第10話 雌獅子と椿

 休みたい。疲れすぎて動けなかった。

 全身の筋肉が全て焼き切れてしまったような気がする。今や、指一本でも動かすのが辛い。身体の全てがガタガタだった。

「……雪子」

「優ちゃん、しばらく寝てたほうがいいよ」

 雪子に抱えられて、優は試合場から下りると、選手の控え席で横になっていた。

「……」

 小夜子は物凄い強さだった。勝てたのが信じられないほどに。

「……雪子さ」

「ん、なに? 膝枕してほしい?」

「いや、いらないけど。……小夜ちゃん。超強かったよ」

「そうだね。よく勝てたね」

「うん……」

「心配?」

「ちょっと」

「大丈夫だよ。とりあえず今は休んでなよ」

「そうだね……」

 手足は燃えるように熱い。心臓は早鐘のようだ。冬のひんやりとした空気に、汗が蒸気のように溶けていく。

(勝った……)

 優はじっと天井を見つめていた。


 二回戦第二試合。

 弧月流柔術 七海佳奈 十九歳

 掛水流柔術 京田和子 二十歳

 試合開始十一分。七海が京田を突込絞で落とし、一本勝ち。


 二回戦第三試合

 三重黒姫流柔術 長谷川紫 十八歳

 沓掛流和術   磯岡貴枝 十八歳

 試合開始九分。長谷川が磯岡を足絡みで極め、一本勝ち。


 二回戦第四試合

 旭流柔術   秦野梓  十八歳

 小野椿流柔術 宗里雪子 十五歳

 本日の最終戦。雪子の出番が回って来た。


「優ちゃん、優ちゃん」

 ぺちぺちと雪子が優の頬を叩いた。

「んあ……」

「起きてよ」

 優は目を覚ました。

「寝ちゃってた……」

「疲れてたからね。次、私の試合だよ」

「えっ、最終試合?」

 びっくりして上半身を跳ね上げる優。

「やべ、結構長い時間寝てた?」

「三十分くらいじゃないかな」

「すごい疲れてたもんなぁ……。まだすごい眠い……」

「せめて私の試合だけは見ててよー」

「うん、起きてる」

 目をこすりながら、優。

「小野椿流、宗里雪子!」

 雪子を呼ぶ声が響いた。

「雪子」

 ばん、と優が雪子の背中を叩いた。

「絶対勝てよ」

「もちろん!」

 雪子は元気よく立ち上がり、試合場に立った。


 宗里雪子 身長 五尺三寸。

 秦野梓  身長 五尺一寸。

 二人の体格は雪子のほうが大きい。身長、体重ともに秦野のほうが一回り小さい印象である。

「構えて!」

 二人が構える。

「始め!」

 審判の声が場に響き、本日の最終戦、宗里雪子対秦野梓の試合が始まった。


 雪子は相手を見て、ふと怪訝な顔をした。

 構えが異様に低い。中腰で、這うような姿勢だ。今までここまで低い構えの柔術家は見たことがない。

 どのような戦法を使ってくるのか、想像がしにくい。

「宗里さん」

 相手が試合中にも関わらず、声をかけてきた。

「はい?」

 なんとなく無視できず、思わず返事をしてしまう。

「秦野といいます。今日はあなたと戦うのを楽しみにしてました」

「それはどうも……」

 秦野は薄く笑顔を浮かべている。

「一回戦は見せてもらいましたが、あなたは本当に強いです。あなたに勝って、長谷川さんと、八神さんとも戦いたい――」

「……」

「私も、ここで負けるわけにはいきません」

 ふふ、と笑いながら秦野。

「話は終わりです。行きますよ」

「どうぞ」

 雪子が返事すると、秦野が目付きを鋭くする。

 来るか。

 来た。

 秦野は地を這うように身を沈めて、雪子の前に出ている左足を狙って組み付いてきた。

「!」

(いきなり足か!)

 とっさに後ろに跳び、左足を下げる。

 すんでのところで避けた。

 這うように相手の足にいきなり飛び付いてくるとは。

 変わった戦術である。しかもとんでもなく速い!

 蓬莱柔術でこんな戦い方をする人は初めて見た。

「初見で“足捕り”を避けるとは……。やりますね」

 秦野がにやりと笑う。

 そしてまた、飛び込んできた。

「くっ!」

 速い。

 よけきれなかった。

 秦野が雪子の左足を掴み、踵を引っ張る。

(まずい!)

