桜吹雪

ヤゴ

第1話 桜花

 夏がそろそろ終わる。

 まだまだ昼は蒸し暑いが、明け方も夕暮れもにわかに涼しくなってきた。

 蝉の鳴き声も落ち着き、川沿いの野原にはススキが徐々に増えつつある。

 蓬莱帝国の帝都の片隅、カビ臭い卯月神社の境内の一角に、尚武館という名の小さな古い武道場が建っている。

 ここは普段はほとんど誰も訪れず、静寂に包まれているのが常なのだが。

 この日の尚武館の館内は、晩夏には似つかわしくない熱気に包まれていた。


 古くなって少し黒ずんだ畳の上に、二人の少女が座っている。

 その内の片方、小柄な方が、ふぅ、と小さく息を吐いた。

 白い道着に、黒い袴を穿いている。七分ほどの丈の袖から伸びる腕は意外なほどに細く、色が白い。真っ黒な髪は肩に触らぬ位の長さに切り揃えてあり、前髪も眉にかかる程度である。目が大きくぱっちりとしており、小さな体格と相まって可愛らしい。

「八神無双流、八神優!」

「はいっ!」

 名前を呼ばれて、少女は大きな声で元気よく返事をして立ち上がった。

 鼻息あらく、にやりと笑う。

 精神が心地よい緊張で程よく高揚しており、その場で軽く何度か飛び跳ねていた。

「小野椿流、宗里雪子!」

「はい!」

 反対側に座っていたもう一人の少女も、名前を呼ばれて立ち上がった。

 こちらは先ほどの少女よりも体格が大きい。身体は細いが、背が高い。やや面長で長い髪を頭の後ろで邪魔にならないようにまとめている。

「雪子! 八神の寝技には付き合うな! 立ったままいけ!」

 後ろから父親であろう中年の男性から声がかかる。

 小柄な少女と長身の少女。二人は、畳の中央で相対した。

「お互いに、礼っ!」

 審判の声で、二人は一礼。

「構えてっ!」

 宗里は両手を肩ほどまで上げて、両手を開いた。

 八神は手は下ろしたまま、右足を少し後ろに引いた。

「始めっ!」

「やああぁぁっ!」

 号令とともに、宗里が大きな気合を上げた。ビリビリと声に載って気迫が響いてくる。


 この試合は、桜花柔術大会 帝都地方予選の決勝戦である。

 桜花柔術大会は在学中の女子学生を対象とした、今回で十五回を数える権威ある大会だ。賞金こそ出ないものの、優勝者には“桜花”の称号と全国最強学生女流柔術家の栄誉が授けられる、女子で柔術を志すものであれば誰もが憧れる大大会なのだ。

 ……というのも、今は昔。

 栄華を誇った大大会も当の昔。今日の大会の参加者はたったの二人である。

 地区予選大会と銘打ってはいるものの、予選が本当に必要なのか怪しいくらいだ。

 なにせ、近年は女子の間で柔術なんぞさっぱり流行らない。

 侍が闊歩していた『武家の子女たるもの武芸の一つも出来るべし』の世の中でもない。

 一時期、世間で武術が流行ったことなんかもあったのだが、そんなものはとっくに終わった過去の話。現在、若い女の子で柔術に興味を持ってる、なんて子はまさに絶滅危惧種だ。今どき柔術やるの? と呆れて可哀想な子を見るような目で見られてしまうほどに。

 そしてそんな柔術人気の衰退に伴い、年々この桜花大会も出場者が激減。出資者もどんどん離れてしまって、運営側の資金繰りは急激に悪化。今や風前の灯の有様だ。

 今年度に至っては『もうダメなんじゃ……』と中止の噂が濃厚であったが、主催者側の熱意により、なんとかこうして今日、予選大会の開催に漕ぎ着ける事ができた。

 これも時代の流れ。今や女子で新たに柔術の門を叩こうとする者は少ない。


 宗里と八神が組み合った。八神が左、宗里が右のケンカ四つである。

 相手の体勢を崩そうと、お互いにぐい、と渾身の力を込めた。

(……くっ)

 八神が圧されて、体勢を崩し始める。

(力強いなコイツ……っ!)

