第14話 百花
中央の畳の上に、二人の少女が座っている。
その内の片方、小柄な方がふぅ、と小さく息を吐いた。
白い道着に、黒い袴を穿いている。七分ほどの長さの袖から伸びる腕は意外なほどに細く、色が白い。真っ黒な髪は肩にかからぬ位の長さに切り揃えてあり、前髪も眉にかかる程度である。目が大きくぱっちりとしており、小さな体格と相まって可愛らしい。
「八神無双流、八神優!」
「はいっ!」
名前を呼ばれて、少女は大きな声で元気よく返事をして立ち上がった。
鼻息あらく、にやりと笑う。
精神が心地よい緊張で程よく高揚しており、冬の空気に濡れた柔術衣も気にならぬほど、身体も暖まっている。
「小野椿流、宗里雪子!」
「はい!」
反対側に座っていたもう一人の少女も、名前を呼ばれて立ち上がった。
こちらは先ほどの少女よりも背が高く、体格が良い。やや面長で長い髪を頭の後ろで邪魔にならないようにまとめている。
「雪子! 優君の寝技には付き合うな! 立ったままいけ!」
宗里の後方、父親の宗里正吾からいつかと同じ声がかかる。
「がんばって雪子さん!」
婚約者の正一も、今日は正吾の隣に立って応援している。
「優! 引き込んで行け! 雪子君と投げ合いは避けろ!」
「がんばれ! 下からいけ下から!」
優の父も珍しく声を出していた。妹と母もだ。
もう一人の桜花、三代川小夜子は食い入るように二人を見詰めている。
七海佳奈と長谷川紫の二人も、じっと二人に集中している。
「お互いに、礼っ!」
宮若流柔術津吹珠緒師範の声で、二人は一礼した。
「構えてっ!」
宗里は両手を肩ほどまで上げて、両手を開いた。
八神は手は下ろしたまま、右足を少し後ろに引いた。
「始めっ!」
「やああぁぁっ!」
号令とともに、宗里が大きな気合を上げた。ビリビリと声に載って気迫が響いてくる。
蓬莱帝国渡悠派遣使節団 女子柔術世話係 第一回選抜決勝試合の決勝戦である。
勝ったほうが、海外渡航となる。選ばれれば、柔術家として比類無き栄誉である。
しかし、そんな事はもうどうでもいい。
あの桜花大会での一戦から何ヶ月経っただろうか。
あのひりつくような戦いの続きが出来るのだ。
ぞくぞくと寒気のような歓喜が腹の底から湧いてきて止めようがない。
八神無双流という武術流派について少し書く。
八神家に代々伝承される家伝の武術である。
柔術の他に、槍術と剣術、それに居合術を伝えている総合武術である。
創始や系譜といったものははっきりしておらず、いつからあるのかは誰もわからない。
優が以前気にして、祖父に尋ねてみた事があったが、「実は千年前からあって、一度も負けたことのない無敵の流派なんだよ」と信憑性皆無の由来を語り始めたので、姉妹で相談して祖父がボケたか何もわかってないかどっちかだな、という事になった。要するにやはり詳細は誰も把握できていないのが実情である。
ただ、弟子もいない一族のみの流派にしては強く、父や祖父が他流試合で遅れを取らなかったのは事実である。剣術、槍術もそうだが、特に柔術においてはかなり強いと言われている。
父たちが特に工夫したのは、寝技であった。
素手の一対一に技術を伸ばした。結果、八神無双流には多数の寝技技法が生まれ、寝技を軽んじる他派をその餌食としてきた。
元来、柔術は刀を持った複数の相手と交戦することを前提として技術が形成されている。
そんな状況下を想定すれば、寝技に特化した柔術など論外としか言えない。一人を仕留めている間に他の敵に斬られてしまう。そのため、通常は立っての技を追求する。
しかし、八神無双流は“柔術家を倒すための柔術”をも追求した。
結果、寝技を中心とした特異な技法を持つ特殊な柔術が生まれた。
八神無双流の柔術とは、そうしたものであった。
優と雪子が組んだ。立ち組みである。
前回の試合では、立っての戦いでは雪子に圧倒されていた優であるが、今回はかなり小野椿流対策を講じてきたので、立ち技でも遅れは取らない。
……はずだった。
「やあああっっ!!」
雪子が優を投げた。
小野椿流、水入という技だ。斜め後方に倒れ込みながら、相手の足を蹴って投げる。
「ちっ!」
かわしきれず、優が畳に転がる。
すかさず雪子が抑えこみに入るが、優が足を絡めてそれを阻止する。
