第11話 風待草

 家に帰ると、優は飯も食べずにドロのように眠った。

「母ちゃん、姉ちゃん全然起きる気配ないよ」

 帰ってくるなり着替えもせずに畳の上に倒れ込んで眠りはじめた姉をなんとか苦心して布団に押しこみ、怜はやれやれといった様相で居間に戻ってきた。

「しょうがない子ね。ご飯明日でいいのかしら」

 食卓には優の祝勝のためのごちそうが並んでいた。

 母が手によりをかけてこしらえてくれたものだが、今日はどうも無理そうである。

「姉ちゃんの分だけ分けといて食べようよ。お腹すいたー」

「そうしましょうか。お姉ちゃんは寝かしといてあげましょ」

 そう言い、母と妹は食卓に座った。

「お父さん、食べましょう」

「ん、ああ」

「いただきまーす」

 怜は大好物の鮪の刺身に早速箸をつける。

「あいつ、本当に強くなったなぁ」

 ふと、父が感慨深そうにそう言った。

「そうですね」

「まさかあの三代川にも勝つとは……。我が娘ながら末恐ろしいよ」

「姉ちゃん他に取り柄のないバカだしね」

「まぁバカなのはその通りだな」

 わはは、と父が笑う。

「これは意外とこのまま優勝するかもしれんな」

「そうでしょうか」

「わからんが、可能性は結構あるんじゃないかな。宗里さんの娘さんにも一回勝ってるしな」

 同じく残っている雪子にも勝った経験がある。優は紛れも無い優勝候補の一角なのだ。

「姉ちゃん、勝ったら外国行っちゃうのか」

 どことなく寂しそうに怜が言う。

「そうねぇ……。あの子が外国だなんてねぇ……。とてもじゃないけど、信じられないわよねぇ」

 外は雪の降りが強くなっていた。

 明日は積もるかもしれない。


 海老茶の行灯袴に薄紫の矢絣の小袖。秋口と違うのは、寒いので桜模様の膝下まである長羽織を羽織っている所である。

 外は薄く雪が積もり、子供たちが元気に走り回っている。今朝の帝都は一段と寒い。

 優は眠い目をこすりながら、トコトコと学校へと向かって歩いていた。

 今日は疲れたので休みたかったのだが、母が許してくれなかった。軽く十二時間は寝たはずだが、全然疲れがとれていない。まだまだ眠い。

「優ちゃんおはよー」

 白い息を吐きながら、秋子が後ろから駆け寄ってきた。

「おはよ」

「なに、なんだか今日眠そうだね。もしかして夜更かし?」

「違うよー。昨日柔術の試合でさ。疲れが抜けないんだよ」

 ふぁ、と優が欠伸をする。

「あらら。武術家さんは大変ですなぁ」

「今日くらい休みたかったのにさぁ。母ちゃんが絶対行けって。前の大会の時も休んだら小言がうるさかったからなぁ」

 不満たらたらに語る。まったく、何日か休ませてもらいたいものだが。

「それでさ。試合どうだったの?」

「ん、勝ったよ」

「さすがだねぇ。宗里さんは?」

「雪子も勝った」

「きゃー、二人ともすっごーい」

「ふふふ、惚れんなよお嬢ちゃん」

「素敵っ! 抱いてっ!」

 いつものように秋子とくだらない冗談を言いつつ、学校へと歩く。

 途中、白い山茶花が道端に咲いていた。


 学校では当然爆睡である。

 一時間目の授業が始まって十分後、優はあっさり眠りに落ちた。

 眠い。眠すぎてついていけない。せめてもうちょっとがんばろうと心の中では思っていたが、無駄な努力であった。眠すぎてまるで無理である。

