

「優。荷物運んどくから刀も渡せ」

「ありがと」

 父に荷物を全て渡して、優は身軽になる。

「じゃ、ちょっといってきまーす」

 優は小走りに待合所へと向かった。


 待合所は石造りで重厚な雰囲気の建物で、かなり広い造りだった。

 中では飲み物や軽い食べ物が販売されており、雰囲気は明るい。周囲からはワイワイガヤガヤと楽しそうな旅客たちの雑談が聞こえてくる。

「あっ! 来た来た!」

「おーい!」

 優が入ると、聞き慣れた呼び声が耳に入ってきた。

 声の方を向くと、秋子に静子、それに他に数名の同級生たちの姿が目に入る。

「おー、みんな」

「我が校初の海外行きを果たした八神先生をお見送りに参りましたよ!」

 つい先週、卒業式があったばかりだが、すでに同窓会の様相を呈している。

「ふふふ、皆の衆、とうとうこの八神さんの凄さに気がついたようだな!」

「すぐに泣いて帰ってくるんだからすごくはないでしょ」

 静子が相変わらず辛辣な事を言う。

「お前な……」

「もう優ちゃんと遊べないとなると悲しくって悲しくって……」

 三年間一緒に通学した秋子は涙目だ。

「お手紙書いてね。お土産付きで」

「ガラクタ拾って送ってやるよ」

 二人と遊びまわった日々が懐かしく感じる。ついこの間の出来事なのに。

 二人には本当に世話になった。

 武術のことしか知らない自分を、随分と普通の女の子らしくしてくれた。

「八神さん」

「保科先生」

 同級生の他にも、今まで色々と気にかけてくれていた保科が来てくれていた。

「本当に外国行きになったわね。先生、あなたのこと尊敬するわ」

「ありがとうございます」

「これ、役立つだろうから持って行って」

 保科は小さな本を差し出した。

 表紙に、『蓬悠辞典』と書かれている。

「何ですかこれ?」

「何って……。辞書よ」

「……辞書?」

 優がわかってない顔をする。

「外国語勉強したんでしょ?」

「…………外国語?」

 優の反応に、その場の全員が固まった。

「……あのね。もしかしてだけど、言葉通じると思ってた?」

「え、ちょ、ど、どういうことすか?」

「外国は言葉違うわよ」

「は!?」

「はぁ、じゃないよ! お前何考えてんだ!」

 静子が優の頭を叩いた。

「優ちゃん常識がなさすぎ」

「ふ、船の中で勉強がんばりなさい! あなたこのままだと向こうでご飯も注文出来ないわよ!」

「な、なんだと……! えぇー、ちょっとマジかよ、なんで誰も教えてくれないんだよ!」

「教えられるまでもなく誰でも知ってるからねそのくらい」

 優が頭を抱える。なんてことだ。完全な盲点だった。

「ま、まぁいいよ。それよりほら、そろそろ船行ったほうが」

「は、はーい……」

 同級生各位に囲まれ、優は船の方へと足を向けた。

 最後にとんでもない新情報を得てしまった。なんてことだ。


 乗り場に戻ると、さっきまで居なかった人々で賑やかになっていた。今度そこに集まってくれていたのは、柔術の友人達だ。

 実は二日前にみんなで優の壮行会をやってくれていたので、久しぶりの顔は無いが、こうして見送ってくれるのはありがたい。

 今日はみんな、思い思いの着物を着ていた。無骨な武道袴姿はひとつもない。

「優ちゃん」

「雪子」

 最初に声を掛けたのは、宗里雪子だった。

「みんな来てくれたよ」

「うん」

 雪子は薄紅色の綺麗な小袖を着ている。長い黒髪と相まって、よく似合っている。

「八神」

「あ、佳奈さん」

 横から、七海佳奈が声をかけてきた。

「お前、向こうで外人なんかに負けんなよ。一回でも負けてみやがれ、承知しねぇからな」

 そう言って、どん、と拳で優の胸を叩いた。

「佳奈さんより強い女に出会えるとは思えないですけどね」

「なんだよ、嫌味かこいつ」

「あたし勝ってますからね!」

 にひひ、と笑うと七海も愉快に笑い声をあげた。

「そうだな! お前は悔しいけどあたいより強ぇ! きっと世界一だぜ!」

 七海が優の肩を掴む。

「でもな、帰ってきたら覚えとけ。三年後じゃ桐花は出れねぇけど、藤花でも菊花でも、まだまだ雪辱の機会は転がってんだ。次は絶対負けねぇぜ」

