#36 We are 若中!

 それから小一時間ほどして、案内人だという黒のスーツの姿の女性スタッフに若中は呼ばれた。


「えっと、これからの流れを説明させていただくのですが、まず管楽器の皆さんはこれから指定した楽器置き場に案内するので、そこで各自楽器を組み立ててください。そしてそれが終わり次第、チューニング室へ案内します。一度、チューニング室に入ってしまうとそこからはここへは戻れないので、くれぐれも忘れ物には気をつけてください」


 その厳格さを孕んだ真剣な声音に、ああ、もう来るところまで来てしまったのだなと、その場の空気は一瞬でピンと張りつめた。


「鞄や楽器ケースは床に綺麗に並べてね!チューニング室に持っていくチューナーは各パートひとつずつにしてください!多くてもかさばるだけだから!この袋にチューナーを回収するので、あとで各パートリーダーは持ってきてください!楽譜と楽器だけは忘れないでね!」


「「「はい!」」」


 案内された楽器置き場で、みんなが一斉に楽器を組み立てている際中、沙楽が声を大にして呼びかける。


 そうして全員の準備が終わると、チューニング室へ案内される。ホールの裏の、やたらと薄暗い階段をせっせと登る。


 花音は移動している間、興味深く周りを見渡していた。


 そのせいで無意識に歩くのが遅くなってしまったようで、すぐ後ろを歩いていた同級生に『早く歩いて!』とせかされたが。


 あの大きく立派な舞台の裏は、思っていたより質素というか、小綺麗ではなかったけれど、でもどこか特別感があった。


 だってこんな場所、ただの一般人は入れない。


 チューニング室はかなり小さかった。銀の鏡が壁一面に張られており、なんだか美容院のよう。


 まばらに置いてあるパイプ椅子をなんとか仮の合奏体形にし、各自自分の席を見つけて座る。


 そしてスタッフの指示で、皆は一斉に吹き始める。みんな、普段の練習以上に必死で楽器に息を入れ続ける。


「これチューナー、チューニングして」


 美鈴からチューナーとチューナマイクを差し出され、花音はそれを受け取る。


 しかし譜面台が無いため、チューナーをどこに置くか迷った。


 周りを見ると、片手で吹ける楽器以外は、大抵どのパートも地面に置いている。


 ホルンは両手がないと演奏できないため、花音は足元にチューナーを置いた。


 だがいつもの体勢のままだとチューナーの画面が見えず、音程の確認ができない。


 かなり前かがみになりながら吹き、なんとかチューニングを終わらせた。譜面台のない環境が、こんなにもやりづらいなんて知らなかった。


「はーい、じゃあ最後の合わせやるよ!」


 吹雪がいつもの如く指揮棒を譜面台に『カンカンカンっ!』と叩きつける。するとあれだけ音が充満していた室内がピタッと静まった。


「ここハモデレ無いから…松坂さんの音に合わせて、全体でB♭頂戴。」


 吹雪はハーモニーディレクターを操作する代わりに、コンミスである沙楽に目で合図をする。


 コンサートミストレス、略してコンミス(男性の場合はコンサートマスター)とは、超省略して説明すると『第二の指揮者』に当たる。


 本来はオーケストラ団体の1stバイオリンのことを指しているが、吹奏楽団体だと弦楽器が無い。


 そのため、各学校によって違いはあるものの、大抵は1stクラリネットがその役割を担うこととなる。


 このようにチューニング時に一足先に音を出し、その音に全奏者が合わせるのだ。いわば、そのバンドの音を作る大切な存在である。


 沙楽はいつも以上に集中し、耳をよくよく研ぎ澄ましながら、楽器に息を入れる。


 静寂の中、沙楽のB♭の音のみ響く。それに続くように、どんどん全体の音が重なる。


「はい、音程自体は悪くないでしょう。」


 吹雪は部員たちに手優しい評価を下すと、手元にある総譜スコアを捲りながら吟味する。


「覚えておいてほしいんだけど、コンクールは曲の最初と最後がとにかく肝心です。正直、中間部分がどんだけ悪くても、初めと終わりさえ良ければどうにかなるときもあります」


