第7話 寒椿
徐々に朝夕の気温が“涼しい”から“寒い”に変わりつつあった。
風も冷たさを増し、秋が段々と終わりゆくのがわかる。
女学校へと向かう途中、通学路には小さな寺があり、その庭の柊が花開いている。もうこんな季節になったのか、と優は秋空を見上げながらふと思った。
夏に桜花柔術大会に出場してみよう、と思い立ってから色々あった。ほんの数ヶ月なのに、随分と長かった気がするし、あっという間だった気もする。
冬が終わり、桜の咲く季節になれば、自分はどうなっているだろうか。
船の上か。自宅の道場か。
ふぅ、と息を吐いたが、まだ吐息が白くなるほどには寒くはない。
週が明けて学校へ行くと、出会い頭に優は秋子と静子にこっぴどく叱られた。
「もー! なんで勝手にいなくなってんのよ!」
二人に何も言わずに勝手に帰ってしまったのだ。まぁ怒られるのも仕方がない。
「いや、その、ごめんね?」
「いや許さん!」
「あの後すごい楽しかったのにー。優ちゃんのバカー」
「バーカバーカ」
二人が優の頬を左右から同時につねりたくってくる。ああ痛や。
「ほんとごめん、もうしないから。」
「つーかあんた、なんで宗里さんだけに言って帰ったの?」
「大親友の私達にも言えばいいじゃん」
秋子と静子が一番怒ってるのはそれだが、優はごめんとだけ言って頭を下げた。
せっかく二人は楽しそうだったのに、水を指すのが後ろめたくて言いづらかったのだ。
「二人はあの後どうだったの? 成果あった?」
優が聞いてみると、秋子は胸を張って答えた。
「無論!」
「みなさまの連絡先を頂戴して参りました!」
「おおー。お友達になったか」
「今度は一緒にお芝居見に行くって約束までしちゃった」
「みんなカッコ良かったから最高だったよねー」
二人は実に満足そうな顔である。
(まぁ、雪子に頼んだ甲斐があったかな?)
笑顔の友人たちを見て、優もニコリと微笑んだ。
いつも世話になってばかりだが、これで少しは恩返しになっただろうか。
(ま、雪子に口利いただけだけどね。)
秋子や静子がもし誰かとお付き合いするような事があれば、自分と雪子には頭が上がらなくなるだろうな、と優は小さく含み笑いをした。
「あ、そういやさ。小野里さんっていたじゃん。一番細身で髪がちょっと長めだった」
「ああ。覚えてるよ」
自分と雪子のどっちが強いか訊いてきた男だ。
「なんかね、言伝。また会ってくれませんか、って」
「え? あたし?」
「そうよ」
「ヒューヒュー! 八神さんモッテモテー!」
「え、えぇー……。なんであたし?」
「あれじゃない。なんか途中で質問して、優がちょっと気分悪そうにしてたから謝りたいんじゃない?」
「そんなの気にしなくていいのにな」
「ま、それは建前で!」
静子が優の両肩を掴む。
「君の瞳に惹かれてしまったからに決まってるだろ~?」
「きゃあ! 優ちゃんったら魔性の女なんだから!」
「それは無いよさすがにさぁ」
呆れ顔の優。
「でもさ、向こうから会いたいなんて、よっぽど印象強かったんじゃない?」
「そうかな?」
「ほら、優ちゃん私達の中で一人だけチビすけだし。逆に目立つ」
「チビ言うなよ」
「やっぱりお芝居にも歌にも興味なしで武術一筋の所が良かったんじゃない? 武術家の女の子なんかなかなかいないよ?」
「宗里さんとかもモテそうだしね」
「あぁー、私も今から優ちゃんに柔術教えてもらおうかなー」
ケタケタ笑う二人。
「……ま、とにかくさ。あたし悪いけどあの人と会う気無いよ」
「え? どうして?」
「今忙しいもん」
「なんで?」
「冬に柔術の試合があるんだ」
「またそれ?」
