#37 光の中へ―――
『プログラム4番 広島市立黒沼中学校
レハール作曲 喜歌劇「微笑みの国」セレクション 指揮…』
部員たちが舞台裏に移動し終わったときには、もうすでに前の学校の演奏が始まっていた。
美しくも儚いホルンのソロが響く。それに続くよう流れる、澄んだフルートのソロ。
トランペットの華やかな旋律と、追いかけのトロンボーン、そして高音楽器の連符と共に、曲は主題に入る。
舞台裏は薄暗いなんてレベルではなく、もはや真っ暗だった。
いつも共に練習してきた仲間たちの顔も、よくよく吟味しなければ誰なのかすら分からない。
前で入場の仕方を説明をしている男性スタッフの声と、『こっち行って』『違う、そこじゃない』という先輩たちの指示の声がしている。
にも関わらず、舞台上の演奏はこちらにまで嫌と言うほど聞こえてくる。
それしても、随分と情景の移り変わりの激しい曲だ、と花音は思う。
まるで中国人が草原で楽しげに踊っていると思えば急に落ち着いた雰囲気になり、かと思えばトランペットのなだらかな旋律と共に盛り上がっていったり。
……いや、だがしかし、今、注目すべきなのは曲の構成なんかじゃなくて。
「ねぇ、なんかさ…めっちゃ上手くない?」
誰かが舞台を指差して、震えた声でそう呟いた。
暗幕で遮られてはいるが、微かな隙間からは奏者たちの華々しい勇姿が覗き見える。
その声をきっかけにするように、周りは一気にざわめきだす。
「え、ほんまそれな?」
「なんかもう全然違う、音自体が…」
「うちらと比べ物にならんくない?」
感情というのは伝染するもの。ひとり、またひとりと、不安な声はどんどん飛び火する。
暗闇の中に居ることも助長して、不穏な空気はあっという間に広がっていく。
ミスが無いというのはもはや当たり前、と言わんばかりに、音程もハーモニーも表現技法も、すべて完璧。まさに『上手い』演奏。
明らかに自分達の作る音と差があることは、上級生どころか初心者の一年生にだって充分に分かることだった。
そのくらい、違う。
花音は周りのモヤモヤとした空気を感じながら、自分の手に眠るホルンを見下ろす。
舞台上で眩しすぎるスポットライトに照らされた楽器たちと、自分の持っている楽器が、到底同じものだと思えなかった。
たった数十メートル離れた場所に居るはずの彼女らが、ひどく遠く感じる。
「あの後に演奏するの…?」
「あんな学校があるのに、私たちなんて銅賞に決まってるじゃん…」
「どうしよう…」
一度広がってしまった不安の声は、止まることを知らず、むしろ膨らむばかりだった。
これまで紆余曲折ありながらも、他校に比べ恵まれない環境やきつい練習を乗り越え、やっとここまで来れた。
その事実に対する自身や誇りは、部員一人ひとりにちゃんと芽生えていたはず。
しかしどう足掻いても越えられなさそうな強敵を目の当たりにして、その思いはあっという間に打ち砕かれそうになる。
もう無理だよ。誰かの泣きそうな声が、花音の耳にこびり付いて離れない。
不安が体中に広がって、心臓の鼓動が速まる。お腹の底が一気に冷たくなる。
ああ、この感覚はまるで、教室でクラスメイトから爪弾きにされてひとり孤立したときのような…いや、下手すればそれ以上かもしれない。
心を蝕んでいく焦燥感と孤独感に手が震え、それを誤魔化すように、花音はピストンごとぎゅっと握る。
演奏はもう終りに近い。トランペットの華やかな再現部と、迫力のあるティンパニの音がホールいっぱいに響く。
終わらないでほしい。これが終わったら、次あの舞台に立たなければならないのはわたしたちだ。
そんな当たり前のことが、ものすごく怖かった。
失敗したらどうしよう。震えで指がうまく動かなくて、音を外してしまったらどうしよう。不注意で楽器を落としてしまったら…