 七海の言葉は力強い。次に会う時には、本当に強くなっているだろう。

「そういうのは先に私に勝ってから言ったらどうです?」

 長谷川紫が会話に割り込んだ。

「うるせぇよ、紫」

「八神さんとも一度きちんと対戦しておきたいですから、私ともお約束願いますわ」

 にっこり笑って、長谷川。

「お父様に悠国留学お願いしてみようかしら」

「紫さんが言うと冗談なのか本気なのか判断つかないんですけど」

「あらやだ、半々よ」

「半分本気かよお前」

 七海が呆れ顔をする。

「ま、それはいいとして。八神、餞別やるよ」

 七海が小さな包を取り出した。

「え、いいんですか。なんすかこれ」

「あたい特性の梅干しだ。外国行くと国の味が恋しくなるらしいからな!」

「ありがとうございます」

 ペコリと頭を下げて、礼を言う。

「自分で言うのもなんだけどよ、今年のは美味く漬かったんだ。食えば元気が出るぜ。じゃあ、元気でな八神」

「帰ったら連絡頂戴ね。待ってますから」

「はい。二人とも、お元気で」

 七海佳奈。長谷川紫。

 二人とも良い先輩である。また会う時には、二人とも強くなっているだろう。

「優ちゃん」

 次に来たのは、秦野梓だ。わざわざ、今回の優の日程に合わせて杜泉から上京してきてくれている。

「梓さん、来てくれてありがとう」

「いいんですよ。他の用事もありましたし。ついでに、観光もしていけますしね」

 ふふ、と笑う。

「実は、ちょっと調べてみたんですけど。外国だと、柔術はないにしろ、別の武術が色々あるみたいですよ」

「らしいね。あたしもちょこっと耳に挟んだ程度なんだけど――」

「蓬莱柔術の看板背負ってるんですから、負けないでくださいね」

「うん。任せといて」

 秦野と固く握手を交わす。

「来年、桐花大会に出るつもりなんです」

「そうなんですか?」

「はい。宗里さんに復讐するつもりですよ」

「強いですよ。雪子」

「知ってますよ」

 秦野はそこで、手荷物から小さな包を手にとった。

「あの、これ。よければ、持って行って下さい」

「え、餞別もらっちゃっていいんすか」

「はい。つまらないものですけど」

 優は貰った包を軽く解き、中を覗く。

「……こ、これは!」

「はい。杜泉名物の梅干しです。故郷を離れると、やっぱり懐かしい味が欲しくなると思いまして」

「……そ、そうすか。ありがとうございます」

 七海と完全に内容が被っているが、優は何も言わずに受け取った。

 『もう持ってる』とこの場で突っ返せるほど野暮ではない。

「ではまた。帰ってきたら、杜泉にも来てくださいね。案内しますよ」

「はい。ぜひ」

 秦野はあと数日、宗里家に滞在して帝都観光をして帰る予定らしい。

 折角の上京なので、帝都を満喫して楽しんでから戻るつもり満々である。聞く所によると雪子の所で小野椿流との技術交流もしているそうだ。

「あの、優ちゃん」

 雪子がおずおずと声をかける。

「ん、ごめんごめん。みんな声かけてくれちゃって」

「いやその、私はいいんだけどね。こっちが」

 雪子の後ろから、三代川小夜子が姿を表した。

 めそめそと泣いている。

「え、ちょっとどうしちゃったの小夜ちゃん」

「優ちゃん居なくなるのが寂しくて今日ずっと泣いてるんだよー」

「うー、ひっく……ひっく……」

 しゃくり上げながらポロポロと涙する小夜子。

「おー、いい子だいい子だ。こっちおいで」

 優が頭を撫でると、小夜子はがっちりと優の上半身に抱きついた。

「ゆ、優ちゃん、は、早く帰ってきてね」

「よしよし。ちゃんと帰ってくるから安心しなさい」

「うぅー」

「小夜ちゃん、歳上の威厳がまるでないよ……」

 これでも歳上のはずなのに。小夜子は情けなく泣いているだけである。

「こ、これ」

 小夜子が懐から小さなお守りを取り出した。

「き、きっと優ちゃんのこと、守ってくれる」

「帝都神宮のお守り? ありがとう。小夜ちゃんだと思って大事にするよ」

「うん」

「優ちゃん割と物すぐ失くすから本当に気をつけてね」

「前科がありすぎて反論できないのが悔しいわ」

 苦笑いの優。

「じゃあ、そろそろいい? 小夜ちゃん」

「う、うん……」