雪子の投技は素晴らしい。投げられていながら惚れ惚れするほどだ。感動すら覚える。
八神優は、幼少の頃から武術一筋の少女であった。
体格には恵まれなかったが、一生懸命であった。努力を苦としていなかった。
尋常小学校も高学年になると、町内で優に敵う相手は男子も含めて一人もいなくなったほどだ。気の強さが高じて男子と時々喧嘩をしたが、負けた事など一度もない。上級生と五対一でも勝っていた。
そんな優である。周囲から、女のくせに、とはよく言われたものだ。
女のくせに柔術か。女のくせに喧嘩か。女のくせにお洒落もせずに……。
優は男に生まれたかったとは一度も思ったことがなかった。女の自分が気に入っていた。
自分が女として魅力的であるとは思っていなかったが、それでも女の自分が好きだった。
ある時、母が帰宅すると、母の化粧台に向かって娘が一人座っていた。
「優、なにしてるの?」
母が声をかけると、娘はびっくりして椅子から飛び退いた。
「な、なにも……」
娘の口元には、紅が引かれていた。
母の口紅である。
「……下手ねぇ、貸してご覧なさい」
娘は中学に上がっていたが、これまで綺麗な着物にも化粧にもまるで興味を示していなかった。だが、中学で友人達に囲まれて、何か感じるところでもあったのだろうか。
これまで、娘に化粧の仕方など何一つ教えたこともなかった。
「いいよ、なんでもないから」
「いいから、おいで」
嫌がる娘を座らせて、鏡に向かわせる。
「あんたも口紅くらい、使い方を知っておかないとね……」
頬の紅潮した娘の横顔が、母にはいつも以上に可愛らしく見えた。
遠間から、雪子が身を低めて飛び込んできた。手を伸ばし、狙いは優の足である。
(っ! ……旭流!?)
この技には見覚えがある。旭流柔術、“足捕り”だ。
雪子め、あの一日で秦野梓から技を盗んだのか。
優が転がる。
雪子が優の足を掴み、脇に抱え込んだ。
(足首!)
優は自分の足を庇おうと雪子の襟をひっつかみ、同時に雪子の足を捕る。
「くっ!」
雪子が尻もちをつく格好となった。だが、足は放してくれない。
お互いにお互いの足首を脇に抱える格好になる。
小野椿流、蹄挫き――
八神無双流、足挫き――
名前こそ違うが、同じ技である。
踵の腱を攻める技だ。
「ふっ!」
「くぅっ!」
同時に二人が足を極めようと力を込めた。
宗里雪子は孤独な少女だった。
とはいえ、特に人付き合いが下手だったわけではない。友達もそれなりにいた。
小学校も中学校も、ある程度の友人達に囲まれて、普通の学生生活を送っていた。
宗里雪子は孤独だった。
柔術をやる少女は自分一人だけであった。みんな柔術の柔の字も知らない。自分の大好きな話をしたかったが、誰も理解してくれないのでいつも聞き役に徹していた。自然、周囲の評判は雪子は大人しい子、という事になった。
本当は全然、そんなことはない。雪子は意外とおしゃべりだ。冗談も結構言うし、ひょうきんな所もある。
しかし、誰も自分をわかってくれないので、言う気をなくしていただけだ。
誰も自分を理解してくれない。それが雪子の唯一にして最大の悩みだった。
だが秋口のある日。雪子の世界が激変した。
折角だから、と父が勧めて出場した桜花柔術大会。
これまで同年齢では敵無しだった宗里雪子はついに敗北の日を迎えた。
破った相手は、八神無双流の八神優。雪子よりも随分と小さな、目の大きな少女だった。
負けた日の夜、雪子は一人で呆然としていた。
普段は歳上相手に稽古しており、それでも負けない腕前である。あんな小さな相手に負けるなど、露とも思わなかった。
あの少女は、どういう子なのだろうか。
「八神無双流か。父さんは住所は分からないが、津吹先生なら知っているだろう」
相手のことがどうしても気にかかり、父に尋ねるとその返事だった。
「どうした、八神がそんなに気にかかるのか?」
雪子は無言で頷いた。
優が片膝を付き、雪子の股の間に手を差し込んだ。雪子を持ち上げようとする。
「ふっ!」
八神無双流、衣担。同様の技が、小野椿流では天狗落としという名称で伝わっている。
身体が浮きかけた所で雪子が暴れて、技から抜けた。
だが投げが失敗しても技はまだ終わらない。優は体勢を変えて雪子に組み付こうとする。
(寝技に引きこむ気だ!)
