第2話 落葉
九月もやや日が経ち、残暑もだいぶ衰えた。
海老茶の行灯袴に薄紫の矢絣の小袖。いかにもな女学生姿の少女が、朝の騒がしい街中をトコトコと歩いている。肌の色が白く、真っ黒な髪は肩にかからぬ位の長さに切り揃えてあり、前髪も眉にかかる程度である。目が大きくぱっちりとしており、小さな体格と相まって可愛らしい。
「優ちゃん!」
その後ろから、一人の女学生が駆け寄ってきた。肩下まで伸びた髪を白いリボンで結わえてあり、高価そうな革靴を履いている。袴や小袖も随分と良い物を着ている所から、ちょっとイイとこのお嬢さんなのが目に見える。
「おー、秋子。おはよ」
八神優は立ち止まって振り返ると、級友に挨拶した。
彼女、松野川秋子は優の仲の良い友人の一人で、近所の商家の娘である。
「おはよ。ちょうどよく会ったね。身体大丈夫?」
「うん。昨日休んじゃったけどもう平気。筋肉痛がヤバイけど」
そういい、顔をしかめる。一昨日の試合では大きな怪我は無かったものの、すさまじい疲労で昨日は一日寝込んでしまったのだ。今日も筋肉痛が全くとれていない。身体のどの部分を動かしても、激痛だらけである。
「ね、ね、柔術の大会、どうだったの?」
楽しそうに訪ねてくる秋子。
「大会っすか……。聞いちゃう? それ」
うーむ、と渋い顔の優。
「え? あれ? 自信満々だったじゃん。何、もしかして私お答えしづらいことをお尋ねしてしまったかしら、八神さん?」
「いいえー、そんな事はございませんわ松野川さん。優勝しましたよちゃんと」
「凄いじゃん!」
「うん、それはいいんだ。あたしは凄い。それは知ってる」
「なんか問題あり?」
「うん、まぁ……」
腕組みする優。なんと言ったものか。
「実はね。……はっきり言うと。全国大会行けなくなっちゃったんだよ」
「え?」
「あたし優勝したのに」
「どゆこと?」
「それが聞いてよ。マジで頭に来るんだけど、参加者不足に予算不足で全国大会急遽中止だってさ!」
信じられないが、事実である。
あの白熱した決勝の後に、申し訳無さそうな顔で大会審判長から告げられた。
「……は?」
「全国大会なのに参加者十人しか集まらないから中止! 十人て!」
「え? なにそれ?」
「一昨日も実は帝都地区予選の参加者二人だった! 一回勝ったら優勝でしたよ!」
「うわぁ選手層超うっすい」
「学生の女子柔術はダメだわ……。悲しいくらいやってる人少ない……」
がっくりと肩を落とす。蓬莱一を目指そうと頑張っても、これじゃ頑張りがいがない。
桜花大会もかつては全国から百数十名の女性柔術家が集まる豪華絢爛たる大大会だったというのに。今やすっかり風前の灯である。
「うーん、おばあちゃんくらいの世代の時は流行ってたらしいけどねー」
「……まぁ、このご時世に柔術やってる女なんかそうそういないよねー。わかってましたけどねー」
「げ、元気だしなよ優ちゃん! 確かに優ちゃんはケンカの強さ以外になんの取り柄もないかもしれないけどそれでもまぁ……その……うん! がんばれ!」
「途中で諦めないで最後まで励ませよ!」
ケラケラ笑う秋子の態度は落ち込む自分を励ます為なのはわかっていたので、優はにっこりと笑ってみせた。
それから徒歩二十分ほどで、二人は学び舎の中等女学校へと到着した。
この公立の女学校。十三歳から十五歳までの女子学生が通う、校舎のボロい他にはこれといった特徴のない学校である。唯一特筆すべき庭に大量に植えられた桜の木も、秋口の今は当然一本も花咲くものはない。
優と秋子は途中すれ違う友人達に挨拶を返しつつ、いつもの道筋をいつもの足どりで進み、騒がしい三年一組の教室に入って、席についた。
