第4話 星見草
晴海で雪子とばったり出会った日から数日が経った。
優は相変わらず毎日、道場で稽古を続けている。宗里雪子という好敵手が戻ったことで、徐々に稽古への熱も戻りつつ有る。
保科先生からせっつかれている進路については、未だに何も思い浮かばないままだが、日々に少しだけ張りが戻ってきた気がしている。
この日もいつものように一人で道場で稽古していると、夕方、父が帰宅してきた。
「おお、今日もやってるな」
「おかえり父ちゃん」
「いやぁ、今日もつかれたよ」
父は道場の隅にどかりと座り込んだ。
「稽古すんなら着替えてきたら?」
「ん、いやな。稽古じゃない」
父は優の方を改めて見やって言った。
「お前、津吹先生のこと憶えてるだろ?」
「ツブキ? 誰それ?」
正直に答えたら父が呆れ顔をしている。
「お前……。女流柔術で蓬莱一を目指すんなら憶えてろよそのくらい……」
「憶えてないもんは憶えてないんだからしょうがないじゃん」
「津吹珠緒先生だよ。宮若流柔術の。この間の桜花大会の審判長やってただろ」
「全然憶えてない」
「お前なぁ。女子柔術の重鎮と呼ばれてる方なんだからちゃんと憶えとけよ」
はぁ、と溜め息の父。
「とにかく、その津吹先生がお前にお話があるそうだから、今度の日曜日に小伝馬町の百花館まで行ってこい」
そう言って懐から手紙を取り出して父はぷらぷらと振ってみせた。
「小伝馬町って遠くない?」
「ここからだと結構あるかな。まぁ二時間も歩けば着くだろ」
「えぇー! めんどくせぇ!」
「ほんとにお前ってやつは……。津吹先生に声かけてもらえるってのは光栄なことなんだぞ。とにかく、父ちゃんはその日仕事出ないといけなくなっちゃって一緒に行けないから。一人で行って来い」
「はーい」
嫌そうな顔で優が返事をするが、その顔がまた本当にめんどくさそうだ。
「……そういやさ」
「ん?」
ふと優が木刀で素振りをしながら尋ねてきた。
「父ちゃんって若い頃……、なんだろ。超強い友達っていうか、友達だけど負けたくないというか、そういう相手っていた?」
「好敵手か?」
「うん、まぁ……。そう、かな?」
父はふむ、と少し間をおいて答えた。
「そうだなぁ……。いたよ。って言っても死んだわけじゃないから今でもいるけど」
「そうなんだ」
「……そういう相手が見つかったのか?」
優は少し照れくさそうにしている。
「……うん」
「そうか。良かったな。そういう相手がいるってのは幸せな事だぞ」
「やる気出るよね」
「そうだな」
父が嬉しそうに笑う。
「お前も成長してきたなぁ」
「な、なんだよそれ! 子供扱いすんなよ!」
「子供以外の何者でもないだろお前」
父が何を喜んでいるのかは、娘の優にはわからない。
「よし、いっちょう揉んでやるか。着替えてくる」
立ち上がって、鞄を持ち上げる。
「今日こそボコボコにしてやるからなオッサン」
「十年早いなお嬢ちゃん」
父はもう四十歳になるが、十五の優より遥かに強い。
父の強さに追いつくことが優の長い目標だが、まだまだかかりそうである。
日曜。
帝都は広い。優は父に言われた通り、小伝馬町にあるという宮若流柔術の百花館道場を目指して自宅を出発した。自宅近くに鉄道の駅でもあれば便利なのだが、街中を縦横無尽に鉄道が走り回るような世の中など果たしてやってくるのであろうか?
