第9話 八重桜

 雪子の試合で一回戦が全て終了した。

 あっという間に過ぎてしまった気がするが、気が付けばもう正午を回っている。

 実行委員会から一時間の昼休憩を取り、その後二回戦を行うとの連絡があった。

「父ちゃん母ちゃん、あたしの試合ちゃんと観てた?」

 優は昼休みに入るなり、家族の元へと向かった。

「おお、優」

「あんた意外と強いわねぇ。あんな大きい人に勝てるなんて」

「母ちゃんってあたしの事全然信じてないよね……」

 母は手荷物から弁当箱を取り出している。

「姉ちゃん次勝てんの? あの三代川って人でしょ?」

 怜が聞くと、優は難しい顔をした。

「う~ん……。正直厳しいんだよなぁ?。すげぇ上手いんだもんあの子」

「だよねー」

「優、見た感じだが、あの子はちょっとした天才だなぁ」

 父が言う。

「でも、寝技ならお前に勝てる奴はいないよ。お前のほうが上だ。自信持て」

 父の言葉に、優が表情から陰りを消した。

「おうよ。任せときな父ちゃん」

「投技で一発で失神させられたら笑えるよね」

「あんたねー、お姉ちゃんががんばってんだからちゃんと応援しなさい。アンタって子はほんとに憎まれ口ばっかり叩いて……」

 母が怜に小言を言う。まさにいつもの光景である。

 やはり家族はいい。

 落ち着く。

「優、あんたここで食べるの?」

 母が優に尋ねる。友達と食べるのか、家族と食べるのかということだ。

 やはり優くらいの年頃だと友達と食べたいだろう。

「ん~、雪子と一緒に食べてこようかな」

「じゃあはい、これ。あんたの分」

 母が小さな弁当箱と水筒を渡してくる。

「次も試合なんだから食べ過ぎるなよ」

「わかってるわかってる」

 父の忠告に返事をすると、

「じゃあちょっと行ってくるね」

「雪子ちゃんに迷惑かけるんじゃないわよ」

 優は弁当箱片手に雪子の下へと向かった。


「あら、八神さん」

 雪子の所へ向かう途中に、宮若流の津吹師範に出くわした。

 相変わらず恰幅の良い体型で、今日は美しい留袖を着用している。

「津吹先生」

「初戦はお見事だったわねー。さすがだわ。技の豊富さは今回の出場者でも一番じゃないかしら」

「あ、どうもです」

 誉められて優がぺこりと頭を下げる。

「先生は今日は格好いい着物ですね」

「あらわかる? 今日はお偉いさんがいっぱいだからちょっとオバチャンも気合入れちゃったのよ~。ほら、武道袴もいいんだけどね、たまにはオシャレしないと自分が女だって忘れちゃいそうじゃない?」

 こうしてしゃべっていると、本当に偉い先生だとは思えない。単なるおしゃべり好きのおばちゃん以外の何者でもない。

「あ、そうそう。八神さんって小夜子ちゃんのこと前から知ってたの?」

 ふと、そんな事を尋ねてきた。

 三代川小夜子のことである。

「あ、いえ。今日知り合いになりましたけど」

「あら、それにしては仲良さそうだったから。あなたってなかなか社交的よね、お友達作るのが上手」

「そうですかね?」

 自分では特にそんな風にも思わないが。むしろ場の空気が読めない、人付き合いが下手な人間だと思っているくらいだ。

「もしよかったら彼女ともこれからも仲良くしてあげてね。桂都古流が無くなって寂しがってるのよ」

 んん? と優が訝しむ。

 今少し変なことを言わなかったか?

