プロローグ 前編 推奨背景色:生成り
― 三十二日十七時間前 ―
明るい教室にわずかにオレンジがかった西日が差し込む。
太陽はもう一踏ん張りと言っているかのように生徒たちのノートを白く照らしつけつつ、徐々にその体を沈ませている。
春が過ぎ去り徐々に暑さが本性を表してきた五月の下旬。生徒だけでなく教師の頭も、春の残り香の陽気は溶かしていく。
「そんで、このフォン・ノイマンがコンピュータを発明して、いま会社を経営してるニコラテスラとか開発者が改良して、数年前に亡くなったスティーブ・ジョブズらがそれを世の中に広めていったって感じだな」
わしゃわしゃした茶髪の男教師が黒板に最後の白線を書き、指についた粉をふっと息で払うと、こっちに向き直り教卓に手をつく。
「OK。ここまででなんか質問あるやついるか……。おし、大丈夫そうだな。じゃあ最後に課題の小プリントやって、今日はお終いで! ここで待ってるから終わったやつから提出して出て行っていいぞ」
そう言って教卓の前の椅子にポスっと座ると、ノートパソコンを開きカタカタと自分の仕事を始めてしまった。
それに習うように生徒たちは友達とのおしゃべりを少し交えつつ自分の前のプリントを片付け始める。
「ふーん。この教科書だと半導体の流れは解説しないんだな。フェルディナントとかウィリアムとか。機械有識者の僕からしたらそこは飛ばせないところなんだけどな」
短髪の目元が子供っぽく、気さくにしゃべる少年、
「なあ、
「別に、コンピューターの起源とかどうでもいいけどな。僕は」
隣に座るマッシュヘアのスカした少年、彗太はシャーペンを振ってA5サイズのプリントを見つめた。
「そうなの? だってBCC優勝するくらいなんだからパソコンとかの知識は結構あるだろ?」
大陽がプリントに脇目も振らず僕に捲し立てるように喋り続ける。
「当時65歳だったノイマンが腰があまりにも痛すぎて自分が開発に関わった水爆実験に参加できなかったこととかさ、若い頃のエジソンが――」
「お前もうただの機械歴史オタクじゃねえか」
彗太はうるさい太陽の言葉を遮った。
「僕はもう止めたんだよ。今さらパソコンなんて興味無いね」
彗太は小さな長方形の紙に数単語書き込んでから、教卓にそれを置いて荷物と一緒に教室を後にした。
「え、ちょっ、早! 待ってって!」
大陽はプリントに殴り書いて提出すると、自分の席の荷物を急いでまとめた。
椅子を机にしまうドタバタした木材と金属の鈍い音が騒がしい教室に響く。
大陽は廊下に出て回りを見渡したが、連れだって廊下を歩いている生徒たちのなかに彗太の影は見当たらなかった。
「なっ! いねえじゃねえか。足速っやあいつ」
大陽は片目にレンズをはめて彗太の後を追って廊下を走った。
――――――――――
僕は教室から下駄箱への最短ルートから大きく遠回りし、時間をかけて別校舎を伝って逆方向から下駄箱に向かう。
巻けただろうか。
あいつのことは冗談抜きで嫌いだ。高校に入学し、教室に入った俺を一目で何者か理解し、その後ずっと付きまとってくる。
ただ僕はあの頃純粋に遊んでただけだ。今は部活が最優先。
玄関を抜け真っ直ぐ弓道場に向かう僕だが、そう上手くはいかないものだった。
「おお! いたぁ!」
突如として僕の目の前に横滑りで現れた大陽。その目はいつものヤツのクリっとした黒目とは違い、青い円環を描いている。
「てめぇ、レンズ買ったのか!」
「へへ、これでお前の位置も丸わかりぃ」
「お前マジでブロックするぞ」
「なんで逃げるんだよ! 一緒に弓道場行こうぜ!」
「お前機械になった途端うるさいんだよ、そのくせ安っぽいレンズつけやがって青すぎるだ……おわっ……いてっ」
突然、僕は頭を潰されるような頭痛に襲われ、頭を抱えてその場にうずくまる。
「あっ、おい大丈夫かよ」
大陽は急に塩らしくなる俺を見て心配した様子を見せる。
声を荒げたせいだろうか。いや、前回は授業中、静かな空間でなんの前触れもなく頭痛が引き起こされた。
「うん……なんとか……」
「彗太月一くらいでそのひどい頭痛来るよな。ちゃんと寝てるか? 無理すんなよ」
そう言って俺に手を差しのべる。
その言葉を大陽から聞いた瞬間、その手は後光さえあるのではないかと錯覚するほど輝きを放っていた。普段機械やcubeのことにうるさいこいつだからこそ、なおさら救いの女神のように聞こえた。
