リ・メイク

八影 霞

リ・メイク

リ・メイク



男は完璧主義だった。だから彼の周りには彼を慕っている友人も彼を愛している恋人もいなかった。すべて男が追い払ってしまったのだ。男は自分の思い通りに動かない人間を嫌い、その人々も彼を嫌った。そうしているうちに、いとも簡単に男の周りから人はいなくなり、わざわざ彼に近づこうとするものは現れなくなった。

 そんな男にはよく見る夢があった。初恋の女の子に想いを伝え、二人でデートをする夢だ。世間との関わりをまるで捨てた良い年をした男が見るには、あまりにも少年的すぎる夢だった。夢の中で男は女の子と手を繋ぎ、街を歩き、遊園地に行き、レストランで食事をして、同じベッドで眠った。

 男は心のどこかでこの夢が現実にならないものか、と期待していた。叶うはずのない願望だと言うことは充分に承知していたが、男のその子への想いは夢の回数を経るごとに増していった。男の『夢が現実になってほしい』という思いは次第に『この夢は現実になるはずだ』といった確信に変わっていった。

 おそらくこの話を聞いたほとんどの人々が男の考えを嘲笑したことだろう。夢の見すぎだと彼のことを否定しただろう。だが、男の願望はそう遠くないうちに叶うことになる。いや、正確には叶うかもしれないもの、として男の前に現れるのである。



 ≠1


 指定された場所に足を運ぶと、長らく会っていなかった友人の姿があった。彼は以前に会った時よりも、やつれていて、まるでベッドからそのまま出てきたような髪型をしていた。

 彼は僕に気づくと、軽く手をあげてうっすらと笑を浮かべた。

 その笑顔を見るのは、半年ぶりだった。

 「元気にしてたか?」

 「ああ、そりゃおかげさまで」

 僕は無理矢理笑った。

 「早速だが、話をしようと思う」

 彼はそう言うと、僕を奥の部屋へと案内した。

 数日前、突然、彼から電話が掛かってきた。

 駅地下のバーで彼の卒業祝いをして以来、ずっと音信不通だったので、僕はとうとう縁でも切られたかと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。『久しぶりだな』と僕が言うと、彼は興奮した様子で僕の名を呼んだ。その時、彼がどういうことをどういう口調で話したか、僕は覚えていない。しかし、彼が何かを提案してきていたことは、しっかりと分かった。

 だから、僕は『後日、また会って話そう』と言った。だたでさえ彼の発言は難しい。それが電話越しとなれば、なおさらだ。

 結局、僕らはまた会う約束をしてさよならを言った。

 「以上が俺がお前にできる最善の提案だ」

 彼は得意げに言うと、机上のコーヒーカップに角砂糖を二、三個放り入れた。

 「悪いが、その提案には乗れないな」

 僕はブラックコーヒーを口に運んだ。

 「どうしてだ?」

 彼が不思議そうに訊く。

 「お前は気に触るかもしれないが、僕は何だか馬鹿にされているような気がするんだ」

 「俺がお前を馬鹿に?」

 ああ、と僕は頷いた。

 「おいおい。俺はお前のことを思って提案してんだぞ」

 「それは分かってるさ」

 僕は彼が機嫌を損ねてしまったのではないか、と心配したが、彼は案外平然としていた。

 「まあ、お前の言いたいことは分からなくもないが」

 彼は言った。

 「だが、考えてみてくれ。お前がこの提案を飲むことで、失うものは何もない。あるのは、『何も成果を得ずにまた元通りの生活に戻る可能性』と『成功してお前の望む幸せを手に入れることができる可能性』だけだ」

