第8話 春日

 寒さが一層厳しくなった。帝都も雪が積もり始め、朝起きると外は一面銀世界になっていることもしばしばである。寒い。

 八神家の道場には暖房設備など当然無い。準備運動を入念にして、身体を温めてから練習に望まないと、凍えそうである。隙間風が酷いので、雪が吹きこむことすらあるのだ。

 選考試合を明日に控えた夜。道場には父と姉妹が座っていた。

「優、明日は試合だから今日はこの辺でやめとこうか」

 父の言葉に、優は少し不満気である。

「なんか練習しないと不安だなぁ」

「ここしばらくアホみたいに鍛えてたから大丈夫なんじゃないの?」

 隣に座る怜がそう言うが、やはり不安なものは不安である。

「優」

「なに?」

 父がちょっとだけ真面目な顔をして、言った。

「ケガはなるべくしないようにな」

「わかってるよ」

「相手にもだぞ」

「へいへい」

 父は至極真っ当なことを言っていた。真っ当すぎて耳にタコである。

「優、がんばれよ。明日は父ちゃんたちも応援行くからな」

「就職かかってんだから気合入れろよ姉ちゃん」

「大丈夫。あたし超強いから!」

 優は気合十分である。負ける気などさらさら無いが、明日は全力で戦おう。

 ここしばらくボロボロになるまで練習に付き合ってくれた父と妹には感謝しきれない。

 明日が楽しみだ。


 帝都の都心に近い鍛冶町に春日神社という大きな神社が建っている。

 ここの神社に隣接している春日会館が、今回の試合の会場となっていた。

 朝十時に試合開始のため、優は家族とともに、九時には着くように家を出ている。今日はさすがに父も紋付き袴、母も留袖を着て正装している。

 春日会館は一昨年完成した大きな建物で、桜花大会の時とは比べ物にならないくらい立派である。

 会場に到着し、中に入るとそこには既にたくさんの人が集結して混雑していた。女柔術の試合にこれほど人が集まるとはしばらくなかった話だ。

「津吹先生」

 会場に着くと最初に父が、優を連れて宮若流の津吹玉緒師範の下を訪れた。

 今日の津吹は鶴模様の留袖に、しっかりと化粧をしてめかし込んでいる。

「あら、八神先生」

「今日はよろしくお願い致します」

「こちらこそ。お嬢さんは立派な武術家になりましたね」

「いえ、とんでもない。見ての通り成長が足りないもんで……」

 笑って言う父。

「今日は随分と人が居ますね」

「ええ。なにしろ政府主催ですから。ご覧下さい、外務省に陸軍省、警視庁からも高官の方々がお見えなんです。普段から女子柔術にこのくらい興味を持って戴ければ、桜花大会だって中止せずに済んだんですけどね」

「時代の流れですから、仕方ありませんね」

 苦笑する二人。

「あの、津吹先生。更衣室どこですか?」

 優が尋ねる。

「廊下に出て右よ」

「ありがとうございます。父ちゃん、あたし着替えてくる」

「おう。迷うなよ」

 優は家族と別れ、更衣室へと向かった。


 女子更衣室の扉を開けると、そこでは何人かの選手が着替えている最中であった。

 見知らぬ顔ばかりで、誰も彼もが強そうに見える。もしかしたら、今日の自分の対戦相手もいるのかもしれない。

「優ちゃん」

「雪子」

 そんな中で、見知った顔がひとつだけあった。

「よかったー。知らない人ばっかりで心細かったの」

 相変わらずの笑顔で雪子が言う。

「いや、今日すごいねー。桜花の時と段違いだよ」

「ね、凄いよね。さすが政府主催って感じ」

 雑談しながら荷物を置いて、着替えを始める。

「緊張するなぁ。優ちゃんとぶつかるまではなんとしても負けたくないんだけど」

 雪子が帯を解いて、小袖を脱いだ。白い肌が顕になる。

(……)