 宗里が特別腕力があるわけではない。八神が弱いのだ。

 宗里は女子の中でも長身の部類だが、八神は身体が小さい。体重差もある。真っ向からの腕力勝負では分が悪い。

「せっ!」

 宗里が足を刈って投げに来る。

「ちっ!」

 八神が凌ぐ。

「やあああっっ!」

 右と思えば左。左と思えば右。前後左右に縦横無尽に八神の小さな身体を引きずり回し、宗里が投げを狙う。八神もなんとか堪えているが、投技では宗里が一枚上手だ。


 柔術の戦いの局面は、大きく二種類の分け方がある。

 まず、『打撃』と『組技』。

 『打撃』は殴る蹴るのことである。当身とも呼んで、拳骨、肘鉄、膝蹴、踏みつけ、頭突きなんかが含まれる。

 ただ、この打撃は怪我がしやすい。簡単に血まみれになってしまう。なので、柔術の試合では禁止になることが多い。

 『組技』は、相手を掴んでから使う技の事だ。投げ飛ばしたり、首を絞めたり、肘やら肩やらの関節を曲げて壊してしまう関節技がこれにあたる。

 柔術はどちらかと言うとこの組技が技術体系の中心になる。試合も、この組技だけで行われることが多い。

 そして、もうひとつの分け方が、『立技』と『寝技』。

 立って使う技か、寝っ転がって使う技かという違いだ。

 普通、人間は立って戦う。だが、取っ組み合いになるとお互いにもつれて倒れることが多い。

 お互いに寝っ転がると、戦い方が変わる。なんせ、足を地面につけてなくてもいいのだ。足の裏じゃなくて、肩でも背中でも、好きなところで体を支えられる。自然、技の種類が変わってしまう。

 それに地面を使えるというのも大きい。地面は巨大な壁だ。相手も地面の中には逃げられない。押さえつけるにはもってこいだ。

 しかし、寝技というのは難しい。

 人間は二本の足で立って歩く生き物だからだ。

 寝っ転がったまま戦うなんて、どうしていいのか普通はわからない。

 立技ならまだなんとなく察しがつくが、寝技は違う。特殊な知識も技術がなければ戦いにすらならない。

 立技と寝技では、必要な技術が全然違う。どっちが得意か、は柔術家にとっては非常に大切な問題である。

 流派によっても様々。寝技が強い流派もあれば、投技が得意な流派もある。


 八神優の表情から笑みがこぼれている。

 嬉しいのである。ぞくぞくする。楽しくてたまらない。

(強敵だ!)

 八神の実力は同年令では明らかに頭抜けている。これまで何回か他流試合に参加したことがあったが、誰と戦っても楽勝ばかりで、苦戦を強いられたことがそもそもにしてない。

 勝つのは嬉しいが、退屈であった。

 全力を使ってみたかった。学んだ技を、身に付けた術を存分に心ゆくまで使ってみたかった。

 その為には何を差し置いても、敵が必要だ。それも普通の敵じゃない。この身体の全力を振り絞っても勝てるかどうか……という強敵だ。夢に見るほど強敵との戦いを心待ちにしていた。

 ある日、桜花大会の事を知り、居てもたっても居られなくなり、強敵を求めて参加した。

 そして訪れた今日この日。八神はとうとう過去最強の強敵を見つけた。

 長い黒髪が魅惑的な、長身で長い手足が美しい、宗里雪子。

 自分よりも立技の上手い女を初めて見た。

(上手い……)

 感動するほどに強い。

 技が巧みで動きが速い。

 練りに練られたその技は紛れも無い一級品だ。


 宗里が八神の狭い懐の中で、くるんと踊るように回った。

 八神の右腕をがっちりと抱え、逆の手で袴の前帯を掴む。

(っ! ……背負い!? 変形の背負い投げか!?)

「やあああああっ!!」

 八神の小さな身体を担ぎながら、しゃがみ込む。

(くそ……っ!)

 投げられまいと必死で体勢を保とうとしたが、駄目だった。八神の身体が畳に転がった。

 小野椿流、雪崩落とし。

 他流では背負落などとも呼ばれている技だ。

 倒れた八神を宗里が即座に抑え込みに入ろうとするが、すぐさま八神が両足で宗里の腰を蹴って抑え込みから逃げている。

「くらえっ!」

 今度は逆に八神が下から宗里の両足を掬いにいく。転がして、得意の寝技に引き込むつもりだ。

「ちっ!」

「草刈だ! 逃げろ雪子!」

 父の声も虚しく、両足を掬い上げられて宗里が倒れる。

 宗里としてはなるべく避けたかった、寝技の展開になった。


 宗里雪子はその目を見開いて驚いていた。

 八神の柔術技術が高すぎる。今までに出会ったどの相手よりも、ダントツに強い。

 袖、襟、手、足、帯、裾。様々な方向から様々なやり方でこっちのあらゆる所を掴み、引っ張る。押す。抑える。揺さぶる。崩す。

 “柔”術というくらいだ。腕力も大切だが、技術力の高さが勝負の明暗を分ける重要な要素であることは十分に承知している。

 しかし、ここまで高度な寝技技法を身に付けた――それも、まだ十五歳という若さでだ。こんな少女がいるなんて、信じられない。

(強いっ!)