 彼はコーヒーを飲んだ。

 僕はまだ砂糖を入れられないままだった。

 「とはいえ、判断するのはお前自身だ。俺がどうこう言えるもんじゃない」

 彼は席を立った。

 この後、別の仕事があるんだ、と彼は言った。

 僕はコーヒーを飲み干すと、彼に続いて席を立った。

 「まあ、ゆっくり考えてみるといい」

 玄関を出るとき、彼が言った。

 ゆっくりと考えたところで、考えが変わるとは思えなかったが、僕は「考えておくよ」ともの憂いに答えた。


 一週間後、結局僕は彼の提案を受け、もう一度彼の研究所に訪れていた。

 「久しぶりだな。そっちから現れるなんて、いったい何の用だ?」

 「相変わらず意地の悪いやつだな。お前の言った通り、考えが変わったんだよ」

 そう言うと、彼は少し肩を上げて笑った後で、僕をある部屋に連れて行った。

 部屋に入ると、そこには人の形をした機械のようなものが、いくつも並べられていた。僕が不安そうに当たりを見渡していると、彼がそのうちの一体の肩を軽く叩いて言った。

 「話はこの前の通りだ。こいつがお前の新しい恋人。ここにある連中の中では一番、上出来な代物だ」

 「改めて聞くと、実に変な話だな」

 「そう言うなよ。お前、まだ忘れられてないんだろ、あの子のこと。いい加減忘れろよ。これを機に」

 「ああそうだな」

 僕は力なく答えた。

 結局、僕は彼からその機械をひとつ借りることにした。

 「貸すって言っても、返してもらえるとも思っていないがな」

 「ということは、こいつは僕がどうしようたって構わないってわけか?」

 「そう言うことになるな」

 彼は言った。

 「ああだが、一応女の子なんだ。扱いは丁寧に頼む」

 「言われなくても、分かってるさ」

 僕はそう言うと、彼に手を振った。



 ≠2


 借りてきた機械をどう使うかは、すでに決めていた。

 僕は機械の電源を入れ、その前に立った。

 僕はこの機械を使って、初恋を甦らせる。要するに、僕はこの子を初恋の相手に仕立て上げ、もう一度初恋相手との時間を取り戻そうと考えたわけだ。

 しばらくすると、機械は下がっていた顔を上げて、目の中に光を灯した。

 「オハヨウゴザイマス。ココハドコデショウカ」

 聞くに耐えない甲高い機械音だった。

 僕は耳を押さえながら、機械の背後に周り音声の切り替えがないか探した。

 「ナニヲシテイルンデスカ? セナカニハナンニモアリマセンヨ」

 「この殺人的な声色はどうやったら変わるんだ?」

 「コワイロ、デスカ?」

 「ああ」

 僕は頷いた。

 「コノコエ、ワタシハスッゴクイイトオモウンデスケドネ。マアデモ、スコシツカレマスカラネ。ホカモノノニカエマショウカ」

 そう言うと、機械は目を瞑って何やらぱくぱく、と口を動かし始めた。

 「このくらいでいいでしょうか?」

 機械の声は今度は、一般的な女性の声として僕の耳に届いた。

 「ああ助かった。耳がいかれちまうかと思ったよ」

 「それはそれは、失礼いたしました」

 機械は大袈裟に首を下げると、顔をあげ僕の顔をまじまじ、と見つめてきた。

 「ところであなたは誰ですか?」

 「名乗るほどの人間じゃない」

 「では、わたしはあなたを何と呼んだらいいでしょうか?」

 僕は少し考えてから言った。

 「好きにしな」

 「それでは私はあなたを『コワイロさん』と呼ぶことにします」

 機械は嬉しそうに、僕の手を取ってそう言った。

 「僕は君を何て呼べばいいんだ?」

 「とても素敵な名前がいいです」

 「それじゃあ、『ルリ』と呼ぶことにする」

 ルリは僕に名前を呼ばれると、もう一度激しく僕の手を揺さぶった。すっごく素敵な名前です、と。

 「よろしくおねがいしますね。コワイロさん」

 ルリは純粋な眼差しで僕を見た。

 『るり』とは初恋相手の名前だった。


 出かけるにあたって、さっきのようなテンションでいられると困るので、機嫌の設定を少し下げてもらった。

 ルリは「テンションを上げるならともかく、下げろと言われるのは初めてです」と言っていた。

 僕らは近くの公園まで散歩をした。ルリを手に入れたら真っ先に訪れようと思っていた場所だ。

昔、るりとよくこの場所に訪れていた。るりの家は基本的に放任主義で、一方の僕も親にはあまり心配されるタイプではなかったので、大抵、夜はこの公園で落ち合った。

 公園に着くと僕はベンチに座り、ルリに話をした。

 「実を言うと、僕が君を借りたのはある目的を果たしたいからなんだ」

 「目的ですか?」

 「ああ。僕には忘れられない人がいてな。ルリにはその人に成り代わってほしいんだ」

 「何を言ってるのか、わかりません」

 ルリは首を捻って、言った。

 「まあいいさ。君は僕の言うとおりにしていればそれでいい」

 「それは何だか、嫌な気分です」

 「そう言うなよ」

 僕は肩を落とした。

 「それじゃあ、手始めに飲み物でも買うか」

 僕はベンチから立ち上がると、ルリを連れて自販機へ向かった。

 自販機の前まで来ると、僕は試しにルリに「どの飲み物を飲みたいか」尋ねてみた。

 「うーん、そうですね。これなんてどうでしょう?」

 そう言ってルリが指をさしたのは、案の定、るりの好みとはまったく違う炭酸飲料だった。

 「るりは炭酸は飲まない。もっと体にいい天然水なんかを選ぶはずだ」

 「ルリは私ですよ。その、るりって言うのは誰のことですか?」

 「るりはさっき話した忘れられない人の名前だ」

 「私にもおんなじ名前をつけたんですか?」

 ルリは驚いたように言った。

 「もちろんさ。成り代わるなら、名前も一緒なのは当然だろう?」

 「コワイロさんはひどいです。わたしだけの素敵な素敵な名前だと思ってましたのに」

 「名前なんて、大抵どこかで被ってるもんさ。それに、簡単な名前となると尚更だ。るり、なんて名前は余るほどいる」

 ルリは肩を落とした。

 「すごく残念です」

 「気にやむなよ。るりはそんなことで落ち込んだりはしない」

 「うるさいですね。るりるりって、ルリはわたしなんですよ。わたしの好きなようにして、いいじゃないですか」

 「そうなると、君を借りた理由がなくなってしまう」

 僕が言うと、ルリは「そうですか」と不服そうに言った後で、天然水のボタンをそっと押した。

 「わたし、機械なので水は飲めません」

 代わりに飲んでください、とルリは言った。

 「ああ」

 僕はペッドボトルを傾けると、一気に中身を飲み干した。

 「おいしいですか?」

 「まあな。じゃあこれで一つ成長したな。今度からは必ず水を選ぶようにしてくれ」

 僕が言うと、ルリは「わたし、実際に飲めませんけど、るりさんの代わりになれてるんですか?」と訊いた。

 「仕方ないさ。機械なんだから。僕もそこまで分かりの悪い人間じゃない」

 「安心してください。じゅうぶん、堅い人なので」

 ルリが面倒そうに言った。

 「ああそうかい」

 僕の目論見を叶えるのは、思ったより手ごわい作業になりそうだった。


 マンションに帰ると、夕食の準備をした。

 「コワイロさんは普段、どんなものを食べるんです?」

 「基本的に完全栄養食と、サプリメントだ」

 「かんぜんえいようしょく?」

 「どこかの天才が作った、一食食べるだけで、ほぼ全ての栄養が摂取できるという優れもんだ」

 「なんだか、私たち機械に似てますね」

 「どうしてだ?」

 「食事を楽しんでいない。食事を生きるための『手段』として考えています」

 「ああそうだとも。食を楽しもうなんて、生まれてこのかた思ったことなんかないさ」

 「普通のにんげんとは違いますね。コワイロさんは」

 夕食を食べ終わると、僕はルリをるりに近づけるために、ルリとるりの相違点を書き出してみた。

 

 ⒈  敬語で話さない

 ⒉ るりは短髪だが、ルリは長髪

 ⒊ るりはお洒落だが、ルリはそうではない

 ⒋ 飲み物は水を好む

 ⒌ るりはいつも眠たそうだが、ルリはそうじゃない

 ⒍


 六つ目の項目を書こうとしていたところで、ルリが覗き込んできた。

 「なんです? これ」

 「二人の相違点を取り上げてみたんだ」

 「そういてん?」

 「ああそうだ。ルリには明日から、この相違点を直していってもらう」

 「嫌です」

 「そう言われてもな」

 「嫌なものは嫌なんです。どうして、わたしがそんなことしなきゃいけないんです?」

 「そのために君を借りたから、だ」

 僕はいたって単純なことを言った。

 だが、ルリは納得がいっていないようだった。

 「わたし、借りて欲しいなんて頼んでないです。勝手に借りておいて、自分の理想を押し付けないでください」

 ルリは咳払いをした。

 僕は腹の底から何かが湧き上がってくるのを感じた。

 いつものことだ。

 僕は自分の気に食わないことがあると、こうやってとどめない感情に襲われる。

 そして、それは決して自分の意思で止めることはできない。

 気づいた時には、ルリのことを押し倒していた。

 「なあ、どうして言われた通りにできないんだ?」

 「…………え、はい………コワイロさん?」

 ルリはひどく怯えている様子だった。

 「どうして、どうして、いつも、世界は僕の思う通りにならない? どうしてだと思う? いったい僕が何をしたって言うんだ? ただ、単純に初恋を取り戻したい、と思っただけじゃないか。誰だって、そんな理想の一つや二つ、持ってて当たり前だろう? そして、それを叶えたいと思うことは、当然のことだ。なあ、そうだろう?」