「無くなった? って言いました?」

「あら、知らなかったの?」

 逆に津吹が聞いてくる。

「全然知りません」

「桂都古流の五代目が岡本先生って方だったんだけどね、昨年高齢で無くなっちゃったのよ。お弟子さんも小夜子ちゃん以外は辞めちゃってて、桂都古流はあの子しかいなくなっちゃったのよ」

「そうだったんですか」

「それで稽古が出来ないっていうから、うちの宮若流に出稽古によく来てたのよ。ほら、あの子あんまり人付き合いが得意じゃないから、いっつも寂しそうでね」

 人付き合いの下手そうなのはなんとなく見ていてわかる。

 今日は自分や雪子以外と口を利いているのを見ていない気がする。

「でも八神さんがお友達になってくれるなら安心だわ~。あなたがいるって事は宗里さんもお友達になってくれたのかしら。私ね、柔術で友達の輪を広げるのって大事なことだと思うのよ」

 何気なく津吹の言ったその言葉が、優の胸に引っかかった。

 柔術で友達の輪を広げる。

 柔術で、友達?

 柔術は武術だ。他人と戦うための技術だ。

 戦うための技術で、友達を作る。

 矛盾しているような気もするが、何故だか優の腹にすとんと落ちたのだ。

「それ、なんとなくわかります」

 雪子の顔がふと浮かんだ。

 柔術と、友達。

 この二つの言葉で浮かぶのは、やはりあの顔だ。

「でしょう? 話の合う友達って大切よ~。あなたも年取ったらわかるけど」

 津吹の話は相変わらず止まらない。

 さっさと雪子の所へ行きたいのだが、話の切れ目がなかなかない。

「津吹先生、陸軍の大井大佐がお呼びです」

 ちょうどいい所で、若い男性が津吹を呼びに来た。

「あらやだ。忘れてたわ。じゃあ私行かないといけないから、八神さん、午後もがんばってね」

「はい」

 足早に去っていくつ津吹。

「……話が長いんだよなぁ、あの先生」

 呆れ顔で優はひとりごちた。


「雪子」

 人の中で雪子を見つけた。

「あ、優ちゃん」

 雪子は両親と一緒に座って話をしていた。

「優ちゃん探してたんだけど、なんだか津吹先生と話し込んでたみたいだったから」

「捕まっちゃってさ。あの先生ほんとに話が長いよ……」

「あはは。わかるわかる」

 雪子が笑う。

「優君。午前中はすごかったね」

「あ、おじさん」

 雪子の父親だ。

「ほんとにねぇ、雪子に勝つだけのことはあるわ。すごかったわ、おばさんびっくりしちゃった」

「あ、どうもです」

 以前一度会った、雪子の母だ。

「ね、お父さん、優ちゃんとご飯食べてきていい?」

「おう。ちゃんと時間前に戻ってこいよ」

「優ちゃん、うちの雪子のことよろしくね」

「よし、行こ優ちゃん」

 優は雪子の両親に会釈した。

「どのへんで食べよっか」

「外はやめようよ寒いから」

「まぁ適当にその辺で……」

 優がキョロキョロと周りを見回していると、会場の隅に見覚えのある姿を見つけた。

「お。……雪子、こっちこっち」

「あ」

 三代川がいた。

 三代川は隅にちょこんと体育座りをして、両手で小さなおむすびを持って食べていた。

「小夜ちゃん」

「!」

 声をかけると、三代川がびくりと反応した。

「一緒に食べない?」

 雪子が言うと、三代川はしどろもどろして、首をこくこくと縦に振った。

「小夜ちゃん、お弁当それだけで大丈夫?」

 三代川の弁当箱は小さい。そこに数口で食べられてしまう小さなおむすびが二つと、タクアンに梅干しが少し入っているのみである。

「し、試合するのに、お腹いっぱいだと、は、吐いちゃうから」

「あー、わかる。お腹いっぱいで柔術やるとすっげーきついよね」

「試合前はあんまり食べられないもんね。終わったらお腹いっぱい食べたい」

 優と雪子の弁当もやはり小さい。

「そういやさー、今日正一さん来てないの?」

 優が雪子に話を振った。

「なんか大喜びで応援来そうなもんだけど」

 今日は朝倉正一の姿を見かけていない。婚約者の晴れ舞台とあれば何をとっても駆けつけそうな気がするが。