雪子が優の奥襟を掴み、組み付きを止める。
「……やるな雪子」
「そっちこそ」
二人は楽しそうに笑った。
父の宗里正吾は試合を見詰めながら、溢れそうになる涙を我慢していた。
一人娘の成長が、これほど嬉しいとは。
十五になる娘に対して、正吾は自分の不甲斐なさを嘆いてこれまで心の中で何度頭を下げてきた事か。こんな年若い我が子に苦労させて、なんと情けない父親か。今までに幾度も思ったことである。
時代が変わり、かつては隆盛だった小野椿流柔術の道場にも人が集まらなくなった。
柔術で飯が食えぬ時代が到来したのである。武芸よりも学問と商売。強さが尊ばれる時代は去り、学士と商人が尊敬される世の中になった。
門弟が集まらねば、柔術道場はたたむより他に道がない。
古くからの知り合いの柔術家も廃業する者が増えていた。道場を閉めるもの。大道芸として街中で柔術を披露して金を稼ぐもの。秘伝書を売りさばく者まで出た。
(これも俺が至らんせいか――)
将来への不安で心が潰れそうな日々を送る事になった。妻も口には出さないが、不安がっているのが見て取れる。来年の正月を無事に迎えられますように、と神棚に祈っている。
娘の雪子には才能があった。
しかし、男でも柔術で飯が食えぬ。女の雪子が柔術で生きていくのは無理であろう。
惜しい。ひたすらそう思った。
折角の人生だ。自分の好きなことをやらせてやりたい。それすら叶えてやれぬ自分に腹が立ち、無性に情けなく感じる。
ある日、門弟の一人が困った話を持ってきた。
「勤め先のご子息が、お嬢様に興味をお持ちのようで――」
娘の見合い話だ。相手は貿易商の息子。金持ちである。
「出来れば是非に、と」
正吾は返事が出来なかった。
娘が結婚してくれれば、金の算段がつく。道場が続けられ、小野椿流を世の中に残すことが出来る。
しかし、代償として娘は嫁に行く。柔術が出来なくなるであろう。
娘の人生と、小野椿流を引き換えにすることになるのではないのか。
そう思えてしまい、喜んで、とは言えなかった。
親として、金のために娘を売るような真似だけは出来ない。それだけは出来ない。
(断ろう――)
そう思った。まだ十五の娘には早すぎる。
その時に、雪子が言った。
「是非、お願いします」
娘の勝手な言葉に目を丸くして正吾は怒鳴った。
「雪子!」
言葉の意味がわからない歳でもあるまい。
「お前、自分が何を言っているかわかっているのか」
「はい」
しっかりとした目で見つめ返してくる娘。
雪子は父と流派のために、自分を売る覚悟をしたのだ。
「お前、この俺がそんなに情けない父親だと思っているのか」
雪子はゆっくりと首を横に振った。
「ううん、そうじゃないの。小野椿流もそうだし、お父さんのこともそうだけど、私が柔術を続けていくには、これが一番可能性があるんじゃないかな、って思って」
にこりと微笑んだ。
「それに、あんまり変な人だとお断りしちゃうつもりだし、すごくいい人かもしれないしね」
もちろん、この心配は全て杞憂に終わった。だが正吾は娘が大人になったのだということをこれ以上に強く実感した日は無かった。守っていたはずの雪子は親を守るほどに立派に成長していた。まだまだ子供だと、思っていたのに。
腕拉ぎ腕固め。
手首固め。
逆十字絞。
腕絡み。
優の流れるような連続技を雪子は全て逃れてみせた。優の関節技に敗れて以来、余程の修行を積んだのであろう。逃げ方が上手い。
朝倉正一との縁談はあっさりとまとまった。
元々、向こうの一目惚れであった話だ。こちらが断らなければ良いだけの話であった。