 小夜子を離すと、優の胸が涙でぐしょ濡れになっていた。

「雪子」

「うん」

 優は、最後に雪子の前に立った。

「……」

 何を言えばいいのか、言葉が出てこない。

「…………」

 言いたいことは色々あったが、言葉にならない。

 ただひとつ。これだけは言える言葉があった。

「雪子。ありがとう」

 万感の気持ちを込めた言葉だった。

 雪子はその一言を聞いて、思わず顔を伏せた。

 抑えておこうと思っていた感情が胸の奥から一気に湧き上がり、涙が出た。

 思えば、全ての始まりは雪子だった。

 雪子にとっては、優だ。

 桜花大会の決勝でぶつかったのが出会い。そして、死闘で絆ができた。

 柔術であった。

 幼少より身に付けた柔術が、二人の絆を作り上げてくれていた。

 この数ヶ月がこれまでの人生で一番充実した日々であったのは、雪子と柔術のお陰だ。

 雪子との戦いを思えば、今でも胸が熱くなる。

 人生の何もかもを燃やす事が出来たひとときを過ごせた自分たちは、幸せだろう。

 少し待って、雪子は顔をあげた。

 珠のような涙がこぼれている。

「ありがとう。優ちゃん」

 一番の尊敬する親友の言葉に、優も涙がこぼれた。


 時間になった。

「優、しっかりね」

 母が優の手を握った。母の手が暖かい。

 この手の温もりを感じられなくなると思うと、寂しくて寂しくてたまらなくなるが、もうそんな事は言えない。守られるだけの子供ではないのだ。今日から自分は、独り立ちだ。

「荷物に大好きな梅干し入れといたから、寂しくなったら食べなさいね」

 優の表情が固まる。

「……被りまくりじゃねぇか。みんなどんだけあたしに梅干し食わせたいんだよ」

 餞別が全員梅干しだとは思いも寄らなかった。考えることが画一的すぎて怖い。

 ありがたいことだし、嬉しいのだけど。

「頑張れよ。元気で行ってこい」

 父は簡潔にそれだけ言った。うん、と優も短く返事をする。

「お姉ちゃん」

 いつも強気の怜も泣いていた。

「大丈夫だって。姉ちゃん強いから。お前もがんばれよ」

「うん……」

 妹を抱きしめて言う。

 今更ながら、家族に愛されていることを実感した。

「よし! みんな!」

 優が大きな声で叫んだ。

「行ってくる!」

 みんなが手を振っている。

 優は勇んで掛け橋を駆け上がり、船へと乗り込んだ。


 汽笛が鳴り、船が出て行った。

 三月三十一日正午。蓬莱帝国の渡悠派遣団を載せた汽船『浅間丸』が帝都港日ノ出埠頭を出港した。

 直行はせずに途中数カ所の寄港地を計画しており、目的地到着は三ヶ月後を予定している。


 船が海の向こうに見えなくなるまで、雪子は小夜子と一緒に見送っていた。

「ゆ、優ちゃん、大丈夫かなぁ」

 小夜子が心細く呟いたのに、雪子は笑って、

「大丈夫だよ。私達の優ちゃんなんだから」

 そう答えた。


 優は甲板の上に上がり、遠ざかる故郷をじっと見つめていた。

 今まで帝都を離れて生活したことなど一度もない。これからはしばらく洋上生活。そして、異国での戦いだ。

「八神さん、今日の着物は随分可愛いわね」

 甲板の優に、津吹が声をかけた。

「はい。父ちゃんと母ちゃんが買ってくれたんです」

 照れくさそうに優。

「遊びに行くんじゃないんだし、武道袴でいいって言ったんですけど」

 その回答に、津吹は笑った。

「何言ってるの。女の子なんだから、ちゃんとそういう可愛い格好しなきゃだめよ」

「そうですかね」

「そうよ」

 津吹ははっきりと答えた。

「不安かしら?」

「そうですね……。ちょっと不安です」

「そうよね、一人で外国だものね」

「でも、楽しみです」

「あら、頼もしいこと言ってくれるわね。期待してるわよ」

 優は、甲板から改めて去りゆく故郷を眺めた。

 遠く見える山の麓が満開の桜色に染まっているのが見える。

 桜吹雪の舞う季節は、もうすぐそこだ。

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桜吹雪 ヤゴ @Yago977

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