「八神さん!」

 夢の世界をさまよっていると、不意に頭に何かがぶつかった。

「いてっ」

「起きなさい! まだ朝よ!」

 保科先生が丸めた教科書を片手に目の前に立っていた。

「す、すいません」

「あんまり居眠りがすぎると補修受けてもらいますからね」

「え、えぇ……」

「授業は真剣に受けなさい。では次、三行目から読みなさい」

「はい」

 ふと目線を上げると、静子がこっちを指さして笑っているのが見えた。

 なんだ? と思って顔に手をやると、ヨダレが教科書から糸を引いていた。


 授業が終わり、鐘の音で優は再び目を覚ました。

「……う」

「ちょっと優ちゃん、授業終わったよ。起きろ起きろ」

 肩を揺すっているのは静子だった。

「ふ、ふえい」

「寝ぼけてんじゃないの」

 静子にベシベシと背中を叩かれていると、保科先生が近寄ってきた。

「八神さん」

「あ、はい」

「あなた今日結局最後まで気持ちよさそうに寝てたわねぇ」

 苦笑しながら保科。結局優はあの後またすぐ熟睡していた。

「す、すいません」

「もしかして昨日、試合でもしたの?」

「あ、はい。実は」

「どうだった?」

「勝ち残りました。再来週に、決勝です」

「あらそうなの。すごいわ。そういうことなら今日は大目に見てあげるけど、あんまり居眠りはしないようにね」

「ごめんなさい」

 頭を下げる。

「このままだと留年しちゃうわよ」

「ほ、本当にそれだけは気を付けます……」

 卒業できなくなったら西行きに選ばれても行けなくなったりするんだろうか、と優は一人で戦々恐々としていた。


 学校が終わり、優は秋子と静子の遊びの誘いも断り、真っ直ぐに帰宅した。

 今日は秦野と小夜子が来るはずである。二人とともに、雪子の家に向かう予定だ。

 早足で自宅への道を歩み、家の戸を元気よく開ける。

「ただいま!」

 玄関でだらしなく草履を脱ぎ捨てる。

「優、帰ったの?」

「うん」

 母が居間から顔をだした。

「お客さん来てるわよ。あんたに用だって」

「あれ、もう来てた? だれ?」

「三代川さんって子。お友達?」

「うん。どこ?」

「あんたの部屋に通したけど」

「えー、ちょっと掃除してないのにー」

「あんたが普段から綺麗にしておかないから悪いんでしょ」

 母の正論にぐうの音も出ない。

「すぐお茶持ってくからね」

「お願いね」

 母に一言そう言うと、優は自室に駆けた。

 自室の襖を開けると、脱ぎ散らかされた服と、出しっぱなしの布団に囲まれて、小さな少女がちょこんと正座していた。

「小夜ちゃん」

「あ、お、お帰り優ちゃん」

「いやぁ、ごめんね待たせて」

「う、うぅん。ちょっと、は、早く来すぎた」

 小夜子は品の良い薄紅色の小袖に、黄色の帯を締めていた。梅の紋の入った風呂敷を持っている所を見ると、稽古着も持っているようである。

 トントン、と軽く叩く音がして、すっと襖が開いた。

「お茶持ってきたわよ」

 母が煎茶を持ってきてくれていた。朱の盆に湯のみが乗っている。

 そして室内の様子を見た途端、母が語気を荒げた。

「あ、ちょっと優! またあんた布団たたまないで学校行ったの!」