 その身体を優はじっと見た。

 あまり筋肉質には見えないが、鍛え込まれている。太くはないが、余分な肉が少なく締まっている。しっかりと鍛え上げてきたのがわかる。

「え、なにちょっと。あんまりじっくり見ないでよっ」

「あ、ご、ごめん」

 少し顔を赤らめて、雪子。

「言っとくけど優ちゃんには勝ってるからね」

「いや何の話だよ」

 着物を脱ごうとして、雪子が仕返しのようにじーっと見詰めてくるには参った。


 蓬莱帝國渡悠派遣使節団 女子柔術世話係 第一回選抜予選試合 実施要項

 蓬莱全國ヨリ招集サレシ十六名ノ女子柔術家ヨリ悠國ニ派遣スル一名ヲ選抜スル

 選抜方法ハ勝チ抜キ戦トス

 勝敗ハ逆技 絞技 投技ノイヅレカニ依ル一本勝チ 又ハ 一方ノ戦闘不能 又ハ イヅレカガ負ケヲ認ル場合 又ハ 審判ガ勝敗ヲ認ル場合ニ決ス

 以下ヲ禁ズル

 一、 当身

 一、 指捕

 一、 目、鼻、口、耳ニ指ヲカケル行為

 一、 相手ノ首ヲ指デ直接絞メル行為

 一、 其他武士道精神ニ鑑ミ、倫理常識ニ外レタル行為

 上記の紙が各選手に渡され、また壁に張り出されていた。

 参加者十六名。優勝するには四勝しないといけない計算である。

 今日は全員二試合を行い、四名まで絞る。次回の試合で一人に絞るとのことだ。


 初戦の対戦表が発表された。

「あ、優ちゃん最初だよ」

「えー、あたし最後がよかったなー」

 優は第一戦。相手は熱田新々流柔術の松屋菊江とある。十七歳。

「熱田新々流か……。優ちゃん、強敵だよ」

「そうなの?」

「そうだよ。知らないの?」

「知らない」

「もぅ、呆れるなー」

 次に対戦表から雪子の名前を探すと、今日は自分とは当たらない所に名前を見つけた。どうせなら決勝で当たりたかったので助かった。相手は守口流柔術の松成美津子十九歳とある。

「雪子の相手は守口流だって。知ってる?」

「うん。一応。気を引き締めないとなぁ」

 熱田新々流、守口流、ともにどんな流派か優はよく知らない。

 だが、自分も雪子も負けないはずだ。

 負けるはずがない。とりあえず不安を抑えこむためにも、優は自分にそう言い聞かせた。


「第一試合! 八神無双流、八神優!」

「はい!」

 審判長は前回と同じく宮若流の津吹珠緒師範である。

 優は元気よく返事をすると、試合上へと足を踏み入れた。

「閣下、あれが桜花大会の帝都予選で優勝した八神です」

 来賓席では政府のお偉方が優を見ながら何やら話している。

「随分と小さいな……」

「あんなに細くて、本当に強いのかね」

 ひそひそと色々言われているが、優は注目株である。ここで快勝して強さを見せつけてやりたいところだ。

「熱田新々流、松屋菊江!」

「はい!」

 呼ばれて入ってきた松屋という相手は、巨体の持ち主であった。

(でかいなぁ)

 身長こそそれほどではないが、身体の太さが半端ではない。

 手も足も首も胴も、肥満体でかなり太い。体重は優の倍以上だろう。

 素手の格闘において、体重は大きな有利を生む。身体が大きいとそれだけで強い。

「松屋というのはでかいな」

「八神とは子供と大人の差があるではないか」

「不公平ではないのか?」

 会場がざわついている。

 蓬莱柔術の試合に、体重差による階級制というものはない。

 無差別のみだ。不公平だろうがなんだろうが、関係がない。

「構えて!」

 松屋は両手を高々と掲げた。

 優は右足を引いた。

「始め!」

 試合が始まった。


 見てすぐに解ることは、腕力勝負は無理だということだ。

 松屋は見るからに力が強そうだ。

 松屋が掴みに来る。

(来たな)

 優も相手を掴み返す。

(……!)

 掴んだ瞬間、優は驚愕した。

 道着から伝わる相手の感触。

 まるで大きな岩である。押しても引いてもビクともしない重量感だ。

(こ、これはちょっと骨が折れそうだな)

 強敵だということを再認識する。

「てぇいっ!」

 松屋が押してくる。

「うっ」

 力に全然逆らえない!

(すっげぇ圧力!)

 倒されないようにこまめに重心を移動させて凌いでいるが、これはマズい。

 体力差が大人と子供くらいありそうだ。

 今更ながら、自分の身体の小ささが恨めしい。

(でも……)

 それだけで勝てるとは思うなよ、と心の中で呟く。

(“やわら”は、力よりも技だ!)