薄曇りの天気の中を歩くこと約百分。時々、その辺の人に道を尋ねて、優は目的地へと到着した。百花館は桜花大会のあった卯月神社の尚武館よりも一回り狭いが、あっちよりは綺麗な建物である。玄関の横には『宮若流柔術 百花館道場』と太い文字の看板があるので、間違いないだろう。中からもドタンバタンと音が聞こえてくる。
「すいませーん」
玄関に入り、中に声をかける。
しばらく待つと、若い女性が出てきた。
「はいはい、なんでしょうか」
「あの、八神無双流の八神優ですけど。津吹珠緒先生はいらっしゃいますか?」
「ああ、八神さんですね。先生から伺っております。どうぞ、上がって下さい」
「失礼しまっす」
草履を脱いで道場へとあがる。
道場は三十畳はあろうか。その中で数名の女性が柔術の稽古に励んでいる。
奥が一段高い床の間になっており、そこに中年の女性が一人座っている。
「先生、八神さんがいらっしゃいました」
案内の女性は床の間の女性の前まで優を案内すると、頭を下げて下がった。
「ようこそ八神さん。宮若流の津吹です」
品の良さそうな女性であった。
優よりも二回りほど体格が大きく、髪を古風に高く結いあげている。年齢的には母のすこし上くらいに感じられる。
「八神優です」
優もきちんと正座して挨拶をする。
「八神さん、まずは最初に謝らないといけないわね」
「え?」
「桜花大会の本戦、中止してしまい本当に申し訳ありませんでした。これも我々の力不足によるもの。心からお詫びします」
「え、いや、別にいいすよ。大丈夫です」
こんな歳上に頭を下げられると恐縮してしまう。
「『桜花』を目指してがんばってくれてたのに申し訳ないわ。機会を見つけて、改めて『桜花』を決めようとは思っているから、安心してね」
優を安心させようと、優しく津吹が言う。
「? 桜花ってなんですか?」
優の質問で、津吹の表情が凍った。
「……あの、あなた、桜花目指して桜花大会に出たんじゃ」
「え? いえ、なんだかよくわかんないですけど」
ぽかんとしている優。何のことだか、と顔が言っている。
「あ、あのね、桜花って、その年の最優秀の学生女子柔術家に贈られる称号のことよ。この間の桜花大会で全国優勝すると授与されることになってた……」
「へー。知りませんでした」
「し、知らなかった……」
どことなく津吹の笑顔が引きつってる気がする。
「……ま、まぁいいです。今日はその事で呼んだ訳ではないので」
津吹はコホン、と咳払いした。
「八神さん、あなたの腕前を見せてもらいたいのです」
「腕前? 柔術のですか?」
「そうです。お願い出来ますか?」
「なんでですか?」
「理由は勿論ありますが、試合が終わってから説明したく思います」
「はぁ。別にいいですけど」
「楠原!」
津吹が稽古に打ち込む弟子の一人を呼びつけた。
「はい先生」
「こちらの八神さんと試合をしなさい」
「はい」
「八神さん、こちらは私の弟子の楠原柚子です。強いですよ」
「楠原です」
紹介された津吹の弟子、楠原柚子は優に会釈した。
額がやや広く、細くて真っ直ぐな眉がやや印象的ですっきりとした顔立ちをしている。
やはり優よりも体格が大きい。宗里雪子よりも背は低いが、手足や胴が太い。女子選手では大きい部類だ。小柄な優とは体格差がすごい。
「その格好では戦えないでしょう? 着替えはありますか?」
津吹の言葉に、優は頷いた。父に言われた通りに稽古着を風呂敷に包んで持ってきていたが、こういうことだったのか。
「更衣室貸してください」
優はどことなく嬉しそうな顔をして立ち上がった。
稽古は一時中断され、道場生が囲む中で優と楠原柚子が向かい合っていた。
「では、禁じ手ですが、髪を掴む、指捕り、鼻や口に指をかける、耳を掴む、それに当身。そんなところでいいでしょう。何かありますか?」
「いえ」
「大丈夫です」
「では、二人とも礼」
「よろしくお願いします」
「お願い致します」
「構えて」
楠原は右前で両手を前に出して構える。
優は両手を下げたまま、右足を引いた。
「始め!」
試合が始まった。
