異世界、青春、僕

谷沢 力

第1話

僕の青春を語ろう。

必要なのは、何をおいてもまず、異世界だ。




先輩が異世界に行った。

どうやら不慮の事故らしい。

なんでも大学においてあった異世界系ネットワーク接続演算機、通称ゲートが暴走した事故があって、たまたまその付近を歩いていた彼女が巻き込まれたそうだ。



もう少し事故について詳しく話そう。と言っても僕の口から語れることなんてたかが知れているので、ここに、僕の集めた新聞、ネットニュースのスクラップを貼っておく。こっちの方が正確な情報だ(ネットニュースから引っ張ってきたところに一部間違いがあるが、時々アヤシイ話が流れてくるのは古くからのネットニュースの性である。これでもかなり真っ当なものを引っ張ってきたはずなので、勘弁してほしい)。

それに、「僕」という認知を挟むと、意図的でないにせよ情報が歪む恐れがあるからね。


○A新聞 朝刊 24面 2018 10/15

 C市でゲート事故、一名巻き込まれ転移

12日、B県C市にある@@@大学$$$$キャンパス第2工学館で稼働していたゲートが突然暴走し、一時的にバイパスが繋がる事故があった。事故は数分で収まったものの、近くを通っていた女性一人が転移に巻き込まれたと見られている。大学は、「早急に原因を解明する」として、警察と連携をとりつつ調査を進めていくとしている。


○MAHOOooooNEWS掲載 日報オンライン  2018 10/19

 C市でゲート事故、被害者は女子高生(一部抜粋)

先日C市で発生したゲートの暴走事故について、転移被害を受けた女性が市内に住む17歳の高校生であったことが、警察への取材で判明した。____中略_______________警察は今後「転移被害にあった方の遺族とコミュニケーションをとりながら、引き続き捜査を続けていく」とコメントした。



○B月報  16面  2018 10/29 

C市ゲート事故、制御弁の故障が原因か(一部抜粋)

12日にC市で発生した@@@大学の転移事故の原因はゲートにおける制御弁の破損が原因だった可能性が高いと、大学当局は26日、会見で公表した。制御弁とは異世界系ネットワークの位相を制御する____________中略________________________また、遺族は大学に対し「今後このような事故が起こらないようにしてほしい。」と述べた。


○A新聞  朝刊  10面  2019 1/14

科学の窓:異世界系ネットワークの利便性と安全性(一部抜粋)

近年、情報処理の世界で急速に発展している異世界系ネットワーク(D W N)。

この世とは違った物理法則をもつ世界を、異世界ネットワーク接続用演算機(ゲート)を用いてこの世界と繋げることによって、大量の情報を高速かつ円滑に処理することのできる新たなシステムだ。従来のコンピュータの約60倍のスピードで計算できるとされ、情報処理の世界に革命を起こすのではないか?と注目されている。しかしながら安全性の面で問題もあり、昨年には下校中の女子高校生一名が研究室で稼働していたゲートの暴走に巻き込まれて異世界に転移してしまうといった事故が起きている。私たちはこの新たな技術とどう向き合っていくべきなのか、###大学の時剪教授に話を聞いた。



これで一応何があったのかは理解してくれたと思う。

さて、いよいよ僕についての物語を語るわけだけれど、そうだな、どこから話そうか、



先輩の話をしよう。

僕と先輩の、それまでの話を。


先輩。17歳。高校2年生。髪型は黒髪のロング。美人。国語が得意で数学が苦手(でも理系)。好きな食べ物はナス。嫌いなのはトマト。趣味は本を読むこと。苦手なのは片付けとコミュニケーション。好きな場所は学校の屋上へと続く階段の踊り場。クツクツと押し殺したような笑い方をする。そんな笑い方をするくせに、笑顔は綺麗。すぐに人を騙そうとしたり揶揄おうとするけれど、人にそれをやられるとひどく不機嫌になる。


当時高校一年生だった僕は、世の中のことなんか何も知らないけれど、この明晰な頭脳さえあればこの世の全てを論理立てて説明できる。理解できる。なんて粋がっていて、ありとあらゆる出来事を批評してみたりして、ありとあらゆるルールを批判してみたりしている。

まあ、どこにでもいる15歳の少年だった。

そんな人間が思春期にありがちな万能感に背中を押されて身の回りにあるありとあらゆるものに唾を吐くようになったのは当たり前といえば当たり前の話であり、当然の帰結として僕はこの世の全てを見下していた。


