第七楽章 「輝くハーモニー」

#32 夢

 ゆっくりと目を開けると、足元には白詰草とクローバーがたくさん咲いていた。


 手元には、摘んだ白い星の花が無数にある。


 ぐるりと周りの景色を見渡す。 


 澄み渡るほどの大きな空、緑豊かな木々たち、太陽の光に反射して光るなだらかな川。


 ――――また、この夢だ。


 から六年間、夢の中でこの景色を何度も見ている花音はすぐに自覚できた。 


 でも、すぐに異変に気がついた。


 いつもだったら、真っ先にが聞こえてくるはず。


 でも、なぜか今日は聞こえてこない。耳に入ってくるのは、近くを流れる川のせせらぎだけ。

 

『のんちゃん』


 そのとき、花音の耳元に誰かの声が響いた。幼い日のわたしを呼ぶ、暖かい声。


 聞き覚えのある声に、花音はすぐに振り返る。夢の中でその声を聞くのは初めてだった。


 ここからずっとずっと遠く離れている川辺に、ひとりの女の子が立っていた。


 アクアマリンのように光り輝く大きな瞳。雪のように真っ白で綺麗な肌。


 長くてサラサラな髪の毛が、風に靡いてふわりと宙に舞う。


『……おねえちゃん…?』


 花音は目を見張る。今にも消えてしまいそうなくらい、少女は儚くて。


 それでも確かに、遥か遠くに居る花音に笑いかけている。


 こっちにおいで。と、花音に向かって手を差し伸べる。


 天から舞い降りた天使のような微笑み。温かくて、優しくて。目尻が熱くなる。


 その手に触れたかった。手を握って、おねえちゃんの温もりを味わいたい。ぎゅっと、優しく抱きしめてもらいたい。


 その衝動にかられ、無意識に体は動いた。まるで母親の愛情を欲する幼子のように。


 待って。


 待ってよ、おねえちゃん。


 花音は少女に向かって手を伸ばした。


『おねぇちゃ…!』



「……はっ!!」


 目を開けて一番に飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。


 そのままゆっくりと視線を降ろす。洋風のクローゼットと、花音がいつも使っている音符柄の掛け布団が目に入った。


「あ、夢…」


 花音はゆっくりと起き上がる。カーテンを開けると、外はまだ薄暗い。


 壁に掛けてある時計を見ると、まだ午前4時過ぎだった。


 どうしてこんな早い時間に起きたのだろう。


 そして、ベッドの上のカレンダーを見た。×印がついていない最新の、今日の日にちが目に入る。



【8月3日】



 その下には、


『吹奏楽コンクール当日』


 と、マーカで大きく書かれていた。


 そうだ。今日は待ちに待ったコンクールだ。  


 昨日は九時には眠りについた。だからこんなに早い時間に起きられたのだ。


 花音はそれが分かってからも、しばらく上半身だけ起こしてぼーっとする。


 ……あれ?そういえば昨日の夜、目覚まし時計セットしたような。まだ鳴ってないのかな?何時に設定したっけ…

 

 ――――ジリジリジリ!!!


 突然、部屋の中に爆音が響く。4時30分を告げる知らせが大音量で鳴る。花音はゔっと顔を顰めた。

 

 隣の部屋で寝ている弟の三葉まで起こしてしまったらしく、『うるさい!』と怒鳴り声が聞こえてきた。


 花音は耳を塞ぎながら、慌てて目覚ましをオフにする。災難だったがそのおかげで、花音は完全に目が覚めた。



【♪♪♪】

 


「のんちゃん、今日の本番頑張ってね。お母さん会場まで観に行くから」


 花音が言えを出る直前、母親・琴弥は笑顔でそう声をかけた。


 珍しく早起きして、玄関まで見送りに来てくれた母親の姿に、花音は少し驚く。


「うん、頑張るね!じゃ、行ってきまーす!」


 花音は笑顔で母親に手を降って、玄関のドアを思いっきり開けた。

 