 「………どうしたんです? コワイロさん、急に、怖いですよ」

 ルリは僕の目を見て言った。

 「怖い? 僕が? 冗談じゃない。当たり前のことをしているまでさ。僕は理想を叶えるために君を借りた。だから、君は僕の指示通りに『るり』に成り代わってくれれば、それでいいんだ」

 「………」

 ルリは僕から目を逸らした。

 「ルリ。答えてくれ。僕は間違ってないよな? 僕が今しようとしていることは、いたって正常な人間のすることなんだよな?」

 答えてくれ、と僕はいった。

 「…はい。そうです。コワイロさんは何も間違ってないです」

 「それはよかった。なら、ルリ、これからは僕の言う通りに動いてくれってことだよな?」

 少し沈黙があった。

 その間、僕は一触即発の状態にあった。

 ルリの返事次第では、ルリにもっと酷いことをしていたかも知れなかった。

 でも、そうせずに済んだのは、彼女の賢明な判断のおかげだった。

 「………はい。もちろん。そうします」

 ルリは震えながら、そう答えた。

 その瞬間、僕は相当安堵した。

 一瞬にして、僕の中の嫌な感情はすっと抜けていった。

 爽快だった。自分の思い通りにいった。それが大変、心地よかった。

 「あの……コワイロさん」

 ルリが僕の袖を引っ張った。

 「できれば、今の記憶消していただけませんか? わたし、このままだとコワイロさんのこと、多分、とても嫌いになると思います。そんな状態では、わたし、あなたの言うことを聞けません」

 「どうすればいい?」

 僕は訊いた。

 すると、ルリは髪の後ろから何やら小型の機器を取り出して言った。

 「これはアウトコントロールです。わたしが自分の設定を変更できるように、それを使うとわたしの設定を取り消すことができるんです」

 「なんだって?」

 「それを使って、わたしの記憶を取り消してください。わたしとコワイロさんの今の会話を、消してください。そうすれば、わたしはすんなりコワイロさんの言うことに耳を傾けられると思います」

 ルリはそう言うと、アウトコントロールを僕に渡した。

 「それをわたしの首元に差し込んでください」

 僕は言われた通りにした。

 するとルリは途端に力を無くし、その場に倒れ込んだ。

 僕はアウトコントロールを操作した。

 そして、ルリの記憶を消去した。

 

 ≠3

 

 その日は、ルリを遊園地に連れて行った。

 ルリはきちんとした服装をしていれば、機械に見えることはまったくなかった。むしろ、そこら辺を歩いている女子高生よりは、断然ちゃんとした人間をやっていた。

 僕らは適当に人の多い列に並んで、列が進んでいって初めてそれが何のアトラクションなのかを理解し、無表情で乗り込み、無表情で降車した。

 僕は無表情なりに楽しんでいたつもりだったが、ルリの目にはそうは映らなかったようだった。

 「コワイロさんは、遊園地を地獄と勘違いしてるんですか?」

 「人聞きが悪いな」

 「だって、ずっと死んでしまいそうな顔をしてますよ」

 「そういう君は笑ってたのか?」

 「もちろん無表情ですよ。コワイロさんが死んだような顔をしているのに、わたしだけ笑っていたら、コワイロさんの悲壮感が増すでしょう?」

 「気を遣ってくれてありがとう。それなら今度は、二人とも笑わないか?」

 せっかく遊園地にきたんだ、と僕は言った。

 「いいですね。そうしましょう」

 園内一の人気を誇るジェットコースターが、僕らを乗せて動き出した。

 ジェットコースターが最上部に差し掛かった時、僕はふとルリのことを見た。

 笑っていた。

 るりはそんなふうには笑わない。

 そう言おうとしたが、その笑顔があまりにも幸せそうだったので、僕は黙って前を向いた。

 あの時、僕はルリの記憶を消した。

 だがしかし、消したのはルリから頼まれた記憶ではなく『ルリが僕に記憶の取り消しを頼んだ』という記憶だった。

 だから、今のルリはもちろんあの時のことを覚えているし、おそらく僕のことも嫌いだ。

 そんなことなら、ルリに言われた通りあの時の記憶を消しておくべきだったのだろうが、僕にはそれはできなかった。

 例え一日でも、ルリと過ごした時間がなかったことになるなんて、耐え切れなかった。もとより、未だ初恋も忘れられない男が、そんなに容易く記憶を消せるわけがなかったのだ。

