第13話 千重椿

 呼吸が止まらなかった。

「はぁっ! はぁっ! はぁっ! はぁっ!」

 全身から凄まじい汗が吹き出ている。握力を使いすぎて、右手の感覚が無い。

 勝てた。

 なんとか勝てた。

(と、とんでもなく強かった……)

 七海佳奈を破った優は、その場に倒れこんでいた。少し休まなければ歩けそうにない。

 まさかこれほどまでに苦戦するとは。

 技を繰り出しても繰り出しても、力で無理やりに破られてしまった。あんな事を同じ女子にされるとは信じられない。世の中は広い、あんな強さを持つヤツもいるのか。

 今日はなんとか勝てたが、次回はわからない。負けるかもしれない。そんな風に思わざるをえないほど、七海は強かった。

 しかし、これはマズい。

 消耗しすぎた。

 体力が残っていない。スッカラカンだ。

 前回は人数が多かったため、二回戦まで時間があったが、今日は違う。

 決勝までにどれほど回復するか……。もし、雪子が長谷川に簡単に勝利するような事でもあれば、決勝は絶望的だ。

(短期決戦のつもりだったのに……。これは本当にマズいよ……)

 世の中、概して上手くいかないものだ。


 津吹が優の一本勝ちを宣言してほんの十数秒で七海は目を覚ました。

 試合後、礼をして、ヨロヨロしながら七海は選手控えに戻った。

 敗北の絶望が全身を内側から蝕んでいる。

 参った。立ち直るのに時間がかかりそうだ。

 よたよたと歩を進めると、目の前で立ち塞がる女が居た。

「……紫」

 長谷川紫だ。

「……」

 長谷川は無言で、怒った顔をしている。

「……す、すまん紫。負けちまった」

 七海は素直に頭を下げた。

 デカイ事を言っておいて、このザマだ。合わせる顔がない。

 数秒そのままで、ゆっくり顔をあげると、

 ぱん

 と、音がした。

「!」

 七海も一瞬何が起きたかわからなかった。

 長谷川が自分を平手で叩いたのだ。

「……て、てめぇ」

 何しやがる、と吠えようとした所で七海が言葉を止めた。

 長谷川が泣いていたからだ。

「か、佳奈さん。あなた、あなたね。私、あなたにもう一度勝つために、この一年、血を吐くような努力をしてきたんですよ」

「……」

「負けるなんて……」

 長谷川の頬を伝う滴を見て、七海は無言で泣いた。

 なんだ。

 こいつは、自分をこんなに理解してくれていたのか。

 自分もこいつも、一緒だったんじゃないか。

 なんでも持ってるくせして、自分とおんなじだったんじゃないか。

「佳奈さん、見てて下さい。宗里さんを倒して、決勝で八神さんも倒します」

 ありがとう、と言いたかったが、声を出すと嗚咽しか出てこなさそうで、七海は何も言えなかった。


 ようやっと歩けるようになり、優はまた七海以上にヨロヨロしながら試合場を降りた。

「優ちゃん、大丈夫?」

「全然だいじょうぶじゃない。すげぇ疲れた」

 どさりと腰を下ろす。

「……はーっ、はーっ」

 息が治まらない。まだ荒いままだ。

 手もぶるぶると震えている。

「優ちゃん」

「なに?」

 雪子が、そっと手を握ってきた。

「約束守ってくれてありがとう」

「おうよ。あたしはやる時はやる女だってわかった?」

 へへ、と笑いながら言うと、雪子も笑顔で返してくる。

「そんなの言われなくたって知ってるよ」

 雪子が立ち上がる。

「優ちゃん、そこで待っててね。長谷川さんを倒して、決勝に必ず出るよ」

