#38 新たなる誓い
「はーいじゃあ撮りますよ!はいチーズ!」
「イエーイ!」
あれ、あのマンションってあんな位置にあったっけ?もっと高くなかったっけ。
あの橋、もっと奥行き長くなかった?思ってたよりも小さいんだな。
後ろの方では写真撮影が行われているようで、どこの学校なのかは知らないが、同い年であろう少年少女たちが楽しげな声で笑っている。
どうやら、念願の金賞を獲得できたようだ。『頑張ったね!』『良かったね!』という歓喜の声がこちらにまでよく届く。
お尻から太ももにかけてチクチク痛い。布一枚挟んでいても、地面の芝生の先が貫通してしまっていた。
花音はぼんやりと空を見上げた。今日は快晴だ。大きくて、雲一つ無くて、一面青く澄み渡っている。
――――あぁ、あのときの空とそっくりだ。
「……何してんの?」
ふと、真上から声がした。ん?と花音が上を向くと、そこには金色に光る髪の毛がゆらゆらと風に靡いていた。
「ふふ、よくわたしの居場所が分かったね」
「……お前ならどうせ、ここに居るんだろうなーって」
花音はそう言って乾いた笑みを零すと、『しょうがねえなあ』と言わんばかりの顔をして、響介は花音の隣に座った。
目の前をゆっくりと流れる大きな川。体操座りをしている女子の影と、あぐらを掻いている男子の影が、並んで水面に映っている。
「あのね、景色が違うの」
「はぁ?」
「ほら、あのビル低くなってる、あの橋も、前もっと大きかったよ」
花音は遠くを指さす。ちゃんと指定した建物を指さしているつもりなのに、花音の手は小さ過ぎて、大きなマンションを指さすには全然足りない。
「それ、建物が小さくなったんじゃねえよ」
「……?」
「お前がでっかくなったの」
響介は半分呆れたような表情で『あれから何年経ったと思ってんだよ』と吐き捨てた。
「そっか、そうだよね」
「そうだよねってお前…まぁいいや、あのさ」
すると唐突に、響介が口を開いた。彼から何か話を振るなんて珍しいことで、花音は少し驚く。
「今思ったんだけどさ、」
「え、うん」
「篠宮って、実はけっこうすげーよな」
は?と、花音は耳を疑う。ぼんやりと頬杖をついていた顎が、ガクッと手から外れる。
聞き間違えだろうか。今コイツ、わたしに『すごい』って言った?
「え?な、何?いきなり…」
「だって、よく考えたらお前だけじゃね?あの日から今日までずっと、吹部一筋だったの」
「……あ…」
響介の平坦な声に、花音はハッとした。響介は勿論、花音とずっと仲が良かった風歌でさえ、元々明るい性格だったのもあって―――
高学年になった辺りから友達付き合いも活発化していき、現に今ふたりと行動を異にし、バレーボール部に入っている。
だから三人の中で、ずっと『あの約束』を最初から今のいままで本気で叶えようとしていたのは、確かに花音だけだった。
ただそれは、良く言えば『一つのことに熱中出来ていた』ということになるのかもしれないけれど、悪く言えば『他に何もなかった』のだ。
他の分野の習い事をしている訳でもなく、何かこれと言って得意なこともなければ、友達だって殆どいない。
そんな花音にとっては、音楽に没入するしか無かったのだ。
勿論、音楽は大好きで、吹奏楽部にだって本気で入るつもりだったから、自分のやっていること自体、間違っているとは思わなかった。けど――――
「ガキの頃から、やれ『おねえちゃんとおなじすいそうがくぶにはいる』だの、やれ『おねえちゃんと一緒にがっき吹く』だの、毎日毎日耳にタコでもできるんじゃねぇかくらい聞かされたし」
「……はは、それはすんませんでした」
気の抜けた声でそう返す。少しばかり拗ねた顔で幼馴染の顔を見上げると、心の中でそっと呟いた。
ねぇ、北上くん。わたし、寂しかったんだよ。
かつて同じ目標を持っていたふたりは、成長していくに連れて新しい居場所を手に入れていったの対し、何歳になっても変われない花音。
ふたりが眩しく見えて、なんだか自分だけが取り残されてしまったような、ひとりぼっちにされてしまったような。
花音はずっと、密かに寂しさを感じていたのだ。
「……でもね、北上くんなら来てくれるって思ってたよ」
色々な意味で。花音はそう言って微笑んだ。
響介はほんの一瞬、驚いたように目を見張ったが、すぐに元の冷めたような表情に戻ると、『あっそう』と呟く。
「良かったな。俺が怪我したおかげで。俺の膝に感謝しろよ?」
響介は意地の悪そうな笑みを浮かべ、自分の左膝を指さした。
中の軟骨の一部、『半月板』が粉々に砕け、何時間もかけて結構大変な手術をしたというその膝は、そう言われないと分からないくらいには、一見ごく普通の状態に見える。
……てか、それ聞いただけでもう普通にグロい。そういうのが苦手で、リアルに色々想像しちゃう人もいるんだよ?