「いや、その、今朝はちょっと急いでたから」

「あんたね、お友達が来てるのにこんなの恥ずかしいでしょ! ごめんなさいね、ウチのバカが恥ずかしいとこばっかり見せちゃって」

「い、いいえ」

「あんたって子はホントにもぅ……」

 母の小言が恥ずかしい。もう本当にこういうのは止めてほしい。

「あ、あの」

 小夜子がすっと小さな紙の小箱を差し出してきた。

「よ、よければ、ど、どうぞ」

 手土産のようである。箱には梅の紋が入っている。

 母が小箱を受け取り、蓋を開けてぱぁっと笑顔になる。

「あらあら、これって小梅堂のきんつばじゃない。ご丁寧にどうも、戴いてしまってもいいんですか?」

「は、はい」

「小夜ちゃんの実家で作ってるヤツ?」

 そういや実家が和菓子屋だって言ってたな、と思い出す。

「うん」

「あら、あなたもしかして伊勢町の小梅堂のお嬢さん?」

「は、はい。三代川小夜子と申します」

 慇懃に頭を下げる小夜子。

「たしか昨日、優と対戦した子よねぇ。すごいわ、柔術も出来るしお菓子も作れるなんて。優、ちょっと小夜子さんの事見習ってあんたも努力しなさいよ」

「うるっさいなー」

「でも嬉しいわー、おばさんこれ大好物なのよ。優、あんた学校卒業したら小夜子さんの所で働かせてもらったら?」

「余計なお世話だよ!」

「ゆ、優ちゃんなら、だ、大歓迎だよ。お父さんに、頼んであげる」

「小夜ちゃんまで!」

「でもよく考えたらあんた壊滅的に料理下手くそだからお菓子屋は無理かしら……」

「うるさい! 母ちゃんはさっさと引っ込んでてよ!」

「はいはい」

 優に急かされて、母が立ち上がる。

「それじゃ小夜子さん、ごゆっくり」

「あ、ありがとうございます」

 ぴしゃりと襖を閉めて、母は去っていった。

「ったく母ちゃんはなぁ」

「あはは。優ちゃんと雰囲気似てるよ」

「そうかな?」

「うん」

 そんなに似てるかな、と自分では疑問に思うが。


 十分ほど二人でどうでもいい雑談をしていると、玄関から引き戸がガラガラと開く音が響いてきた。

「ただいまー」

 自分によく似た妹の声である。女学校が終わって戻ってきたらしい。

「お邪魔致します」

 続いて、聞いたことのある声がした。

「あ、あれ、今のって」

 小夜子が声に反応して声を上げた。やはり聞き間違いではないようだ。

 二人分の足音が近づいて来て、襖がガラリと開いた。

「あ、いた。姉ちゃん、お客さん来てるよ」

 怜の背後から、背の高い女性が顔を出した。

「秦野さん」

「なんか家の前でウロウロしてたから声かけたら、姉ちゃんの知り合いだって言うから連れてきた」

「どうも」

 秦野が会釈する。

 今日は暗めの色合いの、落ち着いた配色をした紬織りを着ている。

「妹さんに御案内を戴きまして」

「あ、まぁ座って座って。掃除してないから汚いけど」

「この狭い六畳間に女四人か」

 ちょっと迷惑そうに怜。

「あの、そっちの方って、昨日姉ちゃんと戦ってた人ですよね?」

「は、はい。三代川です」

「ども。八神怜です。で、昨日雪子さんと戦ってた秦野さんか」

 小夜子と秦野を交互に見て、怜が唸る。

(う~ん……。あっという間に友達になるあたりは姉ちゃんすごいわ)