「もー。乙女なんだからもうちょっとこうね、恋愛とかやりなさいよ恋愛とか!」
「愛とか恋とかはまだあたしはいいよ。それより今は試合のこと考えたいんだ。もしかしたらまた雪子と戦うかもしれないから、一生懸命鍛えておかないと……」
「えぇー……。小野里さん男前なのに」
「男よりも女のことで頭がいっぱいってのはマズいよ」
「もう! ほっとけよ!」
秋子と静子はそれからしばらくの間、あの時の男性陣の話しかしなくなってしまった。
会話に入れない優にはちょっとつらい日々が続いてしまうのであった。
それから二週間ほどして。
小春日和のある日、優は休日に一人で家を出た。
初冬近いが、風が心地よい。今日は雨も振らないだろう。
行き先は帝都の冬木町にある、小野椿流柔術道場。つまり、宗里雪子の自宅である。
途中で千鳥通りの繁華街を通り過ぎると、冬物の外套が店頭に並んでいるのが見えた。気が早いもので正月飾りの販売を開始している店まで有る。
馬車がけたたましく走り抜けて行き、優は北へと千鳥通りを抜けて歩いて行く。
千鳥通りから数分歩いた所で、小さな木立の側にこれまた小さな神社を見かけた。
誰かが植えているのか、山茶花の赤い花が開いている。通り過ぎる時にほんのりと良い香りが鼻に入ってくる。山茶花は咲く期間が長い。またその内見に来れるかもしれない。
角を曲がる。
少し先に、やや古くなった道場の看板を見つけた。
そこには『小野椿流柔術』と書かれている。ここだろうか。
門をくぐると、先ほど見つけた山茶花とよく似た紅い花びらの寒椿が植えてあった。まだ満開には時間がかかりそうで、つぼみである。
「ごめんくださーい」
道場ではなく、自宅の方へと周り、玄関から声をかける。
宗里家の玄関は広く、八神家よりも随分と立派である。
「はーい」
奥から声がして、割烹着姿の中年の女性が出てきた。
「あら、どちら様?」
「あの、八神優と言います。雪子さんはいらっしゃいますか?」
「雪子のお友達? ちょっと待ってね、道場にいると思うから」
母親だろうか。顔立ちがよく似ている。
少し待つと、ぺたぺたと裸足の足音を立てて、武道袴姿の宗里雪子が現れた。
「優ちゃん!」
「や。来ちゃった。」
「やだ遊びに来てくれたんだ。あがってあがって! お母さんお茶ちょうだい!」
「はいはい。」
母親はニコニコしながら台所へと下がっていった。
「どうしよっか。道場でいい? 今他に誰もいないから。
「うん」
「こっちこっち」
「お邪魔しまーす」
雪子に案内され、道場へと周る。
小野椿流道場は八神家の道場の倍以上の広さがあった。
よく掃除が行き届いており、綺麗である。
「今日はもしかして何か用事だったり?」
雪子の質問に、首を横にふる。
「うぅん、こないだ約束したから、遊びに来たんだ。特に用事はないよ」
「そっかぁ。来てくれて嬉しいよ。どうせ一人で稽古してただけだから、ちょっとおしゃべりしようか」
「ん、いや……」
優は、手に持つ風呂敷を指さした。
「稽古しようよ。一緒に」
風呂敷の中身は稽古着である。
優の申し出に、雪子が驚いた顔をした。
「え、いいの?」
優と雪子は同じく柔術をやっているが、流派が違う。
お互い異なる技術体系を持っている。持っている技、知っている技が違う。
武術家同士が戦う場合、『相手の知らない技を使える』というのは恐ろしい有利を生む。だからこそ、武術家は自分の技術をひた隠しにするものである。
逆の立場であったとして、普段の優であればこんな風に言われても断っただろう。
だが、
「いいんだ。雪子と一緒にやりたいんだ」
優はそう言った。