 雪子は珍しく、そんな強気の言葉を出した。

「そして、必ず、次は優ちゃんにも勝つ」

「待ってる」

「任せて」

 白布でぎゅっと艶やかな後ろ髪を結い上げて。

 宗里雪子は試合場に立った。


 準決勝第二試合。

 三重黒姫流 長谷川紫桐花 十八歳 五尺二寸。

 小野椿流  宗里雪子   十五歳 五尺三寸。

 歳は下だが、雪子のほうがやや大きい。

 しかし、相手は弱冠十七歳で桐花大会を制した麒麟児である。下馬評は長谷川の方が優勢だ。立ち技、寝技ともに評価が高い。

 長谷川紫と宗里雪子は色々とよく似ている、と観戦者からは言われていた。

 長身である所。立ち技も寝技も得意で穴の少ない所。そして、長くて艶やかな黒髪だ。

 優や七海が特段に醜いということは当然ないが、こちらの二人は男性好みの綺麗な顔立ちをしており、ちょっとした注目の一戦となっている。

 ただ、外見が如何に美しくとも。

 試合場に立つ二人の少女は、皮を一枚めくればその中身は獅子である。


 三重黒姫流というのは、実は帝都ではほとんど聞かない名前だ。

 元はもっと西の地方のとある藩の御流儀であったらしく、大名の出である長谷川家がかつての地元から道場ごと帝都まで連れてきたらしい。

 なので、その戦術についての情報があまりない。

 試合に備えて、父に色々聞いてみてはいたが、あまり手がかりがなかった。

 独特な投げがあるらしいとか、そんな曖昧な情報だけである。

 長谷川は身を大きくたわめて屈むように構えた。低い。二回戦の旭流の秦野梓を思い出させる。

(また足狙いか……?)

 狙いが今ひとつわからない。

「雪子! 自分からいけ! 見合うな!」

 後ろから父の声が響いた。

 そうか。そうだ。行くか。先手必勝、攻撃は最大の防御なり、だ!

 雪子が踏み込む。前に出ている長谷川の右袖を掴む。

 長谷川が合わせて前に出る。その上半身が沈み込む。

(下半身!)

 狙いはこちらの腰から下。体当たりで倒して転がす作戦だ。

(甘い!)

 長谷川の突撃に合わせて、その股の間に足を差し入れ、回転するように長谷川を投げる。

 長谷川が下、雪子が上で、寝技の展開に入った。

 ここまでは良し。雪子にとっては悪くない展開である。

 ここからだ。ここから、どう進めるか。


 男爵家の令嬢たる長谷川紫が柔術を始めた切っ掛けは、父の教育方針である。

 長谷川家は代々武士の家系である。女子であろうと長谷川家に生まれ落ちたのであれば、家を守るために最低限の武芸を身につけるべし。その古風な伝統を今でも守っているだけだ。

 昔は全員、柔術と薙刀をやらされたという。

しかし、今はこのご時世である。薙刀を使う必要もなかろうと、柔術のみやることになった。その時、長谷川紫はまだ七歳である。

 母が難色を示した。

「あなた。紫は女です。しかもまだこんな若い身空で、見知らぬ家に預けて武術などやらせるのは如何なものでしょうか……。もしやらせるのであれば、どうか信頼出来る人を」

 最初は帝都に有る適当な柔術道場に通わせようと思っていたが、娘を信頼おけぬ者に任せるのも心配だ、ということで、地元から女柔術の師範を呼び寄せた。

 これが三重黒姫流である。

 三重黒姫流は元々、三重流という柔術から派生している。今から三代前の三重流の師範の娘に、三重ツヨというのがいた。これが女ながらに柔術の名手として鳴らし、色黒であった風貌から黒姫と呼ばれていた。この黒姫が三重黒姫流を作った。