 我が姉ながらこの人見知りのしなさは凄いものが有るな、と怜はひとりごちた。


 午後も三時を回ると、朝に積もっていた雪はだいぶ溶けて消えていた。

 代わりに通りの地面がぐちゃぐちゃになり、着物の裾を汚さないように歩くのが一苦労である。

 優は秦野と小夜子を引き連れ、千鳥通りの繁華街を過ぎ、山茶花の咲く小さな神社を通り過ぎ、冬木町の小野椿流柔術道場へと訪れていた。

「ごめんくださーい」

 宗里家の自宅玄関へと回り、中へ向けて一言叫んだ。

 少しすると、トタトタという足音とともに、長い黒髪をなびかせて袴姿の雪子が現れる。

「はーい」

「あ、雪子いた。おっす」

「あー、優ちゃん。……って、小夜ちゃんに、秦野さんまで?」

 雪子が秦野の顔を見て、驚きの表情を浮かべる。

 まぁ、雪子は昨日、会場で泣き崩れた所までしか見ていないのだ。いきなり来られたらそれはびっくりするだろう。

「急に押しかけてしまい、すみません」

「え、い、いいえ」

「雪子、今って道場誰かいる?」

「まだ誰も居ないけど」

「じゃあ、道場行ってもいい?」

「いいけど……」

 ちらりと秦野の顔を見る雪子。

「いえ。今日は立ち会いに来たわけではありません」

 雪子の顔色を察して秦野がそう言うと、雪子が少しだけホッとした顔をした。


 道場で四人が丸く座った。

 昨日の今日も有り、雪子と秦野が緊張した面持ちである。反則までして徹底的にやりあったはずなのにすっかり打ち解けている優と小夜子とは対照的だ。

「あの、今日のご用事は」

 雪子が会話を切り出そうとした途端、秦野が両手をついて頭を下げた。

「えっ」

 雪子が呆気にとられる。

「宗里さん。昨日は失礼致しました。本日はそのお詫びに伺いました」

「ちょ、ちょっと、頭上げて下さい」

「敗れた上に恥の上塗り。面目次第もありません。今日は八神さんのご厚意により、杜泉に戻る前に一言お詫びをと」

「あ、あの、私そんな気にしてませんから。頭を上げて下さい」

 雪子が狼狽しつつそう言うと、秦野がゆっくりと頭を上げた。

「……これで気が済みました」

 小さな満足を表情に浮かべ、秦野がホッとしたように視線を宙に浮かべた。

 昨日のあの時、雪子を必死で挑発していた秦野梓は、やはり狼狽していただけなのだ。

 雪子にも優にも、本当の秦野梓として詫びることが出来て、やっと胸のつかえがとれた。そんな風だ。

「では、本日はありがとうございました」

 さらりとそう言って、秦野は立ち上がった。

「これにて失礼致します」

 潔くすっぱりとそう言い切った。

 再戦の申し出は未練を綺麗に断ち切ったのだろう彼女の口から出ることは無かった。

 だが、振り返ろうとする秦野の袖を、優が掴む。

「待った。そう急がないの」

「はい?」

「謝り終わったんでしょ?」

「え、はい」

「雪子もいいよね?」

「そりゃいいけど……」

「じゃあ遊んでいこうよ。四人で」

「え?」

 今度は秦野がびっくりした顔をする。

「ほら、折角友達になったんだしさー。すぐ帰るのもったいなくない?」

 秦野と雪子が目を丸くしていた。小夜子は嬉しそうに「そうだよそうだよ」、と小声で言っている。

 しかし秦野は別に、ここにいる三人と友達になったなんて自覚はない。

 確かに世話になったが、それは別に友達と呼べるような関係性ではないものだと思っている。でも、目の前の小さな少女はそうではなかったようである。

 知りあえばみんな友達。そんな風に思っているのだろうか。

「……あはっ」

 雪子が笑った。

「もー、優ちゃんったら」

 呆れたような、嬉しいような、そんな笑顔をしている。

「秦野さん、よければ少しおしゃべりでもして行きませんか」

「え、は、まぁ。急いでおりませんので、構いませんが」

 すっかり毒気を抜かれてしまい、呆けた顔で秦野がもう一度腰を下ろす。

「秦野さん秦野さん、普段みんなになんて呼ばれてるの?」

 優が無邪気な笑顔で聞いてくる。

「え」

「梓ちゃん? あずにゃんとか?」

「いや、普通に秦野が多いですね……。親しい人は下の名で呼び捨てたりですけど」

「えー、なんかもうちょっと軽い呼び名が欲しいな」

 不満気に優。

「もー、優ちゃん、言っとくけど秦野さん小夜ちゃんよりもさらに年上なんだよ?」

「いいじゃんもう。友達でしょ?」

「敬語使わなくていいかどうかはこっちが決める話じゃないでしょ」

「で、でも、その、強引な所が、優ちゃんのいいところ」

「もー、小夜ちゃんまでそういうこと言うしー」

 くすり、と秦野が笑う。

「……みんな仲いいんですね」

「仲もいいですけど、優ちゃんちょっとおバカだから」

「バカはやめてバカは。てか、梓さん敬語とかなくていいよ? あたしらみんな歳下だし」

「いえ、私はこれじゃないとクニの訛りがキツイんです。帝都のみなさんだと、わからない言葉とかがつい出てしまいますので」

 地方出身の秦野は素で喋るとかなり訛りが出る。帝都出身の三人はもちろん、標準語しかわからない。地方出身者が訛り隠しに言葉を敬語で固めるのはよく見られる光景であった。