そんな自分の姿が驚くほど簡単に思い浮かんでしまい、花音はきゅっと目を瞑る。
怖い。吹くのが怖い。音を出すのが怖い。
みんなと演奏するの、怖い…
「だっ、大丈夫だよっ!」
暗闇の中、控えめに響いた声。その微妙に聞き馴れない声に、花音はハッとして目を開ける。
するとさっきまでこの世の終わりのような表情だった部員たちは、驚いたように目を丸くさせている。
花音が全員の視線を追うと、そこに居たのは顔中に大汗を搔いている部長だった。
「怖がらないで。大丈夫。僕、ずっと見てたよ、みんなが頑張ってたこと知ってるから!」
舞台裏だから音量的にはそれなりに配慮されていたが、それでも全員の耳にしっかりと彼の声は届いていた。
馴れていなさそうに、懸命に言葉を紡いでいる光揮の顔は、火が吹き出ているように真っ赤だ。
アルトサックスを握りしめている手はガチガチに硬直していて、声はしっかり震えている。
大丈夫って言ってるあなたの方が大丈夫?とつい突っ込みたくなるような姿だった。
「大丈夫!大丈夫!大丈…」
そんな部長の姿を、後輩たちは呆然とした顔で見つめている。光揮はようやくそれに気が付いたのか、ふと声を萎ませる。
かと思えば、彼の目はぐるりと回り、力が抜けたようにふらりとよろめいた。
途端、『部長ー!』とまるでドラマのような叫び声が上がった。
「よっ!っと…」
倒そうになった光輝を間一髪支えたのは沙楽だった。おおっ!と感激の声がまばらに上がる。
光揮は沙楽の腕で何秒間か気絶していたが、すぐに『ハッ!』と目を開けた。
「あっ…えっ?!松坂さ…」
光揮はすぐ後ろに居る沙楽の存在に気が付くと、顔を真っ赤にして叫んだ。
すると沙楽は苦く微笑を浮かべながら『シー』と指を口に当てて見せた。
『えっ、あ、ごめん…』とボソボソ呟きながら、光揮は沙楽からおもむろに離れる。
そんな一見めちゃくちゃ情けない部の代表の姿に、部員の殆どが必死に笑いを堪らえていた。
「……でも、真田くんの言う通りだよ」
沙楽は自分の手元にあるクラリネットを見つめながら、ぽつりとそう呟いた。
「演奏の良し悪しなんて、他校と比べるものじゃない。失敗しても、下手だって言われても、みんなが笑顔で終われたら、それが一番なんだよ」
沙楽は後輩たちの顔を見渡すと、いつもと何も変わらない笑顔を浮かべた。
「それで…」
すると、微かに震えた誰かの、ひどく弱々しい声が聞こえてきた。
「それで、本当にいいんですか?」
そう口を開いたのは、沙楽のすぐ後ろに並んでいた莉音だった。
「だって、先輩にとっては……」
沙楽はほんの一瞬だけ、度肝を抜かれたように目を見開いた。
パァァァンと、背後でクラッシュシンバルの音が激しく鳴り響いた。
曲はもう終着目掛けて盛り上がりを続けている。クラリネットの巧みな主旋律が聞こえてくる。
――――先輩にとっては、最後のコンクールなのに。
使って間もないクラリネットを握りしめている莉音は、らしくもない気遣わしげな表情を浮かべている。
その目尻にはじわりと雫が滲んでいた。それが僅かな隙間から差し込んだ光に反射して、闇の中でキラリと光った。
あぁ、この子は本当に、先輩のことが大好きなんだな。臆病に震える手からは、それがよくよく読み取れる。
だから、そんな大好きな先輩には決して、何一つだって後悔してほしくないのだろう。
今日、ここで満足できるくらいの演奏をして、『やり切った!』と、笑って引退してほしい。
だからこそ今、不安で胸の中がいっぱいなのだろう。
自分が、自分たちが、そんな先輩の笑顔を奪ってしまうんじゃないかって…
「……そんな顔、莉音ちゃんらしくないよ」
沙楽は後輩の光る涙を、指で優しく拭き取る。莉音はハッとして顔を上げる。
