第10話 北の明星亭

◆◆◆◆



「部屋は二階、トイレと風呂場は一階、水場も一階だ。間違えて店の台所に入ると親父のげんこつが飛ぶから気をつけてな」


 メリッサに拾ってもらったネイサンは、『北の明星亭』にやってきた。すでに遅い時間だったので、食堂で夕食を取りながらお互いの事情説明をした後(ほとんどネイサンの身の上話になったが)、メリッサに宿部屋へ案内されている。


 彼女の言う通り、食堂と宿を切り盛りしている親父さんも情に厚いいい人だった。ネイサンの話を聞いたら自分ごとのように涙を流し、好きなだけいていいと言ってくれた。奥さんはいないらしく、父一人娘一人の二人暮らしだった(詳しい事情をネイサンは聞かなかった)。


 北の明星亭は棟続きテラスハウスの二階家で、通りに面した表側がメインの食堂、裏が居住スペースとなっている。宿屋もやっているというより、居住スペースの余った部屋を貸し出しているという感じだった。


「普段から宿をやっているというわけではないんだね?」

「食堂の売上だけじゃ足りないときに開くんだ。ここらへんじゃあまり知られてないけどね。母さんがいた頃は宿も回せたけど、今は二人だけだし。それに食堂の売上で十分食っていけるからね」


 建物裏手の二階に上がって、奥まった角部屋の前でメリッサが扉を開ける。


「ここがネイサンさんの部屋だよ。せまいけど、好きに使ってくれ」


 そこはだいたい3メートル四方の部屋だった。ベッドと衣装棚に机と椅子もあり、一人で暮らすには十分な家具がある。小作りだが掃除も行き届いて清潔な部屋だ。


「これは……いい部屋だね」

「へへ、そう言ってくれると嬉しいね。昔あたしも使ってたんだけどさ、ちょっと気に入ってたんだ。北向きだから冬は寒いけど、窓を開けると西日が入って、それを眺めるのがなんか好きでさ」


 どこか懐かしそうな顔で言うメリッサ。ネイサンは頷き、荷物をおろして部屋のあちこちを見る。


「……気に入ったよ。良い部屋を用意してくれてありがとう、メリッサ」

「うれしいね。そうだ、風呂はどうする? 入るならこれから焚くからちょいと時間はかかるけど、遠慮しないでいいよ。お金は取らないけどお客さんのつもりでくつろいでくれ」

「ありがとう。ただ今日は色々あって少し疲れているんだ。悪いけどこのまま寝てしまおうかなと思っている」

「そうかい、ゆっくり休むといい。じゃ、あたしらもこの階で寝泊まりしているから何かあったら声をかけてくれ。部屋の扉に名札が下がっているからすぐに分かるよ」 

「何もかも本当にありがとう、メリッサ」

「いいんだって、じゃ、おやすみ」


 メリッサは最後まで明るい笑みを絶やさず去っていった。

 彼女の言っていた窓を開けると、爽やかな夜風が入ってくる。王都の裏街は夜も酔客であふれ騒がしいものだが、さらに裏通りに面しているためかそれほどうるさくはなかった。

 通りを歩くまばらな人影を眺めながら、ネイサンは考える。


 奇妙な運命になったが、これからは自分のために生きたい。研究所も王国も関係ない、自分にはガラル魔法がある。これからは研究を自分とその周囲のために使おう。


 ネイサンは教授にもジェイルにも話していなかったことが一つある。グリモワールを始めガラル語の研究資料はことごとく没収されてしまったが、ネイサンはその内容をすべて覚えていた。30年もガラル語の研究に捧げたのだ。文章は読めずともその文字の配置、細かな並び方まで空で書けるほどに暗記している。研究資料は、単に大切で貴重な資料だから取り戻したかっただけなのだ。

 研究カバンにはまだ解読していない2巻以降のグリモワール写本もある。ガラル語の研究は明日すぐにでも再開できる。


「ふ。ふふふ……」


 ひっそりと笑いがこみ上げる。我ながらキモイと思うが、止まらない。これからは好きなだけ、自分のために研究ができるのだ。

 窓を閉めて、ベッドに座ると急にどっと疲れが押し寄せてきた。着替えるのすらしんどく、研究所の椅子やぼんくら亭のベッドよりよほど柔らかく、すぐに睡魔が襲ってくる。

 明日はいったい何をしよう。そんな気持ちで眠りにつくのは、この30年で初めてだった。

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