雪子はそんな優の顔をじっと見ると、満面の笑みを浮かべて、
「うん、わかった。一緒にやろう」
そう答えた。
稽古着に着替えて、二人は道場の中央で向かいあった。
「お願いします」
「お願いします」
雪子は両手を軽く上げて構えた。
優は手をそのままに、右足を軽く引いた。
「いくよ」
雪子が組んできた。優も組みに行く。
「なんか思い出すね」
「あ、優ちゃんも?」
二人で笑う。
今日のこれはただの練習である。お互いに本気ではない。
当然真剣にはやるが、談笑する余裕がある。
雪子が優の襟を押し、続いて右足を大きく踏み出す。
「よっ」
雪子が優を跳腰で投げた。くるん、と優が綺麗に回って床に落ちる。
雪子がそのまま抑えこみに来る。
優は下から足を使って雪子の膝を蹴り、上半身を逃がす。そして寝たまま雪子の右足を掴む。
左足を蹴り払い、雪子を転がす。
倒れこんだら、即座に上にのしかかる。
「くっ!」
雪子が足を使って、優が馬乗りになるのを防いでくる。
優は雪子の足に捕まるまいと、急いで雪子の上に乗ろうとする。
優の右足が雪子の両足に挟まれる形で、二人の動きが止まる。
優は雪子が動きにくいように、自分の身体で雪子の上半身を抑えこもうとし、雪子はその前に先手を打って、優を抑えようと抱きついてくる。
お互いに抱きあう形で止まる。
ぎゅう、と雪子が優を抱きしめる。優も雪子を抱きしめている。
ちょっとした膠着状態になった。
「この形」
「試合の時もあったね」
優は足を抜きたい。
雪子は足を抜かせまいとしている。
寝技の攻防ではよくある状態である。
「優ちゃんやっぱり上手いよね」
「ん、寝技?」
「うん。道場だと私、女子の間では一番強いんだけど。優ちゃんには敵わないかな」
「あたしのこと、あんな風に簡単に投げられるのなんて雪子だけだよ」
あはは、と笑う。
話しながらも、お互いに隙を探り合っている。
難しい状態である。
一分ほどその状態のままでいると、不意に背後から声がかかった。
「おい雪子」
振り向くと、そこには一人の中年男性が立っていた。
「あ、お父さん」
雪子が力を抜いた。
「あれ、雪子のお父さん?」
「うん」
優も雪子を離して、正座する。
「おや、君は?」
見覚えのある顔である。
「あ、どうも。おじゃましてます」
ペコリと優が頭を下げた。
「お父さん、八神無双流の八神優さん。覚えてるでしょ?」
「ああ、八神君か。ウチの娘と真昼間から抱き合ってるなんて誰かと思ったよ」
わはは、と雪子の父が笑う。
「どうも。雪子の父の宗里正吾です」
「八神です」
雪子の父は大柄で、よく通る低い声をしていた。
「雪子から君のことは聞いとったよ。娘と仲良くしてくれてるようだね」
「あ、いえ。こっちこそ雪子には仲良くしてもらってて」
「なに、他流とはいえ、同い年の柔術家同士だ。似た境遇で話も合うだろう。娘に良い友達が出来て、わしも嬉しい」
宗里正吾は屈託のない笑顔を浮かべる男だった。
「一緒に練習して、構わんのかね」
技が盗まれるのを気にしないのか、という意味だ。
「いいんです。前は気にしてたんですけど……。なんていうか……」
しばらく、続く言葉を考える。
なんて言ったらいいのか、自分でもよくわからない。
「……なんだろ。そういうのどうでもよくなったと言うか、別にもういいか、って気がしちゃって。それに、雪子が一番の練習相手になります」
「そうか。それなら構わないが。君のお父さんとは面識があるが、技を盗まれるのを随分と嫌っていたからね。」
懐かしそうに言う。父と面識が有るという話は本当だったようだ。