そう思いながらも、残酷ながら全くもって響介の言うことは正しいので、花音は何も言い返せない。
もし響介が小学校時代に怪我をしなかったら、きっと彼は放課後、音楽室じゃなくて体育館に居たはずだ。
バスケ部のユニフォームを来て、ボールをバンバンついて、爽快に走り回っていたんじゃないだろうか。
今だって花音の隣には、誰も居なかったと思う。
人生、何が起こるか、どう転がるか、そんなのは本当に分からないものなのだな。齢十三歳にして、花音はそう悟った。
花音は響介から目線を逸らすと、ふと地面に生えている雑草を指でいじくり回す。
「あ……」
すると、草々と一緒になってよく見えづらかったが、小さくて子供のようなバッタを見つけた。
草の切れ目にちょうど挟まっていて、バッタは全く身動きが取れていない。ピクピクと微かに動いているから多分、生きている。
花音は草々を避け、そのバッタの胴体を指で掴んだ。潰してしまわないよう、優しく。
解放されたバッタは、すばやく足を目一杯広げて、気持ち良さそうにどこかへ飛んで行った。
あのバッタも、もしかしたら仲間のところに帰るのだろうか。
自分を待ってくれている、みんなの元へ。
「……北上くん、わたしね」
自由になれたバッタが消えていった方向に視線を向けながら、花音はふと口を開いた。『あんだよ?』と、響介は少し気だるけに花音の方を向く。
「わたし…」
少し、心臓の動きが早くなったのを感じた。体操座りでクロスしている腕を、ぎゅっと固く握りしめる。
あぁ、多分、ほんの少しだけ、言うのが怖い。一度放った言葉は、もう二度と取り返せないから。花音は空を見上げ、息を吸う。
「おねえちゃんみたいになりたいんだ」
微かに震える唇で、花音はそう言った。
「……ってあの、ホルンの姉ちゃん?」
響介の問いに、花音はこくりと首を縦に振る。響介はいつも通りの飾り気のない声で、だから少し安心した。
「あのね、いままでずっと、おねえちゃんみたいになりたいって思ってたの。おねえちゃんみたいな、みんなを笑顔にさせる奏者になりたいな…って」
そのまま微かな震えだけを残したまま、だけれど落ち着いた声で、花音は一つひとつ言葉を紡いでいく。
「でもね、わたしには無理だってずっと思ってたんだ。だって、おねえちゃんはすごい人だから。わたしはおねえちゃんみたいに愛嬌もないし、積極的でもないし、優しさも無いし……それに、笑えなかったし…」
響介は何も言わなかった。ただ、隣で花音の顔を見つめるだけだった。
「でも、やっぱりわたしは、おねえちゃんとの約束を果たしたいの」
話している内に、段々と自身が後から着いてくる。それに伴い、語彙も強くなる。
「もし、みんなから笑顔が消えてしまったら、わたしが取り戻したいの。もしみんながバラバラになってしまったら、その心を繋ぐ存在になりたいの。おねえちゃんの『みんなを笑顔にしたい』って思いも全部、わたしがちゃんと受け継ぎたい!」
手にぐっと力を込めると、迷いなくはっきりとそう言い切った。
「……って、今のわたしじゃ、到底そんなこと出来やしないって分かり切ってるけど…」
花音は硬直していた表情を少し崩すと、少しばかり自信なさげに俯いた。
あのカナちゃんと、今の花音では、天と地の差がある。色々な意味で。
演奏面も人間性も何もかも、花音はまだまだ未熟だ。それらが全て完璧に備わっていたカナちゃんには、足元にも及ばない。
……でも。
「だけど…絶対変わってみせる!今よりもっとみんなと沢山話せるようになりたいし、ホルンだってもっともっと上手くなりたい!そのためなら、どんなことだって頑張る!例えめちゃくちゃ辛いことや苦しいことがあったって、耐えて耐えて耐えまくって、意地でもしがみついてやる!」
花音は勢いよく立ち上がる。
魂の叫びが、新たなる誓いが、果てしなく天高い空へと放たれ、そして消えていく。
目には見えない風が、びゅんと軽やかに切れる音がした。鎖骨までのミディアムボブが揺れる。
幼い頃、母親の手によって半強制的にお下げにされていた髪の毛を、中学生になってから運動時以外では下ろすようになった。
顔を隠したかったから。天然パーマで癖が酷い髪の毛は、花音のコンプレックスだった。
でも、初めて愛梨に言い返した日の夜、思い切って目元まで伸びきっていた前髪を切り、横髪を耳にかけて水色のピンで留めてみたら……目に映る世界は、大きく変わっていたのだ。
暗かった世界が、一気に明るく見えた。
「絶対、諦めたりなんかしないんだから!」
花音は息継ぎも忘れてそう言い切ると、はー…と大きく息を吐いた。
……隣に居る響介は、花音のこの誓いを聞いて、どう思っただろうか。
こんなにも必死な花音の姿を見て、今、何を感じているのだろうか。
花音は内心、ドキドキしていた。またいつものように『馬鹿みてぇ』と、からかうのだろうか。嘲笑うのだろうか。
「……じゃあ、俺が一人目?」
やっぱり平坦な、でもどこかいつもよりも柔らかいような……その声が聞こえ、花音はハッとする。
気がつけば、響介も立ち上がっていた。そして、花音の強張った顔を横から見つめていた。
「お前が笑顔にさせた部員の、記念すべき一人目。それ、俺ってことでいいよな?」
そう言って、響介は笑った。
その笑顔を真正面から見て、花音は拍子抜けしてしまった。花音にとってはまだ、響介の満面の笑顔は充分見慣れないものだった。
でも、やっぱり嬉しかった。ずっと暗い顔をしていた響介の、楽しそうに笑っている姿を見られることは。
「あっ、う…」
「で?俺抜いて後何人?まだまだ二十人近くいるくね?お前このペースだと、引退までに間に合わないんじゃね?大丈夫そ?」
「……なっ!」
響介のからかうような物言いに、花音は動揺した声を上げる。
……ついさっきまで『意外と優しい奴だな』って見直し始めていたのに!わたしの気持ち返せ!