「午前中に学校の用事があるから、終わったらすぐ来るとは言ってくれてたんだけど」

 雪子が残念そうな顔をしている。

「しょ、正一さんって……?」

「あー、雪子の彼氏」

「えっ、か、彼氏」

「もー、優ちゃんすぐ言っちゃうんだから~」

 だらしない笑顔で雪子がバシバシと優の肩を叩く。

「バレちゃったら仕方ないか~。実はね~、私婚約してるの~」

「す、すごい」

「そうでもないけどさー、最初は家の事情で仕方なくだったんだけどー、会ってみたらすっごい良い人でね、それで……」

 聞いてもいないことをベラベラと喋りだす雪子。

「……」

「でね、今日の試合のこと話したら絶対応援行くって言ってくれたの。正一さん忙しいの知ってるからムリしないでって言ったんだけどね、それでもって」

「小夜ちゃん、コイツ男の話するとバカになるから気をつけてね」

「う、うん」

「やだもー優ちゃん、それじゃ私が正一さんとの惚気話ばっかりしてるみたいじゃない~」

「いやしてるから。ウザいほどに」

「そんなことないよー。ちょっとだけだから」

「いやウザいよ」

「えー」

「ウザい」

「もー」

「ウザい」

「優ちゃんのバカー」

 優と雪子のやり取りを見て、三代川がくすくすと笑っていた。


 少しして、三人が食べ終わった頃。

「それでね、こないだ……!」

 会話の途中で、雪子がいきなり何かに反応するように不意に言葉を止めた。

「? どした?」

 雪子が会場入口の方を振り向く。

「……うわマジで」

 ちょうどそこでは、件の朝倉正一が会場に入ってきたところだった。

「お前なにその超感覚」

「正一さ~ん」

 ブンブンと手を振る雪子。

 正一は雪子に気がつくと、こちらに駆け寄ってきた。

「雪子さん! 遅れてごめんね」

「うぅんちっとも! 来てくれてありがとう!」

「雪子さんの活躍できる姿が待ち遠しくて走って来ちゃったよ。どう、一回戦終わった?」

「正一さんのお陰で勝ったの!」

「ほんとかい! さすが雪子さん!」

「ね、ウザいでしょ?」

 即座に二人の世界に入る雪子と正一。

 優は呆れ顔で三代川にそんな事を言っていた。

「あ、八神さん。こんにちは」

「ども」

 いつぞやの晴海で途中で抜けだした件以来だ。

 正一はあいかわらずの二枚目ぶりで、人のよさそうな笑顔である。

「……」

 雪子がちょっと困った顔でこっちを見ている。

「いいよいいよ行って来い。むしろ居ると邪魔だから」

「ありがとう優ちゃん! 行きましょ正一さん!」

「ああ、またね八神さん」

「へーいまたねー」

 満面の笑みで二人が遠のいていく。雪子は正一の話になるとてんでダメだ。

「……」

 三代川も驚きの顔で二人を見送っている。

「小夜ちゃんって彼氏とかいる?」

「……い、いない」

「だよね。あたしも」

「ちょ、ちょっとうらやましいかもしれない……」

 少し顔を赤らめながら言う。そんなもんかな、と優は内心呟いた。

「小夜ちゃん、さっき聞いたんだけど、桂都古流って小夜ちゃんしかいないの?」

「う、うん。先生も亡くなちゃって、他の、先輩も、辞めちゃったから」

「そっかぁ。残念だね」

「うん……」

「まぁ、つってもウチも親父とあたしと妹の三人だけだけどね」

「そ、そうなの?」

「今の御時世、柔術ってどこもそんなもんじゃない?」

 笑いながら優。

「つ、津吹先生の、宮若流なら、たくさんいるけど」

「あそこくらいだよ。あ、でも雪子のとこも何人かいるって言ってたっけ」

「い、いいなぁ」

「まぁでも、死んだ先生のためにも、小夜ちゃん負けられないね」

「……うん」

 三代川は小さく頷いた。

「あたしも負けられないから、午後は本気でやるよ」

「わ、私も」

 本気でやる、と三代川。

 二人の間に、心地良い緊張感が生まれていた。


 二回戦第一試合。

 八神無双流 八神優      十五歳 身長 四尺八寸。

 桂都古流  三代川小夜子桜花 十六歳 身長 四尺七寸。

 軽量の技巧派同士の対決である。注目の一戦だ。

「お互いに、礼!」

