第12話 霞桜

 年の暮れも近付き、帝都の雪は溶けなくなった。雪は降り積もり、真っ白な雪景色が毎日の光景として溶け込んでいる。朝起きるのが一段とキツイ季節である。

 蓬莱帝国渡悠派遣使節団 女子柔術世話係 第一回選抜決勝試合

 その当日がやって来た。

 前日に近所の神社に家族で勝利祈願をし、優は当日に臨んだ。

 父と妹を始め、今回は三代川小夜子にも練習にたっぷりと付き合ってもらっている。

 必ず雪子ともう一度戦う。そして優勝するのだ。

 固い決意と燃え盛るようなやる気を持って、優は会場へと入った。


 試合開始に先立ち、出場選手四名を集めて開会式が開かれた。

 主催者である外務省の参事官からお言葉があったが、試合のことで頭がいっぱいで、優も雪子も全く聞いていなかった。一言足りとも記憶に残っていない。

 前回と同様に審判長である宮若流柔術の津吹珠緒師範より試合の説明。進め方、反則行為等、前回と同様の内容である。

 そして改めて、試合の対戦相手の発表があった。

 準決勝第一試合。八神無双流 八神優  対 弧月流  七海佳奈。

 準決勝第二試合。三重黒姫流 長谷川紫 対 小野椿流 宗里雪子。

 準決勝をお互いに勝ち抜けば、決勝で雪子と当たる。

 決勝で戦えるとは最高の舞台である。心燃える展開だ。周囲が見守る中で試合場の中心で向かい合う自分たちの姿を想像し、優がぎゅうと強く拳を握りしめた。

「では、三十分後に試合を開始致します。以上、解散。各自の武運健闘を祈ります」

 津吹がそう言い、開会式が締めくくられた。


 開会式終了後に選手控えに戻ろうとした時である。

 声をかけられた。

「おい、八神」

 優が振り返ると、そこに居たのは準決勝の対戦相手である七海であった。

「お前と当たる七海だ。よろしくな」

「おー。よろしく」

 七海は少しクセのある髪を一本にまとめて、首の右側に垂らしている。やや肌の色が浅黒く、背はさほど高くないが、女子にしてはがっしりした体格をしている。

 年齢は確か十九歳。今日残った中では最年長である。

「いや悪い、実は試合前にお前とちょっと話をしてみたかったんだ」

「話?」

「この間の三代川との試合見たぜ」

 二週間前の小夜子との試合。あの反則混じりの一戦のことか。

「正直、あれを見てたまんなくなっちゃってさ。お前とやるのを楽しみにしてたんだよ」

「そう? まぁ楽しみにしてもらえてたんなら良かったですけど」

 尻に指を入れられたり、当人としては少し恥ずかしい記憶が多い一戦である。楽しみにされても心境は複雑だ。

「に、しても……。お前ほんとに小せぇなぁ」

 七海がジロジロ見回しながら言う。

「これであんだけ強いってんだから大したもんだぜ」

「そっちだってそんなにデカくないじゃないすか」

「ははは、背丈はな。でも、こっちは自信ありだぜ」

 そう言い、ぱちん、と自分の二の腕を叩く七海。

「あいつらが羨ましいよな」

 七海が目線を雪子と、その対戦相手の長谷川に送る。

 雪子も長谷川に話しかけられていたらしく、二人は何やら話し込んでいた。

 雪子は背が高い。五尺三寸ある。相手の長谷川も五尺二寸ほどはある。長身組と言える。

 反面、こちらは優が四尺八寸。七海も五尺ほどだ。七海は標準かやや小さい程度、優は明らかに小柄だ。

「あたしも小さい頃から背の低さがねー。まぁ、でもこればっかりはしょうがないです」

「生まれ持ったもんだもんな。ま、チビ同士がんばろうぜ。のっぽに負けないとこ見せてやらないとな」

ははは、と七海が笑う。

「八神。お前十五だったよな」

「はい」

「十五か……。で、その小ささでここまで勝ち抜いてきたのかよ。すげぇよ」

 七海は急に真面目な顔でそう言った。