 長谷川家では生まれた姫には全員、この三重黒姫流を習わせるのが習わしであった。

 帝都生まれの紫も結局その中の一人となった。そして、歴代の姫の中でも随一の柔術使いに育ったというわけだ。

 紫には天才的な所があり、父は大いに喜んだ。

 武芸が重視されない世の中であるが、武家の血筋としては強い者が出るのは嬉しい。他の息子たちにも剣術や柔術を学ばせていたが、一番才能があったのが紫であった。


 雪子の腕に、長谷川が腕十字を仕掛ける。雪子が腕を抜いて回避。今度は雪子が横から絞め技をかけようとするが、長谷川が逃げる。

 三分経過時点では、二人の攻防は互角であった。


 宗里雪子が柔術を始めた切っ掛けに特に変わった所はない。

 家が柔術道場だっただけだ。誰も何も疑問に感じることもなく、物心ついた頃から柔術をやっていた。父と遊んでもらう時にはいつも柔術をして遊んでいたほどだ。

 成長し、尋常小学校に入ると、雪子は自分が普通でないことを知った。

「柔術ってなに?」

 というのが、みんなの返答であった。

 今の子供はそもそも柔術を知らなかった。柔術漬けの生活をしていた雪子は、自分の話が他人に通じないことを知り、がっくりと肩を落とした。

 ただ、父も柔術も好きであったので、辞めたいとは思わなかった。


 立ち技勝負に戻っていた。

 雪子が長谷川の股下に手を入れようと試みるが、上手くいかない。

 長谷川が雪子の腰を掴んで持ち上げようとするが、上手くいかない。


 ある日、娘の紫が青ざめた顔をして帰宅してきたのを見て、父の長谷川男爵は大いに驚いた。

 何事があったかを尋ねると、紫は慄いた顔でこう言った。

「今日、私よりも強い人に出会ってしまいました――」

 敗北知らずの娘が何を言うかと思い、重ねて聞くとこういうことであった。

 全国一を決める桐花柔術大会に出て、優勝した。

 しかし、決勝で出会った七海佳奈というのにギリギリまで追い詰められた。

 後で聞いてみると、まだ柔術歴二年であったという。自分は十年もやっているのにあんなに追い詰められるとなると、来年には負けてしまうのではないか。そう思うと怖くなった、というのだ。

「私、才能が無いのではないかと思ってしまって……」

 そう言い、ふさぎ込んだ。

 父は娘の落ち込みを理解し、娘にこう言った。

「安心しろ。お前は才能がある。ただ、その娘がお前以上に才能があるのではないかと言われれば、それはそうかもしれん。だが紫、才能の多寡が勝負を決めるわけではないぞ。どんな名人も努力せねば名人にはなれんのだ。お前が全国一の柔取りでありたいと思うなら、その娘以上の努力を続けるのが最低条件だ。その娘は、お前に勝つために、今この時だって涙を流しながら稽古を積んでおるだろうからな」


 長谷川が雪子の関節を取ろうとしたが、雪子は咄嗟に腕を抜いて逃げた。

 長谷川が狙ったのは『閻魔』という手首を決める技だが、これがなかなか極まらない。

 逆に雪子が小内刈で長谷川を転がした。


 長谷川紫は自分を追い詰めた七海佳奈というのが気になり、人を使って調べさせた。

 すると、隣県に住んでいることがわかった。帝都からは一日あれば行って帰ってこれる距離である。すぐに会いに行くことを決断した。


「やああぁっ!」

 気合と共に、雪子が再び長谷川を投げた。

 今度は大外刈である。だん、と背中を床に打ち付けて、長谷川は少しうめき声を上げた。

 雪子が馬乗りになろうとしてくるのを、足でなんとか邪魔する。

(なんてこと……っ)

 これまでに、雪子に三度投げられている。こちらが雪子を投げたのは、まだ一度。

 投技では自分に勝るのはせいぜい三代川小夜子ぐらいだと思っていたのに。宗里雪子も、自分よりも上手いのか??