 雪子が倒れる。

 秦野が左足にしがみつきに来る。

「っ……おあっ!」

 おもいっきり左足を引くと同時に、手で相手を押し付け、足を引き抜く。

 不敵に笑う秦野。

「やりますね」

 戦術がわかった。

 この秦野の戦法は、ひたすら足狙いだ。足を狙って組み付く。組み付いたら倒す。倒したら足関節を極める。それだけに特化した戦法なのだろう。

 こんな戦い方をする柔術が有るとは思いも寄らなかった。

 手強い相手である。

「せっ!」

 また秦野が突っ込んでくる。

 足を掴まれ、倒される展開はまずい。さっきは逃げられたが、次も逃げれる保証はない。

(ならば)

 雪子は両足を後ろに引くと、上半身を秦野の上に載せるようにして体重を預けた。

 秦野の手が、指一本だけこちらの足にかかっている。足の引きが足りなかったか。

 だが、それはいい。すぐに倒されなければいい。

「ふっ!」

 一回戦同様に、雪子が秦野の首に腕を巻きつけた。

 まだ技は完全に極ってはいない。秦野の顎が雪子の腕を邪魔している。

 完全に絞められる前に次の展開に進もうと、秦野がじりじりと腕を伸ばし、雪子の足を掴む。

 雪子は雪子で、倒される前に絞めの体勢を完全にしてしまいたい。

 ぐりぐりと腕を左右に揺すり、少しずつ腕の位置を深めている。

「せいっ!」

 気合一閃。

 雪子が再び、椿絞の体勢に入った。ギリギリと秦野の首を絞め上げ始める。

「……っ!」

 秦野が雪子の足を引き、倒してきた。雪子が下になる。

 しかし、今の体勢では倒れたほうがより一層強力に絞まる。

 雪子が全力で絞める。

「……ッッ」

 秦野が声にならない声を上げて、必死に耐える。

 三十秒ほど、秦野は耐えた。

 急に秦野の力が抜けたのを感じて、雪子は両手を放した。

 秦野は失神していた。


「一本! それまで!」

 審判の声が響き、二人が引き離された。秦野は白目を剥いている。

 試合時間は三分半ほど。二回戦では最短時間での勝利である。

 試合場を降り、選手控え席に戻り、雪子は再び優の隣に腰を下ろした。

「ふぅーっ」

「おかえり。さすが」

「さすがじゃないよー。もう、すごいやばかった。足取られた時そのまま負けるかと思ったよ」

 これは本音である。内心、冷や汗が止まらなかった。足を外せたのは半分運である。

 秦野は強敵だった。たまたま上手く行って勝てたものの、恐ろしい相手だったのだ。

「これでお互い残れたね」

「うん」

 雪子はほっと胸を撫で下ろした。


 その後十五分ほどして、勝ち残った四名が集められ、決勝試合の説明があった。

 津吹が手にした書類を読み上げ、内容を説明する。

 次回は二週間後の十一時より、同じくここ春日会館で行う。

 優勝者一名を西行きの派遣団に、柔術世話係として同行させる。

 優勝者には西行き支度金として、金五十圓が与えられる。

 決勝試合の出場者は以下の四名。

 八神無双流 八神優  十五歳

 弧月流   七海佳奈 十九歳

 三重黒姫流 長谷川紫 十八歳

 小野椿流  宗里雪子 十五歳

 驚くべきことに、決勝に十五歳が二人も残るという異例の事態となった。

 事前の関係者の予想では、歳若い八神と宗里はそうそうに脱落するのではないかと見られていたが、番狂わせである。

 興奮した観戦者から優勝するのは誰か、という予想が次々と挙がるが、今のところは誰もが拮抗していると見られている。実績なら長谷川だが、近年急速に伸びた七海も捨てがたい。だがしかし、新星の八神と宗里の実力も侮れない――

 最期に、外務省のお偉方から数分間の訓示が有り、解散となった。


「優ちゃん」

 長くてつまらない訓示が終わってすぐに、雪子が話しかけてきた。

「なに?」

「あのさ、もう汗だくだからお風呂入って帰らない? すぐそこに銭湯あったから」

「あー、そうしよっか。そっちで着替えようかな」

 二人の柔術着は汗でずぶ濡れになっている。確かに、この汗臭い状態で小袖に着替えるのは匂いが移りそうでなんとなく嫌だ。ひとっ風呂浴びてさっぱりして行きたい所である。

「じゃあ父ちゃんたちに先帰っていいって言っとこうかな」

 周囲を見回すと、父母が他の柔術の先生たちに挨拶をして回っているのが見えた。

 大人は色々と大変そうだ。

「そういや、小夜ちゃんどうしたかな」

 ふと、自分が絞め落とした小夜子の事が気にかかった。

 医務室へと運ばれていったはずだが、目が覚めただろうか。

「ほらあそこにいるよ。結構前に起きてきてたけど、優ちゃん寝てたからね」

「あ、ほんとだ」

 雪子に言われて会場の隅を見ると、小夜子がちょこんと座っている。もしかして、自分たちを待っていてくれてるのかもしれない。

「小夜ちゃんも誘おうか」

「いいの?」

 雪子が尋ねる。

 反則までして、死闘を繰り広げた直後である。

 気まずくないのだろうか。

「いいよ。大丈夫」

 優は軽く笑って返事をした。もう気にしない。

 その時だった。

 ばん、と大きな音がして、会場に一人の女が入ってきた。

「……秦野さん?」

 先ほど雪子に敗れたばかりの秦野梓だ。

 失神して医務室へと運ばれていたはずだが、目が覚めたらしい。

 秦野は怒りの形相のまま、こちらへと近づいて来た。

「宗里さんっ!」

「な、なんですか?」

「納得がいきません、この場で再戦をお願い致します!」

 そんな事を大声で叫んだ。

「決勝には出れなくても構いません。ですが、あんな簡単に負けたのでは旭流の名折れです。どうか、どうか勝負を!」

 周囲がざわつき、雪子と秦野に注目する。

「当流は本来当身も使います。真剣勝負でお願い致します!」

 そんな事まで言い出している。

 当身技……打撃を使うと、お互いに血まみれになる。なのでこうした柔術家同士の試合では“当てない”のが礼儀だが、秦野のこの申し出は最早決闘や野試合のそれに近い。

 自分は今負けたのは、決め事のせい、試合の規則のせいだ。本当になんでもありならば、本気の勝負であれば負けない。そう言っているのだ。

「ダメだよダメ。あたしら今から風呂入って帰るんだから」

「優ちゃん」

 横から優が口を出す。

「また今度、当身無しで再戦したらいいじゃん」

「黙ってて下さい。旭流はなんでもありでこそ強いんです。あんな試合など……」

 ギリ、と歯噛みして言う。

 優がその言葉を聞いて、一歩踏み出した。

「それ、ケンカなら負けないっつってんの?」

「なんでもありの戦いが本当の柔術です」

「なんでもありって……。裏技使い合うようなのがやりたいの?」

「……そうです。そうですとも。宗里さん、受けて戴けますよね?」

 秦野の言葉に、雪子は表情を強張らせると、

「嫌です」

 はっきりとそう言った。

「怖いんですか」

 安っぽい挑発だが、秦野は雪子を煽っている。

「本気の勝負をする自信がないんでしょう。小野椿流は、試合でしか戦えない柔術なんですか」

 こんな言葉で乗って来るとは誰も思わないであろうが、秦野は雪子を必死で挑発していた。秦野の言葉は薄っぺらく、今すぐ再戦して敗戦の屈辱をそそげる機会さえ得られれば何でも良いというのがひしひしと伝わってくる。

 しかし馬鹿げている。

 そんな提案、誰が乗るというのか。

(しょうがないなぁ)

 優が内心、呆れた呟きをあげた。そして、秦野に一言こう告げた。

「お前バカなの?」

「バカ?」

 優が秦野に冷たく言い放った。秦野が優を睨む。

「あたしら疲れてんだよ。あんまり無理言うなら、二対一になるぜ」

 じり、と一歩にじり寄る。

 もちろん、本気で襲いかかるつもりなどない。秦野を引かせるための、全ては方便だ。

 二対一。一対一でも勝てないのに、優と雪子の二人を相手に出来るはずがないのはわかるだろう。

「さ、三対一……」

 優の意図を汲んでくれたのか。

 さらに、小声で小夜子がそう言い、秦野の後ろに立った。

「……」

「お互いこんなのやったってしょうがないですよ。今日は止めましょう。再戦はまた今度受けますから」

 雪子がそう言うと、秦野はぐうぅ、と喉から細く声を出した。

「……うっ、く、くそっ」

 その両目にみるみる大粒の涙が溜まっていく。

「くそっ、ちくしょう。ちくしょうっ……」

 秦野はその場で泣き崩れてしまった。


「あー、さっぱりするー」

 風呂桶で湯を被りながら、優が気持ちよさそうに言った。

 全身にべっとりとついた汗と脂が流れ落ちていくのがわかる。

 優と雪子、小夜子は三人で帰りにすぐ近くの銭湯に直行していた。

 全身汗だくである。さっぱりしてから着替えたい。

「ねー、知ってる? 昔の銭湯って男女混浴だったらしいよ」

「え? ほんとに? 恥ずかしくない?」

「昔はみんなそんなんだったから気にしなかったんじゃないかなぁ」

「き、聞いたこと、あるかも」

「小夜ちゃん石鹸とって」

「は、はい」

 冬の風呂は気持ちがいい。

 三人はひと通り身体を洗うと、ざぶりと湯船に漬かった。

「ふぃー」

「温まるー」

 まだ時間が早いせいか、客はほとんどいない。三人の貸切に近い状況である。

「いててて、気が付かなかったけどあちこち擦り切れてる」

 お湯が染みて、今更ながら優は自分の体がボロボロであることに気がつく。

「あー、優ちゃんも?」

「お、終わってから、気がつくよね」

「試合中は夢中で気が付かないよね」

 小夜子も雪子も全身生キズだらけである。

 試合中は興奮状態なのでケガに意外と気が付かない。痛み始めるのはたいてい、こうして試合後にくつろいでいる時だ。

「そういや雪子」

「なに?」

「正一さんいいの?」

 優がふとそんな事を尋ねた。応援に来ていた朝倉正一のことだ。

 自分たちとこっちに来てしまっているが、正一のことはほったらかしでいいのだろうか。雪子の性格上、むしろ向こうに飛んでいきそうなものだが。

「あー、いいのいいの。汗だくですぐ会うのもなんだしね」

 鼻歌交じりに嬉しそうにそんな事を言う雪子。

「……」

 優がじっと半眼で雪子を見つめている。

「なに?」

「雪子さー。正直に言ってみ?」

「え、な、なにが」

「会うんでしょこれから。どっかで待ってると見た」

 見え見えの隠し事を喝破すると、雪子はまた腹が立つほどニコニコしながら

「えー、わかっちゃった?」

「そのウキウキした様子見りゃわかるよ」

「実はこの後、みんなですき焼き食べに行くんだー。うちの両親と正一さんとで!」

 ふふん、と雪子が嬉しそうに笑う。

「す、すき焼き」

「まじかよいいもん食ってんなお前んち」

「へへー。汗流したらお腹いっぱい食べてきますよ」

「うわぁ腹立つ。金持ちの許嫁がいるヤツは違うよなぁ」

「う、羨ましい」

 小夜子が恨めしそうに見ている。

 すき焼きはここ十数年で全国に普及しており、なかなかのお値段がする高級食だ。庶民が気軽に食べれるものではないので、ちょっとしたお祝いごとでもなければ食べに連れて行ってはもらえない。