「でも、あたいも負けられねぇんだ。あっちの長谷川、あいつに去年別の大会で負けちまってさ。なんとしても雪辱戦といきたいんでね。遠慮無く、勝たせてもらうぜ――」

 強い気迫のこもった七海の言葉に、優もニヤリと笑う。

「あたしも今日はなんとしても雪子と戦うんです。負けませんよ」

「へ。お互い決勝で因縁の相手が待ってそうってわけか。おもしれぇや」

 お互いに不敵に笑みを浮かべる。

「時間取らせて悪かったな。お前が思った通りのヤツで良かったよ。今日はお互い殺す気でやろうな」

 七海が去った後、優はぶるりと身体を震わせた。


 開会式が終わった直後。雪子は優に話しかけるべく歩み寄ろうとした所で、不意に後ろから声をかけられていた。

「宗里さん。少し、よろしいでしょうか?」

 話しかけてきたのは対戦相手の長谷川である。

「はい」

「本日はよろしくお願い致します。長谷川紫と申します」

「こちらこそ。宗里雪子です」

 お互いに会釈。横目でちらりと優を見ると、あっちもあっちで、七海に捕まっていたのが見えた。

 長谷川は長く艶やかな黒髪をしている。戦いには似つかわしくない上品な物腰。タレ目でニコニコとしており、向かい合うだけで穏やかさと優しさを感じさせる。

 長谷川はじっと雪子を見詰めた。

「……」

「なんでしょう?」

「え、いいえ。ごめんなさいね」

 長谷川は軽く微笑むと、

「宗里さん、八神さんとすごく仲が良いのですよね?」

「はい。仲良くしてます」

「前に一度負けたと聞いてますけれども」

「はい」

「今日は、雪辱を?」

「もちろん、そのつもりで来ています」

「ですよね」

 長谷川がちらりと横目で七海を見た。

「私達って、似てるみたい」

「似てる?」

「はい。実は、私と七海さんも結構仲が良くて」

「そうなんですか」

「去年、桐花柔術大会で当たって、私が勝ったんですけど、今日はその時の雪辱をする、と啖呵を来られてしまいましたの」

「親近感がわきますね」

「で、あなた方も同じような間柄と知りまして、少し話してみたかったのです」

 ふふ、と笑う長谷川。

「うーん、ダメね、私ったら。ほんとはこう、何かもっと違う話でもしたかったのに。いい話題が思い浮かばないわ」

 照れくさそうにそう言うと、何か言葉を発そうとしては止めるのを二三度繰り返し、長谷川は困り顔を浮かべた。

「長谷川さん?」

「ああ、いいえ。ごめんなさいね。なにが言いたかったのかしら私ったら」

 雪子もどう対応していいのかわからない。なんとも言えない愛想笑いを浮かべるのみである。

 数瞬間が空き、長谷川は

「宗里さん、今日の試合が終わってから話しましょうか」

「構いませんけど」

「今はなんだか上手く話せないわ。また後でね」

 そう言い、くるりと踵を返した。

 振り返る時にふわりと黒髪が華麗に舞ったのが印象的だった。


 今回の選手控えは東西に別れて二箇所設けられている。今は東に雪子と優。西に七海と長谷川が座っているが、特に誰がどこに居ろというのが決まっているわけではない。試合の対戦相手と隣に座るのはやりづらかろうという主催者の思いやりで二箇所設けられているに過ぎず、どこにどう座ろうが自由である。

 雪子は長谷川と別れると、優の隣に腰を下ろした。まだ試合開始までしばらくある。

「ねー、優ちゃん。私の相手の事聞いた?」

「ん、なにが?」

「実はさ、昨日お父さんに聞いたらしいんだけど、長谷川さんって長谷川男爵のお嬢様らしいよ」

「えっ、じゃあ華族じゃん」

 優が驚く。

 華族。貴族の一種である。

 華族にも色々あるが、長谷川家は元々大名の家系であり、維新により領地を失い、帝都へ移動してきた一族である。男爵は貴族階級の最下層だが、平民とは天地の開きがある身分である。優や雪子とは通常縁のない方々だ。

