第8話 10月10日 その2

結局この日、俺と琴音が言葉を交わす事はなかった。いつもなら何通も交わす“業務連絡メール”さえ出来ず、周囲から見てもたぶんピリピリした空気はあったかもしれない。

 早くこの状況を脱したいが琴音から完全に避けられている今、下手に動けば関係がさらに悪くなるのは想像できる。そんな感じで一日が過ぎようとした深夜、状況は良い方向へ向かい始めた。


 ――入るよ


 今日はこのまま寝ようと決めた11時過ぎ。ただ一言、それだけ言っていきなり琴音が部屋に入ってきたのだ。

 「何か言いたいことない?」

 主の許可を得る事なく部屋に入ってきた琴音は、ドアを閉めるなり感情を抑えているような低いトーンで訊ねてきた。

 「昨日の事か。あれは、ほんと悪かったと思ってるよ。ちゃんと声掛ければ良かった」

 「他には?」

 「他に? 他って言われても――」

 「見てどう思ったかって聞いてるのっ」

 急に感情を露わにした彼女は鋭い視線で俺を見つめている。

 「いくら家族でも少しくらい何かあるでしょ!」

 「何かって……っていうか、どうしたんだよ」

 「ハルくん、何も言わないから」

 「は?」

 「何も言ってくれないからっ! 何も言ってくれないから、女の子として見てくれてないのかなって……」

 「見るも何も俺たち姉弟だろ」

 「関係ないよっ」

 「琴音?」

 「そんなの、関係ないもん。ハルくんにとって――」

 「?」

 「ハルくんにとって……わたしはやっぱり“お姉ちゃん”なの?」

 「なに言って……」

 立ちすくむ琴音は俯き、握りこぶしを作って涙を堪えている。そんな彼女を前にして俺は何も言えなかった。

 琴音が求めている答えはそういう意味だ。それが分かっているから下手に言葉を紡げなかった。

 「……なにか言ってよ」

 「――ねぇよ」

 「なによ」

 「そんな事ねぇって言ってんだよっ」

 「っ!?」

 「……解ってるんだよ。琴音が聞きたい事は。でもそれは言っちゃいけないんだよ」

 「――聞かせてよ。ハルくんの気持ち知りたい」

 「琴音……」

 そういう言い回しをするって事はやっぱりそういう事だよな。こうなったらアレだな。俺も正直になるしかないか。

 「絶対、後悔しないな?」

 「うん。聞かせて」

 「正直、琴音の事を“姉”とは思えない」

 「……うん。そうだよね」

 「俺は琴音の事が好きだ」

 「――っ!?」

 「家族とかそんなんじゃなくて、一人の阿澄琴音としておまえが好きだ」

 「それがハルくんの気持ち?」

 「おかしなこと言ってるのはわかってる。でも俺の中じゃ感情が勝っちゃてる。ホントはとっくに理性が負けてるんだ」

 これで終わったな。

 勢いに任せて言ってしまったが、琴音の表情を見る限りバッドエンドだ。下を向いたまま俺の顔を見ようとしない。重苦しい空気が漂う中でただ時間だけが過ぎていく。

 出来る事ならこの場から消え去りたかった。可能ならば同居する前、せめてペアグラスを買いに行ったあの日に戻りたい。そう願ってしまう程に居心地が悪く、息苦しい空間で先に口を開いたのは琴音だった。