「あー、こう広いと泳ぎたくなるねー」

 バチャバチャと動き回りながら優が言う。

「いや泳がないでよ?」

「空いてるしよくない? 銭湯の定番じゃん」

「えー、よくないよ。それよりさ、折角だし女の子の銭湯の定番、おっぱいの大きさ比べとかする?」

「いやしねーよ、お前何言ってんだ」

 優が真顔でツッコむ。

「そ、そうだ」

 ふと、小夜子が思い出したように声を上げた。

「どしたの?」

「ゆ、優ちゃん」

 すす、と優の側に近づいてくる。

「あ、あの、ごめんね」

「なにが?」

「お尻……。痛くない?」

 申し訳なさそうにそう言った。

「あ。あー、いや、その早めに忘れていただいたほうが助かるんですけど」

 恥ずかしそうに優。公衆の面前で尻に指を入れられるという恥辱を浴びたことを思い出し、顔が赤くなる。

「ご、ごめん。もうしない」

 小夜子が改めて謝った所で、雪子が小夜子の両肩をいきなりガッシリ掴んだ。

「そーいえばそうでしたね。小夜ちゃん。よくもやってくれちゃってましたね」

「は、はい?」

「私の可愛い優ちゃんのお尻によくもまぁあんな事を……」

「いつからあたしのケツがお前の物になったんだよ」

「いい? 次にもし同じことしたら」

 雪子が人差し指をぴん、と立てる。

「小夜ちゃんのかわいいオシリの心配が必要よ? ……根本までねじ込む」

「ひ、ひぃっ」

「だから本当に何言ってんだよお前。いつからそんなヤツになったんだよ」

 優が呆れ顔でそう言っていた。


 三十分後、優と小夜子は銭湯から出た。あの後疲れのせいで湯船で全員眠りそうになってしまい、あやうく風呂で溺れるところだった。

 ちなみに雪子は待っている正一のために、二人と別れて一足先にすき焼き屋へと急いで向かっていってしまった。もういない。

 外へと出ると、もう陽が傾いていた。

 冬の夕方は早い。空は薄曇りになり、薄暗さが余計に寒々しい。

 ぴゅう、と音を立てて北風が吹き抜けた。

「うわ、寒い!」

「ゆ、雪」

 小夜子に言われて見上げると、ちらほらと雪が降っていた。寒いわけだ。

「髪の毛凍っちゃうな」

「は、早く帰ろ」

「うん。小夜ちゃん家どこだっけ?」

「い、伊勢町」

「じゃあ途中まで一緒だね」

 二人は歩き出した。伊勢町までというと、ここから歩いて一時間ほどだ。優の自宅までの途中である。

 ふと西の空を見ると、落ちかけた太陽で空が真っ赤に染まっていた。

 自宅に着く頃には真っ暗になっているだろう。

 今日は色々あった。

 充実した一日だった。

 三代川小夜子との死闘で、全身を心地良い疲労が包んでいる。

 二人で雑談しながら歩き始めて一、二分もした頃だろうか。

 道の先に、誰かが立っているのを見つけた。

「あっ」

 小夜子が相手に気づき、声を上げる。

「ん? ……あっ」

 つられて相手の顔を見て、優も同じく声を上げた。

「秦野!」

「どうも」

 居たのは、先ほど雪子に負けた後に会場で騒いでいた旭流の秦野梓だ。

 武道袴姿のままで、厚手の羽織りを羽織っている。長い髪の毛も結わずに垂らしたままだ。

「なんだよ、まだ用か。いい加減、やろうってんなら相手になるぜ」

 優は喧嘩腰に相手を睨んだ。小夜子は困った顔をしている。

「……いえ、あの、宗里さんは?」

「雪子ならいないよ。家族とすき焼き食いに行った」

「あ、そう、ですか」

 残念そうに、秦野。なんだか様子が違う。闘志が感じられない。

「雪子に雪辱戦を申し込みに来たの?」

 優が尋ねると、秦野は静かに首を横に振った。

「いえ。その、謝りに来たのです」

「謝りに?」

「先程は会場でみっともない所をお見せしてしまいましたので……」

 その様子を見て、優は臨戦態勢を解いた。

「なんだ」

「八神さんと三代川さんにもご迷惑を。申し訳ありません」

「い、いえ」

「あたしたちは別にいいよ。それより、雪子でしょ? 今度会ったら謝ってたって伝えとくよ」

「すみません。助かります。自宅がわからなくて」

 ここでこうして待っていたのです、と秦野は小さく言った。

「か、かぜ、風邪引いちゃいますよ」

「それよりさ。秦野さん」

「なんでしょうか」

「雪子に負けたこと、納得いってないんでしょ?」

 聞きづらい質問のはずだが、優はずばりと切り込んだ。秦野が返事に困っている。

「……それはその、もういいのです」

「いいの?」

 秦野は静かに頷いた。

「少し冷静になって考えたのですけど。あの時はカッとなりあんな風に言ってしまいましたが、私も、宗里さんも、あなた方も、あの決め事、試合のやり方を承知の上であの場で立ち会ったのですから、それで負けたからと言って、それに文句を付けるのはお門違いでした」

 よく見ると、秦野の肩にはうっすらと雪が積もっている。

「私はその、帝都の人間ではありません。杜泉から来たのですが……」

 秦野の地元は正しくは国見県杜泉市。帝都から東北、ここからだとなかなか遠い。

「杜泉ではこれでも負けなしだったのです」

「だろうね」

 優がそう相槌を打つ。今日は負けたとはいえ、西行きの女子柔術世話係の選抜試合に声をかけられる女だ。弱いわけがない。

「恥ずかしながら、今日まで旭流の自分が全国で一番強いと思い上がっておりました。今日は小野椿流に敗れてしまいましたが、それは旭流が弱いわけではなく、この秦野梓が弱いだけなので……」