 吹雪は奏者たちを見渡す。出場者の証として、袖に黄緑のリボンをつけた奏者たちは、いつも以上に摯実に就いている。


「曲全体を通す時間は無いので、出だしだけ確認します」


 そして曲の始めと終わりを何度か通しで吹き、あとはJのritリットの部分だけを確認し、最後の合奏は終わった。


「……えっと、ちょっと本番まで微妙に時間あるので…」


 吹雪は室内に置いてあるデジタル時計をちらりと確認する。予想外に時間が余ったのか、少し困っている様子だ。


「なんかやりたいことある?」


 吹雪が苦笑いを浮かべながら部員にそう聞くと、『じゃあ、アレやりたい!』と、沙楽が勢いよく手を上げた。


「円陣組もうよ!最後に」 


 沙楽が先陣切ってみんなにそう呼びかける。


『え?ここで?』と、一年生たちは驚いたような顔をしてざわめきだした。


「あー、去年もやりましたねー」


「やったやった」


「お決まりの(笑)」


 一方、二年生たちは顔を合わせ、クスクスと笑いながら頷き合っている。


 沙楽はうきうきした様子で、『やろうよ』と光輝と目を合わせると、ふたりは前に出る。


「ほら、みんな立って立って!」


 沙楽は早口で指示を飛ばす。『はーい』と気の抜けた返事と共に、みんなはぞろぞろと動き出す。


 室内が狭い中、椅子の上の楽器たちにぶつからないよう細心の注意を払いながら、なんとか全員で円になる。


「あたしたち三年が『We are』って言うので、その後に全員で『若中ー!』ってもう出せるだけの大っきい声で叫びながら、こんな感じで足ドン!ってやってください!」


 沙楽は『こんな感じ』と地団太を踏む動作をした。


「あっこれおふざけとかじゃなくて、若中に代々伝わるちゃんとした伝統だからね!あたしらが引退したあとも引き継いでもらわなきゃ困るよ!」


「これ伝統だったんですね…」


 美鈴のツッコミに、まばらに笑いが起きる。今の三年生が引退し、来年の『We are』係は美鈴先輩がやりそうだな、と予想が付いた。


「はいじゃあ行くよ!一発で決めるから!」


 沙楽はそう高らかに宣言する。小学生のとき、運動会や卒業式なんかの練習中に先生は『あと一回で終わらせるよ!』と言うのがお決まりだった。


 でも、それが守られた試しは一度も無かったと記憶している。それは今回も同じなのだろうか。


 ……まぁ別に、一発で終らなくてもいいのだけど。


 むしろ、終わらないでほしい。時の流れとは残酷なもので、楽しい時間ほど嵐のように早く過ぎ去ってしまう。


 だからこそ今を、このかけがえのない特別な時間を、一秒でも長く味わわせてほしい。


 花音は誰に向けてでもなくそう思うと、隣の人と肩を組む。全体の体勢が整うと、沙楽と光輝はお互いに目をしっかりと合わせる。


Weウィー…』


「まって、先生は入らないんですか?」


 誰かが驚いたような声を上げた。するとすぐにみんなの目線は一斉に吹雪に向けられる。


 後ろの方で壁にもたれながら、いつものように生徒たちの様子を眺めていた吹雪は、突然注目の的にされ『え?』と目を見開く。


「そうだ忘れてた、先生も入って!」


 沙楽はぴょんぴょんと手招きするが、肝心の吹雪は『うーん』と少し困ったように笑い、


「いいよ、先生は。みんなだけでやって」


「えー?一緒にやりましょうよ!」


「いいの。大人は見てる方が楽しいから」


 吹雪はそう断ると、手を横にひらひらと振る。沙楽は『えー』と不満げに唇を尖らせたが、『じゃあもう一回!』と仕切り直す。


 再びさせる。沙楽と光輝は目を合わせ、『せーの』と小声で合図をした。


Weウィー areアー?』


「「「「「「若中ー!」」」」」」


 今度は最後まで別の声は入らなかった。十七人が合わさった声と、それに続く地団太は、小さな室内に驚くほど大きく響いた。


「若の宮中学校の皆さん、そろそろ移動お願いし…」


 そのとき、女性スタッフの声と共に扉が開く。すると中で繰り広げられている異様な光景に、スタッフは一瞬で表情を固着させた。


 一瞬、その場に気まずい空間が出来上がったが、部員たちは『すみません…』と小声で呟きながらそそくさと散らばり、素知らぬ振りをしながら楽器を準備し始めた。

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