第4話
電車は栃木県に入ると一気に乗客は減り、車両に数人乗っているだけになった。空いてきたタイミングで、勉強を始めた。さすがに高三の夏だ、勉強しないわけにはいかないし、何よりも先ほどから気になるもやもやから目を背けたかったのだ。
なぜこの旅を始めたのかといえば、そもそもはこの『もやもや』から逃れたかったためである。その本質は、なぜ心があるのかという、考えても考えても答えがまとまらない問いなのである。
もやもや、としてくる。漠然とした悩みにとらわれて、なにか不安になってくる。
一応断っておくが、対人関係が悪いわけではない。この間も中学からの親友といっしょに遊んだし、クラスメイトとは割と仲良く話せている。加えて、家族仲が悪くもないし、ご近所仲も良好である。周りからみれば何不自由なく生活していると思うだろう。だが、自由だからといって悩みがないのか、というとそうではない。
先日迎えた誕生日の際、お酒に酔った父が誇らしげに話していた。
「お前は反抗期がなくて、素直に育ってくれただぞお、ほんとうに」
それを友だちに話すと「確かに、お前は友だちで本当に良かった」と言ってくれた。「俺なんか、すごい親に歯向かってたし、迷惑かけちゃったな、っていまになって後悔しているんだから」と憐憫な面持ちで話していたのを覚えている。
もし心がなかったら、どうなっていたんだろう。友だちは、その後悔をしてこなかったかもしれない。そして父も誇らしげに話すことはなかったかもしれない。そして僕はこんなに悩むこともなかっただろう。なかったら困るものだと思うが、逆に必要だ、といえる理由も思いつかない。それを探すために旅に出ているのだから、まだわからなくてもいいのかもしれない。
そんなことを考えていたら、車掌さんが「まもなく終点に到着します」とアナウンスがかかった。電光掲示板もなくなり、車掌さんのアナウンスと車窓の風景だけが場所を伝えてくれる。
車掌さんは乗り換え案内もしている。次に北へ向かう列車は一時間後だという。おなかがすいてきた。思えば朝、いきなり飛び出してきてから三時間ほどが経っていた。まだ何も食べていないから、腹ごしらえをしたい。流れるホームを窓から見て、駅そば屋があるかどうか見たが、見当たらない。これはご飯屋さんを探すしかないようだ。
扉が開いた。外の暑さは思ったほどではない。ただ、十分でも歩いていると汗がにじんでくるだろう。なるべく近いところのご飯屋さんを探そう。黒根(くろね)駅と看板に書いてある。
と思っていた矢先、弁当屋さんがいた。首から弁当が入ったトレイを提げている。なるほど、テレビでは見たことがある景色がすぐそこに広がっている。あたりは山に囲まれていて、道路の交通量もさほど多くない。時刻表をみると、ここから先は本数も激減するらしく、ぽつぽつと時刻が記されているだけだ。一時間後の電車は絶対に逃すことができない。
弁当屋さんはこちらにやってきて、話しかけてきた。
「ようこそ、このあたりに電車でやってきた若い人は久しぶりに見たわ。どう、旅のお供で弁当でも買っていきませんか」
箱の中には残り一つ、ちゃんと紙で包まれた弁当が残っていた。
「ありがとうございます」
お金を支払って、最後の一つの弁当を手に入れた。近くにあったベンチに座る。紙には牛めしと書いてあり、作り立てなのかまだ温かい。早速開けて弁当を食べる。お肉にかかっているたれのあまじょっぱさがごはんを進める。お漬物は普段食べないのだが、おいしいなあ。弁当屋さんは空になったトレイを下ろして、肩を回しながら言った。
「どう、おいしい?」
「はい、すごくおいしいです!」
この旅はじめてのご飯だ。駅弁はまだ片手で数えられるくらいの回数しか食べたことはないが、それも相まっているのだろうか、すごくおいしい。
売り子のおばさんは、母というよりかは祖母くらいの年に見えた。しかし、若々しい。食べながらでいいから、と言って、おばさんは隣に座った。
「昔はね、このあたりにも若い人がたくさんいたのよ。だけど都会のほうに行く人が増えて、電車の数も減ってしまってね、弁当も今週は今日だけ売ってるの。もう全然買ってくれるひともいなくなっちゃったし……」
懐かしそうに語る。それは僕にも容易に想像できる。駅舎周辺にはだだっ広い土地が広がっていて、明らかに建物がたくさん建っていたのだろうということがわかる。一部は廃墟になったまま放置されている。
「そうなんですね、お弁当屋さんも、この辺で?」もう少し、このあたりのことを訊きたいと思った。
「そう。いまは宇都宮のほうにあるんだけど、三、四十年前くらい前は駅前に工場があってね、いまよりもっと温かいお弁当が食べられたのよ」
おばさんは目を細めて遠くを見つめる。その目は懐かしさとともに、消え廃れてしまったこの駅への寂しさもあるように見えた。
弁当を完食した。ごちそうさまでした、とおばさんに伝えて、空になった弁当箱をホームのごみ箱に捨ててきた。ベンチに戻ると、おばさんは本当に訊きたかったことだろうことを僕に質問した。
「あなたはどちらへ向かうの?」
おばさんにたくさんの貴重な話を聞かせてくれたのだ。自分のことも、おばさんになら話せると思ったし、わかってくれると思った。
少し旅に出てみたくて、北海道まで行けるきっぷを買ったんですよ、という話をした。するとおばさんは、「自分探しの旅に出ているの?」とほほ笑みながら話した。たしかにそんな感じですね、とその時笑って返したが、自分探し、というと仰々しく聞こえてくるなあ、と感じた。おばさんはさらに言った。
「北海道まで普通列車で行くんなら、まだまだねえ」
北海道が遠いことは知っているのだが、北海道まであとどれくらいなのだろうか。
「そうですよね、どこらへんまで進めるかって感じです」
「そうねえ……今日中だったら仙台くらいまでしか行けないんじゃないかな」
仙台か、本州は大きい。全然進めないし、北海道まで行ったからといって、きっぷの有効期間内にうちに戻ってこられるだろうか?
おばさんは察したのか、「どうしても北海道にいくの?」と訊いてきた。ここまで来たら後に引くことはできない。覚悟を決めて、はい、とうなずいた。
「だったら、これ、もっていきなさい」
おばさんがくれたものは、《駅弁券》と印刷された券を五枚くれた。
「駅弁券……なんですか、これ?」
怪訝になって問うと、おばさんはさすがに渡すだけじゃ無理か、と笑って言った。
「これはね、北海道と東日本にある駅弁屋さんで使える割引券なの。これ渡すと五割引きになるよ、だから使っていきなさい」
そんな券があるのか。ありがたく受け取ることにした。
「ありがとうございます」深々とお辞儀をする。
「いえいえ。自分、見つけられるといいね。でも北海道にいくならこのまま盛岡まで行って、新幹線に乗り換えなさい。さっき聞いたきっぷだと、五日間しか使えないらしいから、帰ってこられなくなっちゃうからね」
そしておばさんは、新幹線の時刻表をくれた。この時刻表はここから三駅先にある駅のものだった。ここまでお世話してくれたおばさんだ、言うことはしっかり守ろうと思った。
すると、まもなく電車が参ります、と駅員さんの放送がかかる。早くも一時間が経っていたようだ。
「じゃあ、私はこの辺で、お元気でね」
おばさんは宇都宮にある工場のほうへ戻るために、改札を出て行った。
その背中は、とても大きく、頼もしく見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます