第21話 好転する生活
数ヶ月が過ぎた。
いつの間にか王都は秋になっていた。うだるような暑さは消え心地よい風が吹く季節だ。とても過ごしやすい。
ネイサンはすでにBランク冒険者になっていた。といってもそれほど真剣に冒険者家業をしていたわけではない。高ランククエストをこなしていくうち自然に、という感じだった。キメラ、スキュラ、マンティコア、そしてレッドドラゴン……倒してきた魔物はどれも中級上位から上級のモンスターばかりだが、上位ガラル魔法を使えば一撃なのでネイサンとしてはそれほど苦労したという感じもしない。
いまは一週間に一回ほど高ランククエストをこなし、その報酬で暮らしている。ほとんど毎日を自分の研究だけに費やせる日々はネイサンにとってまるで天国だった。
「夢みたいな生活だな……」
北の明星亭の部屋で「グリモワール」を翻訳しながら、ネイサンはしみじみとつぶやく。研究所にいた頃は考えられないような暮らしだった。自分の時間を好きなだけ、好きな研究のために注ぎ込める。幸せで仕方がなかった。もっとも幸せそうにしているのはネイサン本人だけで、周りからは難しそうな古代文字に大格闘しているようにしか見えない。メリッサなどは何度も「根を詰めすぎないで休んだらどう?」と心配される始末だった。ガラル語に関することであればどんなに研究してもつらくない、むしろ心が休まるという感覚は、常人には理解しづらいものだった。
北の明星亭にはずっと厄介になっている。今は冒険者の報酬もあるのできちんとお金を支払い、ほとんど下宿状態で住み着いていた。ネイサンが研究を再開してからというもの、部屋はすぐに集めた資料と本で埋まり新たに本棚が三台も追加されていた。普通には入らないのでメリッサとゴートの許可を取って空間拡張魔法をかけている。以前と倍の広さにしたのだが、それもすでに埋まりつつあった。そろそろまた拡張しないとな、などとネイサンは考えている。
本をめくる音、紙を動かすかすかな音、そしてペンを走らせるカリカリという音、そんなささやかな物音だけが響く静謐な空間。幸福なネイサンの居場所だった。
ふと、扉をノックされる。「どうぞ」と返事をすればメリッサがひょっこり顔を出した。
「ネイサンー、ちょっとしたおやつ作ったんだけど、食べる?」
「うん、いただくよ」
「よかった」
メリッサは手に皿とお茶のポッドを持って入ってきた。皿からは、ほのかに栗の良い香りが漂っている。翻訳を書く手を止めて、ネイサンも部屋のテーブルに移った。
「これはなに?」
「栗の素揚げ、渋皮ごと食べられるよ」
「へえ、ふってあるのは粗塩かな」
食べてみると栗の素朴な甘みと香りが生かされたおいしいおやつだった。渋皮のサクサクとした食感がまた良い。粗塩がまた栗の甘みを引き立てている。
「これおいしいね。揚げた栗を食べるのは初めてだけど、クセになりそうだ」
「親父はこれつまみにビール飲むよ。意外と合うんだって」
「へえ、今度僕も頼んでみようかな」
二人で栗をつまみながら談笑する。
「どう? 研究は順調?」
「うん。そろそろ『グリモワール』の3巻の翻訳が終わりそうなんだ。1巻、2巻を訳し終えたらだいぶ文法の規則性がわかってきてね。翻訳が捗ってるよ。これなら今年中に4巻まで訳せそうかな」
「へ〜〜……、え、ちょっと待って。文法の規則性って何? 文章の規則性ならわかるけど、文法の規則性ってことは文法がランダムに変わるの?」
「うん」
「え、つまりいま私達はエール語(※主に人間が使う国際標準語)で話しているけど、それがいきなりエルフ語やドワーフ語の文法に変わって、しかも単語はそのままってこと?」
「うん、それがガラル語だからね」
「……そんなのどうやって訳すの?」
「いやー、だから大変だったんだよ」
のんびりとネイサンは言うが、対面のメリッサは驚嘆していた。