 今日は里津と一緒に登校しない。里津はお父さんに送ってもらうらしいから。まだ早い時間で心配だからと。


 四ヶ月間通ってきてもうすっかり慣れた通学路を、今日はひとりで通る。


 家の目の前では日中に工事が行われている。道路を広くし、新しく老人ホームを立てるからという理由で、今は木や建物を壊す作業をしている。


 今は早朝だから現場には誰も居なくて、ショベルカーや積み上げられた鉄筋、ボロボロの袋に入れ込まれた瓦礫が雑に置かれてあった。


「のんちゃーん!」


 キタガミ楽器店の前を通ったとき、よく見知った人物に話しかけられた。


 手に箒を握っているキタガミおばあちゃんが花音に手を降っている。


 えぇ?と花音は困惑した。朝、店前を掃除するのはおばあちゃんの日課らしいが、こんな早い時間にやっている所を見たのは初めてだ。


「おばあちゃん、何でそんな早い時間に…」


「今日はコンクールでしょう?きょーちゃんに『朝起こして!』って頼まれてたのよ」


 おばあちゃんはこんな朝早いのにも関わらず元気そうだ。


 なるほど。と花音は納得した。普段の学校の日でも朝起きれないことが多い響介が、こんな早い時間に起きられるはずないもんな。


 にしても、こんな朝早くに叩き起こされたにも関わらず上機嫌な様子のおばあちゃんを見て、心が広い人だな。と花音は改めて感じる。


 花音のお母さんだったら絶対『自分で起きなさいよ』と機嫌悪くなるに決まっている。


 ったくおばあちゃんだってもう年なんだし、もう中学生なんだから自分で起きればいいのに。


 目覚まし時計でもスマホのアラームでもかければ起きれるでしょ。花音は響介に説教したくなった。


「のんちゃん、緊張しとる?」


「えっ…」


 おばあちゃんは花音の顔をまじまじと見ている。花音はつい顔に手を当てた。確かに少し緊張はしていたけど、そんなに顔、硬いだろうか。


「うん…」


「そうかい。まぁ、当たり前じゃね。でも…」


 おばあちゃんは箒を壁に掛ける。手持ち無沙汰になった手を、花音の頭に伸ばした。


「もし失敗しても大丈夫やけん。ここに来て思いっきり泣けばいい。成功したら笑って来んさい。おばあちゃんは、いつだってここで待っとるけん。」

 

 おばあちゃんは優しく微笑み、そして花音の頭を優しく撫でた。


 皺だらけでゴツゴツした手の温もりに触れながら、花音は昔の記憶を思い出す。


 昔、学校や公園でいじめられたとき、帰る場所はいつだって家ではなく、キタガミ楽器店だった。  


 家には帰れなかった。髪の毛を引っ張られて、ボールを当てられてボロボロになった娘の姿なんて見たら、お母さんはきっと泣いてしまう。


 三葉は驚いてジュースを零すかもしれない。お父さんは『うちの娘にこんなことした奴は誰だ!』と怒って学校に電話するかもしれない。


 でも花音は学校でシカトされたり、鈍臭いと笑われるよりも、家で家族の悲しむ姿を見る方がよっぽど嫌だった。辛かった。


 だから子供なりに一生懸命隠していた。『学校楽しいよ!』と、笑っていた。

  

 そんな花音の幼い心を、おばあちゃんは見透かしていたのだろうか。


 縋るような思いで逃げ込んできた花音を見て、おばあちゃんは嫌な顔ひとつしなかった。いつだって優しく迎え入れてくれた。


 ボサボサになった髪の毛を櫛できれいに磨いてくれて、怪我があれば手当してくれて、服が砂や土で汚れていたらすぐに洗ってくれた。


 縁側に座り込んで、泣くのを必死に堪えている花音の横に、おばあちゃんはいつの間にか座っていて。


 そして何も聞かずに、こんなふうに優しく頭を撫でてくれた。

 

「あっ、うん…」


 胸がじんわり温まって目の奥が熱くなる。なぜだか、涙が零れ落ちそうになる。


 花音はおばあちゃんにとんでもなく弱い。どんなに自分の気持ちを隠そうとしたって、彼女の誰よりも深い愛情には敵わない。

  

「行ってくるね」


 花音はなんとか堪えると、おばあちゃんに笑顔を見せた。


 今日、頑張ろう。花音はそう決意した。


 おばあちゃんに笑顔で『ただいま!』って言えるように。


 そしたら、おばあちゃんはきっと喜んでくれるから。



【♪♪♪】



 早朝の学校はいつものような人の気配はなかった。


 靴箱で靴を履き替えようとすると、一面ズラッと上靴ばかりが並んでいる。


 校内に入ると、なんだか妙に薄暗かった。


 電気がついていないとはいえ、こんなに暗いだなんて。誰もいないのだろうか。


 廊下はシーンとしていて、異様に静かだった。床はヒヤッと冷たい。花音はそこをひとりで通る。


 花音は周りをキョロキョロと見渡す。少し怖かった。なんだか心霊スポットなんかにありそうな、いかにもって場面で…


「わぁっ!」


 そのとき、トイレから突然出てきた誰かとぶつかった。突然のことで驚き、声を上げる。


「あっごめんなさい!って…」


 花音はぶつかった人物の顔を見て少し驚いた。先生?と小さく呟く。


「篠宮さん…」


 吹雪はぶつかった相手が花音だと認識すると、『あーびっくりした』と安堵の声を漏らした。


 吹雪の格好はいつもと違った。黒いジャケットのスーツを身に纏い、髪を一つに結んでいる。


 今日がコンクールだからだろう。なんだか、ピシッとしてかっこいい雰囲気だ。


「来るの早いね。まだ6時前よ?集合時間6時半なのに」


 吹雪は袖を捲くって腕時計を見る。針は5時54分を指していた。

  

「まぁ、いつも一番乗りだもんね」


 吹雪は花音に笑いかけた。機嫌が良さそうに、軽い足取りで歩き出した。音楽室に向かうのだろう。


 花音は少しの間ぼんやりしていたが、ふとハッとする。慌てて吹雪を追いかけるように歩き始めた。

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