それはおそらく態度にも表れていたのだろう。

そろそろ新緑たちがその青さに磨きをかけ始めている季節になってもなお、僕には友人と呼べるような人がいなかったのだ。

そして、僕はそれでも構わないと思っていた。

だから、クラブガイダンスなるものをほとんど睡眠時間として費やしている僕に話しかけてきたあの先輩は相当に伊達や酔狂だったのだろう。


「きみ、文芸部に入ってくれないか。」


海外SF小説の冒頭みたいなセリフで勧誘してきた先輩は、ひどく美人だった。

いくら生意気だと言っても所詮ただの男子高校生であった僕が己の内なる根源的な欲求に敗北し、ホイホイとその日のうちに入部届を提出してしまったことは言うまでもない。

これだけ美人な先輩が勧誘しているのだから文芸部とやらはさぞ新入部員が多いのだろうなあ、なんて呑気な事を考えていた僕は、どうしようもない愚か者だ。

文芸部、確かに文芸部ではあった。

しかしながら、活動内容が 部室に集まってただひたすらに本を読むだけ というものであるとは、、、

クラブガイダンスの翌日、部室に集まった僕ら新入部員を待っていたのは、あの、僕たちを勧誘していた先輩ただ一人だけだった。

しかもその先輩は僕たちには目もくれようとせず、一心不乱にレンガブロックぐらいありそうな分厚さの新書?を見つめている。

タイトルは「異世界系ネットワークの基礎理論」

確かにその絵はまるで時が止まっているかのように美しかったけれど、だからと言ってその美しさが、僕たちの手持ちぶさたを解消してくれるわけでも、気まずい沈黙を打破してくれるわけでもない。

「あのう。」

一人が問いかけた。もちろん男だ。と、いうか、集まった新入部員は全員男だった。

やはりみんな先輩目当てなのだろう。

「この部活は、一体何をする部活なんでしょう。」

先輩はゆっくりとした動作で、狭い部室で所在なさげにぽつねんと佇んでいる僕たちに目をむけ、キッパリと言い放った。


「本を読む部活です。」


そして今度はものすごい速さで本へと目を戻し、一心不乱、という言葉がこれほどまでに似合う光景は世の中そうないんじゃないか、そう思わせるほどの熱量で読書に耽り始めた。


而して、僕の高校における部活生活がスタートした。

部活生活、と言っても全くもって大したものではなく、放課後のチャイムが鳴ったあとにさながら茶を運ぶカラクリ人形が如く部室に向かい。本を読んで。家に帰る。その繰り返しだ。

特に読んだ本の感想を言い合うわけではなく、ましてや雑談など存在しない。

本の、本による、本のための空間。

あの空間の支配者は僕らでも先輩でもなく、本だったのかもしれない。


そんなわけだから月日の流れるにつれて先輩の美しさに惑わされ、己の情欲に負けた1年生たちも目を覚まし始め、彼らの部室に向かう足音も、ひとつ、またひとつと遠ざかっていき、落葉樹の葉が赤や黄色に染まり始める頃には、部室に足を運ぶ阿呆な1年生はは僕だけになっていた。

本来ならば、「美人な先輩と狭い部室に二人きり」というドキドキするシュチュエーションであるはずなのだけれど、いくら阿呆といえども半年もあれば流石に学習するというもので、罷り間違っても間違いなど起こりようがない。ということくらいは流石に理解いていたので全くドキドキはしなかったことは僕自身の名誉のためにここで話しておく。