 桐花柔術大会で優勝した自分よりも、上手い人間がこんなに居ていいのか。


「お前、長谷川か?」

 七海の道場に行くと、七海はすぐに紫に気がついた。

 紫は一礼する。

「どうも、七海さん。先日はお世話になりました」

「なんだよ。なんか用か」

「いえ、用というわけでも……」

 言われて気がつくが、自分が何をしにここに来たのかわからない。

 つい来てしまったが、本当に何をしに来たんだろうか。

「……」

「……」

 しばし、睨み合った。

「……道場破りか?」

「まさか」

 バカを言うな、と目で言う。

「じゃあ、なんだ」

「それはその。……まぁ、強いていうなら、あなたに会いに来たのです」

「あたいに?」

「そうです」

「なんでだ?」

「わかりません」

「はぁ?」

「わかりませんけど、あなたが気になって仕方がないのです。だから来ました」

 正直に言った。

 七海は呆れた顔で

「そういうのは男の台詞じゃないのか?」

 そんな風に言った。

「べ、別にそういう意味ではありません!」

「いや、わかってるよ。ただの冗談だって」

 両手を振って七海が言った。

「お前が勝ったのに、変なやつだな」

「変なのはわかっています」

 ミーンミーンと蝉がうるさく鳴いている。

 今日も暑い。

「長谷川、お前んちって柔術の道場なのか?」

 ふと、七海がそんな質問をした。

「いいえ、お父様は貴族院の議員です」

「キゾクインってなんだ?」

「議会です」

 紫の説明に、七海がチンプンカンプンと言った顔。

「よくわからん」

「要するに、男爵です」

「えっ、なんだよお前華族様か」

 ビックリした顔の七海。

「そうです」

「えっ、じゃ、じゃあお前なんて呼んじゃいけなかったのか……」

 ボリボリと頭を掻きながら、七海は気まずそうにしていた。

「じゃあ、その、長谷川様は」

「様?」

「あたい、学がないもんでよくわからねぇんです。華族様の知り合いってのもいなかったもんで、その、よくわかりません」

 なんとか繕おうとする敬語も下手くそで酷いものであった。

「七海さん」

「へぇ」

「長谷川様というのは止めて下さい」

「じゃあ、なんとお呼びしたらいいんですか」

「名は紫と言います」

「知ってますが」

「そうではなくて、紫と呼んで下さい」

「紫様ですか」

「だから、そうではなくて……」

 言いたいことがなかなか通じなくて、紫はやきもきしている。

 そして、少し考えて、

「……その、七海さんは、なんでしょうか。試合の時とか、その」

 別の口から会話を広げようとして、また言葉が詰まった。

「?」

「……その……」

 言いたいことがまとまらない。いや、自分が何を言いたいのかもやはりよくわからない。

「……あの」

「なんでしょうか」

「こ、今度、よければ、我が家にいらっしゃいませんか」

 少し勇気を出して、小さな誘いを出した。

「長谷川様のお屋敷にですか?」

「弧月流のお話も伺いたいですし、あの、よろしければ洋菓子とかもお出し出来ますし」

「洋菓子?」

 言わんとすることが伝わらず、七海はまだ困った顔をしたままである。

「あの、食べたことございます? ここでというのもなんですので、我が家でしたら洋食などもお出し出来ますので、食事でもしながら、弧月流の話をお伺いできたらと」

 紫が言いたかったことは、『柔術の話がしたいので遊びにこないか』ということだった。

 何のことはない。悪意も何もない。

 しかし、言い方が悪かったのか、この間の試合で負けたばかりで、七海の心持ちがよくなかったのか。ただ単に機嫌が悪かったのか。

 七海は何かカチンと来た様子で、急に目付きを強張らせた。

「それは、飯を食わせてやるから弧月流の情報を売れ、ってことでしょうか」

「え、いえ、そうではなくて――」

 急に七海が怒りだしたので、紫は狼狽した。

「長谷川様。確かにあたいは見ての通り貧乏人ですけど、洋菓子やらなんやらで技を売るほど落ちぶれちゃあございません。貧乏人をからかおうってんなら帰って下さい。こちとら物乞いじゃあねぇんです」

