第22話 ジェイルの崩壊序曲

 一方その頃、ネイサンの研究成果を横取りしたジェイルは順調に出世していた。教授となり「ジェイル研究室」という名の自分の研究室も与えられ、まさに順風満帆。


 ……で、あったはずなのだが、いまその当人は高級椅子に身を沈めたまま冷や汗を流している。


「おかしい……これはレオナラーケツンじゃないのか? どうなっている?」


 大量の研究資料、ノート、古文書や碑文の写しを前にして、頭を抱えている。もう数ヶ月ずっとこんな調子だった。

 ジェイルが取り組んでいるのは古代ガラル語の代表的呪文書「グリモワール」1巻の解読だ。いや、正確にはグリモワールに出てくる単語はほとんどネイサンが解読と辞書化を終えているため、後は文法さえ理解できれば現代語に訳せる状態である。つまりジェイルの仕事は「翻訳」だけのはず、だった。


「くっ、文法がまったくわからん。そもそも本当にこれは文章なのか!? 意味の通らない単語の羅列としか思えないぞ」


 ジェイルはまだ翻訳の足がかりもできていなかった。ガラル語の持つ複雑な格用法、変化系、語形変化、現代のどの言語とも似てないそれは初見のものが挑むにはあまりに難解だった。


 もちろんネイサンは文法もノートに記している。しかしそれは、30年間ネイサンが研究に研究を重ね蓄積していったものだ。教科書のようにわかりやすく体系的にまとめられたものではない。ガラル語についてなんの知識もないジェイルは、まずネイサンのノートの意味すら理解することができないのだった。


「馬鹿な、私は魔法言語学の教授だぞ! この私が読めない訳がない。あのクズにできて私ができないはずがない……!」


 ジェイルは血走った目でノートを睨みつけ、必死に自分のレポート用紙にガラル語の文法をまとめていく。

 そのとき、控えめなノックの音が響いた。


「誰だっ!」


 集中を邪魔されてジェイルが吼える。その怒声にひっと身をすくませたのは若い女性だった。教授となったジェイルが新しく採用した秘書のミランダだった。


「申し訳ありません。お邪魔してしまいましたか?」


 相手がミランダと知って、ジェイルは声音を柔らかくする。


「いや、すまない。ちょっと研究が進まずイライラしていたんだ。なんだい?」

「はい、王宮の方から、『グリモワール』の翻訳はまだかと……また新しい呪文だけでも早く発表してほしいと催促されています」


 美しいミランダの顔を見て直りかけたジェイルの機嫌がまた急速に悪くなっていく。


「『グリモワール』の翻訳発表は時期を見計らっている。呪文も同じだ。ガラル魔法は強力なんだ、扱いを間違えれば多くの人に危険が及ぶ可能性がある。そう伝えろ」

「あ、あのですが、一ヶ月前も同じ回答をしたばかりですし……ジェイル先生が教授となられてからもう3ヶ月も新しい呪文の発表がありません。王宮もそろそろしびれを切らしているものと……」


 思わずジェイルは持っていたペンを投げつけた。


「君には関係ないだろう! いいから言う通りにしろ!」

「ひっ! は、はい、わかりました」


 あわてて身をよじりペンを避けたミランダは、逃げ出すように研究室を後にする。


「はーっ、はーっ、なにもしらない王宮の馬鹿どもが。私の苦労も知らないで……」


 ミランダの指摘は誰よりジェイルが痛感していたことだ。彼は最初にガラル魔法として発表をした『光呪文ルミノウスグロウ』と『疾風呪文ヴェンティソニック』以外の魔法を発表できていない。王宮をなだめすかすのも限界が近づいていた。

 それというのも、光呪文と疾風呪文以外の魔法は、ジェイルがいくら唱えても発動しなかったからである。


「くそっ、どうしてだ、どうして呪文が発動しない!」


 ガラル魔法の呪文は、すでに大部分をネイサンが解読し現代語に直してさえいる。これさえ読めばジェイルでも呪文を発動できるはず、なのだがいくら新しい魔法を唱えても発動しない。光呪文や疾風呪文は問題なく発動したのだから、何が悪いのかジェイルには分からなかった。

 ジェイルは忘れていた。光呪文と疾風呪文は、ネイサンが目の前で呪文を唱え発動してみせた魔法であることを。その発音を細部に至るまでジェイルは知り覚えていたことを。


 一度聞いただけで発音を再現できるのだから、ジェイルはジェイルで一種の天才ではあったのである。しかしガラル語は、その程度でマスターできるほど甘くはない。


「レオナラーケツン……ちがう、レオナラーケッン……これもちがう、リオナラーケツン……ちがう」


 ブツブツつぶやきながら、何度も別の発音を試すジェイル。しかし研究室にはささやかな魔力の動き一つ起きない。


 もし、この光景をネイサンが見ていたら、あるいは以前のジェイルが頭を下げてネイサンに質問していたら、彼はこうやさしく教えていただろう。


『文字をそのまま発音しても駄目だよ。我々の話す国際標準エール語と古代ガラル語は何もかも違うんだ。例えばアクセントだけでもまったく違う。エール語は強弱アクセントだが古代ガラル語は強弱高低長短アクセントだったんだ。さらに発音しない子音もたくさんあるし、変化形によって発音がまったく変わることもある。単語のときのメロディー、リズムと、文章になったときのメロディー、リズムが違うなんてのもしょっちゅうだ。例えば古代ガラル語で「猫」を表す言葉はエール文字で表すとfetuisだが、これを発音にするとhühqxrvestになる。ね、ぜんぜん違うだろう?』


「レオナルァーケツン、これだろう! ……ちがう。一体何が間違っているんだ……」


 文法も、単語も、現代語訳も、実際の用例すら書かれているのに、ネイサンの足元にすらたどり着けない。そんな事実から目をそらすように、ジェイルは何度も間違った発音の呪文を繰り返した。

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