 優が相手の膝を蹴り、飛び跳ねた。

 相手の腕に組み付き、“枝垂”を狙う。宮若流の楠原を破った技だ。

 いかに松屋が力が強くても、腕一本分と優の全身の力では優の方が強い!

「ッ!」

 松屋がいきなりの跳び関節技に面食らって体勢を崩す。

(よし)

 “枝垂”は完全には極っていない。相手の肘が伸びきらず、技の位置がズレている。

 優は即座に松屋の足を掴んで引っ張り、相手を転がす。極まりそうに無ければ即次の技へと移行する。

 松屋の上に乗ろうとした所で、松屋の両腕が伸びてきて阻止される。

 さすがに寝てても凄い力である。

「やるな……っ!」

 優は自分の袴の裾を、逆の足の指で器用に掴むと――

 袴の裾を使って、足だけで松屋の首を絞め上げ始めた!

「!?」

 松屋が驚きの表情をしている。

 優がぐいぐいと足をねじ込んでいく。

 袴の裾で松屋の首が絞まる。

 三十秒ほどして。

 松屋がばんばん、と床を叩いた。

 参った、の合図だ。


「お疲れ様! 優ちゃんすっごーい」

「楽勝楽勝」

 優は雪子の隣に腰を下ろした。

 口では楽勝などと言っているが、実情は当然違う。ギリギリの戦いだった。最後の絞めがあのまま入らなければ、体重差に押されてやられていたかもしれない。熱田新々流も松屋も、甘い相手ではなかった。

 短時間とはいえ、全力を使った身体から汗が湯気のように立ち上っている。

「最期のあれ、すごいね。あんな技初めて見たよ」

「ああ、あんまりやらないよね普通」

 人間の足の指というのは手の指ほど器用には動かない。思いついてもなかなかこれを技として成立させようという流派は少ないだろう。

「なんて言うの」

「そのまんま“袴絞め”だよ」

「袴絞めか……」

 雪子が少し目を細めた。

「本人の目の前で対策練らないでよ」

「あ、ごめんごめん」

 笑いながら雪子。

 会話を一旦切り上げ、二人が目線を試合上に戻す。

 第二試合が始まるところだった。

「石切流体術、小原道代!」

 はい、と返事をして一人目の選手が入る。中肉中背で、あまり目立った身体的な特徴はない。

「桂都古流柔術、三代川小夜子桜花!」

 はい、と小さく返事があり、小柄な少女が出てきた。

 会場がざわつく。

「あれが……」

「三代川です」

「桜花の……」

「さっきの八神より小さいのではないのか?」

「子供ではないか……」

 あちこちから色々な会話が聞こえてくる。

「ね、雪子。あの子さぁ」

「優ちゃんも気になった? 三代川さんってやっぱり注目されてるね」

 雪子がじっと三代川を見つめている。

「小夜子桜花って変な名前だよね」

「いや何言ってるの! 桜花は名前じゃないよ!」

 すかさず雪子が突っ込む。

「えっ、そうなの? でも名前呼んでたし」

「桜花大会の優勝者は『桜花』の称号が付くって、地区予選の時に説明あったじゃない。覚えてないの?」

「あー、なんかこの間も誰かに説明された気がするけど忘れた」

 優は相変わらずこれだ。

「もー」

 雪子にたしなめられた。

 だが、少し考えて気付く。

「ん、あれ、ってことはあの人」

「去年の桜花大会優勝者だよ。優ちゃんもしかして知らないの?」

「え!? じゃあ歳上じゃん!」

 びっくりである。自分よりも小さいのに歳上とは。

「いや、最年少私達だからね?」

 雪子が呆れ顔で呟いた。

 実際、今回の選抜試合に招集されているのは、来年春に女学校卒業見込以上、二十歳以下の女子柔術家である。十五歳で来年卒業の優と雪子が当然最年少となる。

 注目を浴びている三代川小夜子は十六歳。優よりさらに一回り小さな体格で今回も最軽量の選手だが、昨年の桜花柔術大会を圧倒的な実力で勝ち抜いた強豪中の強豪である。女子柔術界では有名で、今回も優勝候補に数えられている。