正一は男前であったし、金持ちで学問の出来る男だった。婿としてはこれ以上ない男だ。雪子も一目で随分と気に入ったようであった。
決め手は正一のこの言葉だった。
「雪子さんには、結婚しても柔術を続けて戴きたいと思っています」
予想外の言葉にびっくりして宗里家の面々は目を丸くした。
「い、いいんですか?」
「はい。元々、道場を覗かせてもらった時に、柔術をやる雪子さんに惹かれたんです。あの姿が見れなくなるなんて、僕は嫌ですから――」
柔術であった。
柔術が、雪子の人生を助けたのだ。
雪子が優の背後に周り、片羽絞めに取ろうとしているが、優がそれを堪えている。
試合が始まりもう十一分が経とうとしている。二人の体力はもう残っていないはずなのに、よくもあれだけ動き続けるものである。皆がそう不思議に思うほどに、二人は戦い続ける。
試合開始の時に、雪子の名に桜花が冠せられた。
宗里雪子桜花。良い響きだ。学生柔術の頂点。蓬莱一の勲章である。
(雪子、お前は俺の自慢の娘だ。)
夫、友人、生き甲斐。雪子は柔術で人生のすべてを勝ち取った。
柔術で全てを棒に振る所であったのに。孤独で将来が見えぬはずだった娘は、この数カ月で全てが好転した。
切っ掛けは、今目の前で雪子と戦うあの少女だ。
八神優。小さな身体の武術家である。
彼女に負けて、柔術の奥深さを知った。雪子に情熱が湧いた。
彼女に出会って、柔術の友達が出来た。雪子に親友ができた。
八神優に勝つことが、今の雪子の目標である。
正吾は出来ることなら今すぐ優を抱きしめて礼を言いたいほどだった。
雪子と友達になってくれて、ありがとう、と。
雪子の技がとんでもないことになっている。
技の数が爆発的に増えているのだ。しかも、小野椿流だけではない。旭流や三重黒姫流、果ては八神無双流の技まで仕掛けてくるではないか。
(雪子め! 人の技まで使いやがってこんちくしょう!)
雪子がこれほどまでに技を盗んでいたとは。
ならばこちらも。
(今のあたしは三代川小夜子!)
優が雪子の柔術衣を掴んで、叫んだ。
「いいいいやあああああああああああっっ!!」
ぐい、と雪子の上半身を前方に引きずり、優が絶叫する。
「!」
雪子の足を刈り、投げに入る!
三代川小夜子桜花直伝、桂都古流の投技『行雲』だ!
優が三代川小夜子を見て最初に思ったのは、「すごいやつがいる」だった。だから、話がしてみたくて思わず話しかけたのだ。自分と変わらぬ体格。変わらぬ年齢。そして美しい柔術技法の数々。小夜子の姿は優には魅力的に見えた。雪子とはまた違う素晴らしさだ。
友達になってまだほんの二週間ほどだが、いい友達だ。一緒にいると楽しい。
小夜子の投技は最早芸術の域である。
あんな投げが、自分も出来るようになりたいと思った。
「ぐぅ!」
雪子が倒れる。だが、背中からではなく、脇からだ。投げは完全には決まらなかった。
「おりゃあっ!」
即座に倒れた雪子を掴み、再度寝技に入った。
優の絶叫が響き渡った時、周囲の視線が少し自分に集まったのを感じた。
(私の技だ!)
三代川小夜子は小躍りしたいくらいに嬉しくなる。涙がこぼれそうだ。
自分との戦いが、優の中で息づいて、今目の前で爆発しているのだ。
「が、がんばれっ!」
二人ともがんばれ。どちらも友達なのだから。
いつだったかは覚えていないが、こんな質問をされた記憶がある。
「なんで戦うの?」
「え……」
質問者は秋子と静子だった。三人で遊んでいる時、ふと尋ねられたのだ。
「……なんでって……」
考えたが、優には答えが思いつかない。
なんでなのだろうか?