「いっ、今からペース早めるもん!」
「いやなにを早めるんだよ…まぁ、変なことして空回りしねぇことを願ってるわ」
「はぁ?!そ、そんなことしないもん!」
「どうだか。お前のことだから、どっかでドジって敵作ってそー」
「だからそんなことしないってば!だいたい…」
「おーいっ!ふたりともー!」
そのときだ。ふと、遠くから声が聞こえてきた。花音と響介は同時に振り返る。
「花音ー!響介くんー!早くこっち来なよー!」
「写真撮影始まるよー!」
口に手を当て、そう大声で呼んでいるのは夏琴だった。その隣では、舞香がこちらに向けて大きく手を振っている。
若の宮中学校吹奏楽部の部員たちは、撮影用に設置されたアルミひな壇の上に登り始めていた。
「あっ、もう時間だ!」
花音は焦った。やばい、もうカメラマンの人、スタンバイしてる!
「行こう!」
花音は響介に向かって手招きすると、先に駆け出した。
『懐かし』と響介は呆れたように笑うと、幼馴染の後を追うように走った。
あの夏の日の、トロンボーンのお兄ちゃんとの追いかけっこ。結局、お兄ちゃんは三人の中で誰も捕まえられずに終わった。
いや違う、わざと捕まえなかったのだろう。
大空の下を駆け抜けていく背中に、あのときと同じ風を感じた。
―――――ねえ、おねえちゃん。
あの夏の日、どうしてあなたはわたしに、自分の夢を託したの?
わたしは、ただの観客だった。五十人以上も居た観衆の、たったひとりでしかなかった。
それにまだ何もできやしない、泣いてばっかりの小さな女の子。
大切な夢の後見人に選ぶには、あまりにも弱い人材だったったはず。
それなのに、あなたはわたしを選んだのだ。
……でも、いや、だからこそあなたは、わたしのすべてになった。
どんなに仲間外れにされたって、いじめられたって、耐えられたのは、あなたのおかげだ。
あの日、あなたがくれたあの音色と、その中にいっぱい詰まった希望が、ずっとわたしの胸で何よりも強く響き続けていたから。
それを糧に、わたしはなんとかここまで生きられたよ。
だから、だからね。
恩返し…って言ったら、おかしいけど……
わたしは、あなたに託された夢を叶えたい。
あなたが創った音楽室で、あなたが叶えたかった夢を、わたしが叶えたいんだ。
もうわたしは、無力で泣き虫だった幼子じゃない。
あなたが持っていた立派な楽器を、自分の力だけで持って、自分の足でどこまでだって歩ける。
だからね、わたし、これからも頑張るから。
いつか、あなたが居る場所までたどり着けたら。
そしたら、あなたと一緒に吹きたい。
これはわたしから、あなたへの約束。
だからそのときまで、あの場所で待っていてね。
あ、そうそう。これは一番、忘れちゃいけないことなんだけど――――
「あっ、お兄さん!ちょっとその文字ぼやけて見えるから、もっと大きく持とうか!」
一眼カメラを構えた陽気なカメラマンのお兄さんが、目を細めて光輝の手に握られている一枚の厚紙を見る。
『ちょっと、それ見えんかったら意味ないよ!』と、副顧問の詩歩が笑う。
光輝は賞状を、何一つ躊躇することなく、堂々と前に持ってきた。
『第61回広島県吹奏楽コンクール中学校小編成部門 広島市立若の宮中学校—―――銀賞』
銀色に輝くその文字は、カメラのフレームにはっきりと映った。
「はい行きますよ!はいチーズ!」
カシャ、と音がする。部員みんなの晴れやかな笑顔が、そこには確かにあった。
わたしは、この世界でひとりぼっちだと思ってた。
わたしのことを認めてくれる人なんて、仲間に入れてくれる人たちなんて、何処にも居ないと思っていたのに。
でも、それは違ったんだね。
わたしね、今はちゃんと笑ってるよ。
あの広い広い空の下のどこかで、わたしに出会えるときを待っていてくれた友達に―――――
おねえちゃん。わたしはもう、ひとりぼっちじゃないよ。
あなたの音が響く先で、みんなに出会えたから。
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