 試合上に立つ三代川は、そんな強豪にはとても見えない。

 小さな身体の上に細身で、力がありそうには見えない。色白でおかっぱ髪、タレ目の美少女である。柔術と縁がありそうにすら見えない。

 だが。

「始め!」

「いいいいやあああああああああああっ!!」

 始めの声とともに、三代川が凄まじい金切り声で気合を上げた。

 会場中がぎょっとする。あの小さな身体からこんな声が出るとは。

 そして、本当の驚きはその次の瞬間にあった。

 小原が三代川と組みに行った時。

 急にべたんと小原が床に倒れ込んだ。

「!?」

 倒れた本人の小原がびっくりした顔をしている。

「なっ……!」

 雪子も優も驚愕の表情だ。

 もちろん、魔法を使ったわけではない。

 足払いである。

 三代川がやったのは、組んできた小原を足払いで倒した。それだけだ。

 しかし、技が完璧すぎた。

 まるで教科書のように完璧に、狙い澄ました超高速の足払いをかけたのである。

 あまりの見事さに、会場中が呆気にとられている。

「やああああっ!」

 そのまま三代川が小原の腕を捕り、腕ひしぎ十字固めに綺麗に極める。

 これもまた完璧な動きであった。流れるような動きである。速い。

 あっという間に小原の腕が伸びる。

「一本! そこまで!」

 開始十五秒。三代川小夜子桜花の一本勝ちである。


 試合が終わると、三代川はぺこりと一礼して試合場から下がった。

 先程までの瞬速の柔術家ではない、小さな少女に戻っている。さっきの裂帛の気合をあげていた人物と同じようにはとても見えない。

 周囲はまだざわついている。三代川が優勝で決まりではないか、あれこそ柔の具現ではないか、とあちこちから声が聞こえる。

「雪子雪子、あの人すげーよ。超すっげぇじゃん」

「ちょっとびっくりしたね……。私達もちょっとまずいかもしれないよ」

 小柄な者が大きな者に技術で打ち勝つ。

 柔能く剛を制す。その格言を見事に体現している。

「優ちゃん、次あの三代川さんと当たるんだよ」

 雪子が戦々恐々とした声で言う。

「……勝てる?」

「い、いやぁー……。正直わかんない……」

 さすがの優も簡単に勝てるとは言えない。

 しかし、勝てないとだけは意地でも口には出さない。

「……いや、勝つよ。勝つ。勝たないと雪子と戦えないし」

「そ、そうだね。絶対勝ってよ」

 弱気になってる場合ではない。勝たねば。

 勝ち抜いて、隣に座る親友ともう一度戦うのだ。


 三代川は試合場から下りると、選手の控え席へと戻った。

 選手の中にまじり、礼儀正しくちょこんと正座して座る。

 三代川が座ったのは、選手団の端っこだった。つまり、優の隣である。

 ふぅ、ふぅ、とまだ荒い吐息が聞こえてくる。

「ねぇ、三代川さん」

「え、は、はい?」

 急に声がかかり、三代川が上ずった声を上げる。

「すごいねぇ、超強いね。あたし二回戦で当たる八神です。よろしくね」

 話しかけたのは人見知りという言葉と無縁の優である。

 初対面のくせに、優は隣に座った三代川に気軽に話しかけている。優の物怖じしない性格はこういうときに実に便利だ。隣で雪子がびっくりした顔をしているが。

「あ、や、八神無双流の……」

 なんだか妙におどおどした態度の三代川。試合場での攻撃的な姿とは似ても似つかない。

「そーです。あたし以外にちっちゃい女の子がいるとは思わなかったよ」

「は、はい。ど、どうも」

 にこりと可愛く笑う。

「親近感わいちゃった。でっかい人にはあたしたちの苦労はわかんないよねー」

(ちょっと優ちゃん、その人先輩だからね!? 敬語敬語!)

 後ろから雪子が小声で突っついてくる。

「なんだよ雪子~」

「なんだよじゃないでしょ! すいません三代川さん、この子失礼で!」

「あ、い、いえ。いいんです。その、気にしないです」

 両手をぶんぶんと振って三代川。

「もー、優ちゃんって目上の人に対してって言うかさー」

「えー、そう? あたしってば結構失礼な子?」

「ちょっとね」

 雪子に注意されて、優はちょっと不満気な声をあげる。

「ほら、次の試合始まるよ」

「うん、ちゃんと観ますよ観ます。雪子って結構世話焼きさんだよねー」

「えー、優ちゃんにだけだよ。優ちゃんがちょっと変なことばっかりするから」

「変じゃないって。普通よ?」

「どこが。松野川さんと三原さんも優ちゃんちょっと色々アレだからって言ってたよ」

「なんだそのアレって」

 優と雪子は試合を観戦しながらダラダラと緊張感無く雑談を始めてしまった。

 まぁ、雪子の試合は一回戦の最終試合なので、それまで暇なのだ。他の人の試合を見ながらおしゃべりの時間である。他の選手が緊張して黙っているのに比べて、この二人だけ明らかに緊張感が足りていない。