今日も一日、退屈な授業の始まりである。
この蓬莱帝国の普通教育は尋常小学校で六年、中等学校で三年の計九年。
成績優秀な者、もしくは家庭が裕福な者はその後の進学もありえるが、普通はそこで学 業終了。就職するか、結婚して嫁に行く。みんなが高校に行くような世の中ではない。
「あ、優ちゃん」
放課後、教室で秋子と雑談に勤しんでいると、女学生が一人声をかけてきた。
細目とたれ眉が特徴的な三原静子だ。優と秋子の仲が良い友人の一人である。
「お、どした?」
「保科が呼んでたよ。生徒指導室に来いってさ」
「優ちゃん呼び出しくらうようなことしたの?」
「んー、なんだろ。ま、思い当たるフシがないってワケでもないんだどさ」
色々と想像しながら立ち上がる。
「じゃあ秋子と雑談しながら待っててあげるからとっとと怒られといで」
「なんで怒られるって決めつけてんだよ!」
二人に手を振って、優は困り顔のまま教室を出た。廊下にはまだあちこちに女生徒たちが残っており、談笑する声が聞こえてきて賑やかだ。
(放課後に急に呼び出しとはなんじゃろな)
ててて、と小走りで廊下を進み、優は生徒指導室のある三階へと向かった。
「保科先生ー。八神でーす」
生徒指導室と書かれた部屋の扉に向って言うと、中から「入りなさい」と返事が来た。
「失礼しまーす」
優がガラガラと音を立てて引き戸を開けると、中には数十枚の書類とにらめっこする三十半ばほどの女教師が座っていた。
「よく来たわね。座って」
「はーい」
「八神さん、昨日休んだから進路面談してないでしょう」
「あー、すんません。そういえばそうだった」
優も現在十五歳。進路を決めねばならない時期である。
とはいえ、ほとんどの学生は就職するご時世だ。しかも成績の悪い八神優である。就職以外の道なんかないのであるが。
「昨日どうして休んだの?」
「疲れすぎて動けなくて……」
「疲れ? 何かしてたの?」
「柔術の大会に出たんです」
意外そうな顔で、保科が声を上げた。
「柔術? あなた柔術なんかやるの?」
「はい、まぁ、一応」
少しだけ言いづらそうに、優。
「珍しいわねぇ。今時女の子で柔術なんかやってるの」
柔術の話をすると必ず言われる台詞である。もう何回言われたか数えきれない。
「好きなもんで……」
「でもねあなた、柔術やるのはいいけど学校休むのはダメよ。疲れてるのはわかるけどちゃんと出席しなさい」
「いやぁ……、ものすっごい疲れちゃって動けなかったんですよ本当に」
「学生の本分は勉強なんだから。先生も別に武術を止めろなんてのは言わないけど、学業に影響を及ぼすほどのめり込むのは戴けないわね」
「すいません。気をつけます」
ペコリと頭を下げる。
「まぁ、それはそれとして。進路どうするの?」
「えーと……。とりあえず進学はないかなぁ、と思ってるんですけど」
「言いにくいけど、あなたの成績だと進学はちょっと厳しいものね」
優の成績は上中下で言えばもちろん“下”である。武術に打ち込む青春を送る優は、人並み以上の強さと引き換えに、残念ながら学生の本分たる成績を失っていた。
「勉強苦手なんで、学校はもういいかなぁ」
「じゃあ仕事探すの?」
「そう思ってるんですけど。なんかいい仕事とかないですかね?」
「どんなのがいいの?」
「……うーん」
もちろん、全然考えてなかった。将来のことなんか普段なんにも考えて無い。
どんなことをしている自分を想像してもしっくりこない。
今時分の若い女子に人気の職業といえば喫茶店の女給などだが、洋服を着て、お客相手に『いらっしゃいませ~』と愛想を振りまく自分が想像できない。