「よろしくお願い致します」

 優と小夜子はお互いに頭を下げた。

「構えて!」

 小夜子は軽く両手を上げ、小さく構えた。

 優は手はそのままに、右足を小さく引いた。

「始め!」

 試合が始まった。


 試合前に優は桂都古流について父に尋ねてみた。

「一昔前に随分流行った流派だよ。今では随分と廃れたが、投技では宮若流と並んで恐れられていたものだ」

 父はそんな風に言っていた。

 反面、

「寝技が強いというのは聞いたことがないな」

 そうも言っていた。

 ならば、戦略は決まりである。得意の寝技で行く。

 絞める、極める、固める。

 寝てからの戦いならば、八神優に勝てる女はどこを探しても見つかるものか。

 そう固く信じているからだ。


「いいいいやあああああああああああっ!!」

 小夜子が甲高い絶叫を上げた。

 なんという声だ。

(別人だよ本当に……)

 あの、どもりでおどおどしている内気な少女はどこに行ったんだ。

 試合場での小夜子は攻撃的で野性味溢れる柔術家である。

「ちぇええええええいっ!」

 小夜子が踏み込んできた。

 こっちの懐に潜り込んで、投げを狙う気だ。

 お互いに相手の袖をつかみ合う。

(引き込んで……)

 無理矢理に寝技勝負に引きこもうとするが、小夜子がそうはさせまいとこちらの重心の下に入り込もうとしている。

「いいやあああっ!」

 気合一閃、小夜子が内股で優を投げ飛ばした。

「くっ!」

 ずだん、と優の身体が畳を叩く音が試合場に鳴り響く。

(き、効いた……!)

 見事に投げられてしまった。

 だが、致命傷じゃあない。それは避けた。

 畳に倒れ込みながらも、優は小夜子の道着を放さない。

 ここからだ。

 投げられてしまったが、ここから寝技だ。

 自分の土俵だ。

(悪いけど小夜ちゃん、投げであたしに手傷を負わせられなかったらもう負けだぜ!)

 これから先はなにもさせない!

 そう思った時である。

 小夜子が抑えこみに来た。

(!)

 優が驚きの表情を浮かべる。

 別に抑えこみに来たことに驚いたわけではない。そんなことは柔術家ならだれでもやる。別に大した話ではない。

 驚いたのは二点。

 一つ目は、その動きの速さ。

 素晴らしい無駄のない動きであった。寝技に卓越した優が、とっさに返し技に入れなかった。動きに隙がないのである。

 そしてもう一つ。

(こいつ……!)

 耳が変形していた。

 これまで髪の毛に隠れて見えていなかったが、小夜子の耳はまるで餃子のように膨れ上がり、おかしな形に変形していた。

 通称、餃子耳。

 医学的には正式名称は耳介血腫という。

 体質にもよるが、寝技をやりこむとこすれて耳が潰れて、変形してしまうのだ。

 つまり、

(こいつ……寝技もかなりやりこんでるぞ!!)

 寝技なら楽勝などとんでもない。寝ても立っても三代川小夜子は強敵だ。


 試合開始から五分が経った。

「優ちゃん……」

 雪子は両手を痛いほどに握りしめ、畳の上の両者を見つめている。

 今のところ、試合は五分五分だ。

 隣に立つ正一のことですら、今は忘れている。

 勝て、優。

 勝って私の前に立ってくれ。


 帯取返。

 腕絡み。

 腕ひしぎ腹固め。

 送り襟絞め。

 裏十字。

 次から次へと優は技を繰り出している。

 しかし、小夜子がそれを凌ぐ。

 極まらない。

 どの技も仕留めるに至らない。

 小夜子も反撃してくる。

 肩固め。

 十字絞め。

 優が凌ぐ。

 強い。お互いにそう思っていた。


 今や、八神優の寝技は女子柔術では有名だ。

 桜花大会の帝都予選。あれのせいだ。宗里を寝技で破ったチビの噂は、狭い女子柔術会をあっという間に駆け巡ったのだ。

 小夜子ももちろん知っていた。聞いたのは宮若流の津吹師範からだ。

 おそろしく強いという。

 戦うことになれば、寝技は避けるべきだと皆が言う。

 だが、自分も寝技には自信がある。

 だから、思ったのだ。勝負してみたいと。

(つ、強いっ!)

 迂闊だった。徹底して寝技を避けて、立ち技で戦うべきだった。

 関節技、絞め技、押さえ込み……。全ての技術が流れるように連携して襲い来る。

 立って有利に戦いたいが、立たせてくれない。立たせてもらえそうにもない。

 これまで戦った、どんな相手よりも強いのではないか?

 八神優の動きが輝いて見える。なんという美しい技の数々を持ってるんだろう。

 立ちたいが、これを、この寝技の攻防をもっと続けたい気持ちもある。

 自分だって負けてない。

 確かにこの娘は強いけど、血反吐を吐いて身に付けた自分の寝技が負けるものか。

 なんだろう。

 よくわからないが、苦しくて辛くて、たまらなく楽しい。


 試合開始から十五分が経った。

 試合は小康状態に入っていた。

 寝ている状態の優の足の間に、小夜子が片膝を立てて座って居る。

「はぁっ、はぁっ」

 小夜子は凄まじい汗をかいており、道着がびっしょりと濡れていた。

 しかしそれは優も同様だ。

 小夜子は優の服のどこを掴んでも湿り気を感じている。

(本当に、強い……)

 これほどの苦戦をするとは思わなかった。

 昨年、桜花柔術大会に出た時。

 同じ十五歳の中で、自分の実力は完全に飛び抜けていた。病弱で身体が小さくいつも寝込んでいたかわいそうな三代川小夜子は、桂都古流柔術で無敵の柔術家に変身していたことを強く実感できた。

 自分が強いということがこれほど楽しいとは思わなかった。

 負けたくない一心で努力していた結果がこれか。努力はこれほど人を成長させるのか。

 自分の強さに酔いしれた。

 投技が面白いように決まっていた。

 先生に習った技で相手がぽんぽんと倒れていく。

 別に外国になど行きたくなかったが、強敵を打ち倒すあの高揚感をまた味わいたくて、居ても立ってもいられず、この西行きの選抜試合に参加した。

 一回戦の相手は大したことはなかった。自分の敵ではなかった。

 しかし、この相手。

 急に自分に話しかけてきたこの少女。

 自分と同じく小さな細い体。

 なんという強さをもっているのだろうか。自分と同じか、それ以上の鍛錬をしてきたのだろうか。

 彼女は自分と同じだ。同種の人間だ。

 ふつふつと、今まで感じたことのない、全く異なる別の高揚感が湧き出ていた。

 心の中は火山が爆発したかのように、闘志でぐつぐつと煮えたぎっている。


 優は小夜子との戦いに本当に四苦八苦していた。

 立っての勝負では向こうが優勢。寝ても五分、強いて言ってもやや自分が有利な程度だ。

 強い。

 雪子の他にも、こんなに強い女が居たのか。

(小夜ちゃんすげぇよ……。ほんっとにすごいなぁ)