八神無双流 八神優 十五歳。身長四尺八寸。
宮若流柔術 楠原柚子 二十二歳。身長五尺二寸。
数字の上から見ても二人の差は歴然だ。体格がまるで違う。
『柔能く剛を断つ』。
体格に劣る者が、女子供が、屈強な相手に勝つためにあると喧伝される柔術ではあるが、別に小さい、力の弱いほうが強いというわけではない。お互いに柔術家同士であれば、当然体格が大きい者の方が圧倒的に有利である。
優も迂闊には楠原に組みにはいけない。
さて。
その相手の楠原柚子であるが、体格の有利は十分に自覚しているだろうに、こちらもなかなか攻めてこない。じっと慎重に優の隙を伺っている。もしかしたら、師匠の津吹から優の戦い方を聞いているのかもしれない。つまり、宗里雪子と同じ戦略、『寝技を避けて立ち技で勝負』を採るつもりだ。
優は別に立っての投技が下手であるわけではない。
小柄で体格差があると相手の腕力に振り回されることになるので、避けたいだけだ。自分が圧倒的に自信のある寝技の技術であれば、勝てる確率が高いというだけである。
今回も寝技に引き込みたい。
楠原はなかなか攻めてこない。
どうしたものか。
試合前に楠原柚子は実際に津吹から言い含められている事があった。
それは優の予想通り、『八神の寝技に付き合うな』である。
宮若流は寝技がそれほど強い流派ではなく、稽古は立っての投技に高い比率が置かれている。楠原も投技には自信がある。優との戦いは投技主体で行くつもりが満々だ。
試合が始まって、一分ほど経過しただろうか。
まだどちらも動かない。
審判の津吹も何も言わない。
焦れない。焦らない。
じっと機を待つ。
優が、少しだけ姿勢を前傾させた。
ほんの少しだけ動きを見せて、こちらを誘っているつもりだろうか。そんな手には乗らない。
今度はこちらがほんのちょっと、親指の爪の半分だけ間合いを詰めて、誘う。
……。
乗ってこない。
焦れる。
だが、まだまだ。
(この人めちゃくちゃ慎重派だなぁ~)
優は楠原を見ながら思う。
試合にこんなに動きがないのも初めてである。
(……やるか。)
このままでは埒が明かない。
優は覚悟を決めた。
八神無双流を見せてやる。
空気が変わった。
楠原は優がやる気になったのを敏感に感じ取った。
(来る気だ)
組みに来たら、得意の投げを使う。どの投げを使うかはまだ決めていない。それは組み方次第だ。組んだ瞬間に、身体が最初に反応した技で行く。
とっさの時に出るのは、血反吐を吐いて覚えた技だけだ。
目の前の少女が、この小さな身体で信じられないくらいの強さを秘めているのは知っている。だが、努力して身につけた技は自分にもあるのだ。それが通用しないとは全く思わない。
チチ……、と外から小鳥の声が聞こえた。
静かな日曜日だ。
誰も声を発しない。
穏やかで、いい日だ。
道場に少し柔らかな風が吹き込んできて、少女の前髪を揺らした。
よく見ると、少女は随分と愛嬌のある愛らしい顔をしている事に気がついた。
可愛い。
少女が小さな手をこちらに伸ばした。
ついに来たか。
こちらも反射的に組みに行く。さっきまでの妄想は全部どこかへ飛んだ。投げる!
右手で少女の前襟を掴む。
このまま押して崩し、投げに行く。
たん、と音がした。
少女が宙に舞った。
「ああっ!」と誰かが叫んだ。
『跳び付き腕ひしぎ十字固め』という技を、八神無双流では短く『枝垂』と呼ぶ。
優は一瞬で楠原の腕にぶら下がり、肘関節を極めた。瞬きするほどの時間であった。
「そこまで!」
津吹が試合を止めた。
優の枝垂で楠原は引きずり倒され、二人はうつ伏せになって倒れている。
技を外して、優が楠原の下からはい出てきた。
「……なっ、ま、負けたの……か?」
楠原は何をされたのかがわかっていない。いきなり知らない技で極められてしまった。
一分ほどの試合時間であったが、睨み合いが九割九分。実際に動いたのはほんの数秒である。
「や、八神さんっ……今のは」
座ったままで優に問う。優は軽く振り向くと、
「ん、跳びついて腕極めただけだよ」
軽くそう答えた。
なんだこれは。
こんな技があるのか?