「あ、今ちょっとあの人の足の抜き方上手くなかった?」

「優ちゃんとはやり方違うけどいいねあれ。今度練習してみようか」

「そうだね。あ、じゃあウチ来なよ。ウチの道場でやろう。こないだ近所で美味しい“きんつば”のお店見つけちゃってさ。食べながらやろうよ。食べてみたいでしょ?」

「ほんと? こないだの今川焼きとどっちがよかった?」

「微妙。僅差で今川焼きかもしれない」

「えー、そこはきんつばって言うところじゃないの?」

 話も脱線しまくりである。時々柔術の話題に戻る程度だ。

 さて、優が雪子とそんなどうでもいい雑談に華を咲かせている時。

 ちょいちょいと、優の袖を引っ張るものがあった。

「……ん?」

「……」

 隣の三代川だった。

「あ、あの」

「なに?」

 三代川は顔を赤らめている。

「け、敬語じゃなくてもいいです」

「なにが?」

 優が何言ってんだコイツと言わんばかりにポカンとする。

「き、きんつばも好きですけど」

 もじもじとそんな事を告白してくる。雪子も何がなんだかわからない顔だ。

「三代川さん、きんつば派?」

「は、はい」

「今川焼きは?」

「す、好きです」

「おおー、お菓子好き仲間だー」

 あははは、と優が笑う。

 エヘヘ、と三代川が小さく笑う。

 それを見て、雪子が何か気づいた顔をした。

「ちょっと優ちゃん」

「え、なに?」

 優の耳を寄せさせる。

「三代川さん、もしかして友達になりたいんじゃないかな?」

「そうなのかな?」

「会話に入りたそうだよ」

 言われて三代川を見ると、チラチラこちらを見ている。

 なるほど。そんな気もする。

「あ、敬語じゃなくていいってそういうことかな?」

「多分」

 雪子が頷く。

「んじゃ任せて」

「やわらかくね。あくまでも」

 優が自信満々に三代川の方を向く。

「ねー、三代川さん。あたしたちと友達になんない?」

「うわ、直だわこの子」

 後ろで雪子が驚きの声を上げている。

「歳近いし柔術仲間だしどう? 次の対戦相手だけど」

 三代川は優の言葉に嬉しそうにもじもじすると、

「う、うん。なりたい」

 と答えた。

「じゃあ友達~。握手握手」

「よ、よろしくね」

「あ、こっち雪子ね」

「小野椿流の宗里雪子です」

 ペコリと雪子が頭を下げる。

「桂都古流の三代川小夜子です」

 応じて三代川。

「固いよ挨拶が」

「いやね、優ちゃんだけだから。そうやって初対面でガンガン入っていけるの」

「そーかなー」

 優が疑問符。

「え、えっと」

「どしたの?」

「や、八神さん」

「優でいいよ」

「ゆ、優ちゃん……?」

「なに?」

「あ、あの、優ちゃんって呼んでもいい……?」

「いやだからいいって」

 会話の調子がなんとなく変な子である。ちょっとズレている。

「む、宗里さんも」

「私も雪子でいいですよ」

「ゆ、雪ちゃん……」

 なぜか呼んでいる方が照れている。

「雪ちゃんでもいいですよ。よく呼ばれます」

「わ、私」

 自分を指差す。

「……」

「……」

 何か付けてくれ、という事だろうか。

「……じゃあ、小夜ちゃん?」

「そ、それで」

 なんだかよくわからないまま、各自の呼び方だけ決まった。

 照れながらモジモジしている姿は非常に可愛いのだが、三代川のこの会話の調子の不思議さはなかなか周囲にいなかった感じだ。まぁ、面白いと言えば面白い。

「話戻すけど、今度さ……」

 優が和菓子に話題を戻そうとしたその時。

「第八試合! 小野椿流 宗里雪子!」

 津吹先生がこっちを見てそう叫んでいるのに気がついた。

「あ、やべっ! 雪子呼んでる!」

「うわっ! いつの間にこんなに進んでたの!?」

 おしゃべりに夢中になっていた間に、随分と時間が経っていたらしい。

 雪子の出番である。

「行ってくる!」

「雪子!」

 急ぎ立ち上がる雪子を優が呼び止める。

「がんばれ!」

「が、がんばって」