「武術で飯が食えたらいいんだけどなぁ」
家では別に門下生も募集していないし、募っても全く集まらない気がする。
しばらく悩んで、もう少し時間を下さいと保科に頭を下げて、この日の進路指導は終了となった。
八神家の道場は狭くボロい。
畳敷の八畳で、隙間風だらけ。灯りも蝋燭しかなく、小さな神棚と木剣木槍の掛け台がある以外はなんにも置かれていない。実は南東の隅の部分は雨漏りもする体たらくだ。
この小さな道場で優は物心ついた頃から稽古をしてきた。雨の日も風の日も、うだるような暑い夏の日も、凍えるような寒さの冬の日も、毎日毎日欠かさずである。
鍛錬することは別に苦ではなかった。というか、鍛錬するのが日常なのだ。鍛錬しないのは優には食事を抜いたり眠らなかったりするのと同じくらい不自然であり、稽古せずに床につこうとするとなんだかもやもやして気持ちが悪いほどである。それほどに武術が、八神無双流が優の日常に食い込んでいる。
このボロ道場で稽古するのはこの広い世の中でたった三人だけである。
父と、妹と、優だけだ。
小さな流派である八神無双流には門下生は一人も居ない。募集もしていない。
『家の中で続いていけばいいか』くらいにしかこの武術は捉えられていないので、家族の誰もこの一族の流派を積極的に世の中に広めようとは思っていないせいである。
「……よーし、やるかなぁ」
帰宅した優は行灯袴を脱ぎ捨てるといつもの武道袴に着替えて、一人道場に立った。
父は夜にならねば帰ってこないし、妹はあまり稽古に熱心ではないので、夕方は大抵ここは優が一人で使っているのである。
木刀を一本引っ掴む。
右手が上。左手は下。
雑巾を絞るように柄を握り締める。
切っ先をそっと畳に触れさせると、木刀を高く振りかぶった。
上段である。
「よっ」
右袈裟斬り。
続いて、逆袈裟斬り。
これを一往復として、百回振る。
「ふっ、ふっ」
徐々に身体が温まり、汗が出てくる。
百回終わると、次は左袈裟斬りから同じ事をまた百回やる。
終われば、真っ直ぐに斬り落としから斬り上げを一往復としてこれもまた百回。
それも終われば、横胴斬りから逆胴を一往復として百回。
最後に突きを百回。
毎日毎日繰り返す、剣術の基本の素振りである。
大して面白い稽古ではないが、子供の頃に父に『毎日やれ』と言われて以来、バカ正直に毎日続けている。
八神無双流は柔術の専門流派ではない。他に、剣術と槍術、それに居合術も伝えている。
なので、優もこれらを毎日鍛錬している。はたして今後の人生で剣と槍を抱えて戦場に出ることがあるとも思えないが、八神無双流を継ぐ者としては怠けるわけにもいかない。
学校から帰り、一人でこれらの基礎稽古をこなし、父が帰宅したら組手・乱取り。
これが八神優の毎日だ。
学友たちには理解されないが、自分では悪くないと思っている。こういう生活がなんとなく“八神優”らしく、自分に似合っている気がするのだ。
「ねーちゃーん」
優がブンブンと木剣を振り回していると、声とともにがらりと道場の戸が開いた。
自分とよく似た顔立ちで、似たような体型だが、一回り小さな体格。
二つ年下の妹の怜である。
「お、どした? 稽古か?」
素振りを止めて、妹に向き合う。
「なんかお客さん来てるよ。八神優さんいますかって」
「客?」
訪ねてくる客の心当たりがない。
「どんな人?」
「姉ちゃんと同じくらいの歳だと思うけど。宗里さんとか言ったかな」
「えっ、宗里!?」
名前を聞いてびっくりである。知り合いで宗里というと、思い当たるのは一人しか居ない。
「なに驚いてんの」
「なんか凄い意外な来客だもん……。今どこ? 玄関?」
「うん」