 「ねえ、次は何に乗るんですか? わたし、あの回る馬に乗りたいです」

 「その前に買いたいものがあるんだ」

 「お土産ですか?」

 「いいや」

 僕は否定した。

 「じゃあなんですか?」

 ルリが不思議そうに訊いた。

 「何というか。これを言うと笑われるかもしれないんだが……」

 「はい」

 僕はポケットから携帯を取り出して、画面をルリに見せた。

 「充電が百パーセントじゃないと、耐え切れないんだ」

 「はい?」

 「あろうことか今、充電が九十九パーセントしかない。いつもなら、すぐに充電するんだが、今日はあいにく充電コードを忘れてきたみたいでさ。だから、どこかで買おう」

 「馬鹿なんですか?」

 「ああ、自分でも思うさ。だが、そうじゃないと心地が悪いんだ」

 「まあ、わかりましたよ。コワイロさんがそう言うならそうしましょう。遊園地は心地が悪くてはいけませんから」

 「ありがとな」

 「その代わり、お土産をひとつ買う約束をしてください」

 「ああ、もちろんさ」

僕は苦笑した。

 案外、僕はルリとの遊園地を楽しんでいた。

 だが、一方で僕の胸にはずっと刺々しい何かが引っ掛かっていた。

 もし今隣に居てくれているのが、『ルリ』ではなく『るり』だったら? もし今『るり』が隣で笑ってくれていたら? と。


 無事に充電コードを手に入れた僕は、モバイルバッテリーと携帯を繋ぎ、それをバッグに入れた。

 「もふもふ、してて可愛いです」

 ルリはくまのかぶり物を被り、耳をぽんぽん、と叩きながら言った。

 「よかったな」

 「はい。コワイロさんが完璧主義で良かったです」

 「完璧主義?」

 「はい。すべて完璧じゃないと居心地が悪く感じてしまう。そういうのを完璧主義と言うらしいですよ」

 「なるほど。僕は完璧主義なのか」

 僕は自分のこの性格にちゃんとした名前があったことを、少し嬉しく思った。わずかだが、自分のこの腐りきった性分が認められた気がした。

 「それじゃあ、次はあの回転木馬に乗りましょうよ」

 「回転木馬? ああ、メリーゴーランドのことか」

 ルリは難しい言葉をよく知っているなと思った。

 るりは、これほど物知りではなかったな。

 いつも、るりの分からないことは僕が教えていた。

 「なあルリ。るりはそんな風に知識をひけらかしたりはしないんだ」

 「なんですかそれ。わたしが驕っているとでも言いたいんですか?」

 「そういうわけではないんだが、るりならそうはしない」

 ルリは一瞬、立ち止まり不服そうな表情になったものの、すぐに「そうですね。次からは気をつけます」と再び歩き出した。

 遊園地を出る頃には、空色はすっかり沈んでしまっていた。

 「楽しかったですね」

 「ああ、そうだな」

 「今度また来ましょうね」

 「……ああ」

 「どうしたんです? コワイロさん」

 「いや。今の会話、自然とるりがいいそうなことを言っていたから」

 すると、ルリはおかしそうに笑った。

 「ルリさんじゃなくても、こんなことくらい言いますよ」

 「そうか」

 「はい」

 マンションに帰ると、どっと疲れが出てきて、僕はシャワーも浴びずにベッドに身を投げた。

 その反動でシーツにしわができた。今すぐにもそれを直したかったが、そんな気力も残っていなかった。


 ≠4


 次の日は映画館へ行った。

 一応、ルリに「どこ映画が見たいか」と訊いたところ、予想通りるりが最も選びそうにないホラー映画を選択した。

 「るりはひどく怖がりなんだ。自らホラー映画を見ようなんてしない」

 「じゃあなにを見るんですか?」

 僕は映画館の壁に貼ってあるポスターを指さした。

 「これだ」

 「感動もの、ですか?」

 「ああ」

 「わたし、機械なので感動はできません。間をとってあれにしましょう」

 ルリが指をさした先には、宇宙を舞台にしたアクション映画の広告が掲げてあった。

 「機械が『機械が壊されていく映画』を見る方がどうかしてると思うんだが……」

 「そうでしょうか?」

 ルリは目を輝かせてアクション映画のポスターを眺め続ける。

 「だめだ。あれを見よう」

 僕はルリをその場から引きはがし、チケット売り場に行き、二人分のチケットを購入した。

 「ルリ、さあ行こう」

 僕はルリの手を引いた。

 「感動、できないですよ?」

 「いいんだ。横に座ってくれれば」

 「それは、なんだか変です」

 「変じゃないさ」


 映画館を後にした僕らは、どこか近くの店で夕食を摂ることにした。

 「ルリ、何が食べたい?」

 「お好み焼き」

 「違う。るりはそんなもの食べたがらない。もっとお洒落なレストランなんかを所望するはずだ」

 やり直しだ、とルリに言った。

 「さあ、何が食べたい?」

 「お好み焼き」

 「あのな……」

 「るりさんだって、たまにはお好み焼きを食べたい時はありますよ」

 「そんなことはない」

 「いいえ、あります」

 「ないな」

 「あります」

 そんなことを続けていると、店の中から店員が出てきて僕らを席に案内し始めた。

 入店してから「やっぱ気分じゃないんで」とはもちろん言えるはずもなく、僕は仕方なく座敷の畳に腰を下ろした。

 ルリも座敷に上がり、僕の隣に腰を下ろす。

 「なにをやっているんだ?」

 「お好み焼きを食べます」

 「違う。そうじゃなくてだな……『どうして横に座るんだ?』って聞いているんだ」

 僕がそういうと、ルリは困った様子で眉をひそめた。

 「親しい間柄なので、隣に座るのはおかしくないです。それに、るりさんも女の子です。これくらい大胆な行動に出てコワイロさんの気を引こうとしてくる可能性もあります」

 僕は呆れて肩を落とした。

 この機械はどこでそんな青春じみた考えを覚えたのだろう、と。

 「いいか? るりはそんな風なことはしない。るりはもっと奥手でおしとやかなんだ。間違っても誰かを口説き落とそうなんてことしない」

 「わかりませんよ」

 ルリは負けじと対抗する兆しを見せたが、先日のことを思い出したのか、「わかりましたよ……」と大人しく向かいのテーブルに座った。

 「これでいいですか?」

 「ああ、助かるよ」

 注文を済ませると、店員が店の奥に消えて行った。

 「コワイロさんは理想主義でもあるんですね」

 

 

 ベッドの上でうつ伏せになって、物思いに沈んでいると、部屋のドアが開く音がした。

 「ルリか?」

 「はい。コワイロさん、こんな暗い部屋でなにをしているんでしょう?」

 「寝ている」

 僕は答えた。

 「寝てるんですか?」

 「ああ、そうだ」

 しばらくすると、ルリが言った。

 「コワイロさん、なにか考えごと、をしてるんですよね?」

 「違う」

 「話してみてください」

 「話さない」

 今夜のルリは、やけに僕に優しくあった。いつもは強く当たっている人間が、巻き忘れた螺子巻き人形のようになっているのに、優越感を覚えたのかもしれない。あるいは、ただ単純に僕のことを心配してくれての行動だろうか? いや、そんなことがあるはずがない。

 「なあ、ルリ」

 僕は地面を見つめながら、言った。

 返事はなかった。

 「僕は『るり』が好きだった」

 言った後で、いったい僕は何がしたいんだろう、と自分に腹が立った。



 ℛℛ


 それから僕たちは色々な所へ行き、色々なものを見て、様々なことをした。日を重ねていくにつれて、僕はこの子を『るり』にするのは無理かもな、と思い出した。

あの夜からルリの当たりが少し柔らかくなった気がした。とはいえ、だからといって進んで言うことを聞いてくれるようになったわけではなかった。ルリは以前通り、僕が指示をすると、不服そうな顔でそれを拒んだ。