「も、杜泉ですもんね。く、国見弁ですよね」

 確かに気をつけて秦野の言葉を聞いてみると、言葉の高低や発音などが帝都生まれの三人とは少し違っている。

「旭流は国見発祥なのです。帝都では恐らく、教えている人はいないのではないでしょうか」

「なるほど。小野椿流もこの辺でしか伝わってないみたいですもんね。柔術も地域差がかなりあるみたいですね」

 感心したように、雪子。

「あ、そういえば梓さん稽古着持ってきてる?」

「え? いえ、今日は持っては……。宿に置いてきてしまいました」

「雪子、余ってるのある?」

「あるよー」

「じゃあ貸してあげて。梓さん、ちょっと遊ぼうよ」

「遊ぶって、立ち会いですか?」

「うぅん、本当に遊ぶだけ。ガチ勝負はみんな昨日の今日で疲れてるしまた今度。実はちょっとやっていきたかったでしょ?」

 笑顔で優が言うと、秦野がきょとんとした顔を少しだけ楽しそうに歪めた。

「……それは、まぁ」

「じゃあ全員着替えで!」

 優が立ち上がる。

「も、持ってきててよかった」

「ねー、優ちゃん、後でちょっと移腰の練習させてー」

「いいよー」

 みんなきゃあきゃあと和気藹々に着替え始める。

「……」

「はい。これ使って」

 雪子が柔術衣を差し出す。

「あ、ありがとうございます……」

 とりあえず礼を言い、秦野はまだ少し困惑したままの表情で着替え始めた。


 日が暮れた。

 冬は日が暮れるのが早い。六時ともなれば周囲は真っ暗である。またちらちらと雪が降り始めており、冷え込みも少しずつ時間相応の厳しさとなりつつある。

 小野椿流の道場はバタンバタンと賑やかな音が鳴り響いている。

「ん、あれ?」

 道場に入ってきたのはここの道場主である、小野椿流柔術師範の宗里正吾である。四十を過ぎているが、筋肉質で無駄のない鍛えられた肉体をしている。長年の修行によりその手はゴツゴツとしており、指が太い。

 宗里正吾は道場に入るなり、その場に居る面々を見て驚きの声をあげた。どれも道場生ではない。娘以外は普段見ない顔だ。

「雪子!」

「あ、ちょっと待って。お父さんだ」

 呼ばれて、雪子が秦野に制止をかけた。二人は乱取りの真っ最中で、秦野が雪子の膝関節を膝十字固めで極めようとしている所であった。

「なんだなんだ、今日は友達と練習していたのか?」

「うん」

 雪子が立ち上がる。

「おや、君はもしかして、旭流の……」

「お邪魔しております。旭流柔術の秦野梓です」

 秦野がペコリと頭を下げる。

 なぜここに? と正吾は訝しむ。昨日雪子に敗れたばかりのはずだが。

 隣で組み合っている別の二人の顔を見ると、そちらも見覚えがある。

「あ、おじゃましてまーす」

「ど、どうも」

「優君じゃないか。いらっしゃい。そっちは、もしかして桂都古流の三代川君か?」

 一人は最近娘と随分と仲良くしている八神無双流の八神優である。

 もうひとりは、同じく先日八神優に敗れたはずの三代川小夜子だ。

 一体どうしてこんな集まりが我が家で行われているのか、理解に苦しむ。

「なんだか凄い顔ぶれだが、どうしたんだ」

 尋ねると、娘は嬉しそうに

「優ちゃんが今日みんな連れてきてくれたの」

 そう言って八神優を指さした。

「君がか」

「あー、昨日みんな友達になったんですよ」

 この少女は不思議な子である。

 娘の時もそう思ったが、本当に不思議な子だ。

 他人に対して壁がまるでない。するりと相手の懐に入ってくる。

 死力を尽くして戦って、あっという間に友達になってしまう。

「それで、みんなで技術交流会か。ははは、女子柔術界の若手の星がこんなに集まるとは凄いもんだ」

 愉快な光景であった。

「どうだ、みんな収穫はあったか?」

「うん、みんなすごい強いよ! 秦野さんの『足捕り』なんかものすごい技術で……」

「ありがとうございます」

「みんな技の入りとか意外と違うよね」

「な、投技も細かく違う……」

「なるほど、みんなかなりいい勉強になったようだな」

 上機嫌で正吾は少女たちに言った。

「君等が感じた通り、一言で柔術と言っても流派によってだいぶ違う。考え方というか、思想というかな。人間ってのは基本みんな手が二本に足が二本だから、ほんとの基礎的な部分は似通うが、それ以外の部分は人によって差が出てくる。君等も出来る事ならば色々な流派を研究したほうが良い」