「そんなこと……」

 紫は七海に睨まれて、二の句を継げなくなっていた。

 違う。そんな事言いたいわけではない。

 だが、七海が怖くて、言い訳ができない。

「帰ってください」

 そう言い捨てて、七海は踵を返して道場の中へと戻っていった。

 紫は一人その場に立ち尽くし、呆然としていた。

 何がいけなかったのかがよくわからない。

 裾の擦り切れた袴の七海と、一着十五圓の高価な着物の自分との違いが彼女を苛立たせるのか。

 悔しくて悲しくて、涙がボロボロと出てきて止まらなかった。


 ぜぇぜぇと雪子が肩で息をしているのがわかる。向こうの体力ももう限界だろう。

 しかし、こちらもそれは同じだ。身体が動かなくなりつつある。手が辛い。

 折角、宗里雪子の寝技に付け込む隙を見つけたというのに、身体がついていかない。

 ほら、こう……。

 こうすると、必ず左に回る。そして、こちらの奥襟をつかもうとする。そこで返し技として右手を掴み返せば……。

 残念。

 握力が戻らなくて、放してしまった。千載一遇の好機だったのに。

 でも、勝てる。勝てる戦略を思いつけた。

 もう少し体力さえもてば、勝てる。確信できた。


 泣きながら帰宅した娘を見て、父は仰天していた。

 何があったのかを問い詰めても答えやしない。頭から布団をかぶって、ダンマリである。

 二時間ほどして、娘が落ち着いた頃に改めて父は涙の理由を問いただすと、娘は嗚咽混じりに今日一日の出来事を語り出した。

「怒らせるつもりなんかなかったんです」

 最期にそう結んで、娘の話は終わった。

「まぁ、そうだろうな。なに、今回のはちょっとした勘違いだ。気にすることはないよ」

「そうでしょうか――」

「紫、それよりもだ。おまえ、結局のところ今日は七海さんの所に行ってどうしたかったんだね」

「……」

 紫は黙ったままであった。

「まだわからんのか?」

「………わかりません」

「お前は、意外とそういう子供じみた所があるな」

 笑いながら父が言う。

「……私、七海さんみたいになりたかったのかも」

「ふむ?」

「あの人、才能もあるし、力強くて、誰にも頼らないで生きてます」

 父は驚いた。

 紫が他人をこんな風に言うのは初めて聞いた。

「あの人に比べたら、私、なんにも持ってません。……七海さんが、羨ましいのかも」

 布団の中の娘が言う。

 男爵の娘で、桐花大会で優勝する全国一の柔術家にまでなったくせに、農家の小娘相手にそんなことまで言うとは。

 父は、心の内で静かに微笑んだ。

 柔術をやらせたのは無駄ではなかった。柔術は娘を成長させてくれていた。

「ならばこの帝国男爵たる父がどうしたら良いか教えてやろう」

「……」

「もう一度七海さんの所に行って、こう言え」

 父は優しく言った。

「『お友達になって下さい』とな」


 試合場を眺める七海佳奈は涙が止まらなかった。

 恐らくもう長谷川紫は負ける。それがなんとなく見える。胸が張り裂けそうだ。

 宗里雪子がここまで使う人間だったとは。これでまだ十五だとは。末恐ろしい女もいたものだ。

 紫と宗里では、技の細かい点で宗里が競り勝っているのだ。腕力は互角だろうが、技術で少しだけ宗里が先を行っている。自分と八神ほどの大差はないにしろ、長期戦ではそれがこうして徐々に影響を見せてくるのだ。

(ちくしょう。紫、がんばれよ。お前まで負けちまったら、あたい、悔しくってしばらく眠れなくなっちまうじゃねぇか)

 声を出すと、叫び声しか出てこない気がして、七海は黙ったままであった。


 雪子への応援は賑やかだ。

「雪子! じっくり行け! 焦って横へ回るな!」

 これは、父の宗里正吾。父はいつも大声で応援してくれる。

「がんばれ! 腕取れるぞ! 脇差せ脇!」

 これは八神優。声が出せるくらいには息が落ち着いたらしい。

「が、がんばって雪ちゃん!」

 具体的な事を言わない小さい声のが三代川小夜子。

 苦しくって仕方がないが、応援のお陰でもう少しだけがんばれそうだ。


 七海は紫の言葉を聞いて、その雰囲気に似合わずに泣きだした。

「あ、あの、七海さん?」

 困った紫が声をかけると、七海は泣きながら言った。

「わ、悪い。この間は、あんな態度をとって、悪かったよ――」

「こ、こちらこそ……」

「長谷川様、あたい、頭が悪くて世の中の事とかよくわからねぇんです。わかるのは、人を投げたり、絞めたりすることぐらいで……」

 七海は、小声でぽつりぽつりと続けた。

「とても、長谷川様のお役にゃ、立てねぇんじゃねぇかと思います」

 紫は静かに首を横に振った。

「華族とか、そんな事、どうでもいいんです。ただ、私、柔術の話が出来るお友達が欲しかったんです」


 長谷川が雪子の太腿を後ろから抱きかかえる形になった。さっきからずっと狙っていた形であるが、ようやっと形になった。

「りゃあっ!」

「!」

 長谷川が雪子の身体を持ち上げた。

「雪子っ!」

 父が声をあげた。

(ま、まだこんな力が!)

 もうヘトヘトになっていたはずなのに。一体どこに体力が残っていたのか。

 長谷川が狙っている技は、三重黒姫流『裏投』だ。腰の下を抱えて相手を持ち上げ、背後に倒れこむように投げる、三重黒姫流の一投必殺の秘技である。

 小野椿流にも同じく裏投げと呼ばれる技があるが、三重黒姫流の裏投げは一度組み付いたら二度と放さぬと言われる、強烈極まりない投げとして名高い。

 決まれば、雪子の負けだ。

「雪子っ!」

 父と優が叫んだ。

「うおあっ!」

 雪子が体重を別方向へ掛けて、技から逃れようとする。

「くぅぅぅ!」

 長谷川ががっちりと雪子を掴んで、逃さない。

「紫っ! 決めろ!」

 七海も叫んでいる。

(あぁ……っ!)