変わったことと言えば、それは僕の方にあった。

僕はそんな風にルリが言うことを聞いてくれなくても、何も思わなくなった。以前のように腹を立てることも、乱暴に振舞うことで従わせようとすることもなくなった。

一度、ルリから妙な質問をされたことがあった。

ボーリング場にいた時だった。

ルリがぎこちないフォームで球を送り出す。

「コワイロさんは、るりさんのどんなところが好きだったんでしょうか?」

 ストライク。

「それを聞いてどうするつもりだ?」

僕はどこかで見たプロのフォームを真似てみる。

「どうするつもりもないです。ただ、気になっただけですよ」

ガーター。

振り返ると、無情に両手をぱちぱち、とさせる機会がこちらを窺っていた。

「恥ずかしい話。どこがどう好きだとか、具体的なものはなかったんだ。だが、僕には彼女がなにもかも完璧な存在に感じた」

「変です」

「ああ変さ。彼女の立ち振る舞い、表情、ふとした時に見せる隙。そのすべてが僕を魅了した。だが、そのそれぞれが好みだったとかではないんだ。理解できないかもしれないが、そういう仕草のひとつひとつで構成された完璧な存在。それに僕は惹かれたんだと思う」

「男の人の感覚はちょっとわかりません」

ルリは冷たく言った。

男というか僕が特殊なんだと思うよ、と返す。

「分からなくていいさ。自分でもよく分かってないんだから」 

その日以来、ルリがるりについて尋ねてくることはなくなった。

おそらく理解不能な恋愛観に気味が悪くなりでもしたのだろう。そう思われても仕方がなかった。

 そんな風に毎日は流れていった。



 ≠5



 僕がルリを借りてから三ヶ月が経ったある日、朝起きるとルリが眠ったまま動かなくなった。何度か充電してみたが、やっぱり動かなかった。

 僕は辺な汗を掻きながら、友人に連絡をした。

 すると、彼は「一度見てみよう」と言った。

 部屋で待っていると、数時間後に折り返しの電話があった。

 僕は手元の震えを抑えながら、携帯を手に取る。

 彼は「バッテリーの消耗だ」と言った。

 新しいものに取り替えさえすれば、また元通りに戻るらしい。

 僕は胸を撫で下ろし、その日を待った。

 部屋でルリを待ち続けていると、携帯に連絡があった。

 バッテリーの交換が終わったのかと思って見てみると、そこには同窓会の案内が来ていた。僕はくだらない、と思い携帯を投げ捨てようとして思いとどまった。


 行けば、るりに会えるかもしれない


 一度その可能性が出てくると、もう僕の中には「行かない」と言う選択肢はなかった。

 身支度を済ませると、すぐに指定の場所へと足を運んだ。

  

 油っぽい香りが漂う居酒屋に入ると、大きく、通っていた高校名と、『同窓会』の三文字が書かれた貼り紙が目についた。

 奥の連中は、僕に気がつくと軽く手をあげて僕を手招きした。

 「世渡(せと)だよな。久しぶりだな。おい、何年ぶりだ?」

 「覚えてないな」

 まるで彼と僕とが親しい関係であったかのように見える会話だが、決してそんなことはない。

 高校の頃の僕はあぶれていて、友人と呼べるような存在を持ち合わせていなかった。それも、僕の性格のせいだった。完璧主義。僕は自分の思い通りに動かない人間を嫌っていた。だから、ほとんどの人には嫌われていたし、僕もあまり好意的には思っていなかった。

 ただ、たった一人だけ、僕にとって完璧と呼べる人間がいた。

 それが、るりだった。

 彼女の容姿、声、何かに打ち込む時の眼差し、会話の流れ、歩く歩幅、すべてが僕にとって非の打ち所がないくらい、完璧なものだった。

 だから、僕は彼女には自然と優しく接することができたし、今でも彼女を忘れられないまま、引きずって生きている。

 そんなことを思っていると、一人が気になる話を始めた。

 「そういえば、みんな覚えてるか? あの、うちのクラスにいた、秋景(あきかげ) 琉里(るり)って女子。あいつ、今度結婚するらしくてさ。この前招待状が来てたんだ」

 「ああ、いたなそんなやつ」

 誰かがいった。

 僕は何も言わずに、テーブルの食べ物を口にした。

 こんな風に冷静でいられる自分に驚いた。るりが結婚するのだという事実を聞いても、僕はいたって平然としていられた。

 いや、正しくは冷静を装っていた。

 この場で取り乱してしまうのは、あまりよろしくない。そう判断したのだろう。


 だがしかし、次に聞こえてきた事実に、僕はその平常心をまるっきり失ってしまった。


 「招待状と一緒に写真も送られてきてたんだが、あいつ、学生時代に比べて相当雰囲気変わったな。なんていうか、高校の時とはまったく逆というか、その、つまりだな……」

 「その写真、今はないのか?」

 一人がそいつに言った。

 「あああるとも。そうだな、実際にみた方がいい。驚いて腰を抜かすなよ」

 そいつは携帯を取り出し、周りの連中に写真を見せ始めた。

 最初は大人しくしていたものの、しだいに耐え切れなくなって、正確には耐える理由をなくして、僕はそいつの携帯を奪い取った。

 「悪い。ちょっと見せてくれ」

 そいつは一瞬、驚いた表情を見せた後で「ああ」と小さく頷いた。

 僕ははじめ、誰がるりなのかが分からず、何度も何度も写真を右から左へと行ったり来たりした。そして、とうとうそこには男が一人と女が一人しか映っていないことを理解し、その女の方がるりなのだという現実を押し付けられた。

 冗談だろう……

 僕は自らの目を疑った。自分自身のことを疑う、といった行為は今回が初めてではなかったが、無意識的にそれを行なったのは正真正銘、今回が初めてだった。

 「そろそろ返せよ」

 気がつけば、僕はかなり長い時間写真を見つめていた。

 僕はそいつに携帯を返すと、その場に項垂れた。

 彼女………るりは、驚くほどの変貌を遂げていた。

 その変化を言葉で表現するのはとても難しいことだが、少なくとも僕が知っているるりとは一番かけ離れた存在だった。

 「悪い。用事を思い出した」

 僕は自分の席に会計分の金を置くと、立ち上がり、その場を早足で去っていった。

 店を出る途中で、誰かが僕の名前を呼んだような気がしたが、気に留めなかった。

 

 居酒屋から離れると、僕はある場所へ向かった。

 今の時代では珍しい、今にも崩れそうな、頼りのない石橋だ。そこは雨降りの翌日に、洪水を起こすとかで若者に絶大な人気を博している有名な自殺スポットだった。

 僕は全てを辞めたかった。

 もう、僕には何も残っていなかった。

 もう、僕は完璧になれなかった。

 唯一、完璧な存在を失った。

 もういい。

 疲れたな。

 ああいいさ。

 そうさ、全部どうでもいいだろ。

 はじめから、すべて、どうでもよかったんだろ。

 僕が頑張ったところで、何にもならなかったんだろう。

 僕が思い続けたことで、何も変わらなかったんだろう。

 最初から決まってたんだろ?