「はい」

「いや、すまん。つい説教臭くなる。これだからオジサンはいかんなぁ」

 ははは、と正吾は笑った。


 もう時間も遅いということで、解散となった。

「宗里さん、今日はありがとうございました」

 秦野が雪子に頭を下げた。

「いえ、こっちこそ」

 雪子も頭を下げる。

 今の二人の笑顔には、昨日のような“しこり”は無い。

 さっぱりとした、良い笑顔になっていた。

「次は負けないように、杜泉に帰ってからも精進します」

「私もがんばります。またどこかで戦いましょう」

 秦野がにこりと笑う。

 秦野梓は笑うと愛らしいえくぼの出る女だった。暗がりと、背後の雪がよく似あっている。

「楽しみにしてます」

 雪子は秦野との間に、不思議な絆を感じていた。

 よくわからないが、これはきっと、友達になったということなんだろうな。

 そんな風に思えた。


 小野椿流道場を出て、三人で雪の夜道をしばらく歩いた。肩と頭に雪を軽く乗せて、楽しくおしゃべりしながらだ。もちろん話題は、柔術の話。

 歩き始めて三十分ほどして、大きな交差点に差し掛かった所で、秦野が足を止めた。

「八神さん」

「なに?」

 秦野は改まって言った。

「あなたにこそ、今日はお礼を言わなければなりませんね」

「そう?」

「今日は本当にありがとうございます。おかげで、すっきりした気持ちで帰れます」

 今日、雪子と秦野は十本ほどの乱取りをして、そのうち四本ほどを秦野が取っている。

 秦野は自分で自分がけして弱くないことを実感できた。

 砕けた自信が少し、戻っていた。

「あなた方に会えて、本当に良かった――」

「おおげさだなぁ」

「本気ですよ。帝都まで来たかいが有りました。明日からも、これでがんばれます」

「ま、なんにしろスッキリしたなら良かった良かった」

 気分良さそうに優が笑った。

「では、私はここで。宿までは帰れますから」

「うん。じゃあ、またね梓さん。次は普通に観光案内でもするよ」

「ええ、楽しみにしてます。来るときは連絡しますね」

「げ、元気でね」

「三代川さんも」

 秦野は二人を見ると、少しためらったように考え込んだ。

 目の前の二人の少女柔術家に対して、色々と思うところも感じるところもある。

 それを別れ際にどう表現すれば良いかがわからない。

「どうしたの?」

 しばし逡巡した後に、秦野は微笑んだ。

「優ちゃん、あんだが勝つんば楽しみにしてるけさ」

 急に訛りのキツイ言葉で秦野が優を激励した。

「あっ、国見弁?」

「はい。私、本当はこんな喋り方なんですよ」

「……ん、そっちのほうが自然でいいんじゃないかな」

 優が楽しそうに言う。

「こちらでは伝わらない言葉も多くて、使うのちょっと恥ずかしいですよ」

「そ、そんなこと、ないと、思うよ」

「ありがとう。それじゃあ、またね。二人とも」

「うん。またねー」

 手を振りながら秦野は歩み出した。

「いずれまた、会いましょう」

 もう声など聞こえない距離になって、小さく呟く。

 今日は来てよかった。

 いつかまた会える日が来るのが、本当に楽しみだ。

 街の明かりに照らされて、今夜もちらちらと雪が降っている。


 秦野が去ってから、優と小夜子も帰路についた。

「梓さん、面白い人だったねー」

「う、うん」

 もうすっかり遅くなってしまった。

 お腹が空いたので、早く家に帰って夕飯が食べたい。

 少し二人の会話に空白が生じた後。くいくいと優の袖を小夜子が引っ張った。

「ね、ね、優ちゃん」

「ん? なに?」

 小夜子を見ると、なんだか恥ずかしそうに顔がやや赤い。まぁ、いつもの事ではあるが。

「ら、来週末、雪ちゃんと、試合あるけど」

「うん」

「こ、今週末とか、い、一緒に、稽古、しない?」

「いいの?」

「い、いいよ、お、お店も、毎日とかじゃ、なければ、早目にあがっても、大丈夫」

 小夜子は会話の時に決して相手の目を見ない。

 今も、小夜子は視線をその辺の道の上に泳がせながら喋っている。

「嬉しい申し出だねそいつは。ウチでいい?」

「う、うん。行く」

 嬉しそうに小夜子。

「じゃあ、週末よろしくね。妹と父ちゃんしか相手がいないからさ。他にもいると助かるよ」

「ま、任せて。わ、私どうせ、いつも出稽古だから」

 小夜子と週末の約束をして別れた。

 もう、試合まで雪子と会うこともないだろう。

「よーし! 燃えてきた!」

 拳を握りしめ、優は帰りの道のりを駆け出した。

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