「稽古大変なんでしょ?」
「まぁ……大変かな」
「試合もすごいつらいんでしょ? 痛いし」
「まぁ……そうかな」
「そんな辛いのになんで?」
「う~ん……」
悩んだが、わからない。
どうしてと言われても、そういう生き方しか知らないのだ。わからない。
自分はなぜ、恨みもない相手と戦うのだろうか。
寝技の展開になり、お互いに攻めあぐね始めた時だ。
「ぶはぁっ!!」
雪子が大きく息を吐いた。攻め続けて、お互いに呼吸が限界だった。
「ぶふぅっ」
優も同じく息を吐く。数秒、戦いが止まり、お互いに呼吸を整える。
「せっ!」
「おうっ!」
戦闘が再開された。
八神無双流の使い手は世の中に三人しかいない。父と、優と、妹の怜である。
優が毎日稽古を続けるには、父と怜の協力が不可欠であり、半強制的に妹も姉の稽古相手として毎日のように駆り出される日々を送っていた。
そんな中で八神怜はよく、稽古がつまらないとぼやいていた。
「たまには他のことしたい」
「他のことってなんだよ」
「ほら、お芝居観に行ったりとかさ。寺町に出来たっていう花公園とかさ、観に行ってみたいじゃん」
姉は渋い顔をした。
「そんなのより稽古したほうがよくない?」
「やだよ! 姉ちゃんなんでそんなに武術バカなんだよ!」
「えぇ……。あたし変かな?」
「変だよ! 変に決まってんじゃんバカ!」
「バカ言うなよバカ。じゃ、今度日曜日に行くか」
「約束だよ」
怜は時々、姉を遊びに誘うが、姉はあまりいい顔をしなかった。
遊びに行けば楽しそうなのだが、行くまでが腰が重い。
暇さえあれば、稽古稽古。本当にバカみたいな姉である。
(……姉ちゃん。)
怜は今、そんな武術バカの姉の試合をじっと見詰めている。
いつもバカバカと罵っている姉だが。
内心は、尊敬する大好きな姉なのだ。
姉の夢が叶ってほしい。武術で生きていってほしい。
(がんばれ、お姉ちゃん……!)
隣に座る母の袖をぎゅっと掴んで、怜は睨むように試合場を見詰めている。
身体が疲れすぎておかしくなっていた。
疲労が蓄積し過ぎて、もうどうにかなってしまったようである。
だが、まだ身体が動いている。身体が戦いを止めない。
疲れ果てても身体が動くのは、日々の稽古のおかげだ。
身体の奥の奥、血反吐を吐いて骨身に染み込ませた技だけは、こんな状態でも使うことが出来る。逆にそうでなければ、技は身につけたとはいえない。
心臓が口から飛び出しそうだ。
吐きたい。
息をするのも辛い。
「どっちが勝つと思う」
七海が長谷川に尋ねた。
「まぁ……。そうですね。個人的には宗里さんを応援してますけど」
「そうか。あたいは、八神だ」
「宗里さんが勝てば、私も佳奈さんに勝ったような気がしますし」
「ほう? じゃあ八神が勝ったら紫、お前あたいに負けましたって言えよ」
少し笑った。
「……バケモノかよあいつら」
「まだ動けるなんて大したものです。私なんかもう動きたくないほど疲れてるのに」
二人は目の前の少女たちを心の底から称賛する。
底なしの根性。闘志。今の二人は虎に見える。
優の左足が下から雪子の右肩に絡んだ。
「ちっ!」
雪子の体制が前のめりになる。優は身体をぐるりと回転させ、雪子の足側に自分の頭を移動させていく。
(まずい!)