 下から技を仕掛けていくが、小夜子はそれらをかわしていく。

 小夜子は凄まじい形相をしていた。まるで鬼の笑みだ。

 そしてあの絶叫。

 ずば抜けた実力。

 小夜子が寂しそうな理由がわかった。これじゃあ怖がってみんな近寄らないだろう。

 小夜子。

 しかし、今は違う。

 自分もおんなじなのだ。

 自分だけじゃない。雪子だってそうだ。

 小夜子があんな絶叫をあげて戦いに臨む気持ちが、自分たちにはよくわかる。

 もう孤独ではない。小夜子だってわかるだろう、もう孤独じゃないのだ。

 自分もいるし、雪子も居る。

 同じ価値観を分かち合える人間がいるのがわかっただろう。もう、寂しくはないはずだ。


 試合開始から二十五分が経った。

 互角の攻防はとうとう均衡が崩れた。有利になったのは、優である。

 二人の明暗を分けたのは、体格差だ。優の方が少し小夜子よりも大きく、重い。たったそれだけの違いが、徐々に勝負に影響しはじめていた。

「くっ、おっ」

「ううううううううっ!!!」

 優が小夜子を組み伏せた。

 左手で肩、右手で腰を抑えこむ。横四方固めだ。

 ここからじりじりと動いていき、さらに有利な体勢を取る。そして、じっくりと技を使い、仕留める。

 優の両足が小夜子の暴れる右手を抑える。優はじりじりと移動し、小夜子の両胸に自分の腰を載せた。

 両手で小夜子の左腕を掴む。得意の腕絡みだ。

 非力な小夜子ではもうこの体勢からではどうしようもない。

「うう~っ! ううううう!」

 小夜子が鬼の形相で唸りながら暴れている。

 しかし、無駄だ。

 優が小夜子の左手を徐々に絞め上げ始める。これが極れば、勝ちだ。

「うううう!」

 小夜子の抵抗が強まる。

「うう!」

 突如、何を思ったのか、小夜子が右手で優の尻を触ってきた。

(……?)

 一瞬怪訝に思う優。

 しかし、尻を触るどころではない。小夜子はがっしりと尻の肉を鷲掴みにし、もみしだくように指を動かしている。

(な、なにしてんだこいつ)

 突如の行動にびっくりするが、技は当然解かな……!

「うひぃっ!!」

 優が突如、奇声を上げて両手を放した。技が解ける。固め技も全部である。

 小夜子は跳びはねるように脱出した。

「し、信じらんないっ!」

 お尻を抑えて、優が顔を真赤にしている。

 小夜子がやったこと。それは、なんと、優の肛門に指を突っ込んだのである。

 古流柔術に昔からある、固め技を外す裏技であるが、実際にやられたのは初めてだ。

 もちろん、反則である。

 審判は指を入れる所は見ていない。だが、優の反応を見て、もしやと思った時

「いいいいやあああああああああああっっ!」

 審判から反則の裁定が出る前に、混乱している優に小夜子が体当りした。二人がもつれて倒れる。

「あきゃあっ!」

 奇声を上げて、小夜子が優の前襟を掴むと同時に、その親指を立てて右手を跳ねあげた。

「うわっ!」

 目だ!目を潰しに来たのだ。

 危うくかわす。優の左目の下に、小さな切り傷ができる。

「こ、この野郎ぉっ!」

 いきなりの反則攻撃に、今度は優が爆発した。

 右肘を小夜子の顔面に叩きこむ!