宮若流にはない。
腕を極めるなど、相手を投げて、倒して、抑えこんで、その上でしか出来ないものではなかったのか。
「楠原」
津吹に声をかけられて、ハッとする。
まだ礼をしていなかった。
二人はお互いに正座して向き合う。
「礼!」
「ありがとうございました」
お互いに頭を下げた。
楠原柚子は何も出来ずに負けた事が、未だに納得できていなかった。
「八神さん、あなた本当に強いわねぇ」
試合後に、再び優は津吹と向き合った。
強さは見せたので、話の続きである。
「いやぁ~、そうですか? あははは、ありがとうございます」
優は照れている。素直に嬉しそうだ。
「楠原はウチでも結構な強豪なのよ。あんな一瞬で勝つとはね」
「いや、楠原さん強かったです。なかなか技にいけなかったですもん。怖くて」
これは社交辞令ではない。本当にそう思っている。
なかなか技に入れなかったのは、隙がなかったからだ。ああいう奇襲技に頼る結果になったのも、楠原の実力がそうさせたのだ。
実際に楠原の攻撃が無かったからといって、楠原が弱いわけではない。
楠原本人は納得できていないかもしれないが、それは戦った本人の優が十分に理解している。
「跳び技とはね~。宮若流ではああいうのはほとんど使わないけど、使ってくる相手の事を考えて対処法を教えておかなかったのは私の失敗ねぇ」
宮若流では津吹の言う通り、跳び付き腕ひしぎのような跳び技は使用しない。道場内でも使用者が居ない。そのような技がある事は当然、津吹は知っていたが、これまで教える必要性がなかったのだ。
もっと様々な技を使ってくる相手を想定した防御の練習をさせるべきであった。
「そういえば八神先生も跳び技上手だったもんねぇ。血筋ってやつかしら」
懐かしそうに、津吹が言う。かつての父を知っているような口ぶりだが……。
「お父さんはお元気かしら?」
「ん、父ちゃんですか? 元気ですけど、うちの父ちゃんのこと知ってるんですか?」
「そりゃもう。私があなたたちくらいの頃には有名だったのよ。帝都で一番強かったんじゃないかしら」
「えぇー、ウソっぽいなぁ。あんなんただのオッサンですよ?」
「あなたのお父さんはすごい人よ。だから娘のあなたもこんなに強くしてもらえたんじゃない」
「うーん、まぁそうかもですけど」
父を褒められると嬉しいが、なんだか照れくさい。
「あの頃は男じゃあなたのお父さん、女じゃ私が有名でね。私も若い頃は柔術小町なんて呼ばれて、結構人気だったのよ。今じゃもうただのオバチャンだけどね。あなたも可愛いからきっとモテるわよ。柔術小町とか呼ばれたことないかしら?」
「いやそんなの呼ばれたことないですけど。男にもモテないし」
「だーいじょうぶよー。ウチの楠原だって、あんな大女だけど結構モテるのよ~。柔術も女磨きよ。安心しなさいな」
「いや別にそんな心配してないですけど」
試合が終わると、初対面の緊張が解けたのか、饒舌な素の津吹珠緒だった。
喋り口調が近所のおばちゃんみたいでどことなくウザい。
「あの、津吹先生。ところで話ってなんなんスかね」
話が終わりそうになかったので、優から本題を催促した。
「あ、そうそう。実はね、すごい話があるのよ」
「すごい話?」
「あなた、ユウィって国知ってるわよね?」
ユウィ。有名な外国の名前である。
しかし。
「知らないです」
「……あなた女学生でしょ」
「すいません、この間の地理の試験も赤点でした」
「柔術ばっかりじゃなくて勉強もしないとダメよあなた……」
気まずそうに言う優に呆れ顔の津吹。
「……ま、とにかくね。そのユウィって西方の大国なの。列強の一つで進んでる国なのよ」
「はぁ」
「で、ユウィでは素手で戦う技術があんまりなくてね」
「えっ、柔術も拳法もないんですか?」