 道場では女子相手には負け無しの自分が圧されている。

(まさか……わ、私より寝技が強い!?)

 いつぞやの父のを言葉を思い出した。寝技は努力だ。努力と流した汗の量で実力が決まる。才能やまぐれでは努力の力は埋められない。寝技で強くなりたければ、努力あるのみだ――

 父の言葉の全くその通りであるのであらば。

 つまり、この少女は。

 自分以上に努力を、修行を、修練を重ねてきたのだ。

 この小さな身体の少女は、なんと素晴らしい技術を身に着けているのか。

 十五そこらでどれほどの、気が遠くなるような修練を積んできたのか。

 技の一つ一つから、彼女の血の滲むような努力が伝わってくるのだ。

(本当に凄いよ、この子っ……!)

 膝を狙って関節技を仕掛けてきた八神を蹴り払い、宗里はますます目の前の少女への尊敬を強くしていく。

「立て雪子! 立つんだ! 八神と寝技はやるな!」

 背後から父の声がかかって来た。

 父はこの大会に臨む自分に、一生懸命稽古を付けてくれていた。

 寝技についての注意は飽きるほどにされていたのを思い出す。今度の大会には八神が出てくる。八神は身体が小さい分を寝技の技術で補っている。まともにやっては勝ち目が薄い。だが、立っての投げ合いならお前のほうが強い。だから雪子、寝技はするな。投げるのだ。投げこそ“やはら”の真髄だ。がんばれよ、お前は俺の娘だ。自慢の娘だ――

 父との会話が幾つも幾つも脳裏に思い浮かばれて、思考が混乱しそうだ。今はこの子との勝負に集中したいのに。柔術に打ち込んできたこれまでを、何かの形にするためにも。

 立ちたいが、八神が立たせてくれない。

 あの手この手で寝技に引き込んでくる。

 強い。

 この小さな少女は、なんと強いのだ。


 試合が始まって、十五分ほどが経過していた。

 蓬莱柔術の試合は古臭く、近代的な整備がなされていない。時間制限がないのだ。

 判定もない。これをこうしたら何点、という考え方もない。戦闘不能になるか、降参するか、審判が勝負ありを認めるまで試合は続く。

 この苛烈な試合のやり方が、柔術が最近の若い女子に好かれぬ原因の一つである。


 前髪を伝った汗が、ぽたりと宗里の唇に落ちた。

 宗里がそれをぺろりと舐めた。

 二人とも汗だくになっている。息も絶え絶え、動きもすっかり鈍くなっている。

「ふっ、ふぅっ」

 上に乗った八神の右足を、下にいる宗里が両足で絡めて止めている。

「ふーっ、ふーっ」

 試合が膠着しかけていた。

 八神の右足が宗里の太腿に挟みこまれている。この右足を抜ければ、八神が一気に有利な態勢になる。なので、八神はなんとしても右足を抜きたい。宗里はなんとしても右足を放したくない。そんな局面に突入していた。