「あがっ!」

「死ね!」

 倒れた小夜子の頭部を、優が迷わず踏みに行く。

 だん! と大きな音がして、すんでのところで小夜子が横転して踏みつけを避けている。

「かかって来いコラァ!」

「ああああああああ!」

 憤怒の形相で対峙する二人。

「待て! 待て待てっ!」

 お互いに飛びかかろうとする所で、津吹が二人の間に割って入った。

「反則よ二人とも!」

 肛門への攻撃に、目潰し。

 肘打ちに、踏みつけ。

 全て酷い反則である。

「次にやったら即座に失格させます!」

 裁定は、両者失格ではなく、厳重注意であった。

 蓬莱柔術は反則に対する裁定が甘い。武術の勝負なのだ。反則をくらうような甘さで何が武術か、という競技に有るまじき野蛮さが色濃く残っているせいである。

 酷い形相の二人を一旦離れさせ、津吹は二人に強い口調で再度警告した。

「いいですか、絶対に反則はしないように。これは殺し合いではありません」

 優も小夜子も睨み合っている。

「続行!」

 試合が再開された。


「父ちゃん、さっきのあれ」

「うむ。あれ、三代川が裏技を仕掛けたな」

 試合を見つめる怜と父には、二人の間の攻防が見えていた。

 父はさすがに優の性格がよくわかっている。

 優は追い詰められると、ああして冷酷な性根を見せる事が今までも何度かあった。

 優はけして酷薄でもなければ残酷な人間とも言えない。怒りっぽい所はあるが、優しい性根の女の子だ。

 だが。殺されるくらいなら、相手を殺す。それができる人間でもある。

 追い込まれるとそれをやりかねない人間なのだ。

 しかし父は、娘にはそんな戦いはして欲しくない。

 武術というのは本来凄惨なものだ。目玉をえぐったり、喉を潰したりするのが本来の姿である。だが、これからの時代にそんな風にしか戦えない人間は必要とは思えないし、可愛い娘がそんな事をする姿を見たくはない。

 裏技など、もう使ってくれるな。

 父はじっと娘の戦いを見つめていた。


 雪子は二人の試合を見つめて血が出そうなくらいに拳を握りしめていた。

 八神優と、三代川小夜子。

 二人の本性が見えた。

 虎だった。

 何が何でも負けるまいとする、闘争心に溢れた虎だ。

 強さ比べのためには殺し合いでもしてしまう、虎の性根が潜んでいるのだ。

「……」

 自分にも出来るだろうか、と自問自答する。

 あそこまで勝負に執着できるか。

 反則してまで勝ちたいのか。

 人殺しなどしたいとはまるで思ったことがない。殺す必要はないし、目を潰したりしてまで戦う必要など無いと思っている。

 小夜子は何故、あんな行動を取ったのか。

 負けたくないのはわかる。

 しかし、あそこまでやる必要はないはずだ。

 優だって、指を尻に入れれた時点できちんと抗議していれば、反則勝ちで終わったはずだ。やり返す必要などないではないか。

「……雪子さん、大丈夫?」

 隣の正一が心配して声をかけてくる。

 雪子は大丈夫、と返すと、試合に再び集中し始めた。

 途中、ぽつりと

「……でも、優ちゃんのお尻にあんなことしたのは許せない」

 と呟いたので、正一はちょっと困惑した顔をしていた。


 二人とも裏技を再度封印し、真っ向勝負に戻っていた。

 疲れすぎて、二人とも思考が止まりかけている。

 小夜子は身体が勝手に動く中、ひとつの事を考えた。

(……私、なんであんなことをしたんだろ)

 あんなこと、というのはもちろん、先ほどの反則のことだ。

 いくら負けたくないからとはいえ、あそこまでしてしまうとは。

 なぜか。

 桜花とまで呼ばれる自分が負けるのが許せなかったからではない。

 桂都古流が負けるのが許せなかったからではない。

 負けたら死んだ先生に合わせる顔が無いからではない。

 うまく説明できない。

 言葉にできないなにか、自分の中に確かにある何かがまだ負けを許さなかったのだ。

(きっと嫌われちゃっただろうな)