「やべ、汗だくだけどいいかな。怜、悪いけどお茶いれてお茶!」
自分の袖の匂いをくんくんと嗅ぎながら、優。怜は眉間にしわを寄せる。
「嫌だよ」
「いいから淹れろよ! お姉ちゃんのお願いだから!」
「へーい」
「あー、急になにしに来たんだろ」
優は木刀を置いて、急ぎ足で玄関へと向かった。
狭い我が家の玄関に、桜模様の小袖に薄紫の行灯袴の女学生が立っていた。
肩下まで伸ばした髪を首の後ろで一つに結っており、やや面長で、切れ長の目をしている。
間違いない。この間の大会で自分と死闘を繰り広げた女流柔術家の宗里雪子である。
「宗里さん!」
「あ、どうも……」
優が声をかけると、宗里は少し気恥ずかしそうに、緊張した面持ちでこちらを見た。
「いやごめんなさい、稽古中で汗臭いまんまなんだけど……」
「あ、いや。いいんです。こちらから急に押しかけてしまいまして……」
ペコリと頭を下げる宗里。
「……と、とりあえず上がります? 狭い家なんだけど」
「あ、はい。すいません」
「じゃ、じゃあ居間に……」
「あ、いえ」
居間に案内しようとすると、宗里が制止してきた。
「……出来ればその、道場で」
「え? 道場? いいけどうちの道場ボロいよ」
「いえ、全然構わないので」
あんなボロ道場でお客の応対するのも気が引けるのだが、本人の希望である。
「じゃあ、道場。こっちです。怜ー、お茶道場に持ってきてー」
「はーい」
台所から返事。
宗里雪子は靴を脱いであがった。
「お邪魔します」
道場の中央に二人は座った。
座布団もないので、畳の上に直に正座である。
「粗茶ですけど」
「あ。どうもお構いなく」
怜がお茶を置いて去っていった。
「……妹さん?」
「二つ下の怜です」
「ふーん」
「……」
「……」
宗里はなんだか緊張した面持ちである。
会話に間が開いた。
「……」
「……」
きゃはは、と外で子供たちが遊ぶ声が聞こえてくる。
隣家の塀の上からにゃあ~、と野良猫ののんきな声が響く。
道場の中は、無言のままである。
……気まずい。
「……そ、そういえばさっきから気になってたけど、それ」
「あ」
宗里の左腕は包帯で首から吊るされていた。
「もしかして、こないだの腕絡みで」
「いえ、その、たいしたことないんですけど。医者が大げさで。別に普通に動くんですよ。ちょっと痛めた程度なんで、気にしないで下さい」
「大したことないなら良かったですけど」
「……」
「……」
「……」
「……」
また会話に間が開いた。
(……なにしに来たんだろこの人)
最初は再戦の申し込みにでも来たのかと思ったが、なんだかそんな感じでもない。
なんだか話しづらそうにもじもじしているだけである。
「……あの、宗里さん」
「はい」
「なんか用ですか?」
どうしようかな、と考えてるうちになんだか面倒くさくなったのではっきり聞いた。
「…………あ、あのですね」
「はい」
「……いや、その前に、八神さんってお幾つ?」
「歳ですか?」
「はい」
「十五ですけど」
「あ、私もです」
「同い歳ですねー」
「あ、そういえば同じ桜花大会出てたんだから当たり前か」
「そういやそうか」
ははは、と二人で笑う。
「あの、失礼ながらですけど、よければお互い同じ歳だし敬語止めません?」
「あ、いいですか? 実は話しにくくて」
「ですよね」
なんだかホッとした。敬語なんか慣れてないので喋ってるだけで疲れてしまう。
ついでに優は正座も崩してあぐらになると、改めて宗里に向き合った。
「じゃあ、改めてっと。今日どしたの?」
「うん。その、用事があったわけじゃないんだ。なんか、会って、話してみたくて」
「あたしと?」