断じて、僕はドキドキなどしていなかった。


起きる。学校へ行く。勉強する。本を読む。家へ帰る。宿題をする。寝る。

こうして、僕の青春は回っていく。


「なぜ、きみはこの部活に足を運ぶの。」


そんな生活サイクルをさらに半年ほど続けたある日の夕暮れのことだ。

京都の一角で雨止みを待つ下人の如きサンチマンタリスムとともに部室の隅っこで頁をめくっていた僕に声が降ってきた。

ついに神の声を聞こえるまで僕の精神は高次の存在に進化していたのか、それとも頭がどうにかなってしまったのか。

という推測が一寸頭を駆け巡ったけれど、やはり、どう考えても、この状況から察するに、最も可能性が高いのは、先輩が言葉を発したということだ。僕に向かって。


わけがわからなかった。これまで徹底的に貫かれてきた沈黙が、突然破られたのだ。

あまりの唐突さに、脳の回路を一度切断したくなったけれど、とにかく踏ん張って、ようやく口を開いた。


あの時、僕はなんと言ったのだろう。

とにかく何か言葉を返さなくちゃいけない。その一心で喋っていたから、何ひとつ内容を覚えちゃいない。


とにかく、これが楔だったんだろう。僕と、先輩の、後には戻れぬ。


この頃から、僕らは、ぽつりぽつりと、交流を開始した。

最初の頃は1日に一文節ほどの、微々たるコミュニケーションの萌芽だった。

それが、だんだんと重なり合い、絡み合い。会話になっていく。コミュニケーションに成っていく。


桜が散る頃になると僕と先輩は一般的な先輩と後輩がするであろう量と、ほぼ同量のコミュニケーションを取るになっていた。

先輩は3年生、僕は2年生になっていたけれど、僕はいまだに友達がいなかったし、先輩は相変わらず綺麗だった。

まるで部室は時が止まっているようだ。

初めて部室に来た時に感じたあの美しさの中に、いるのかもしれない。

僕はそう思った。



「異世界ってさあ、」

ある時、先輩が僕に語りかけた。


「やっぱり剣と魔法のファンタジーなのかな。」


「    はあ」

と、僕は間の抜けた声を出す。

そういえば初めて部室に来た時、この人は異世界系の本を読んでたっけ。

なんてどうでもいいことを考えながら、とりあえず会話のつぎ穂を出してみる。


「好きですね。異世界」

この会話、もう何度目だろう。


異世界が発見されてからそろそろ四半世紀が経とうとしていた。

発見された当初は大層もてはやされたそうだけれど、異世界とのバイパスを作るのには膨大な電力が必要とされること、異世界との隙間を安定させられるのは精々原子数百個分であることが明らかにされると、その熱狂は急速に冷めていったらしい。

今では、コンピュータとして利用しよう。といった研究が細々と行われているくらいだ。

そんな異世界について並々ならぬ興味を持っていた先輩は完全なるマイノリティーであり、ありていに言って、変な女性だった。

その変な女性が言う。


「うん。好きだね。ここではないどこか。この世ではなくあの世でもない第3の世界。そういうのって、すごくドキドキする。」


「   はあ」

と、僕は気の抜けた声を出す。


いつもならここで会話は終了していたのだけれど、あの日ははなんとなく虫の居所が悪かった。だから、少し意地悪を言ってみたくなった。


「先輩。確かに、異世界は存在します。でも行けるわけじゃない。それに、あっちは剣と魔法のファンタジーどころか空間や時間が存在するのかさえ怪しい。それを教えてくれたのは先輩です。ということは先輩だってよくご存知のはずだ。なぜ、そんな現実味のないこと信じようとするんですか。」



口に出した途端、我ながら唖然とした。

僕はこんなにも酷いことが言える人間だったのか、と、愕然とした。

自己嫌悪で死にたくなった。

だけど、自尊心が邪魔をして「ごめんなさい」の6文字は言えなかった。



「  うん。  そうだ。  そうだよね。  」



先輩の口から出てきた言葉に僕はもう居た堪れなくなって窓から飛び降りたくなった。

が、残念なことにここは一階だった。

その日はこれ以上会話することなく、僕たちはそれぞれ帰路に着いた。



翌日、いつもより心なしか重い足取りで向かった部室は、からっぽだった。

こんなことは僕が文芸部に入部して以来初めてだ。

これまで、僕が部室に足を踏み入れるより後に先輩が来たことなどただの一度としてなかったのだから。

あれだけ部室の中心のような顔をしていた本たちも読み手がいなければただの紙束で、部屋の隅っこに蹲っている。

「昨日の言葉が彼女を部室から追い出した。」なんて考えるほど自意識が肥大しきってはいなかったけれど、なんだか、すごく嫌な予感がした。


先輩が異世界に行ってしまったということを知ったのは、それから2、3日後のことだ。


新聞など1面くらいしか読まない僕は、24面にひっそりと載せられていたニュースに気づくはずもなく、これまで数回しか話したことのない文芸部顧問に呼び出されて初めて、その事実を知ったのだった。