「まぁ、八神無双流が盗まれたと思ったら、同じだけ小野椿流を盗んでいくといい。小野も八神もお互いに学ぶべき点はたくさんあると思うよ」
小さいことを言わない辺り、なんとなく器の大きい男のように思える。大らかで、力強い。いかにも頼り甲斐の有る父親といった印象を受ける。
「ところで、折角だから聞いてみたい。君は、お父さんから小野椿流の事をどれだけ聞いているかね」
「え、どういう意味ですか?」
「小野椿流がどういう戦い方をして、どういう戦術をとり、どういう技を使うか、という事を聞いているかということだよ」
「親父にですよね。まぁ、投げと絞めに気を付けろとは言われましたけど、それ以上は」
桜花柔術大会の前日に、父が助言をくれていたが、大して役に立つ内容は無かったと思う。
「なんだ。あまり聞いてないのか」
意外そうな顔をする雪子の父。
「おじさんは君のお父さんと戦ったことがあってね」
「あ、それは知ってます」
「お父さんは小野椿流の戦法をよく知っていると思うよ。」
「はぁ」
「聞かないのかね」
今後、優と雪子が戦うことになるかもしれない。小野椿流の対策をしたいのならば、こんな風にわざわざ直接来なくても、父親に聞けばよいのではないか。そういう意味の質問である。
優は、少し考えて答えた。
「まぁ、あんまり聞かなくてもいいかなぁ、とは思ってます」
「どうして?」
「ウチの親父の言うことってあんまりあてになんないし、そもそも、今日は別に偵察っていうか、技を盗みに来たわけじゃないんです」
「つまり?」
「いや、雪子と遊びに来ただけですあたし」
宗里正吾がちょっとぽかんとした顔をした。
「はははは! そうかそうか、すまんおじさんが邪推してしまったな」
雪子の父親は、優がここに来た理由を小野椿流の研究のためだと思っていたらしい。もっともな推測だ。
「お父さん、優ちゃん別にそういう人じゃないからね」
不満気な顔で雪子。
「すまん。考え方が固くていかんな、父さんは。しかし、若い娘が二人で昼間っから柔術して遊ぶとは、なかなかいないからな」
雪子の父親は楽しそうに笑っていた。
「まぁ、今日はいい機会だ。ゆっくり小野を体験していくといい。八神には無い技も、きっとたくさんあるだろうからね。面白いと思うよ」
雪子も横でにっこりと笑っていた。
「若い子はいいなぁ。俺も君らぐらいのときが、一番柔術が楽しかった」
そう言って、宗里正吾は立ち上がった。
「じゃあ、ゆっくりしていってくれ。お父さんによろしくな」
「はい」
「おじさんは退散するとしようか」
ははは、と笑いながら雪子の父は去っていった。
「ごめんね、お父さん話が長いから」
「いやいいよ」
なかなか楽しそうな父親だった。ゆっくり話せばおもしろい話を色々してくれそうだ。
「やっぱり松野川さんや三原さんみたいに、お茶飲みながらおしゃべりしてたほうが女の子らしいよねぇ」
雪子は自嘲気味にそう言う。
ふと優は、床に伸びた雪子の手を見た。
彼女の白い手は、どの指も関節部分が“タコ”で膨れて丸くなっている。
柔術をやりこんだ、努力の手だ。
自分と同じ、普通の女の子ではない強さの見て取れる手だ。
「続きやろうか」
「うん、やろう」
道場の中に風が吹き込んだ。汗ばんだ身体には気持ちがいい。
時折談笑しながら、楽しく二時間ほど稽古した。
楽しい一時だった。
年末近くなり、八神家と宗里家にはそれぞれ、津吹師範から西行きの選考試合の案内状が届いた。
雪が降る師走の中頃。第一回目の試合がある。
二週間空けて年の暮れに、二回目。
それで決めるとのことだ。
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