「ネイサンは前からすごいと思っていたけど、本当にすごいんだね。あたしそんな文章見たら吐く自信あるわ」
「いやあ、僕も30年間何度も心が挫けそうになったけどね、まあがんばってよかったよ」
「がんばったとかでどうにかなるレベルじゃないと思う……」
ようやく驚きを引っ込めたメリッサが言う。
「ネイサンはすごいよ。あたしなんか勉強大っきらいだもん。裏街にも学校はあるんだけどさ、嫌で嫌でしょうがなくて何度も暴れたから。親父に叱られて仕方なく通って、なんとか小学校は通いきったけど中学は結局すっぽかして卒業せずじまいだからな」
しみじみとその頃を思い出すようにメリッサは話す。
「勉強なんかより食堂で働いている方がずっと楽しいよ。あたしからしたら毎日勉強しているネイサンは本当にすごいって思うな」
「勉強……勉強か。うん、まあ研究はずっと勉強しているとも言えるね」
ネイサンは穏やかに笑って、
「でも、僕もずっと好きなことだけやり続けただけだよ。メリッサと違ってお金にもならなかったし。だから僕はメリッサもすごいと思うな。僕には接客なんて絶対できないからね」
そう、正直に答える。
メリッサはニッカリと笑った。
「へへ、そうかな」
「そうだよ」
「へへー。……それにしても」
部屋を見渡して、メリッサが呟いた。
「ねえ、なんかまた本増えてない?」
「は、ははは……」
ネイサンは苦笑してごまかす。研究の虫である彼だが、下宿中の部屋に勝手に本を増やしまくっているのはさすがにバツが悪かった。
冒険者稼業が順調なおかげで、ネイサンはこの数ヶ月で二千万ミルもの大金を稼いでいた。年収一千万ミルあれば相当な高給取りとされる王国で、半年足らずに二千万ミルというのはお金持ちになってもおかしくない。だというのにネイサンの生活があまり変わってないのは、本人が贅沢に無頓着というのもあるが一番は研究資料代がかさむためだった。
王国で本は高級品だ。他にも碑文の写しや研究論文の取り寄せなど金のかかることはいくらでもある。ネイサンは研究に必要な金には糸目をつけないため、いつまで経ってもカツカツ研究者のままだった。
笑ってごまかそうとするネイサンを、じとーっとした目でメリッサが見た。
「ネイサンはさあ、裏街のクズみたいに酒やギャンブルやはしないけど、金遣いは荒いよね」
「は、はははは……、面目ない。ガラル語のことになると、つい……」
「は〜〜、……ネイサンは真面目で優良物件だと思ってたけど、こういう落とし穴があるんだなー。結婚したらあたしがしっかりしなくちゃ」
「けっこん? 何の話?」
「ぅあっ!? なんでもないなんでもない! 気にしないで!」
「?」
突然顔を赤くしてワタワタするメリッサに首を傾げるネイサン。
顔を赤くしたまま、メリッサは必死に紅茶を冷ますふりをして誤魔化した。
「ふーっ、ふーっ、アチチ」
「大丈夫かい?」
「うん、大丈夫。大丈夫。ふーー……もう、まったく慌てないんだから。にぶちん」
ネイサンは見た目は若くなったものの中身は45歳のため、十代の女性はまるで子供のように見えてしまうところがあった。それがメリッサはいたく不満なのだが、一向に気づく気配はない。
いまも、「このお茶おいしいねえ」とのほほんとお茶を飲み栗をつまんでおり、焦れるメリッサの視線などまるで気にしていない。
「もー、おじさんどころかおじいさんみたいだよ、ネイサン」
「45歳だからねえ。好みがだんだんおじいちゃんみたいになってくんだよ」
「それじゃ困るんだよ〜〜!」
「? なにがだい?」
「も〜〜〜〜!!!」
本気で分からないでいるネイサンに、メリッサは足をジタバタさせて悶えた。
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