 なあ、答えを教えてくれよ、世界。

 僕は、はじめから、こうなる運命だったのか?

 僕は生まれた時点で、絶望するって決まっていたのか?

 悲観して、堕落して、挙げ句の果てには失望して、

 それが僕の宿命だったんだろ。なあ、そうだろう?

 僕は橋の上に立った。

 すべて終わらせてしまおう。

 今度こそ、完璧に、全てを終わらせるんだ。

 さよなら、世界。

 さよなら、るり。

 そして、さよなら、僕。

 僕は目を瞑り、片足を石橋から離した。

 その瞬間、ポケットの携帯が震え出した。

 僕は足を引っ込めて携帯を耳に当てる。

 「バッテリー交換、終わったぞ」

 ああ、そういえばそうだったな。

 僕にはまだ、頼れる存在がいたじゃないか。

 そう思うと、途端に、早くルリに会いたくなった。

 

 ≠6


 マンションに帰ると、ルリがいた。

 「大丈夫だったか? ルリ」

 ルリはやけに疲れた様子で、僕の方を見た。

 「なあ、ルリ。君がいない間に考えてみたんだ。僕は君に僕の初恋の相手である『るり』に成り代わってほしい、と頼んだ。だが、もうそんなことはしなくていい。僕はそのままの君がいいんだ。君がるりではなくルリらしく生きている姿が、君が僕を名前ではなく『コワイロさん』と呼んでくれる声が、僕は好きだったんだ。だから、もう君はるりにならなくていい。君は君のまま、『ルリ』として僕のそばにいてくれ」

 ルリはしばらく黙ったままだった。

 それもそうだろう。

 戻ってきて早々、こんなことを言われるんだ。今まで「るりはそんなこと言わない」とか「るりはそんなものを好まない」とか、散々、指摘してきた僕が、急に手のひらを返すように、「君のままでいい」なんて戯言をほざき出すんだ。いくら何でも、都合が良すぎる。僕はとんだ愚か者だ。

 ルリからは、おそらく罵倒の言葉を食らうに違いない。

 いや、それで済めばいいが、もしかすると、ルリは僕のことが嫌いになって僕の元から出て行ってしまうかもしれない。

 僕はそれくらいのことをされても、平気な準備でいた。

 それくらいの仕打ちをうけても当然だ、という覚悟を持っていた。

 だがしかし、現実はもっと冷淡で、そして残酷だった。

 

 「そのルリっていうのは、誰のこと?」

 

 血の気が引いた。全身の血液が心臓に集まってしまったような、最悪な感覚に陥った。吐き気がした。喉がからからになって、うまく声が出せなかった。

 その場に倒れ込んだ。うまく立っていられなかった。平衡感覚が失われていた。

 嘘だろう?

 「確かに私の名前はるりだよ。でも、今、君が言ってるのは、別のルリのことでしょ? ねえ、世渡くん」

 驚いたのは、その相手がルリではなかったことだけではなかった。僕にはさらに驚くべき現象が、起こっていた。


 そこにいたのは僕の初恋相手のるりだった。


わけが分からなかった。

 いったい何が起こっているんだ。

 「冗談なんだろう? なあ、ルリ……」

 質の悪い悪戯なんだと思った。そうであってほしかった。

 だがしかし、るりはいつまでたっても種明かしをしてはくれなかった。

 僕はしばらく考え込んだ。

 そうか。

 あいつか。あいつがルリに何かしたんだ。そうに違いない。

 僕はすぐに携帯を取り出すと、彼に電話をかけた。

 彼はすぐに出た。

 「なんだ、世渡か、どうしたんだよ」

 「俺はお前を親友だと思っていた」

 「ああ、俺もだ。そして今でも思っているさ」

 「お前、ルリに何かしたな?」

 「ルリ。ああ、あの子のことか? 何かしたって、そりゃバッテリーは交換したが?」

 「とぼけるな」

 「おいおい。何のことだよ。ちゃんと落ち着いて話せって」

 僕は息を整えて、事情の説明した。

 「人格が変わった?」

 「ああ。ルリの人格が、初恋相手の方の『るり』にすり替えられていた。なあ、お前なんだろう? 僕がるりを忘れられないからって、勝手に人格を変えたんだろう?」

 「ちょっと待ってくれよ」

 彼が言った。

 「人格がそのルリってやつから、お前の初恋相手に変わったって?」

 「だから、そうだと言ってるだろう?」

 僕は苛つきながら答えた。

 すると、彼から思いもよらぬ言葉が返ってきた。

 「あの子はもともとお前の初恋相手、『るり』じゃなかったのか?」

 「どういうことだ?」

 僕は思わず聞き返した。

 「そのままの意味だ。研究室にきた時、すでにあの子は『るり』だったぞ」

 「そんな馬鹿な」

 「本当の話だ。俺がバッテリーを交換した後も、あの子は俺に『久しぶりだね』って声をかけてくれた。俺はそこで『ああ懐かしいな』と思ったんだ。そして同時にお前に対して『いい加減初恋なんて忘れろよ』って呆れたぜ。お前がそう設定させたんじゃないのか? 俺はてっきり……」

 「違う」

 僕は断言した。

 「僕はそんなことしていない。いや、そんなことできるなんて知らなかったさ。なあ、あの子は……あの機械はそんなこともできるのか?」

 「ああできるとも、お前が望めばどんな好みの女性にだってなり変わる。最初に話した時に説明しなかったか? ただし、外部的に設定を変更することはできない。本人に直接そうなるように、頼み込むしかない」

 「じゃあ、いったい誰がこんなことをやったっていうんだ?」

 僕は声を荒上げた。

 「ルリを、勝手にるりに変えたのはどこのどいつだ? なあ、今すぐ探してくれないか?」

 僕はもう自分でなくなっていた。

ルリを失ったことで、唯一残った大切な存在の喪失によって、何もかもが壊れていた。

 「それはできないな」

 彼は静かに言った。

 「……は、おい。どういうことだよ。今すぐ探せよ。今すぐにだよ。ルリを、僕の大切な人を壊した犯人を、今すぐに……」

 「だからできないって言ってるんだよ」

 「どうして、だ……」

 「お前が言ってる、その、『ルリを壊した犯人』なんて存在しないからさ」

 「なんだって?」

 意味わからなかった。

 現象が起こったなら、その要因に必ず犯人が存在するはず。存在しないなんてありえない。

 やはり彼がルリを……

 「設定は、外部からの指示がなくても内部から個人的な意思で変更できるんだよ」

 彼がやけに落ち着いた声で言った。

 「何言って……」

 「つまり、あの子自身の意思によって、人格の変更も可能ってことだ」

 ルリの意思で?