優が聞き返すと、なんとなく答えづらそうにしている。
「そう。変だよね。ごめん」
あはは、と笑いながら宗里。
まぁ、それもそうだ。こないだ試合を一回しただけの相手の家にわざわざ押しかけて来るなんて、普通しないだろう。ちょっと変だ。
だが、
「……ん、いや、なんだかわかるよ。あたしも話してみたかったんだ」
なんとなく気持ちがわかる。
「そう?」
「うん。気になってたんだ。上手く言えないけど」
「本当に?」
「うん」
「え、ホント?」
「いやだから本当だって」
「そっかぁ」
「なんでそんな疑うのアンタ」
宗里の口端から少しだけ隠し切れない笑みがこぼれている。何が嬉しいんだろうか。
「……そういや、桜花の本戦なくなっちゃったね」
「帝都のほかの地方予選が幾つか開催中止になってるらしいね。お父さんの話だと、主催者側の金銭的な都合がつかなくなってきてるみたいで、それが一番の理由みたい。柔術の大会にお金出してくれる人って見つけるの大変なんだって」
「女子の柔術って人気無いもんね」
優がため息混じりに言うが、人気がないのは女子柔術だけではない。武術そのものが人気がない。男子はまだなんとか残っているが、女子など剣術も弓術も壊滅的である。伝承者が居なくなって失伝しそうな流派も山ほどあるという話だ。
今どき、女だてらに武術だなんて流行らないのだ。
「……八神さん」
「優でいいよ」
「ん、じゃあ私も雪子でいいよ」
「うん」
「実は私、今度結婚するんだ」
「えっ!?」
ビックリした。結婚!?
「け、結婚ってあれですか。男と女がいて一緒に暮らす的な」
「他にどういう結婚があるのか教えて欲しいけど、普通に嫁入りよ」
「ええー……。まだあたしら十五じゃん。早くね?」
「早いけどさ。家の都合で婚約することになったの。今から花嫁修業して、十六になったら結婚式」
「家の都合とか言われたらこっちもなんにも言えないけどさ。相手どんな人?」
「さぁ。会ったこと無いから」
苦笑しながら雪子。
「会ったこと無いのに結婚するの?」
「うん。実は恥ずかしながら、うちの道場も最近は門下生が全然居なくて……経営厳しいの。一昔前は五十人居たのが今じゃ十人よ。あなたのとこも似たようなものでしょ?」
「いやウチ昔っから門下生いないけど」
柔術で食っていくのは厳しい世の中である。だが、最初から八神無双流は超零細流派なのであんまり変化がないのだ。
「んっ……ま、まぁそれはおいといて。相手、お金持ちみたいだから。ウチの道場の大赤字経営をなんとかするためにもこの話は断れないの」
ふぅん、と声を漏らす。これまで考えたことがなかったが、そういう理由での結婚ってのもあるのか。
「雪子は美人だから引く手数多なんだろうけどさ。よく知らない相手と結婚させられるのはつらいよねぇ」
「ありがと。だからさ、今回の桜花大会は私にとっては最初で最後の大舞台だったのよ。全力で戦えて嬉しかったわ」
「……え?」
今、妙な単語が聞こえた気がして、聞き返す。聞き間違いだと思いたい。
「最後って言った?」
「言ったわ」
「……柔術やめるの?」
「言ったでしょ。これからは主婦なのよ。家事とか、子育てもしなくちゃ」
「でも……」
別にいいじゃないか、と思う。
子供がいたって続けてる人はいるのだ。母親だから、夫がいるから、そんな事でやめなければいけないことはないんじゃないか。
それを言おうとして、優は途中で言葉を飲み込んだ。
そうではないのだ。
雪子が覚悟しているのはそういうことではない。それは確かに、子育てや家事の合間に空き時間を使って稽古をすることは出来るかもしれない。
しかし、それで果たして自分に勝てるか?