「ねー、男爵のお嬢様が柔術なんかやってるとは不思議だよね」

「まじかー。金持ちで美人で柔術強いとかどういうことだよ。なんだこれ」

「優ちゃんだって可愛くて柔術強いでしょ?」

「嫌味かこの野郎」

「嫌味じゃないよー」

「でもお嬢様柔術って聞くと途端に大したこと無さそうに思えてくるから不思議だよね」

「そんなことないってばー。あの人去年の桐花だよ?」

 桐花。優は全く覚えてないが、前回の試合の時に彼女は『長谷川紫桐花』として呼び出されている。

「なにトーカって?」

「もー、また話聞いてなかったの?」

 呆れる雪子。

「桐花柔術大会の優勝者ってことだよ」

「知らない。なにその大会」

「十代女子の大会。もー、柔術家ならもうちょっと回りも気にしなよ」

 桐花柔術大会というのは、雪子の言う通りに二十歳未満の女子選手が参加できる蓬莱でも有数の柔術大会である。桜花柔術大会と同様に優勝者には『桐花』の称号が与えられるが、十代全員が参加できるため、桜花大会よりも強豪が集う大会である。なお、運営側の資金繰りの問題で、桜花大会同様に今年度は開催が中止されている。

 優は知らないが、女子柔術界では桜花、桐花、藤花、葵花、菊花と五つの花の名を冠した大会が開かれており、それぞれ出場資格は異なるがそれらの称号を持つものは全国有数の実力者として注目される名誉有るものである。

 先述の通り、昨年度は桂都古流から三代川小夜子桜花が、三重黒姫流から長谷川紫桐花が出ている。

「要するに?」

「超強い相手ってこと」

 優があはは、と笑い声を上げた。

「ばかだな。弱いヤツなんか今回の試合に一人も出てないよ」

「それもそうだね」

「特に八神無双流の八神優ってのはヤバイって話だぜ?」

「ふふん、知ってるよそのくらい。小野椿流の宗里雪子ってのもね!」

 ケラケラ笑って、緊張がほぐれた。


 準決勝第一試合。

 八神無双流 八神優  身長 四尺八寸。

 弧月流   七海佳奈 身長 五尺。

 二人は名前を呼ばれて試合場の中心に立った。

 やはり、並んで立つと七海は身体が一回り大きい。

「構えて!」

 七海が両手を一度左右に振って、高い位置で大きく構える。

 優は右足を小さく引いた。

「始め!」

「っしゃあっっ!」

 七海が鋭い気合を発して、優を睨んだ。


 困ったことだが、優は弧月流を全然知らない。

 前回の試合も一回戦は小夜子や雪子と喋っていて、七海の試合は見逃していたし、二回戦は疲れ果てて眠っていたため、戦う所は見ていない。

 戦いの基本、情報収集がまるで出来ていない。失態である。

(速攻は怖いよね……)

 すぐに攻めるのは避けて、様子見から入る。

 相手もこちらの返し技を警戒しているのか、すぐには来ない。

 試合前に雪子は、七海のことを“力自慢”と評していたことを思い出す。

 二回戦では、かなり強引に相手を無理やり絞め上げたらしい。力自慢となれば、小夜子と並んで非力組の自分では腕力勝負は絶対に避けなければならない。

「りゃあっ!」

 七海が組みに来た。意外と手の動きが速い。

 お互いに組手争いをし、いわゆるケンカ四つの形になった。優が左。七海が右である。

「八神」

 不意に、七海が優を呼んだ。

「いくぜ」

 七海が不敵に笑う。

「!」

「おうりゃああああああ!」

 ぐい、と七海が優を押す。

(ま、マジかよコイツ……!)

 思わず優が右膝をついた。

 力が強すぎる!

 万力のような力で、無理やりこっちを潰してきたのだ。

 腕力が強すぎて、全く抵抗出来ていない。

「や、やばいっ」

 優は咄嗟に体勢を変え、七海の右足に組み付いた。

 腕力勝負は絶対に勝てないのがもう十二分に実感できた。技術で戦わないとダメだ。

 七海を転がし、寝技に持ち込もうとした所。

 ぐい、と無理やり優の体が七海の足から引き剥がされた。

「えっ」

 単純な腕力でだ。

 二人の間に空間が出来る。

「しゃっ!」

 七海がそこに身体を割りこませ、優を抑えこみに来る。

(し、しかも寝技型かよ!)

