#33 わたしとホルン
「篠宮さん、部活どう?」
階段を登っている最中、花音より少し先を歩く吹雪が振り返り、花音にそう聞いた。
「楽しい?」
「え、えっと」
吹雪は歩くのが早いが、花音は遅い。
さっさと前を歩く吹雪に着いていくことに精一杯だった花音は、質問をすぐに返せなかった。
「嫌だった?ホルンになったの」
吹雪のその質問に、花音は内心ドキッとした。
確かに、半ば無理矢理やらされた楽器だったから、初めは気乗りはしなかったけれど。
その気持ちを吹雪には見透かされていたのだろうか。
「嫌とかでは、ないけど…」
花音は少したじろぐ。こういうとき、何て言えばいいんだろう。なるべく感じが悪くない言い方を頭の中で巡らせる。
「な、なんでわたしをホルンにしたのかなって…」
これは花音が吹雪にずっと聞きたかったことでもあった。
第一志望はトランペットだったし、体験中はホルンなんて触るどころか見向きもしなかった。
ホルンが花音の適正楽器だったとするなら、マウスピースの形が似ているトランペットだって充分適正しているだろう。
ホルンを希望していた子も居たから、余り物を押し付けられた訳でもない。
そんな中で、自分にホルンが与えられた理由。
何か、特別な意味でもあるのではないだろうか。わたしでないと駄目だった理由が。
「似合ってたから」
しかし、吹雪の答えは花音の予想と反して呆気ないものだった。
吹雪の糸を張ったような瞳に、きょとんとしている花音の姿が写る。
「へ…?」
「だってあなた、ホルンっぽいから」
ぽい?花音は吹雪の言っていることが分からなくて、首を傾げる。
「え、それってどういうことですか?」
「さぁね」
吹雪はやけに意味深な笑みを浮かべると、それ以上は何も言ってくれなかった。
正直、『ホルンっぽい』と言われても微妙だ。あまり嬉しくはない。
花音の中で、ホルンのイメージはあまりいいものではない。地味、目立たない、後ろ向き…そんなマイナスな言葉たちばかりが思いつく。
……まぁそういう意味なら、確かにわたしはトランペットよりホルンの方が似合ってるかもしれない。
花音のネガティブで引っ込み思案な性格は、華やかなトランペットに似合わない。
積極的な性格で話し上手の夏琴のほうが、よっぽどトランペットらしいだろうな。
吹雪は部員達の性格も考慮して楽器を決めたのか思うと、意外にもすんなり納得できた。
「でもあなた、成長したね」
「へっ?」
今度は花音と目を合わせずに、吹雪はまた意味深に笑う。
「あの日、先生びっくりしちゃった。意外とちゃんと言い返せるんだね。でも、かっこよかったよ」
その時だ。
静かだったはず校内に、一つの音が響いた。
花音はハッと驚き、歩を止める。吹雪との会話は中途半端なところで中断せざるを得なかった。
若干のブレが気になる、B♭の音のロングトーン。
誰かいるの?吹雪は顔を顰め、歩くスピードを速める。三階に着くと、角をすぐ左に曲がる。
吹雪と、続けて花音は音楽室の目の前まで来た。閉まっているはずの扉は、僅かな隙間を残している。ふたりはそこから中の様子を覗く。
「じゃあご、ろく、しちで吸って入ってきて!最初から!」
誰も居ないと思われた音楽室には、何名か先客がいた。
ピカ、と何かが光ったと思うと、それは生まれたての陽の光に照らされた楽器たちだった。
クラリネット、アルトサックス、金、銀のトランペット、ホルン、トロンボーン、チューバ。
ど真ん中にある机を囲むように輪になっている。クスクス、フフッ。そんな楽し気な笑い声が聞こえてくる。
「なんで『ご、ろく、しち…』なのかしら…」
吹雪はふと呟くと、不審そうに眉を顰める。
『ご、ろく、ひち…』とは、曲頭のカウントだ。入るタイミングを揃えるための合図。