「ないらしいわ」
「へー、変わってますね」
「というかね、こんなに素手で戦う技術が発展してる蓬莱みたいな国のほうが珍しいのよ」
「そうなんだ。知りませんでした」
興味深そうに、優。
「で、そのユウィでここ二十年くらいかしら? 渡航した蓬莱人が柔術を使ったみたいでね」
「ふんふん」
「これは凄い、ってことで流行りだしたのよ」
「柔術が?」
「そう。こっちじゃ人気無くしてるのに、変な話でしょう?」
「……」
柔術が、異国の地で。
衝撃だった。
「それでね。ユウィ政府から蓬莱政府に正式に打診が会ったのよ。柔術の研究をしたいので、柔術師範を招聘したいと」
「外国で柔術を教えるんですか?」
「そうよ。蓬莱の凄さを諸外国に見せつけるいい機会だ、って政府も乗り気でね。ほら、どうも東方諸国って西方だと軽んじられてる風潮が有るから」
「へぇー」
「で、女子の柔術家も招聘したいと打診があったと、この間外務省から連絡を受けたわ」
「女もですか!?」
思わず声を上げた。
「すごい話でしょ。まだあんまり人に言っちゃダメよ。それで、桜花大会の実行委員長だった私に、女流柔術家を選抜して欲しいと要請があってね」
「はい」
「今、何人か選んでる最中なんだけど、そこで十代の若い柔術家にも機会を与えようという話になったの」
「え、それってもしかして!」
優の目が見開いた。
「帝都地区予選の優勝者のあなたは今のところ有力候補の一人よ」
「!」
「今日の試合を見る限り、実力は折り紙付きね」
「ですよね!」
「誰も彼も、ってわけにはいかないから、他にも何人か候補者を出して、その中から選抜する形になるけど。あなたも、もしその気があるなら、『西行き』を考えておくといいわ」
「西行き……」
とんでもない話である。
まさかこんな話があるとは。
「不思議よね。外国に影響されて、この国は柔術を野蛮だって切り捨てようとしてたのに。その外国のおかげでまた柔術が再評価されることになるみたいよ。もっと早くにこの話が来ていたら、参加者も増えて桜花大会も中止せずにすんだかもしれないのにね」
「そうですね。みんな、柔術また始めてくれるかなぁ」
「きっとそうなるわ。柔術は無くならないわよ、きっとね」
先細りの道の先に、光が見えてきた。
この西行きで、柔術が他国でも大きく認められれば、国内での野蛮な文化と蔑まれる現状も変わるだろう。そうすれば、学校卒業後の自分も武術家として生きていくことが出来るかもしれない。
(これ、すごい話だぞ)
鼓動が早まるのが実感できた。
夢が広がってきたのだ、今この瞬間に。
武術しか取り柄のない自分でも、胸を張って生きていける世の中がやってくるのかもしれない。
「今日帰ったら、お父さんとお母さんにしっかり話してみて。それで許可が降りたらよく考えて決めなさい。ユウィを目指すかどうか」
「はい!」
勢い良く返事をして、ふとひとつ気がついた。
「……そういやその、一個聞いてもいいですか」
「なんですか?」
「あの、ウチぜんぜん金持ちじゃないんですけど、向こうまでの船賃とかどうなるんですかね?」
「あのね八神さん。これ国からのお話なんだからもちろん官費よ」
「カンピ? って?」
知らない単語に優が首をひねる。
「国がお金出してくれるってことよ。むしろお給料も出るわよ」
「えっ!? お金もらえるんですか!?」
「仕事しにいくんだから当たり前でしょ」
「す、すげぇ!」
「……あなたってもしかしてあんまり社会常識ない子なのかしら」
会話が進む度に津吹が呆れている。
「あと、まだ決定ではないのだけど、出発は来年の春。期間は往復の期間を含めて約三年。あなたたちくらいだと、おそらく柔術師範代の扱いになるだろうから、給与として月額三十圓くらいもらえるんじゃないかしら」