 ふざけるのも大概にしろよ。どうして、ルリがそんなことを。

 大体、ルリが………

 分からないようだから教えてやろう、と彼が言った。

 「もっと簡単な言い方をすれば、お前がその犯人である可能性が高いってわけだ」

 「いい加減にしろ」

 僕は怒鳴った。まるで自分の声ではないみたいだった。

 「いや、いい加減になんかしないさ。よく思い出してみろ。お前、あの子に何か言わなかったか? そうだな、例えば『るりに成り代われ』とか」

 全身に電撃が走った。

 「………」

 何も言えなかった。

 そうだ。言っていた。毎日、いや毎時間。いつ何時においても、僕はいつもルリに『るりに成り代われ』と言い続けてきた。ルリが彼女らしい振舞いを見せるたびに、僕はそれを強制するかのように理想を押し付け続けた。自らの心にこびり付いた幻影を再現するために、ルリ自身の個性を虐げてきた。

 それが原因だったんだ。

 すべて自分の言動が要因だったんだ。

 僕が『るりみたいになれ』と言い続けてきたせいで、ルリは自身の設定を変えてしまった。僕に気に入られようと、僕を喜ばせようと、そう思って、自分の設定を僕の初恋の相手『るり』に変換したんだ。

 僕はなんて馬鹿なんだ。

 自分が嫌になった。自分が愚かで、馬鹿馬鹿しくて、最悪で、憎くて、堪らなかった。

 僕は携帯に向かって言った。

 「なあ。変更した設定ってのは元には戻せるのか?」

 少し沈黙があった。

 「いいや。戻せない」

 彼は残念そうに言った。

 「設定を戻すためには、今のあの子に『自分は本物ではない。自分は設定よって変わった人格なんだ』と気付かせる必要がある。だが、それはほぼ不可能に近いだろうな。俺の見たところ『設定を変更した』という記憶はもちろん、『自分が機械である』という意識まで消されてある。おそらく、完全にるりに成りきるために、それらの事柄をすべて抹消してしまったんだろうな」

 「冗談だろう?」

 「気の毒だが、俺たちではもうどうにもできない」

 「最低だ」

 「ああ最低だ。俺もお前も」

 「俺はただ、純粋にルリを愛していたのに……」



 電話を切ると、その場に寝転がった。

 天井を見つめ、すべてが夢であることを強く所望する。

 「世渡くん、疲れたの?」

 僕を覗き込んできたのは、るりであってルリではなかった。

 顔は変わらないのに、声の高さとか、波長とか、しゃべり方とかが違うだけで、人ってこんなにも別人になるのか、と少し感心した。

 「ああ、今の僕は凄く、酷く、最悪なまでに疲れている。だから、話しかけないでくれ」

 「大丈夫? 私にできること、何かある?」

 るりが僕に優しく語りかける。

 夢にまで望んだ状況だ。

 僕が、彼から機械を借りて完成させたかったのは、まさにこういう風景だった。初恋相手と再び時を過ごせる。久しく空想し続けた燃え盛る要求たちをその手で実現させる。

 それなのに、今の僕にはそれが喜べなかった。 

 いや、正確に言えば喜ぶことを許されなかった。

 それどころか、僕はそんな、僕のことを気遣ってくれるるりのことを、あろうことか煩わしく思った。

 「放っておいてほしい」

 僕はるりの手を振り解いて、壁に顔を向けた。

 この状態のまま、眠ってしまいたかった。

 せめて、夢の中でもう一度、ルリと会いたかった。

 「ねえ、世渡くん。本当に大丈夫?」

 るりが心配そうに、僕の背中に手を置いた。

 「聞こえなかったのか?」

 思わず怒鳴ってしまった。

 るりが怯むのが分かる。

 彼女のそんな顔を見たくないはずなのに。

 本来は今すぐにでも彼女の懐に逃げ込み、すべてを置き去りにして、切望した未来に身を任せるべきなのに。

 自分の意志がそれを拒んだ。受け入れなかった。

 「世渡くん……」

 僕は思わず体を起こし、るりのことを睨みつけた。

 「いい加減にしてくれ。次触れたら、アウトコントロールで……」

 その時、僕の中で何かが弾けた。

 アウトコントロール………

 僕がルリから受け取った、外部操作システム。

 僕は急いで自室に行き、アウトコントロールを探した。

あの時、僕がルリの記憶を消した時、僕はそれを回収しておいた。ルリに返すことも考えたが、それをしてしまうと『記憶を消した』という記憶を消したことが、ルリに分かってしまう。だから、僕はそれをルリに見つからないような場所に保管していた。

頼む。あってくれ。ルリが持ち帰っていないことを祈りながら、僕はそれを探した。

 すると、引き出しの中から、それを発見した。

 僕は震える手で、もう一度彼に電話をかけた。

 「なあ。アウトコントロールを使ったら、外部から設定を変更できるんじゃないか?」

 「ああそうだな。そりゃアウトコントロールだからな、できるさ。だが、それはその子が……」

 彼が途中まで言うと、勘づいた様子で僕に問いかけてきた。

 「まさか。お前。アウトコントロールを持ってるのか?」

 「ああ、以前にルリから渡されたんだ」

 「おいおい。本当かよ。どれだけ信用されてるんだ。お前」

 「それで? これを使えば設定を変更できるのか?」

 「変更はできない。だが、設定を変更する前の状態に戻すことはできる。操作を誤ってしまうと、初期化されかねない。少々リスクを伴うが、平気か?」

 「平気もなにも、やるしかないだろ」

 僕は唇を噛んだ。

 「頼もしいな」

 そこで電話は切れた。

 僕はアウトコントロールを手に持つと、リビングに戻り、るりに近づいた。

 「世渡くん? どうしたの」

 「るり。すまない。僕は君のことを愛していた。だが、君との関係はここで終わりにしよう」

 「どういうこと?」

 「僕は今の君を愛せない。君は僕の完璧な存在じゃなくなってしまったんだ。確かに、それは僕の勝手な解釈に過ぎないかもしれない。だが、君は今、僕よりもっと大切な人と一緒にいる。それは僕には壊せない。君の幸せを僕は壊せないんだ。君は僕の完璧だった。でも、今はそうじゃない。君はすでに他の誰かの完璧なんだ」