 七海の得意は寝技か。

 優は身体をくるんと回転させ、足で七海の身体を押す。とりあえず、相手の腕の力にこちらは足の力で対抗するしか無い。

 これはしんどい戦いになりそうだ。


 今日の試合場には当然、小夜子の姿も有った。前回既に敗退しているので出場ではない。優と雪子の応援である。

 小夜子は七海を一応、知ってはいた。蓬莱柔術の十代女子では馬鹿力で有名である。今年は中止になってしまったが、桐花柔術大会が開催されることになっていればぶつかっていたであろう強敵である。簡単ではあるが、聞き調べてある。

「あ、ああっ」

 優が腕力で無理やり潰された所であった。

 優の寝技の技術力の高さは知っている。今回の選抜試合出場者の中でも寝技だけなら最強だろう。

 しかし、七海も寝技が強い。

 しかも多少の技術力の差をひっくり返すほどの力を持っている。現に、一回戦も二回戦も七海は技術的には格上の相手を腕力でねじ伏せて勝っている。優も同じ事にならないとは限らない。

(し、心配だ……)

 今まで、こんな風に他人の試合をあたふたしながら見た経験はない。

 優が心配で仕方がない。

 他人の心配はつらい。出来れば選手控えの雪子の所に行って、一緒に心配したい。その方がいくらか気が紛れそうだ。いやむしろ、出来る事ならば優に代わって七海と戦ってやりたい。自分の投技なら、七海を完封できる可能性もある。

「が、がんばれっ」

 握りこぶしを作って、小夜子は小さく声を出した。


 試合時間が五分ほど経った頃だろうか。

 七海佳奈は驚愕していた。

(冗談じゃねぇぞこのチビっ……)

 八神優相手に寝技に入って五分。最初こそ優勢かと思ったが、とんでもない。

 優は下から多彩な攻撃を仕掛けてくる。こちらの技は全てかわす。

 寝技に対する習熟度に天と地の差があるのが実感できてしまった。

 腕力でなんとかしのげているが、このままではその内“技”でやられてしまう。

(こいつどんだけ技覚えてんだよっ!)

 優の腕が絡んでくる。無理やり振り払う。すると既に相手がこっちの足を掬いに来ている。無理やり振り払う。襟を取られている。無理やり振り払う……。

 全然、自分の形にもっていけない。ジリ貧だ。

 七海が柔術を始めたのは、実は三年ほど前だ。

 今回の出場者の中では一番経験が浅い。

 それまでは相撲をやっていた。とはいえ、田舎の村で女相撲をしていた程度だが。

 簡単に七海佳奈の経歴を語れば、次の様になる。

 帝都の隣県、花房県の勝山村という農村の農家の生まれである。三男四女の長女だ。

 小さい頃から力が強く、喧嘩では負けたことがない。男子も軒並み喧嘩で負かして従える女ガキ大将であった。

 村にある勝山神社では年に一度の例大祭で奉納女相撲が開かれるのだが、それに毎回出場しては優勝していた。賞品に米俵一俵を持ち帰ったことも有る。

 十五の時に、村から離れて弦巻市にある米問屋に住みこみ奉公することになった。

 そこの若旦那が困った男で、若い店員にすぐ手を出そうとする悪癖があり、ある晩に若旦那は七海に夜這いをかけた。しかし七海も簡単にいいようにされる容易い娘ではない。気と腕っ節の強さに任せて若旦那を取り押さえ、なんとその腕をへし折ってしまった。

 さすがに店側も息子が十五の小娘に手出しをして逆にやられてしまったとは言い出せない。大事にはならず怪我をさせた事は不問となったが、店にはいられなくなった。

 仕方なく村へ戻ろうとした所で、噂を聞きつけた弧月流柔術の師範にその膂力を見初められ、柔術をやってみないかという事で、住み込みの弟子となった。これが三年前だ。

 その後、持ち前の才能でめきめきと腕を上げ、わずか三年で花房県内では知らぬ者の無い女柔術家として有名になった。昨年桐花柔術大会に呼ばれて出場し、決勝で長谷川紫に敗れて全国一は逃したが、十代女子では強豪である。