「ね、笑って?」
自分のことをこよなく慕っている直属の後輩に向けて、沙楽は眉尻を少し下げて笑う。彼女の夜空色の三つ編みが、微かに揺れる。
「もうっ、音を楽しむって書いて、『音楽』でしょ?なのにそんな顔してたら、全然楽しそうに見えないよ?お客さん困っちゃう!」
「……でもっ…!」
「音楽ってね、人を泣かせるためにあるんじゃない。人を笑顔にするためにあるんだって…」
沙楽はふと口を閉じる。そして、体をくるりと半回転させ、その目線のちょうど先に居る人物の顔を見つめる。
「そう、教えてくれた子がいたから。」
先輩の視線を追いかけた莉音が、仰天したように目を見張る。他の部員たちも後を追うように、その人物を見た。
え?と、出そうとした声は、乾いた喉の奥で突っかかって上手く出てこなかった。
他のみんなの視線を一身に浴びながら、呆然とする。
沙楽はそんな彼女の様子を気にすることもなく、少しだけ首を傾げて笑った。
「そうでしょ?」
花音ちゃん。そう言った沙楽は、まるで幼い子どものような、屈託のない笑顔を浮かべていた。
光の無い空間のはずなのに、彼女の無邪気に笑う顔は、何故だかとても眩しく見えた。
「お……」
初めて見た先輩のそんな笑顔を目の前にして、ふと思い出す。
乾き切って水気のない喉を、なんとか震わせて声を作ろうとする。
『……泣かないで、のんちゃん』
ここには居ないはずなのに、あの子の声がする。脳裏に浮かんだのは、あの笑顔だった。
暗闇の中に居たわたしの手を引いて、光の中へと連れ出してくれた、あの子の優しく笑う顔を。
あの子は、今わたしがこの場所に立っている理由そのものだ。
――――――おねえちゃん。
花音がやっとの思いで出した声は、会場中に湧き上がった拍手喝采の音に掻き消される。
ガタリと、奏者たちが一斉に立ち上がる音がした。
「は…」
出しかけた声を、花音は名残惜しくも飲み込む。
「はいっ!」
そして楽器を今一度持ち直すと、沙楽に向かって自分が出せる最大限張りのある声で返事をした。
あの日のグラウンドで、返事の練習にひとりだけ参加しなかった分を、この一声ですべて取り返すつもりで。
……絶望的に場違いだけれど。
「……やっぱ君が、一番いい返事してる」
沙楽は誰にも聞こえないような声でそう呟くと、真っ直ぐ前に向き直した。
もう、出番だ。
今か今かとスタンバイしていたスタッフが、思いっきり扉を開ける。
微かだったはずの隙間が、大きな入口へと姿を変える。
「頑張ろう」
「頑張ろうね!」
「ミスしても気にしない!」
「楽しんでこ!」
それぞれの相棒を手にした部員の顔には、もう不安の色は無かった。
笑顔のままで、一斉に歩き出す。
舞台へと、進んでいく。
『プログラム5番 広島市立若の宮中学校
指揮 川本吹雪』
アナウンスの声と共に、眩しすぎる白い光がステージを一気に照らした。
吹雪が頭を下げると、会場からは弾けるような拍手が起こった。
これからどんなに素敵な演奏が始まるのだろう。そんな期待を孕んでいた。
吹雪は壇上へと登る。その足取りはこれから始まる本番への言いようのない恐れからか、微かにぎこちない動きだった。
それをなんとか隠そうと、持ち場についた十七人の奏者たちの顔を壇上の上から見渡す。
彼女らの顔にまだ微かな緊張の色があることを読み取ると、吹雪はそれを払拭するかのように、優しく微笑んだ。
指揮棒が上がり、皆が楽器を構える。会場の空気は一瞬で静まる。
そして、指揮棒は一直線に振り下ろされる。その瞬間、舞台上の全員が息を吸う。
さぁ、みんなで行こう。光の中へ―――――
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