 拳を握って優が一言。三代川も真似して激励している。

 雪子は不敵に笑って、

「任せて!」

 試合場へと足を踏み入れた。


 対戦相手は長身の女性だった。

 雪子も背が高い方だが、あくまで女性の中で、である。相手は男性と比べても背が高い。

 小野椿流柔術 宗里雪子  身長 五尺三寸。

 守口流柔術  松成美津子 身長 五尺七寸。

 手足が長く、懐が遠い。体格差がかなりある。

「よろしくお願い致します」

 お互いに礼。

「始め!」

 雪子が構える。

 相手の松成は、高い位置から雪子を見下ろしている。

 しん……と試合場が静寂に包まれる。

(どうするか……。)

 雪子は戦略を既に幾つか思いついている。

 相手は恐らく、こちらの奥襟を掴みに来る。その時に腕をとって寝技に引き込むのが一つ。

 もしくは自分から突っ込み、相手の足を掴んで倒し、寝技に入るのがもう一つ。

 今回、雪子は優対策に寝技をかなり研鑽してきた。実戦で試してみたいという気持ちがある。

 いや、いっそ懐に潜り込んで背負投を狙うのが良いかもしれない。

 どの戦略も悪くなさそうである。

 松成はじりじりとこちらの隙を伺っている。

 じっと松成を見て、雪子は思う。

(案外細い……)

 手足にそれほど筋肉がついていない印象だ。体格は素晴らしい素質を備えているので、身長に頼るだけでそれなりに勝ててきているのかもしれない。だからと言って柔術が下手だと侮るつもりは毛頭ないが。

 今日の試合は両親が見ている。津吹先生も見ている。先ほど友達になったばかりの、昨年桜花の三代川も見ている。そして、今ではすっかり親友の優も見ている。

 出来れば、ここはひとつ、圧勝で行きたいものだ。当然、そう甘くはないだろうが。

 松成が右手を動かした。

 瞬間。

 たんっ、と雪子は前に跳んでいた。

 自分でも驚くほどに綺麗に身体が動いてくれた。

 左手で相手の右袖。

 右手で相手の前襟。

 背中を相手に貼り付ける。

「いけ雪子っ!」

 父の声が聞こえた。

 わかってる。

 見ててほしい。

 みんな見ろ!

「やああああっ!」

 雪子の喉から高い声が飛び出る。

 会心の背負投で、雪子が松成を畳に叩き付けた!


「っ! はっ!」

 松成の喉から声にならない声が漏れた。

 今の投げは効いただろう。下が地面であったならば失神していてもおかしくない一撃だった。

 倒れた松成を即座に抑えこみにいく。

「よっしゃあ! 雪子すっげぇ!!」

 背後から親友の声がする。

 格好いい所を見せられた。

 関節技に入ろうとするが、松成が巨体を振るって暴れる。

 思っていたよりもずっと力が強い。

「ううっ!」

 声を上げて、松成が仰向けから四つん這いへと姿勢を変える。人間、仰向けよりも四つん這いのほうが立ち上がりやすい。松成も背負投が効いたままの辛い状態では寝技に入りたくない。一旦距離を取り、身体を回復させるためにも立ち上がりたいだろう。

 だが。

 四つん這いになった瞬間に、雪子が前から松成の左腕ごと首に右腕を巻きつけた。

 前方裸絞。小野椿流ではその名も“椿絞め”と呼ばれる技である。

 椿の花に相手の首を見立てて、花をもぐように首を締め上げる。

 大仰な名前だが、威力は絶大だ。

「……っ!」

 松成が耐える。

「……っ!」

 雪子が絞める。

 雪子は相手の胴体に自分の両足を絡めて、腹筋と背筋に全力を込めた。

 不意に、松成の身体の力が抜けた。

 失神したのだ。

「そこまで! 一本!」

 雪子は両手を放し、松成を解放する。

「見事だ雪子!」

 父が大きく叫んでいた。

 ぱちぱちと拍手が聞こえてくる。

 雪子は正座すると、倒れたままの松成に対して深々と頭を下げ、

「ありがとうございました」

 はっきりそう言うと、誇らしげに試合場を降りた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る