 「――そっか。良かった」

 「え?」

 「ハルくん」

 「お、おう」

 「いまの言葉、そういう意味で受け取って良いんだよね」

 「ああ。そう受け取ってくれて良い。俺はお前の事が好きだ」

 「もう、他人の事を『おまえ』なんて呼んだらダメって言ったでしょ。でもありがと。すごく嬉しい」

 やっと顔を上げてくれた。ようやく顔を見せてくれた琴音の表情は柔らかく、どこかホッとした様子にみえた。

 「ほんとはね、怖かったの。片想いだったらどうしよう。家族なのにって引かれたらどうしようって」

 「そっか。そうだよな」

 「そんなこと考えたらすごく不安で、怖くて……ごめんね。困らせちゃったよね」

 「そんな事ねぇよ。謝るのは俺の方だ。元はと言えば俺が悪いんだし」

 「もう良いよ。わざとじゃないのは分かってるから。でも“意外は”っていうのは失礼だよね?」

 「覚えてたのかよ」

 「自信あったから結構ショックだったんだよ?」

 「あ、うん……確かにスタイル良いし、デカいよな」

 「もう、それ普通なら怒られるよ。ねぇ、ハルくん?」

 「どうした」

 「ハルくんの気持ちはすごく嬉しい。でも、もう少しだけ、姉弟じゃダメかな」

 「親父たちの為か?」

 「わたしもハルくんが好き。だけどお母さんにも幸せになってほしい。だからわたしは我慢しなきゃいけないの」

 「琴音……」

 「……ハルくん。わたし、どうしたら良いのかな?」

 琴音は答えを求めるように俺を見つめた。その目は潤み、必死にあふれるのを堪えていた。

 俺も親父にはそれなりに迷惑を掛けてきたと思う。だが、琴音はそれ以上に――いや、琴音が一人で色んなもの抱え込み過ぎてきたんだ。そんな感じがした。

 「――ゆっくりで良いと思うぞ」

 「え?」

 「ゆっくり進めば良いだろ。どうせ一緒に住んでるんだし。何もいきなり付き合うとかしなくても良いだろ」

 「で、でもっ! そんな中途半端だとハルくんが……」

 「それは琴音も同じだろ」

 「そ、それはそうかもしれないけど……」

 「俺たちって再婚相手の子供と言っても“姉弟”だからさ、普通にいく訳ないだろ?」

 「……うん。ハルくん?」

 「なんだ?」

 「ギュッてしてくれる?」

 「は?」

 「ハルくんにギュッて抱きしめてほしい。ダメ、かな?」

 「っ!」

 恥ずかしそうに上目遣いの琴音を前に心臓が止まりそうになった。正直、初めて見るその表情に俺は理性のタガが外れそうになる。

 だがここで理性が崩れればそれこそ元には戻れなくなる。それなのに俺はゆっくりと琴音の身体を引き寄せ、彼女も呼応するように身体を俺に委ねる。

 「……これで良いか?」

 抱き締めたその身体は思った以上に華奢で、ガラス細工のように少し力を加えたら壊れてしまいそうだった。

 「どうしてかな。すごく落ち着く。ハルくんだからかな?」

 「ちょっ、恥ずかしい事言うな。俺だって――」

 「ねぇ、ハルくん?」

 「な、なんだよ」

 「わたしね、ハルくんなら良いって思ってるよ」

 「急になんだよ」

 「ハルくんになら、このまま押し倒されても良いって思ってるよ?」

 「っ!? おまっ、なに言って――」

 「わかってるよ」

 俺の胸に顔を埋めたまま答える琴音の声色に迷いはなかった。囁くような小さな声だったがハッキリとした意思を感じた。

 「ちゃんと分ってるよ。こういうの“誘ってる”って言うのかな」

 「誘ってるな」

 「……あとはハルくんに任せるよ?」

 この部屋には、家には俺たちしか居ない。

 琴音は完全に俺に身体を委ねているし、このまま……なんて邪な気持ちが無いわけでもない。


 ――でもな、琴音?


 「――バカかよ」

 「え?」

 「バカなのかって言ってんだよ。変な意地張るなよ。すげぇ震えてるぞ」

 「…………」

 「安心しろ。何もしねぇから」

 「……うん」

 「もう少し姉弟でいたいって言っての誰だよ」

 「ごめん」

 「そりゃ、裸見てしまったし、正直ドキッてしたけどさ――」

 「ハルくん?」

 「琴音の事、傷付けたくねぇんだよ」

 なんか自分で言って恥ずかしくなった。こんなセリフが出てくるとは。あぁ、今すぐ穴を掘って隠れたい。

 「俺も男なんだからさ。少しは考えて言えよ」

 「ごめん……傷付けたくない、か。ハルくんカッコ良すぎだよ」

 「うるせぇ」

 「あのね、一つだけお願い聞いて?」

 「今度はなんだよ」

 「もうちょっとだけこのままで良い?」

 「ったく、ちょっとだけだぞ。あと、さっきのは聞かなかったことにするから、ほんとやめてくれよ」

 「……うん。ありがと」

 気付けばとっくに日付は変わっていた。さすがにおばさんも帰ってくるはずだ。

 このまま一緒に居てはいけないと俺の理性が叫ぶが、なぜか抱きしめる手を離せずにいた。俺自身、もうちょっとだけこのままで居たかった。


 見つかった時は――その時は包み隠さず全てを打ち明けよう。


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