 二人とも息が荒い。珠のような汗が二人の白い肌を全身くまなく濡らしている。

 疲れた。全力で動き続けて、両腕が焼けるようだった。腹筋も背筋も千切れそうだ。

 八神は、宗里に下からひっくり返されないように、宗里の上半身に抱きついて動きを止めている。

 宗里は、八神に動かれて技に入られないように、八神の上半身に抱きついて動きを止めている。

 お互いにお互いの上半身をしっかり抱きとめて離さない。

 会場が静まり返り、二人の荒い息だけが晩夏の空気に響いている。

「はーっ、はーっ」

「はぁ、はぁ」

 八神の耳元に、宗里の吐息がかかる。息が熱い。宗里の鼓動まで伝わってきそうだ。

 なんだか、荒い息がまるで言葉のようで、何かを伝えたがっているようにすら聞こえる。思わず、何かどうでもいい事を話しかけたくなってしまった。

「ふっ!」

 八神が右足を抜こうと力を込めた。

「っ! くっ!」

 宗里の太腿の間から膝頭が顔を出した。もう少しで抜ける。

「ッッ!」

 もう一度右足に力を込める。

 あと少しで足が抜ける。

「ふーっ! ふーっ!」

 宗里が全力でしがみつく。両手両足に渾身の力を込めて、逃すまいとしている。

 八神の首筋に宗里の唇が当たっている。ふぅふぅという息が唾で濡れた首筋を這っている。

「おおおっ!」

 三度目の挑戦で、足が抜けた。

「!!」

 八神が一気に攻勢に回る。宗里の身体の横にぐるりと移動する。

「おあっ!」

 しまった、と声を上げる間もなく、八神が宗里の左腕に自分の腕を絡めてねじ上げてくる。

(腕絡みだ!)

「雪子!」

 宗里の父が悲痛な声をあげた。

 宗里も必死で抵抗しているが、いかに八神が非力でも、片腕の力で両腕の力を押し返すことは出来ない。

 宗里の左肩の関節は限界までねじり上げられいく。

「くっ……おっ……」

 極まった。

 腕絡みが完全に極まった。

 八神がもう少しだけ力を込めれば、肩が折れる。

 勝負アリの体勢だ。

(……っ!)

 八神が動きを止めた。

 あとほんの少しで宗里の左腕をへし折れるところでだ。

 いつでも折れるが、折りはしない。折りたくない。折らなくたって、いいのだ。

 相手の降参を待っている。

 しかし、肝心の宗里があきらめていない。

「……宗里さん、参った、しなよ……っ!」

 こっちも必死である。手加減しては逆襲される。

 だが、返事は。

「…………まだ、まだ!」

(本気かよ畜生!)

 この期に及んで何を言い出すのか。宗里は降参を拒んでいる。

 審判も止めあぐねていた。止めてもいいものか、まだ宗里の言う通りに逃げられそうなのか。

(いいのかよ)

 八神は自問自答する。

(これ、やるしかないぞ)

 負けを認めてくれないなら、誰の目にも負けを見える形にするしかないのでは?

 決めかねて、八神は叫んだ。

「宗里ッ! いいのかよ本当に!」

 何をとは言わないが、言わずとも分かるはずだ。

 降参しなければ、折る。

「……!」

 宗里が下からこっちを睨んでいる。

 目が死んでいない。

 何一つ諦めていない。勝負を捨てていない。まだやる気だ。死ぬまで戦う気か、宗里雪子!

「……~~~っ!」

 くそ、と内心毒づく。折る決心がつかない。

 折る。人の腕を折るなんて。でも、折るしか無いのか。折るぞ。

「まだ終わってないっ!」

 下から宗里が叫んできた。

 本気か!?

 なんという勝負根性だ。

 もしここで負けても準優勝だ。

 この桜花大会、本選出場は確か予選の上位二名だったはずだ。

 ここで負けたって本戦には行けるじゃないか。そこでは自分への復讐の機会もあるはずだ。

 折れたらすぐには治らない。本戦がフイになってもいいっていうのか?

 そこまで、この一戦にかけてるのか?

「……ッ!」

「やんなさいよ優! 真剣勝負でしょうが!」

 その一言で、八神の覚悟が決まった。

「後悔するなよ雪子っ!」

 八神が奥歯をぎゅっと噛み締め、両手に力を込めようとしたその瞬間。

「勝負あり! それまで! それまで!」

 審判が急ぎ割って入り、二人を引き剥がした。

 間一髪、宗里の左腕は破壊を免れた。


 蝉の鳴き声はとうに消えたが、まだ少し蒸し暑さの残る、日曜の午後であった。

 卯月神社の境内には小さな菊苑があるが、まだ花は蕾である。

 汗でぐちゃぐちゃになり、疲労困憊の二人は、再び畳の中央に正座して向かい合う。

 ぜぇぜぇと肩で息をして、お互いに睨むように瞳を覗き合っている。

「腕絡み一本! 勝者、八神優!」

 死闘を終えた二人は凄まじい表情をしている。

 戦いは終わった。

「……ありがとうございました」

 両手をついて頭を下げた二人は、そのまま疲れ果てて動けなくなっていた。

 消耗し尽くした。全力を使い果たし過ぎて、指一本動かすのもつらい。

 だが、何もかもを燃やし尽くした気持ちよさがある。

 実力伯仲、二人ともこれまでの人生で最大の激戦だった。

 試合時間二十三分。

 桜花柔術大会 帝都地方予選は腕絡みによる一本勝ちで、八神優が優勝した。

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