雪子が焦る。このままだと、足で肩を極められてしまう。
八神無双流、秘技『松葉固め』である。
「くぅっ!」
咄嗟の判断で、雪子が前転して技を外した。優が雪子の身体をしっかり捕まえておけば肩が極まって勝負ありとなっていたはずだが、惜しい。
十二月。今日の帝都の冷え込みは、昨日よりもやや厳しい。
晴れてはいるが、積もった雪はまだ溶ける様子を見せていない。道行く人が時々雪で足を滑らせて転ぶ姿も見られた。
試合場の空気も同様に冷たいが、中央の女子二人が発する熱が凄まじい。
秘技繚乱、華やかな技の応酬であった。
試合が始まり、二十分が経った。
勝負が決まりかけたことはここまでで何度もあるが、二人とも全て逃れた。高い防御技術を持つ者同士、相手の攻撃に対する対処が上手い。
二人が一度間合いを取った。
「うああっ!」
畳を蹴って、優が雪子に飛びかかろうとした時だった。
優が前方につんのめって、転んだ。
「……あれ?」
「……」
急いで、体を起こそうとする。
しかし、
「……あ、あれっ?」
また、ぺたりと尻餅をついた。
「な、なんだよこれっ」
膝がブルブルと震えて、立ち上がれない。
「ま、待てよっ まだこれからなんだっ!」
必死で立ち上がろうとするが、腰が持ち上がらない。自分の小さな尻がこんなに重かったとは。
雪子は前方で、両手をだらりと落としたまま、こちらを見下ろしている。
「く、くそっ! もうちょっとだけもてよっ!」
優が自分の右腿を拳で叩いた。
よく見れば、両手もぶるぶる震えている。上手く拳が握れていない。
「ゆ、雪子っ……!」
ここまでか。
ここまでなのか?
大舞台で、やっと再戦できたのに。体力が枯れ果てて、これで自分の終わり?
嫌だ。決着がほしい。負けでもいい。絞めで落とされても、関節技で腕をへし折られたっていい。こんな、床にへたり込んで「はいお終い」なんか冗談じゃない。目に見える形ではっきりと、最期まで宗里雪子と戦い抜いたって勲章が自分には必要だ!
見ろ。雪子だってそうじゃないか。
目が死んでない。
立ち尽くしたまま動かないが、目から闘志を感じる。
続行だ。
こんなの終わりじゃないだろう。
まだ使ってない技が幾つかあるんだ。雪子だってそうだろう。
最後の最後まで、乾いた雑巾を絞るようにして、最後の一滴まで絞り尽くして決着だ!
「うう、うっ!」
優が両手を畳に叩きつけて、上半身を起こす。
「雪子っ!」
睨む。
雪子が少しだけニヤリと笑った気がした。
「続行だ!」
雪子、なにしてるんだ。攻めて来い。こっちはこんなだが、お前から来れば、寝技ならまだ少しは手足が動くかもしれない。
足がダメでも、手だけでもいい。腕だけで使える技が幾つかある。かかってこい!
「それまでっ!」
だが。
「それまでっ! それまでっ!」
津吹が間に割って入った。
「……えっ」
「勝負あり!」
連呼されるその言葉。まさか、終わった? 終わったのか?
(あ、あたしの負けか!?)
優の顔が真っ青になる。
「ま、まってっ! まだ、まだやれるからっ!」
手を伸ばし、津吹にすがろうとするが、手が届かない。
津吹は立ったままの雪子を抱きかかえて、こちらを向いた。
「もう無理よ。あなたがたはよくやったわ」
何を言ってるんだ。
そんなわけがないだろう!
「まだ、決着、ついてないんですっ」
津吹がゆっくり首を横に振った。
「だから、もう無理よ」
「なんでっ……」
「違うわ八神さん」
諭すように津吹が言う。
「宗里さん、失神してるわ」
「……えっ」
「立ったまま気を失ってるの。もう無理よ」
「……雪子?」
雪子の体から力が抜け、ぺたんと両膝をついた。
津吹が雪子をそっと畳に寝かせる。
「あなたの勝ちよ」
「雪子、雪子っ」
優は這って倒れた雪子に近寄り、その上半身を抱いた。
「雪子……」
ぎゅう、と抱きしめた。なぜだか分からないが、泣けてきた。
頬をつうっと涙が伝う。
「……? 優ちゃん?」
「あっ」
「……何してるの?」
雪子が目を覚ました。
寝ぼけたかのように、状況がわかってない。
「雪子っ! う、うぅ~」
「もー、なに泣いてるのよ……。泣き虫なんだから……」
「そんなん知らねぇよバカっ! お前のせいだよちくしょう」
優はしゃくり上げながら泣いた。理由はよくわからない。とにかく、雪子を抱いて泣いた。
決勝戦は試合時間二十分。八神無双流の八神優の勝ちで終わった。
決め技は、ない。
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