 八神優や宗里雪子は親が柔術をやっていた。なので物心付く前から柔術に慣れていた。十五歳とはいえ、柔術の経験年数は年齢に近いくらい有る手練れだ。

 七海と優の違いは、そこである。

 体格も含めて才能溢れるが、経験の浅い七海佳奈。

 身体に恵まれないが、経験と鍛錬で自分を作り上げた八神優。

 現時点では、優の経験値が戦いを有利に進めている。


 優は下から腕拉ぎ十字固めを仕掛けた。

 両足が七海の右腕に絡む。両腕でがっちりと七海の右腕を抱きかかえる。

 ここまでの攻防で、優が思う七海の柔術の感想は『強いが荒い』だ。

 凄まじい腕力である。同じ女子相手の試合とは思えないほどに。しかし、力に頼るために技の細かい所がおろそかな所が目立つ。力に全く頼らず、ひたすらに技の精度だけを高めていた小夜子とは対照的である。

 別に力に主眼を置いた剛の柔術が悪いとは思わない。それはそれで一つの理想だし、実際、七海は強い。

 ただ、それが今は付け入る隙になっているのも確かなのだ。こちらの猛攻を腕力で凌がれているが、こうして致命的な隙を生んでしまう事もある。武術の原則である剛柔相済だが、七海の場合は剛は十分過ぎるが柔がまだまだ足りぬ。

 七海は両手をがっちりと組み合わせ、右肘が伸びないように防御している。

 しかし、いくら七海が強かろうとも。腕の力だけでは無理だ。優は両手両足、腹筋背筋全て総動員して七海の関節を伸ばしていく。

 七海の両手が徐々に外れていく。

「ぐぅっ……」

 七海の喉から声が漏れた。

 もう少しで、技が極まる。

「ぬっ」

 不意に、七海が優を腕にぶら下げたまま、立ち上がった。

(な、なにする気だよおい)

 優は全力で腕を極めにいっている。

 七海が、立ち上がると、優ごと右腕を高く持ち上げる。

(た、叩きつける気かよ!)

 信じがたい腕力である。いかに優が軽量とはいえ、人一人を持ち上げるとは……。

「う、おりゃあああああああああああ!!」

「うあっ!」

 優が咄嗟に手を放す。

 だん、と音をして優が床に落ちた。受け身がギリギリで間に合った。

「て、てめぇ……」

「はぁ……っ!」

(あんなバカな真似するヤツがいんのかよっ……。腕折れるかもしれねぇのに!)

 七海佳奈。とんでもない女だ。

「ふっ!」

 七海が右手で優の前襟を掴んだ。

「!」

「うおおおおおおおおおお!」

 更に信じがたいことだが。

 優の体が浮いた。

「えっ」

「おおおおおおおお!」

 崩しも重心もありゃしない。

 技術じゃない。力、腕力だ!

 七海は力任せに、優を振り回し始めたのだ。父親が幼子に遊んでやる時の如く。

「おおおおおおあああああああああっ!」

(こんなことあんのかよっ!)

「あああああっ!」

 七海が手を放すと、遠心力に任せて優の体が場外に吹っ飛んでいった。

(!!)

 優の体は宙を舞い、場外の選手控えに落ちた。


「場外!」

 津吹が宣言する。場外に出た場合は一時試合中断。中央に戻って再開である。

 周囲がどよめいている。

 あんな、技でも何でもない。力任せの投げを出来る女子がいるとは。

 恐るべき七海佳奈の膂力である。

「……い、いてて……」

「ゆ、優ちゃん大丈夫!?」

 放り投げられた優は、気がつくと雪子の胸の中に抱かれていた。

「あ、雪子……?」

「立てる?」

 放り投げられた先がたまたま雪子の座っていた場所で、雪子が受け止めてくれたらしい。

 床に激突していたにしてはあちこち痛くない。

「大丈夫。いける」

 立ち上がる優。

「やってくれたな七海……!」

 怒りの表情で優が試合場に戻った。


「続行!」

 掛け声とともに、二人がまた戦いを始めた。

 先程、力技で豪快に優をふっ飛ばした七海だが、今この場で一番焦っているのもまた、実は七海である。

 まずい。

 このままでは勝てない。

 優と七海が組み合う。

 七海が投げを打とうとするが、優はそれをすかして、七海を床に転がした。

 これだ。技がすっかり見切られてしまっているのだ。

(このチビッ!)