あの時僕は、どんな顔をしていたのだろう。

泣き顔。真顔。知らん顔。驚いた顔。苦い顔。

馬鹿面。泣き面。吠え面。膨れっ面。渋っ面。仏頂面。

どれでもあったような気もするし。どれでもなかったような気もする。


その日は部室へ行かなかった。家に帰って、ベッドの上にいた。

そうだ、彼女はもう、この世にはいないのだ。

という実感が、僕に重くのしかかってきて、ひどく息苦しかったことを覚えている。

なんてことだ。僕が「行けるわけない」と言った直後に、先輩は、本当に異世界へと旅立ってしまった。言霊なんてこれっぽっちも信じちゃいないけれど、やはり、何か感じないわけには行かない。なんて冷めたことが頭の中をぐるぐると回っていた。

いつの間にか、僕は眠りに落ちていた。



翌日、放課後。

機械的な、実に機械的な足取りで、僕は部室へと赴いた。

そこは、真の意味で空っぽだった。

全く、昨日までと変わらない空間、一昨日までと変わらない時間だったのに、

ここは、空っぽだった。

そのことを知覚した瞬間、初めて

僕は泣いた。


わんわんと子供のように、声をあげて泣いた。

ギャアギャアと赤ん坊のように、声をあげて泣いた。


ああ、そうさ、その通りだ。


もう、隠すのはやめよう。

もう、飾るのはやめよう。

もう、体裁ぶるのはやめよう。

もう、繕うのはやめよう。

もう、見栄を張るのはやめよう。

もう、

もう、

もう、

もう、

もう、

告白しよう。

僕は先輩が好きだったのだ。




僕はそれを知覚した。知覚してしまった。

僕は先輩のことが好きだ。

だから、僕は先輩に会いたかった。

それは、とても単純なことのように思えた。




僕の話をしよう。

ひとりぼっちの、それからの話を。


先輩が異世界に旅立って7年目の冬、僕は研究室で一本のレポートを握りしめていた。

タイトルは「異世界ネットワーク接続演算機の暴走とそれに基づく一時的なバイパスの拡張について。」

要するに、あの事故をもう一度意図的に引き起こして一時的に先輩が通れるだけの穴を作ろう。といった内容だ。


もちろん、これは誰にも見せるわけに行かない。

非現実的かつコストがかかり、そして何より危険すぎる。

だから、このレポートは僕以外の誰の目にも触れることはないまま、もうすぐ焼却される。

これさえ終わればもう、用済みになる。


これはあくまで事故だ。

制御弁の破損によりゲートが暴走、一時的にバイパスが拡張されてしまう、よくある事故。

事故だから仕方がない。

始末書は書かされるだろう。

なんらかのお咎めも受けるだろう。

けれど、まあ、そう酷いことにはならないはずだ。

だってこれは事故なのだから。


そう自分に言い聞かせながら、僕はこの事故のために取り付けたバルブに手をかける。

最新式のコンピュータにバルブなんて不恰好なものがついているのは少し笑えな、なんてことを、頭の片隅で考えながら。

そして、僕は、自分の手に力を入れる。



瞬間。鳴り響くエラーの表示とアラート。

僕はそれを無視して、ますます手に力を入れる。

パリン、という嫌な音がした気がする。

僕はそれを無視して、ますます手に力を入れる。

焦げ臭い匂いが、僕の鼻をくすぐる。

僕はそれを無視して、ますます手に力を入れる。



違う。

何か、悪寒のようななものが、僕の背中を走り抜ける。

何かが違う。

僕は、理屈で判断するより先に、その場から離れる。

アラートは未だになり続けている。

もうすぐ警備の人がやって来るだろう。、これが故意だということだけは隠さなくてはならない。僕はアラームの鳴り続ける薄暗い部屋で、無様な証拠の隠滅を始めた。



原因は位相の不確定だった。

ゲートは異世界と現実世界に原子数百個分の穴を開けるための装置だ。

でも、いつも同じ異世界の同じ場所に穴を開けることができるわけじゃない。

必要とされる計算によって星の数ほどある世界から、穴を開ける世界を選ぶ。

今回穴を開けようとした世界に、彼女はいない。

それどころか、非常に危険極まりな異世界だったようだ。

これまで人工的に暴走事故を起こそうなんて人間はいなかったから分からなかったが、同じ計算であろうと選択される世界は別物らしい。

非常によく似た世界ではあるけれど、やはり別物なのだ。


先輩を取り戻すためには世界選択のランダム性を制御し、統合し、克服する必要がある。


これで1つやるべきことが見えた。僕は失敗したのではない。1万通りのうまく行かない方法のうちの1つを見つけただけだ。と、抗弁したくなったけれどやはり、

失敗は失敗だった。

その日は、事情聴取と教授のお叱りを受けた後、下宿に帰って不貞腐れたように寝た。




それから、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来て夏が来て秋が来て冬が来て、春が来た。




僕はもうおじさんと言っても差し支えない域に軽々と到達していた。