「三十圓!?」
中卒の少女がもらえる金額ではない。大卒初任給くらいの額だ。すごい高給取りである。
「こ、こんな話あるんだ世の中って」
「凄いでしょう。でも、まだ決まった話じゃないわよ。他にも候補者がいるわけだし」
「はい。でも、凄いです」
優は目を爛々と輝かせている。
それもそうだ。柔術で飯が食えるなんて、思いもしていなかったのだ。
自分の好きなことをして生きていけるかもしれない。そう思うだけで胸が高鳴る。
「冬くらいに選抜試合を行うから、連絡するわ。その気があったら是非参加してね」
「勿論です!」
強い声で優は返事をした。
「そういえば、話を変えてしまうけど、宗里雪子さんには会った?」
ふと思い出したように津吹がそんな事を聞いてきた。
「雪子ですか?」
「この間、あなたの住所を尋ねられたことがあったのよね」
「ああ。ウチに来ましたよ」
いつぞやの雪子が急に訪ねてきた一件だ。
「もしかして再戦したの?」
「いえ、戦ってはないです」
「あらそう。良かったわ。戦うならぜひ観戦したかったの」
笑いながら津吹。
「試合じゃないなら、何だったの? 理由を聞いても、なんだか答えづらそうにしてたから気になってたのよ」
これはこちらもなんとなく答えづらい質問である。
雪子の事は、なんと説明していいのか。
少し考えて、優は答えた。
「ん、その。話がしてみたかったんだって言われたんです」
「話を?」
「はい。友達になりました」
なんとなく照れくさそうに言う。
すると、津吹は胸の前で両手を軽く叩いて嬉しそうに
「まぁ素敵! よかったわねぇ!」
そう言った。
「そうですかね?」
「そうよ。戦った相手と友達になるってのも武術の目的よ」
「?」
「あら、説教じみちゃったわね」
津吹の言葉の意味がよくわからずにきょとんとする優。
友達になるのが目的?
武術の目的は敵を倒すことでは?
よくわからないが、津吹が話を切り上げたのでそれ以上の追求はしなかった。
「八神さん」
「はい?」
「今回の西行きの話だけど、あなたのことを強く推薦したのは、実は小野椿流の宗里師範。雪子さんのお父様よ」
「えっ……」
雪子の父。試合の時に大きな声で雪子に助言していたのが思い出される。
「娘に勝つほどだから、きっと今の蓬莱一は八神優だろうって言ってたの。親馬鹿の裏返しみたいだけど、あなたのことを高く評価してたわ」
「そうなんですか」
素っ気なく返してしまうが、内心なんだか嬉しくなってしまう。
自分を評価してくれる人がいると、やはり嬉しい。
「宗里雪子さんも今回の候補者の一人だから。もしかしたら再戦できるかもしれないわよ」
その一言で優が固まった。
「……どうしたの?」
「あ、あの。雪子と再戦って」
「あ、いえね。決まっているわけではないのだけど、もしかしたら選抜試合で当たるかもしれないから」
「そ、そうですか」
「……なるほどね」
優の反応を見て、ニヤリと津吹が笑みを浮かべた。
「え、なんですか」
「雪子さん、大事なお友達になってくれたみたいね」
津吹の言葉は何気ない言葉であったけれども、その時の優にはそれはまるで満開の桜のように華やかなものに感じられた。
「わかるわ。私も昔はそんな相手が居たものよ。いいわね、羨ましいわ」
胸の中が何かよくわからない感情でいっぱいになり、優は微笑んだ。
「……うん。親友だと思ってます」
「素敵よ。そういうの」
優はその日、晴れやかな気持ちで帰路についた。
これまで胸の中でもやもやして、つっかえていた物が全て吐き出されたかのようだ。
不安が消えていた。
家までの帰り道では、宗里雪子との再戦のことばかりを思っていた。
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