「俺彗太からcubeで教えてもらいたいこと山ほどあるんだかんな」
一瞬にしてその後光は消え去り、大陽の手は腐敗したクリームパンに見えた。
「だから今はやってねえんだって」
僕はぶっきらぼうに手を払い除けた。
「今はやってなくても二年前に優勝してんだから今も十分最強だろ?」
「っ! そういう問題じゃねぇんだよ!」
きつく言い放ち、そそくさと立ち上がって僕は大陽の横を通り過ぎて再び弓道場へ歩き出した。
部活が終わり、校舎に残る生徒たちは友達と少し談笑しながら徐々にその数を減らしていく。
僕は同じく弓道部の大陽の熱烈なアピールを受け流して自転車を出した。
空は薄暗く茜色がもう直ぐ終わる六時。イヤフォンをつけてペダルを漕ぎ出す。
スマートフォンを開くとピックアップされたニュースといくつかの着信が通知センターを賑わせている。
【大手デバイスメーカー『NICORA』一時株大暴落……】
【兵庫県の連続殺人 未だに犯人の足取りすら掴めず……】
【昭和を賑わせたプリウスディーゼル限定モデル、新品で発見さ……】
音楽を再生して幾つかのニュースを眺めていると、嫌な響きがスクロールと共に現れた。
【今年ロンドン開催の第3回Best Creator of Cube2015 第一回優勝者『コメット』の参加は……?】
文面を見た途端、僕はそのポップを消しニュースアプリの通知をoffにした。
そよ風に当たり暮れた空を眺めながら河川敷の道を走って帰路についた。
「ただいまー」
二階建てのほぼ合同住宅の家に帰ると真っ先に弟の
「おかえりー! ねえねえ知ってる? エジソンは若い頃他の研究者の発明をパクってクズ呼ばわりされてたけど、交流……」
「あああぁぁ! もう良いって!」
僕は半ば半狂乱になって、目を輝かせながら昔の研究者の偉業を語る劉生の口を押さえる。「ふむっ!」
「おい劉生、それ誰から聞いた?」
僕が少し手の力を緩め、劉生は僕の手のひらの拘束を解いて言う。
「大陽」
「母さんダメだ! 劉生からスマホ没収しよう!」
僕はリビングで料理を作っているであろう母に叫んだ。
「えー、なんでー? 劉生ちゃんと一日の時間守ってるもんね?」
「うん! 一日二時間、勉強と連絡以外には使ってない!」
そう言い残して劉生はドタバタとリビングに舞い戻っていく。
「くっそ……」
肩からズリ落ちそうになったリュックサックを手に持ち直してリビングのドアを開けた。
「おかえりー。今日遅かったね。なんかあった?」
長い黒髪を後ろに縛った母が両手の皿をテーブルに置いた。
「ちょっと長く
母を横目にそう答えてからリュックサックをソファに置き、僕はそのままソファにダイブした。
「はぁーっ、疲れたー。一歩も動きたくないー」
「ほらほら、ソファに汗染み込むから先にシャワー浴びちゃいな!」
家に帰るなりだらける僕を見た母はケツをたたくように僕を風呂へと急かした。
濡れた紙を乾かしてから母、弟に少し遅れて食卓に着いた。
「そっかーもう高二でレギュラーだもんねー。去年狂ったように筋トレしてた成果が発揮されるんじゃないの?」
母はナムルを口に運びながら僕に聞いた。
「兄ちゃん去年暇さえあれば腕立て伏せだったよね」
弟が同様に口にナムルを運んだ。
「ほんとだぜ……くる日もくる日も腕立て腕立て。ボクシング部かっつうの……」
あの地獄のような下積み時代。何回部活をやめようかと悩んだことか。
四月下旬、正式に下の世代が入ってきて顧問から僕たち新二年生は筋トレ解放宣言をされ拳を交わして喜んだ。僕たちが入った当初もひとつ上の先輩達が叫びながら喜んでいたのを見た。当時も先輩から事情は聞いていたがそのときは他人行儀だった。
大陽とも泣いて抱き合ったのは将来酒を酌み交わすようになってからいい話のネタになるだろう。
「いいいいや! ボクシング部は腕立てなんかしない!」
突如として二階から放たれる大声。
どこからともなく家中に響き渡るゴオオオという轟音。机の上の皿を微かに揺らす振動。
同時に二回から滑り降りてくるレールに乗ったでかめなスケボーの板。
上のデッキテープを剥がされて小さなサーフィンボードのようになった板に仰向けに乗って二階から現れたのはガタイのいい茶色がかった短髪の男だった。
「僕たちの頃はそんな前時代的な肉体改造なんて
アホな自由人、僕の父親だ。
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