 そこで、秦野はごく、と唾を飲んだ。

「旭流がこんなものではない、弱い柔術ではないと、宗里さんにわかって戴きたかったのです」

 秦野の目頭には、涙が溜まっていた。

「旭流が弱いと思われたままでは、先生に合わす顔がありません」

「……っ」

 横を見ると、小夜子が顔を伏せていた。

 同じく、今日敗れた小夜子には秦野の気持ちが痛いほどにわかる。

 負けるのは仕方がない。自分の未熟さが招いた結果である。自分が悪いのだ。

 だが、あの流派は弱い。あいつの柔術は大したことがない。

 それだけは。そんな風に思われてしまうのだけは、許せないのだ。

「秦野さん」

「はい」

「雪子のことなんだけど」

「はい」

 優は、視線を地面に落とし、少し考えこんだ。

 続く言葉がすらすらと出てこない。

 数秒考えこみ、一片の雪が、自分の草履の鼻緒に落ちていったのを見て、再度顔を上げた。

「……雪子は、そんな風には絶対思ってないと思う……。あの子、試合終わってあたしのとこに来て、最初に言ったのが『負けるかと思った』だったから」

「……」

「秦野さんが強いのも、旭流がすごいのも、雪子にはしっかり伝わってると思う」

 慰めのつもりで言ったわけではなかった。

 宗里雪子を誤解してもらいたくなかったので、優はそれを事実として告げた。

「……良かったです」

 秦野は泣いていた。

「秦野さん、すぐ杜泉に帰るの?」

「……え、いえ。二三日は帝都に。少し観光でもして、気晴らしして帰ります」

「じゃあ、じゃあさ、明日ひま?」

「え?」

「良かったら、明日あたしに付き合わない? 雪子の家に行こう」

 優の提案に、秦野が驚きの表情を浮かべた。

「えっ、いいんですか?」

「うん。このままだとすっきりして帰れないでしょ?」

「それはその、願ってもない申し出ですが」

 本当にいいんですか、と秦野が念を押す。

「いいよいいよ。大丈夫。雪子とは友達だから」

「あ、あのね、優ちゃん、秦野さんが心配してるの、それもあるけど」

 気軽に返事をする優に、心配そうに小夜子が近付く。

「が、学校」

「あっ」

 よく考えたら明日は平日だった。

「忘れてた」

「ぷっ、あはははは!」

 間の抜けた優の言葉に、秦野が急に声を出して笑った。

「……八神さんって面白い人ですね!」

「ちょ、ちょっと抜けてる」

「忘れてただけだよ! じゃ、じゃあ午後にしよう! 三時くらいに学校終わって帰ってくるんでそこから!」

「ふふ、楽しみにしてますね」

 笑いながら秦野。

「じゃあうちの住所教えるから。ここからだともっと北なんだけど」

 秦野が言われて、手荷物から紙と鉛筆を取り出す。

 住所を教えようとしていると、ふと小夜子がモジモジしているのに気がついた。

「小夜ちゃん書かなくて覚えられる?」

「えっ、い、いいの?」

 少し怯えながら、小夜子が聞き返す。

「いいのって……。明日来ないの? 来るでしょ?」

 当たり前だろ、と言わんばかりの優の態度に、小夜子が表情を明るくする。

「い、行く! お仕事早めにあがるから!」

「えっ、仕事!? もしかして小夜ちゃん社会人!?」

 予想外の返事に優が驚きの声を上げた。子供みたいな外見のくせに社会人とは。全然似合わない。

「だ、だって、私十六だよ。が、学校は春に卒業したし」

 忘れてたが、小夜子は歳上だった。自分が今年度卒業なんだから、留年してない限りは既に卒業しているはずである。

「そういやそうか、学生あたしと雪子だけだった……。なんの仕事してんの?」

「お、おうちの手伝い」

「家ってなんかやってるの?」

「お菓子屋さん」

 小夜子の実家は和菓子屋である。

 お菓子作りが仕事とは、女の子のあこがれの職業の一つである。なんと羨ましい。

「なにそれ可愛い! 超可愛い!」

「き、きんつばも作ってる」

「あ、それで今日お菓子の話題に食いついてきてたのか」

 なるほどなー、と合点がいった顔の優。

「あの、住所は……」

 会話が脱線してしまい、秦野がちょっと困った顔でそう言った。

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