八拍数えたとき、最後の『5、6、7、8』でカウントを取るやり方だ。
普段のパート練習やセクション練習なんかで、先輩達はいつもこう言っている。
花音はその言い方に疑問を持ったことはなかった。先輩がそう言ってるのならば、とごく普通に受け止めていた。
「え…違う言い方があるんですか?」
「そうね。ていうか、むしろこっちが特殊よ。普通『さっ、しっ!』とか『いち、に、さんっ!』とかの学校が多いはず。先生が現役のときもそうだったし」
と言われても、他校や吹雪の通っていた学校を全く知らない花音にはピンと来ない話だった。
「『ワンツーさんしっ!』とかなら聞いたことあるけど…」
……ワンツーさんしっ!?英語と日本語が混じった不思議な言い方に、花音は驚天する。そんなカウントの取り方があるなんて。
そういえば、吹雪が指揮を取る全体合奏だけは、毎回『さん、しっ!』で始めていたような気がする。
「前の先生がそうやられていたのかしら…まぁでも、そこに強くこだわる必要はないか」
イマイチ納得出来てなさそうだったが、吹雪は自分に言い聞かせるように何度か頷く。
カウントの取り方ひとつでその学校の個性が生まれるのだなぁと、花音は謎に感心した。
「指揮ないから通るか分からんけど、とりあえずやってみよう!怒られるかもしれないから先生には内緒ね!きっとまだ来ないから!」
先陣切って合図をするのは、クラリネットを構える沙楽だった。
昨日、あんなに泣いていたのが嘘のように、今日はいつものような明るい先輩に戻っていた。
まさかすぐ近くに吹雪が居るとは夢にも思わないのか、沙楽は楽しそうに楽器の準備をしている。
楽観的なその様子に、花音は尋常ではないほど気まずくなり、恐る恐る吹雪の顔を見上げる。
それとなく顔色を窺うも、幸いなことに吹雪から怒りの感情は感じられない。中に入ってみんなを止めようとする気配もなかった。
吹雪は腕を組んで扉にもたれかかると、ゆっくりと目を瞑る。
その姿はむしろ、これからどんな演奏が始まるか期待しているようにも見えた。
みんなが一斉に息を吸うと、一斉に音が鳴る。近藤悠介作曲、『マーチ・エイプリル・リーフ』。
フルートやクラリネットの連符の上に、華やかなトランペットのファンファーレが乗っかり、この曲の始まりを告げる。
それを担当するのは舞香と夏琴。ふたりは吹きながら、互いによくよく顔を見合わせる。
Aに入ると、クラリネットとアルトサックスが明るく爽やかなメロディーを奏でる。
感情豊かに体を上下させて吹く沙楽に対して、里律は『吹きづらくない?』と突っ込みたくなるほど体が固まっている。
続いてB、ここは同じメロディーラインに、新しくホルンだけのオブリガードが入る。
本来ならテナーサックスやユーフォニアムも吹くが、この部にそれらを吹く者はいないため。
Cは雰囲気が一変し、低音楽器による勇ましいメロディーを、その他大勢の中・高音楽器の裏打ちで飾る。
トロンボーンの祐希、チューバの響介は、脅威の特訓の甲斐もあって、室中を響かせる重低音を鳴すことに成功した。
Dになると場は少し静まり、木管楽器による
Eで再び盛り上がりを見せ、トランペットの主旋律とホルンのグリッサンドで次に繋ぐ。
「……いいじゃない」
吹雪はゆっくりと目を開けると、満足げにニヤリと笑った。
そして、隅の方で棒立ちしているだけの花音に『入ったら?』を声を掛けた。
「え…」
花音は少し戸惑った。なんてこと無いような平然とした顔で、吹雪は音楽室を指差す。
演奏はすでにFの再現部に入っていた。曲はまだ序盤。今入れば間に合うだろう。みんなと演奏できる。
だけど花音は動かない。動けなかった。
……わたしも、一緒に演奏していいの?花音は吹雪の顔を見ながら、心の中で誰かに問う。