 久しぶりにできた友だちだったのにな、と思う。

 柔術の大会で自分に話しかけてくる人は最近誰もいなかった。

 みんな自分を恐れて近寄らない。

 口下手な自分は、自分から話しかけることが出来ない。

 時々、話しかけてくる人もあったが、自分の戦いを見るとすぐにそれもなくなった。

 寂しい。

 だが、今はなんとなく違うような気がする。

 寂しいが、寂しくないのだ。

 反則で嫌われてしまっただろうが、それでも目の前の少女は自分と同じだと思える。何か繋がるものが有るのだ。

 一言で言うならば、同類であろう。

 自分という生き物は外側はこんなだが、例えるなら内面に虎を飼うような、抑えきれないものを持っている。そんな女が、自分一人ではなくて、世の中には何人もいるのだ。

 それがわかっただけで、寂しさが減った。自分だけがおかしいだけではないのだ。

 彼女は全力で答えてくる。

 もう少し戦っていたい。


 試合開始から三十四分が経過した。

 手足に力が入らなくなりつつ有る。身体が重い。

 あの飛燕のようだった小夜子の動きも、今では見る影もない。疲れ果ててのろのろと、今やカタツムリのようだ。

「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ」

 組んだ。

「はっ、はっ、はっ、はっ」

 お互いに呼吸はもう限界だ。

 優は思う。

 何か仕掛けねば。

 小夜子に技を返す力は残ってない。何か使わねば。技、技、技……。

 脳裏からこれまで学んできた大量の技法が思い出される。

 朝霧。薄重。紅山。霞。潮風。初雪。青葉。暁。枝垂。衣笠。衣担。背負。帯取返。琴平。石割。

 今の体力で使える技が思いつかない。

 手足が動かなくても使える技があればいいのに。

「……ゆう、ちゃん」

 ふと。小夜子が、絶え絶えな声でそう自分を呼んだ。

「………さっき、ごめんね」

 謝罪の言葉だった。

「……こっちこそ」

 優もなんとかそれだけを喉から絞り出した。

 気にしてないこと、殴ってすまなかったこと、踏みつけで殺しかけたこと。色々言いたかったが、声が出なかった。

「……かつら、みやこ、りゅう」

「……?」

「いくよ」

 小夜子の顔に狂気と歓喜の形相が戻った。

「いいいいやあああああああああああっっ!!」

 小夜子の絶叫。

 小夜子がぐい、と優を前方に引きずる。

「あああああああ!」

 優の足を刈り、投げ倒そうとする。

 桂都古流の投技『行雲』だ!

「ぬ、くっ!!」

 だが、小夜子にもう力がない。

 優はよたよたと崩れ、べたりと尻餅をついた。

「はあっ、はぁっ」

「……はぁ、はぁ」

 疲れ果てた。

 だが。

「……小夜ちゃん」

「……え」

「今度は、あたしの技」

 そこで、息継ぎ。最後の力を、体の隅々からかき集めるように。

「見せる」

 優が、小夜子の右足にしがみついた。

「!?」

 股の間に顔を埋めるように、下へと入り込む。

 そして小夜子の股の間から手を伸ばし、袴の後ろを掴む。

(倒される!)

 後ろに倒されることを警戒し、小夜子が重心を前に倒す。

 その途端。

 優が股の間をくぐって、小夜子の背後に出た。

「なっ……」

 なんだこの技は!?

 股の間? 股の間をくぐって背後に回る技なのか!?

 優が小夜子に後ろから抱きつく。

 完全にはめられた。

 こんな技があるとは。

 相手の股の間をくぐるとは、なんという発想だ。

 優が手を小夜子の首に巻き付ける。

(裸絞!)

 気がついた時には技が入っていた。

 腕が締る。

 優の細い腕が、自分の頸動脈を一気に締め上げてくる。

「……くっ、はっ」

 必死に抵抗するが、もう腕に力が入らない。

 自分の体を動かしていた燃料が、全て空になってしまったようだった。

 天井が物凄く高く見えた。

「………」

 ほんの十数秒後、三代川小夜子は気を失った。


「一本! それまで! それまで!」

 津吹が試合の終了を宣言した。

 周囲からわぁ、と歓声が上がる。

「素晴らしい!」

「すごいぞ二人とも!」

「八神も、三代川も、凄まじい腕前だ」

 口々に称賛の声があがるが、疲れ果てた優には届かない。

「…………」

 気を失った小夜子は、津吹に抱えられて医務室へと運ばれていった。

 優は、試合が終わっても、試合場の真ん中でへたり込んだままだった。

「……」

 雪子が異変を察して、駆け寄ってきた。

「優ちゃん!」

「……ゆ、雪子」

「大丈夫?」

「ご、ごめん、腰が抜けて、立てない」

 足に全く力が入らなかった。

 全力を使い果たしてしまったのだ。

「肩貸したげる」

「あ、ありがとう」

 がくがくと震える足でなんとか立ち上がり、雪子にもたれかかる。

 こんなに燃え尽きた戦いが出来るなんて。

(柔術をやっていて本当に良かった……)

 優は雪子の髪の匂いを吸い込みながら、そんな事を思った。

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