 小夜子の叫びは声になっていない。

「っりゃあああああっ!!」

 残りの気合と体力を全てつぎ込んで。

 長谷川が雪子を投げた。

 一投必殺。三重黒姫流柔術、秘技 裏投げ!


 二人は友達になった。

 時々、お互いに遊びに来た。やることはいつも同じ。柔術である。

「よぅ紫」

 七海はいつも、同じ笑顔で紫を出迎える。女学校の友人たちとはまるで違う魅力に溢れた七海との日々は、刺激的だった。

 時々、柔術以外の事も手伝ってみたりした。

「なんだお前、米の研ぎ方も知らねぇのかよ」

 勉学にも励む自分が無知であったことも知った。

「あたい、こんな美味しいもの食べたの初めてだよ」

 逆に、無知な七海に色々教えたりもした。

「紫。お前といると楽しいよ――」

 七海が照れながら言ったその一言。

 逆ですよ、と思った。

 逆です。佳奈さん。私こそ、あなたとお友達になれて、本当に楽しいのです。

 あなたという窓から、知らない世界を覗くことも出来ました。

 格式張った華族の世界だけじゃなくて、他にも色々な世界がある事を学びました。

 私達、お互いに欠けてる所が多いですけれども、二人なら、なんでも出来る気が――


 七海の叫び声が響いた。

「ああっ!」

 長谷川の首に、雪子の腕が巻き付いていた。

 小野椿流柔術必殺の、椿絞めだ。

「ゆかりっ! バカ逃げろっ!」

 長谷川の裏投げは完全に決まっていなかった。

 疲れすぎていたのだ。

 両手に力が入らず、手がすっぽ抜けた。結果、雪子は紙一重で致命傷を避けた。

 消耗しきって、逃げる気力も体力もない。

 雪子が長谷川の首をガッチリと抱え込む。

 そして、雪子の必殺の絞めが、長谷川の細い首を絞め上げるその前に。

 長谷川はゆっくり、手のひらで畳を数度叩いた。


 長谷川の立てた小さな音に気付き、津吹が咄嗟に雪子の腕を掴んで技を止めた。

「それまで!」

 雪子は長谷川の動作に気付かず、絞める寸前であった。

「えっ……。あっ……?」

 汗だくの雪子は津吹に抑えられて、やっと状況に気付く。

 長谷川が、目の前で頭を下げていた。

「参りました」

「…………勝った?」

「そうです、あなたの勝ちですよ宗里さん」

 ぺたんと雪子がその場に尻餅をつく。力が抜けた。

「勝ったの……?」

 半信半疑の雪子を前に、津吹が立ち上がって大声で宣言した。

「勝負あり! 勝者、小野椿流 宗里雪子!」

 歓声が上がった。


 決勝戦は八神無双流の八神優と、小野椿流の宗里雪子の一戦となった。

 二人とも今回最年少の十五歳。大方の予想を裏切る結果となった。ただ、以前の桜花大会予選にて優が雪子を破って優勝した逸話も広まっており、優勝は八神で決まりではないか、という言葉もささやかれることとなった。