というか、目の前にはお爺さんの荒野が広がっている。そこに足を踏み入れるのも時間の問題だ。

僕は未だに大学という組織にしがみついていて、未だに異世界系ネットワークの研究に齧りついている。

この25年でテクノロジーは飛躍的に進化、しなかった。

多少の変化はあったけれどそれは所詮“多少“でしかなく、人々の生活はたいして変わらなかった。

それは、異世界工学の分野においても変わらない。

異世界は、いつまで経っても多くの人々にとって遠い世界のままだ。

微々たる科学の進歩は、人類になんの進化も齎らさなかった。


でも、僕はそれでもよかった。

その微々たる進歩さえあればよかった。

科学を行うものとしては最低の話だけれど、人類の進歩なんて、心底どうでも良かったのだ。



今、僕の手の中には一本の論文がある。

タイトルは、「異世界ネットワーク接続演算機の暴走とそれに基づく一時的なバイパスの拡張について。」

いつか書いたレポートの、終着地だ。


さあ、事故を始めよう。


これはあくまで事故だ。

制御弁の破損によりゲートが暴走、一時的にバイパスが拡張されてしまう、よくある事故。

事故だから仕方がない。

始末書は書かされるだろう。

なんらかのお咎めも受けるだろう。

けれど、まあ、そう酷いことにはならないはずだ。

だってこれは事故なのだから。



僕はバルブに手をかける。

邪魔くさいアラートは切ってある。

力を入れる。

25年前に見たものと、同種のエラー表示が僕の前で乱舞する。

力を入れる。

ミシミシと、金属の擦れる嫌な音がする。

力を入れる。

パリン、という今では心地よいとさえ思えるようになった音が聞こえる。

力を入れる。

煙たい匂いが部屋に立ち込める。

力を入れる。



瞬間。何かが爆ぜる。

僕の感覚が無になっていくような気がする。

世界が白くなる。頭の中が真っ赤になって。目の前は黒く。心臓は青になる。




どれくらいの時が過ぎたのだろう。

僕の瞼が開かれる。

部屋は酷い有様だ。原型を保っているものの方が少ない。

かく言う僕自身も、人の形を保てているかは分からない。

頭は動いているのに、身体の感覚が全くと言っていいほどに、ない。

僕は頭を動かすこともできず、ただ空を眺めている。

青空は、煤で灰色がかっている。

僕は、空を眺めている。



空の中に、何かが入ってくる。

それは、僕をぢっと見つめる。

僕は、水晶体を操って、それに焦点を合わせる。

人間の頭のようだ。

さらに焦点を合わせる。

女性の顔のようだ。

さらに焦点を合わせる。

先輩の顔のようだ。

さらに焦点を、いや、そうじゃない



「せんぱい」



僕は必死に口を動かして、四文字の単語を、喉の奥から放出する。

目が、見開かれる。


「せんぱい」


もう一度、単語を絞り出す。

そうだ、先輩だ。少し老けてはいるし、痩せてもいるけれど、それは紛れもなく先輩だ。

先輩なのだ。


「せんぱい」


僕は語りかける。


「せんぱい、大丈夫ですか。」

「うん」

先輩は驚いているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、わからない表情で答える。


「せんぱい、剣と魔法のファンタジーは、ありましたか。」

「うん」

先輩は驚いているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、わからない声で答える。


「せんぱい、あの日言ったこと、ごめんなさい。」

「うん」

先輩は驚いているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、わからない仕草で答える。


「せんぱい、好きです。」

「うん」

先輩は驚いているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、わからない笑顔で答える。


「うん、ばっかりじゃなくて、何か他に言ってくださいよ。」

「うん」

先輩は驚いているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、わからない涙で答える。


「せんぱい、話して下さいよ、異世界のこと、あなたの青春のこと。」

「うん」

先輩は驚いているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、わからない。




「最初はね、


先輩の澄んだソプラノの声が、煤だらけの青空に吸い込まれていく。

先輩の物語が、春の暖かさのなかで、紡がれていく。



今、先輩の青春が語られる。

必要なのは、何をおいてもまず、異世界だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異世界、青春、僕 谷沢 力 @chikra001

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