きっと無理だ。勝てない。
片手間で続ける柔術では全国一にはなれないのだ。
齢十五にして、彼女は今現在が己の最高到達点であることを、涙をこらえて覚悟したのだ。
今までのように、蓬莱で一番の柔術使いを目指す事は出来なくなる事を覚悟しているのだ。
(……こんなことってあるのか)
目の前の好敵手を見て、優は世の中の理不尽さを感じている。
情熱も才能も有る。彼女はまだまだ強くなるだろう。しかし、目に見えない“何か”が彼女から柔術を取り上げようとしている。
“何か”は彼女の家庭の事情であり、結婚相手であり、姑や夫の価値観かもしれない。
いや、時代の変化が彼女から柔術を引き剥がしてるのかもしれない。
「でも……。もったいないよ」
ポツリと小さく、優が言った。
折角自分と張り合える強豪と出逢えたと思っていたのに。
試合からの数日、熱病に浮かされたように楽しかったのに。
桜花の本戦が無くなっても、また宗里雪子のような強敵と戦える機会があるなら、それだけで柔術を続けていけると思っていたのに。
「……ほんとは、今日はそれを言いに来たの」
言葉が出ない。
言いたいことはある、たしかにあるのに、うまく言葉に変えて喉から出せない。
目の前の、宗里雪子に感じているこの感情を、なんて表現すればいいんだろう?
もどかしくて、自分の頭の悪さが嫌になる。
道場は静かだった。
遠くの人々の喧騒の残響だけが聞こえる。
優も雪子も、お互いに視線を合わせることが出来なくて、目の前の畳をじっと眺めている。
しばらくして。
「……じゃあ、帰るね」
「うん……」
雪子が寂しそうに切り出すと、優はようやっとそれだけ答えた。
世の中から切り離されたような疎外感を感じる。
同じ価値観の仲間が出来たと思っていたのに、世の中の流れがそれを無くしてしまうなんて。とてつもない寂しさが心の中を吹き抜けている。
無言で玄関まで行き、雪子を見送る。
「……じゃあ」
「ん」
雪子は来た時と同様にペコリと頭を下げて、引き戸に手をかけた。
「……」
その手が、ふと止まった。
「……」
雪子の動きが止まっている。
「……雪子?」
優が声を掛けると、雪子が急に振り向いた。優に詰め寄る。
「優ちゃん、あの、あのね!」
「え、な、何っ?」
「その、私、大会の時だけど! 私、どうだった!?」
雪子が優にすがるように襟を掴んで詰め寄って、尋ねたのは『どうだったか』だった。
何がとは言わなかったが、優にはわかった。何が聞きたいのか。
自分もそうだったから。
「……雪子」
「……ごめん」
雪子ははっと我に帰ると、優から一歩引き下がった。
「……ど、どうかしてた私。ごめんね」
「……」
気まずそうに、両手を下ろし、彼女は後ろを向いた。
「帰るね」
改めて、雪子が引き戸に手を伸ばした時。
「………強かったよ」
「……!」
優の一言で、また雪子の手が止まった。
「すごく強かったよ。今まで戦った中で最強の敵だったからさ。もうダメなんじゃないかと何回も思ったよ」
「………」
「小さい試合は今まで何回かしたことあったけど、あたしと同じくらい強い人っていなかったんだ。女子で真剣に柔術やってる人って少ないから」
「……」
「雪子と戦って、すごく楽しかったよ」
本心だった。
あの二十三分は自分の人生で最も充実した二十三分だったのだ。
あの二十三分のために、これまでの十数年の努力があったと思える時間だったのだ。
八神優に八神無双流柔術を足して出来上がったものと、宗里雪子に小野椿流柔術を足して出来上がったものを掛けて生み出された、苦痛と疲労と歓喜の華やかな一戦だったのだ。
「……」
「……雪子がさ。…………柔術やめると、寂しいよあたし」
「……」
「……」
「……うぅー」
雪子が唸り声のようなものを上げた。
「うっ……、ひっ……。うぅ……」
雪子は肩を震わせて泣いていた。
しばらくそれを見つめていて、ふと、優は自分の頬にも同じ温かな物が伝っているのに気がついた。
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