 長谷川紫は一人、畳に突っ伏していた。

 負けた。

 畳を叩いた事は後悔していないが、完全な敗北だ。心の中がボロボロだった。

 紫はじっと畳の目を見つめて、この十数分間の死闘を思い返している。

 何が悪かったのか。

 何故負けたのか。

 桐花ともあろうこの長谷川紫が、十五歳の少女に何故敗れ去ったのか。

 三重黒姫流が悪いのか。小野椿流が強いのか。ただ単に、長谷川紫が宗里雪子よりも劣っているのだろうか。

 わからない。負けた言い訳も今は何も思いつきやしない。

「おい」

 頭の上から、聞き慣れた声がかかった。

「立て」

 この声の主はよく知っている。

 もうすっかり聞き慣れた低い声。

「佳奈さん」

 七海佳奈が立っている。

 長谷川紫は顔を上げずに、小さな声で言った。

「叩いて下さい」

「なんだと?」

「さっき、あなたを叩きました。私のことも叩いて下さい」

「いい心構えじゃねぇか」

 七海が紫の襟を掴んで、無理やり顔を上げさせた。

「負け犬め。デカイ口叩いて、なんだこのザマは」

「……ふん」

「歯ぁ食いしばれ」

 ばちん、といい音がして、紫の頬が弾ける。

「……」

「どうだ。目ぇ覚めたか」

「ちょっと、強すぎません?」

「バカ、こういう時はこれくらいやったほうがいいだろ」

 七海は紫に肩を貸して、立ち上がらせた。

「ちくしょう、お互い負け犬になっちまったなぁ」

「佳奈さんが偉そうな事言って負けるから悪い流れになっちゃったんじゃないですか」

「はぁ? お前だって一緒じゃねぇかよ」

 ははは、と二人で嫌味を言い合って、軽く笑う。

「……あいつら、強いな」

「……えぇ」

 二人で、自分たちを破った少女たちを見つめる。

 負けたせいかはわからない。だが、今は彼女たちが満開の華花のように華やかに見える。


 雪子の白い肌から、汗が出て止まらない。蒸気となって冬のひんやりした空気に消えていく。肺は焼け付き、心臓の鼓動がうるさい。

(これは……困ったなぁ)

 勝てたのはいいが、消耗度がこれほどまでとは。

 実はつい先程まで、優の消耗ぶりを見て、『これは勝ててしまう』と甘いことを思っていたのだ。試合直後の優は疲労困憊もいいところ、まともにもう一戦などとんでもない状態であった。

 だが、今は自分もまるで同じだ。

 むしろ、決勝まで回復時間が短い分だけ、自分のほうが不利である。

 今の自分に必要なのは、休み時間だ。

 休まなければ。体力がほしい。

「ゆ、雪ちゃん」

 たたた、と小夜子が駆け付けて来た。

「た、立てる?」

「はぁ、はぁ……。た、たてるっ」

 喋るのも辛い。

 小柄な小夜子にもたれるようにして、どうにか腰を持ち上げた。

「雪ちゃん、すごかったよ」

 小夜子の言葉に、無言で口の端を少し釣り上げて答える。

「次、二人とも、応援、してるね」

 次。

 念願の、再戦である。


 留袖と紋付袴を着込んだ、審判団と実行委員は全員一箇所に集い、ある相談をしていた。

 議題はもちろん、決勝試合のことである。

 困った事だが、どう見ても決勝進出者の八神も宗里も消耗がひどい。これではまともに実力など測れぬのではないか、というのが懸念である。お偉方にヘロヘロの子供二人のみっともない試合など見せられるわけもない。