 毒づいて上に乗ってこようとする小娘を追い払おうとするが、逆にこちらの手足を捕らえて、ぐいぐいと進んでくる。

 ああ、また腹の上に座られた。

(こっちの体力が持たねぇ……っ)

 力任せに返すのも限界がある。

 長期戦は無理だ。こいつの無尽蔵な技の前には体力が足りない。

 優の絞め技を間一髪避ける。

 やばかった。後一歩遅ければ絞め落とされていた。

 反撃せねば。

 優がもう次の技の体勢に入っている。だめだ、先にまた防御しなければ……。

(ま、負けるのかこのあたいが)

 今までの人生で、負けた試合はただ一度。

 長谷川紫にだけだ。

 二度はマズい。二度目の負けは、マズい気がする。自分の中の自分を信じる自分というものにヒビが入る。心が折れてしまう。

 しかも、相手は十五歳で身長四尺八寸のチビ。これはマズい。

 強いことがただひとつの誇りだったのに。

 その誇りが傷付くのは困る。

 七海佳奈は、自分には他に何もない事をしっかりと理解している。

 自分という人間の、人生の持ち物が『弧月流柔術』しかないのだ。

 普通は生きていく上で色々手に入れ、培い、蓄えていくべき持ち物が弧月流だけだ。

 他には何も出来る事がない。手に職なんか持ってない。大して美人でもない。学もない。自分の名前しか書けない。算術なんかもってのほかだ。男も居ない。親とも会っていない。

 柔術だけが自分の取り柄だ。

 柔術まで弱ければ、自分は生きている価値がない。

 ゴミクズだ。養豚場の豚のほうが食えるだけまだマシだ。そんな風に思っている。

 昨年、長谷川に敗北した後も大変であった。

 それまで一度も負けたことがなく、女子柔術界期待の新星としてもてはやされていた。天才少女出現で地方の新聞にまで名が出たことも有る。

 七海佳奈はその事に大いに自信を持った。自分は強い人間だと思えた。

 しかし、昨年出会った長谷川紫がその全てをブチ壊した。

 何も持っていない自分と比べて、長谷川紫は全て持っていた。

 男爵家の令嬢。女子師範学校に通う秀才で、美人である。しかも自分よりも強い。

 自分には、何一つ長谷川紫に勝るところが見当たらなかった。

 だから、あの長谷川を見返すために、一年間、血反吐を吐いて鍛錬を積んできたのだ。

 この一年の稽古のキツさであれば蓬莱一であろうとすら思っている。柔術は努力の量で全てが決まるはずだ。ならば、この一年で最も伸びたのは自分のはずだ。

 このチビは、なんなのだ?

 この小さな身体で、自分よりも強いと言うのか。

 くそ。

 ちらりと横目で試合場の外を見ると、長谷川紫がこっちを心配そうに見ているのが見えた。

「佳奈さん! 右です右! 相手と向き合って逃れて!」

 何か叫んでいた。相手のほうを向けって、それが出来ないから困ってるんだ。

 首に後ろから優の袖が巻き付いてきた。

 息が出来ない。

 相手の腕を掴んで、力づくでこの絞め技を外してしまいたいが、もう力が入らない。

(……ま、負ける)

 意識が遠くなってきた。

(八神、すげぇよお前。……お前、きっと、あたいよりもずっと努力してきたんだよな。尊敬するぜ、本当によ……)

 七海が落ちた。


 試合開始十七分。

 八神優の一本勝ちとなった。

 決め技は八神無双流 片羽鶴。袖を使った絞め技であった。

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