 「わかんないよ」

 「ああ、そうだな。僕も分からないことだらけだ。自分がこんなにも、君以外のために頑張れる人間だとは、知りもしなかったさ」

 アウトコントロールが起動し、るりの体は光で覆われた。

 るりが驚いた声を上げ、心配そうに自分の体をさすった。

 「世渡くん。私どうなるの?」

 「もと居た場所へ戻るのさ。案外悪くない、僕のいない素敵な場所さ」

 「私、ここにいたいよ」

 僕は首を横に振る。

 「それはできない」

 「寂しいよ」

 「大丈夫さ」

 とうとう光でるりが見えなくなった。

 僕は最後に言った。

 「さよなら、るり」

 次の瞬間、るりはその場に倒れ込み、アウトコントロールも光を失った。

 「大丈夫か?」

 僕はるりの体を抱え込んだ。

 すると、るりがうっすらと目を開けて言った。

 「コワイロ、さん………?」

 そこにいたのはルリだった。

 正真正銘、ルリだった。

 僕の唯一大切で、愛おしいルリだった。

 「コワイロさん、どうしてわたしはここにいるんでしょう?」

 ルリは困惑した様子で聞いた。

 「わたし、るりさんになったはずです。コワイロさんが大好きな、恋焦がれている、初恋相手のるりさんに、成り代わったはずです……なのに、どうしてわたしはここにいるんでしょう?」

 「僕が呼び戻したからだ」

 僕が言うと、ルリはそばにあったアウトコントロールを見て、声を上げた。

 「アウト……コントロール……? 確かに、それだと設定を遡ることができますもんね。賢いですね。コワイロさんは」

 「そうだろう?」

 僕は得意げに笑った。

 「でも、どうしてわたしを戻したんです? わたしは、コワイロさんのためにるりさんに成り代わりましたのに」

 「違う」

 僕は言った。

 「僕が好きで、大切で、そばにいて欲しいのは、初恋相手の『るり』じゃない。今ここにいる『ルリ』、君なんだ。自販機で炭酸飲料を選んで、僕が笑ってないと気を遣って僕に合わせてくれて、それでも笑おうと提案すれば最高の笑顔を作ってくれて、色々な難しいことも知っていて、ホラー映画が好きで、機械なのに映画で同じ機械が壊されていくのを見たがって、自分の食べたいものはなんとしても譲らないで、すこし少女的すぎる考え方をしてしまって、散々酷いことばかり言ってきたのにも関わらず、落ち込んでいたら話を聞いてくれる、君なんだ。僕が愛してるのは君なのさ」

 「ほんとですか?」

 ルリはきょとん、とした様子で僕の顔をじっと見つめた。

 「ああ、本当さ。僕には君が必要だ」

 すると、ルリが僕の胸に倒れ込んできた。

 「わたし、るりさんに成り代われば、コワイロさんは喜ぶものとばかり思っていました。勘違いしていました。すみません。勝手なことをしてごめんなさい。迷惑かけてすみません。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 謝る必要はないさ、と僕は言った。

 ルリの頭に手を置く。

 これでよかったんだ。

 僕はもう、過去に縋るべきじゃない。

 るりのことはもう、けりをつけるべきだ。

 るりは完璧な人間だった。

 でも完璧な人間が、死ぬまでずっと完璧であり続けることなんて、ありえない。

 必ずどこかで躓いて、綺麗じゃなくなってしまう。

 「なあ、そろそろ離れてくれないか?」

 「そうしたいんですけど、安心したら力が抜けて動けないんです」

 「感動の再会に、耐えられないとでも言うのか?」

 僕が冗談っぽく言うと、ルリは「はい。そうみたいです」と笑った。

 「感動、できるじゃないか」

 僕は笑いかけた。

 「はい。これからは感動も、悲しみも、その他のこともたくさん、コワイロさんと見つけていきたいです」

 

 

 落ち着いてから、僕は彼に電話をかけた。

 「上手くいったよ」

 「そりゃよかった」

 「人生終わっちまったかと思って、焦ったな」

 「最初にかけてきた時のお前、相当頭がいかれてたぞ。この俺を疑うんだからさ」

 彼が可笑しそうに言った。

 「ああ、その件は本当にすまなかった。あの時の俺はどうかしていた」

 「気にしてねえって。まあ、ちょっとだけ傷ついたことは確かだけどな」

 僕らは笑った。

 「それじゃあ、そろそろ切るな」

 「おい、待てよ。まだ大事なことを言ってもらってないぜ」

 「大事なこと?」

 僕は聞き返した。

 「ああ、そう。とても大事なことだ」

 僕は「さっぱり分からない」と言った。

 「おいおい。本気で言ってんのか? そりゃないぜ。お前が今、愛する人と出会って、一緒にいれているのは、いったい誰のおかげだ? それに関しては、たんまりとお礼をしてもらわなくちゃな」

 まったく。彼は相変わらずだ。

 僕はため息をつくと、呼吸の調子を整えて、口を開いた。

 「悪い。充電が切れそうなんだ。その話はまた今度にしよう」

 「おい、待て……」

 彼が何か言っていたが、それを聞く前に携帯の充電は切れてしまった。

 どうやら充電をし忘れていたみたいだった。

 まあいいか、と僕は思った。 

 

 完璧なものなんて、この世には存在しない。

 みんな、どこか少しずつ欠けていて、欠けている同士で補い合っている。

 完璧な人間じゃないからこそ、欠けているからこそ、見つけることができるものだってたくさんある。

 僕は今でも完璧な人間になりたい、と思う。

 でも、それは百パーセントじゃなくていい。

 十パーセントでも、五十パーセントでも、たとえゼロパーセントだとしても、それはきっと自分の中で、『完璧』と呼ぶことができると思う。

 僕はそういう風に生きていきたい。

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