 解決策が幾つか提示された。

 一つ、休憩を長くし、試合を行わせる。

 一つ、日を改める。

 一つ、決勝自体を取りやめる。

「これだけ集まっておりますゆえ、再度また集めよと言われても容易には行きますまい」

 委員の一人がそんな事を言った。

「左様。外務省や陸軍からも高官の方々がお見えである。また今度来いとは言えませぬな」

「ならば、如何致しますか」

「決勝はせずとも良いのではありますまいか」

「そう思いますか?」

「八神も宗里も技量抜群です。どちらを選んだとて、帝国の恥は晒しますまい。後は我らで審議しても良いのでは」

「確かに。ここで無理され、大怪我でもされては困りますでな」

 話は大体、決勝を取りやめる方向に進んでいた。

 優も雪子も柔術家として十分な腕前である。ならば、疲労困憊で死闘をさせる意味もない。怪我をされるよりも、後で話し合って決めれば良い。そういう話である。

「しかし、本人たちが納得致しません」

 異論を挟んだのは、審判長である津吹だ。

「八神も宗里も、今日この日にお互いを倒すために努力してきたと聞いております。武術家の心情としては、やらせてやりたいのです」

 その言葉に、他の面々も考えこむ。

 全員、本心では出来れば決着の場として戦わせてやりたい。若い二人の気持ちがわからないわけではないのだ。

「津吹師範。しかし、武術家として言わせて戴けるのならば、十五の少女にあまり無理をさせたくないというのも本心です」

 審判の一人がそう言った。

「あんな状態でやらせて、怪我でもさせて西行きを他から選ぶことにでもなれば、それこそ可哀想ではありませんか」

 津吹もそう言われては黙るしか無い。

「しからば、こうしては如何でしょうか――」

 委員の一人が、ある提案を掲げた。


 ぜぇぜぇと吐いていた息が落ち着いてきたが、疲れ果てた身体はまだ戻らない。

 手足に力が戻らないのだ。限界まで使った体力が戻るのには、時間がかかる。

「姉ちゃん、水飲む?」

「うん」

 選手控えに、妹が水筒を持ってきてくれていた。手ぬぐいで汗も拭ってくれている。

「姉ちゃん。このままやったら、負けるよ」

「わかってる」

「体力戻らないと、単純に体格差で潰されちゃうからなぁ」

 怜は反対側の控えに座る雪子を見ながら言った。

 八神姉妹は体格に恵まれない。

 今はその事が本当に悔しい。

「怜。心配すんじゃないの」

「姉ちゃん」

「あたしを誰だと思ってんだ。八神優様だぜ?」

 にんまりと優が笑う。

「だから負けるっつってんじゃんバカ」

 姉の笑顔に苦笑して、怜は辛辣な一言を加えたその時だった。

「八神さん」

 姉妹の会話に、一人割り込みが入った。

 恰幅の良い留袖姿の中年女性。宮若流の津吹師範だ。

「お話があるのだけど」

「はい」

「かなり疲れてるみたいね」

「……はい」

 優の疲労困憊の様子を改めて見る。

(……無理ね。とても)

 疲労具合が激しすぎる。汗の量も普通ではない。

 彼女らは幾ら強いとは言っても、まだ子供である。

 大人として、無理はさせられない。

 津吹は残念そうに告げた。

「決勝戦は中止します」

「……は?」

 優が目を丸くした。

「な、なんで!?」

 立ち上がろうとして、優は体勢を崩した。まだ膝が震えている。

「その様子じゃ、もう今日は無理よ」

「そ、そんなことないです! やれます!」

 優が必死な顔で言うが、津吹は首を横に振った。

「やれますってば……! あたし、雪子と戦うんです!」

 懇願する少女に、津吹は改まって神妙な顔で言った。

「あなたと宗里雪子さん。どちらも技量抜群との評価を戴いたわ」

「……」

「委員会で決定して、あなたたち二人に『桜花』称号を授与することとなりました」

 ゆっくりとした、重々しい言葉だった。

 桜花。蓬莱の女子学生柔術の頂点である。

 優も雪子も桜花大会には出場したが、本戦が中止となったため、今年度の授与者は無しとなるはずだったものだ。それが、二人に与えられるという。

 優は昨年桜花の三代川小夜子を破っている。更には昨年の桐花大会準優勝の七海佳奈も破っている。

 雪子も昨年桐花の長谷川紫を破る大金星を上げている。

 二人とも、実績は十二分であった。この栄誉を得るに十分な、ふさわしい実力を備えていることを周囲に示したのだ。

 つまるところ、審判団の下した結論はこうである。

『桜花称号をやるから、今日はもう引き下がれ』

 だが。

「そんなもんいらないです」

 きっぱりと一言で突っぱねられた。

「そんなのより、雪子と約束守らせて下さい」

 横で聞いていた怜がニヤリと笑う。

「だよね。さすが姉ちゃん」

 怜は嬉しそうな笑顔で、姉を見つめている。

「……あなたたちって」

 大人の尺度で考えていてはいけないのか。そう津吹は考えさせられていた。

 あんな称号なんかで、この子たちが満足するわけがないのに。

 一瞬でも『これなら引き下がってくれるかもしれない』などと考えてしまった自分が情けない。

「八神さん。本当に、やれるのね」

 津吹の改めての質問。

「雪子っ!!」

 優が叫んだ。

 試合場の反対側で、雪子がこっちを睨んだ。

「やれるよな!!」

 会場全体に響き渡る大声。

 全員の視線が優に集中する。

 冬の凛とした空気を鳴らす、優の声。

「やれるっ!!」

 雪子の声も力強く響いた。

(……立つのも辛いくせに、この子たちって)

 津吹珠緒は二十数年前を思い出した。

 目の前の少女と同じく、純粋に強さだけを追い求めていた少女時代。

 この少女たちのほうが、今の自分よりもずっと純粋な『柔術家』そのものだ。

「いいわ。わかった。責任は持つわ。思う存分やりなさい。骨は拾ってあげるわ」

「ありがとうございます!」

 優が頭を下げた。

 休憩時間を引き伸ばし、決勝戦開幕である。

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