わたしも、みんなの中に入れてもらえるのだろうか。
前に進もうとして、でも足が上手いこと動かない。暑さのせいで額から汗が出てきて、ぬめりと顔を流れる。
昔、花音が『入れて』と言えば必ずみんなからは『駄目』と返ってきて、それが当たり前だった。
だからなのか花音は今でも、自分から人の輪の中に入り込むことに抵抗意識がある。
怖いと思ってしまう。受け入れてもらえるのかどうか分からなくて。拒絶されるのが嫌で。
花音は吹雪から目をそらし、少しの間、目を閉じる。絶え間なく耳には演奏が聴こえていた。
瞼に写ったのは、あの場所で過ごした毎日だった。
楽器が思うように吹けなくて、合奏では吹雪には怒られて、部室は暑苦しくて、体は疲れてしんどくて。
それでも、花音はあの場所に居る時間が一番好きだった。
みんなはいつだって花音に笑いかけてくれた。拒絶されたことなんて一度もなかった。
花音はそっと目を開く。意を決したように、顔を上げる。
あの場所で、みんなと過ごした時間。それは花音の心の中に、確かに刻み込まれている。
花音にとって音楽室はもう、『あの場所』では無い。
『わたしの居る場所』だ。
確固たる思いが、花音を突き動かす。楽器庫に入って、そしてホルンの棚から楽器ケースを取り出す。
壁一枚挟んで聴こえてくる演奏は、早いことにもうGのトリオに入っていた。
巧みなクラリネットのソロが聞こえてくる。早く準備しないと、演奏が終わってしまう。花音は焦った。
鍵をカチャ、と回して、ケースを開ける。少し埃っぽい独特な匂いがして、中から金色に輝く楽器が顔を出した。
マウスピースを取り出し息を入れると、すぐに振動音が鳴った。初めの頃は全く鳴らなかったのが嘘のように。
すぐに楽器を取り付ける。細すぎる管の穴にマウスピースを差し込む。カコ、と音がした。
数回、B♭を吹く。なんの問題もなく、楽器はいつもどおりの音が鳴ってくれた。
楽器を持ち上げると、やっぱり重い。花音は再び音楽室に向かい、真っ白な扉の目の前に立った。
すぅ、と息を呑む。臆病に震える手を、真っ直ぐ伸ばした。銀製の取っ手は握るとヒヤリと冷たさを感じて、なんだか気持ち良かった。
年季の入った木製の扉は、ほんの少し動かしただけで大げさな音を立てた。
少しずつゆっくりと扉を開けると、すぐ中に居るみんなの姿が見えた。
入って間もなく、一番手前に座っている響介と目が合った。チューバの大きなベルに、花音の姿が反射している。
響介は驚いたように目を大きく見開いた。それを初めとし、みんながぞろぞろと花音の存在に気が付き初める。
みんなは花音の方を見ているが、それでも音楽は鳴り止まない。曲は、Gの終わりまで進んでいた。
花音が自分と同じ楽器を持っていることに気づいた美鈴が、さっと動いた。
輪の中に人ひとり入れる隙間を作ると、花音に向かって目で合図する。
花音はそこにすばやく入り込むと、周りと同じように楽器を構え、息を吸い込む。力を抜いて、自然体で。
トリオ終了後、Hのホルンのオブリガートから吹く。音域が広く指使いも難しくて、何度も何度も練習した所だった。
花音が入ったことで中音域に厚みが増す。Jの
『絶対に指揮を見て』と深く忠告されていた、少しのズレも許されない一番大切な箇所。
クレシェンドでどんどん追い打ちをかけ、
一瞬の静寂。指揮がないはずなのに何故が見える。一直線に降られる指揮棒が。
再び場内に大音量が響きわたる。高音楽器の主旋律、トロンボーンの対旋律。
盛り上がりが最高到達点に達したところで、音は一斉に切れる。
中・低音楽器による三連打により、曲は終着を迎えた。
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