トンネルワラシ
ASA
第1話
きのこ
こいぬ
ぬいぐるみ
トンネルの中にわたしと娘の声が響く。車の音にも負けない、元気な娘の声。わたしの声は大きな車が通るとかき消されてしまう。
「ママ、聞こえなーい」
「み、ず、う、みー!」
わたしは頑張って声を張り上げる。わたしの声がタイルの壁とコンクリートの天井にはねかえって響いた。トンネルは、子どもとゆっくり歩いても十分とかからずに抜けられる長さだ。トンネル内に等間隔に設置されたライトに照らされたわたしたちの影は、車が通り過ぎるたびに後ろから前へと流れ、そして何事もなかったように戻ってくる。大きな影と小さな影。
「また「み」なんてずるーい」
頬をふくらませながらも、娘は「み」から始まる言葉を探している。
「みどりいろー」
「ろ、ろ、ろば」
そのとき、わたしの耳元でささやくような声がした。
「ば、ばく」
わたしは小さく笑う。
「く、くじら」
「えー、ママ、わたしまだなんにも言ってないよ」
「いいのいいの、次は「ら」からだよ」
娘はえー、と言いながらも「うーん、らっこ!」と元気よく言った。小さなことにはあまりこだわらない鷹揚さが、この子のよいところのひとつだとわたしは思う。
「……こねこ」
またひかえめなささやき声が耳元でする。わたしは吹き出すのをこらえた。こねこ。始めも終わりも「こ」。うまいこと、こっそりとしりとりに参加するじゃないの。
「ママ、こ、だよー」
「うん。こぐま!」
娘は手を繋いだまま、ぴんぴんとはねて歩く。
「ママ、楽しいね!」
娘と繋いだ左手がぶんぶんと振り回される。
「そうだね、楽しいね」
ふと、右手の指先にひんやりとした何かが触れた。
「うん、楽しい」
小さな声も言う。
車のライトがわたしたちの影を揺らす。
大きな影がひとつ、小さな影がふたつ。みっつの影が、楽しげに揺れている。
*
ああ、何年ぶりだろう。このトンネルを抜けるのは。
入り口のコンクリート部分は随分と古びたようだけれど、トンネルの上の山の木々は昔と変わらない。
今日、わたしは出産した娘に会いに病院へ行ってきた。そして、本当に久しぶりにこのトンネルを通ろうとしている。娘が幼稚園の年長あたりから小学校の途中までは、ほぼ毎日のように通っていたというのに。
あの頃は、仕事帰りに隣駅の実家に寄って、娘を連れて歩いて帰るのがわたしの日課だった。トンネルの中でのしりとり。わたしと娘と、もうひとり。トンネルの子。娘には見えていないようだったけれども。
懐かしく思い出しながらトンネルに入り、端の歩道を歩き始めた。車が続けざまに通って、壁に映るわたしの影を揺らす。一瞬、影がふたつに見えた気がして、わたしはくるりと振り返った。
「……あら。あらあら」
何と言ってよいのかわからずに、わたしはあら、とかええ、とか意味のない言葉をひとしきり繰り返した。それから、目の前に立っている「彼」に話しかけた。
「あなたはずうっと小さな子どものままなのかと思っていたわ。違ったのねえ」
「おれにはきまったかたちはないんだ。おおきくもちいさくもなる」
昔と違うようでいて、なぜか同じに聞こえる声でささやくように彼は言い、にっこりと笑った。向こうが透けて見えるような、そんな笑い方だった。少年と青年の間くらいの歳に見える。
「本当に久しぶりね。わたしはすっかり歳を取ったでしょう」
「あなたはむかしといっしょだよ。またあえてうれしい」
「一緒なんかじゃないわよー」
わたしは吹き出した。
「あのとき、あなたとしりとりをしていた娘が赤ちゃんを産んだの。わたしもいよいよおばあちゃんよ」
「あのこに、あかちゃん?」
彼はびっくりしたような顔をした。
「そうよ!びっくりでしょう。わたしも赤ちゃんを抱っこしたのなんて久しぶりだけど、赤ちゃんてすごいのよ」
「なにが?」
「何も怖いものがないの。暗闇も怖がらないし、すきま風の音も怖がらないし、なんていうか、ぴかぴか光っているみたいな感じがする」
「あなたのこと、おなじだね」
「そうね、あの子もそうだった。でももう大きくなって、今は怖いものだって色々ある。今ならあの子もきっと、あなたのことが見えるわね」
「おれは、こわいもの?」
「ちがうちがう、あなたは怖いものなんかじゃないけど、でも強すぎる光からは隠れてしまうものでしょう」
「そうか。そうだね」
彼はまた、にっこりと笑った。彼の笑顔を透かして、トンネルの出口から夕暮れの空が見える。
「あなたはトンネルの外には出ないのね?」
「うん。おれはここにいるものだから」
「そう。そのうち、赤ちゃんを連れてくるわね」
「そうしたら、おれはこどもになるからまたあそぼう」
わたしもにっこりした。
「じゃあ、またいつかね」
「うん、またいつか」
そうしてわたしは、もう振り返らずにトンネルを出た。
さようなら、またいつか。
END
トンネルワラシ ASA @asa_pont
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます