一年目 八月

#31 そんなこと言わないで

【8月2日】


「うわぁ〜!これ可愛い!」  


「こんなの作れるのすご!」


 コンクールを翌日に控えた今日。 

 

 先程合奏を終わり、いつもだったら片付けとミーティングの時間に入るが、今日は違う。


『かわいー』『すごーい』という、女子の勧声が色々なところから聞こえてくる。


 いつもならピリピリとした真剣な雰囲気なのに、今日はみんな嬉しそうに笑っている。


「明日の本番が上手くいくようにって、願いを込めて作ったの」


『みんなへの、お守り。』吹雪はいつものように指揮台に立って、キーホルダーが入っていた箱を片付けながら、ふふっと笑う。


 布の中に綿が大量に詰めてあり、表面に八分音符の刺繍がされているキーホルダー。


 たった今、吹雪が部員全員にプレゼントしたものだ。


 手作りで、しかもひとつひとつ色が違う。色とりどりカラフルな音符が、室内中に広がっている。


「あんまり大したものじゃないけど…」


 吹雪はお守りを貰って嬉しそうなみんなの顔を見ながら、自身がなさそうに眉を下げた。


 いやいや、そんなことですよ。と花音は心の中で否定する。その手にはみんなと同じようにお守りを握りしめている。


 花音のは水色。『ラ〜ちゃん』と同じ色だから、迷わずにこれを選んだ。


 縫い目を見るにほんの少し不均等だから、ミシンは使ってなさそう。


 だが手縫いにしては充分過ぎるほど縫い目が綺麗だ。こんなの、相当器用じゃないと作れないだろう。


「明日は、いよいよ本番です」


 吹雪は真面目な顔に戻ると、全員の顔を一人ずつしっかりと見渡す。


「みんな、今日まで練習ばっかりでキツかっただろうし、先生も怒っちゃったりしたけど、本当によく頑張ったと思う」

 

 そう話す吹雪の顔は穏やかだった。つい昨日までは何かに追われているようにせかせかしていたのに、今は別人のように和やかだ。


「ここまで来たら、いままでの自分の練習を信じてやるしかないと思う。初めての本番の子もいて緊張すると思うけど、ここまで頑張ってきたみんななら、きっと大丈夫!」


 吹雪は生徒たちを労るように優しく微笑むと、『いままで付いてきてくれてありがとう』と軽く頭を下げた。


「じゃあせっかくだから、いままで部活のために力を尽くしてくれた三年生の二人に、何か一言言ってもらいましょう」


 吹雪は最前列の一番端に座っている沙楽と、そのすぐ後ろに座っている光輝に視線を送る。


「ええっ?!急に?!」


 指名された沙楽は目を見開いて素っ頓狂な声を出した。『ふふふっ』と周囲から微笑が発生する。


「それじゃあ、部長の真田くんから」


 二人は指揮台の横に立った。光輝は『えっと…』と、少しの間だけ考えるように黙り込んだ。


「みんな色々大変だったと思うし、僕は部長としてあまり役に立てなかったんですけど、でもこんな僕についてきてくれてありがとうございました。明日の本番も頑張りましょう」


『以上です』と、光輝の話は思っていたよりもあっさりと、簡潔に終了した。


「なんか、部長って感じ」


 花音の横に座る美鈴が、少し苦笑しながらぽつりと呟いた。


「あ、もうあたし?えーっと…」


 沙楽は指を唇につけて、『うーん』と考える。その素振りすら愛らしかった。


「あたしはコンクールに向けた気合い入れって言うよりかは、別のこと話そうかな」


 沙楽はみんなの顔をざっと見渡すと、いつもの『マドンナ』の美しい笑みを浮かべた。


「じゃあまず、部長に言いたいことがあります」


 沙楽は顔を右に向け光輝と目を合わせる。突然の行動に、光輝は『え?』と目を見開く。


「この前、あたし言ったよね。『吹奏楽部で過ごした二年間、後悔したことはひとつもない』って。ごめんなさい。あれは嘘です。」


 途端、音楽室の空気はガラッと変わった。『え?』『どういうこと?』と、周囲に動揺が生まれる。


「ひとつだけ…」


 沙楽はその声たちに答えることなく、再びみんなの方を向く。


「ひとつだけすっごく後悔してることがある」


 沙楽は目をそっと伏せた。少し経って、意を決したように目を大きく開く。


「去年のこと、について」


 沙楽のその言葉に、『え?』という声がほんの少しだけ周囲から漏れる。 


「今更、昔のことを掘り返しても意味ないかなって思ってた。でも、今この場を借りて話をさせてほしい」 


 いつもより低く落ち着いている声音と真剣な眼差しに圧倒され、その場は静寂に包まれた。


 誰一人の声もしなくなった所で、沙楽は話し始めた。


「今の二年生は、本当に去年辛い思いをしてきたと思う。まだ一年生だったのに、毎日のように怒鳴られてばっかりで」


 沙楽は一個下の後輩の顔をよく見る。その瞳には、去年の後輩達の姿が見えているのかもしれない。


「でも、あたしはそんなみんなのこと助けられなかった。『あたしがなんとかするから大丈夫だよ』なんて言ったくせに結局、何も出来なかった」


 いつも上がっている口角が、今は下がっている。星のように輝く瞳が、みるみる赤く腫れていく。


 沙楽はそれを誤魔化すように、下を向いて目をぎゅっと瞑った。


 同期の言葉を横で聞いている光輝は、誰とも目を合わすこと無く俯いている。同じような思いがあるのかもしれない。


 そんな沙楽を見つめる部員たちの目もまた、悲しかった。


「あたしがもっと何か違うことが出来てたら、辞めてった子達だって今ここに居たかもしれない。そしたら、二年生にも今の一年生にもこんな苦労かけなかったのに」


『ごめんなさい。』沙楽は後輩たちに向けて、深く頭を下げた。


「ずっと謝りたかった。吹奏楽の本来の楽しさを感じさせてあげられなくて。苦しい思いをさせて、何も出来なくて、こんな先輩でごめんなさい」


 端で聞いているだけの花音まで、胸がきゅっと痛んだ。


 後悔、懺悔。そんな思いが込められた言葉は、重苦しくて寂しい。いつも明るい声が、今は暗く、震えていた。


 そんな沙楽を前にして、周りは静寂に包まれた。


「……違う…」


 そのとき、すぐ横から誰かの呟く声が花音の耳に入ってきた。


「それは違います!」


 ガタッという音と共に、静寂を断ち切る声が響いた。


 花音は真近くから聞こえてきた大声に驚き、ビクッと肩を震わせる。


 声の主は花音の隣に座る、美鈴の声だった。


「謝らないでください、先輩。先輩の言ってることは間違ってます」


 沙楽の言葉を否定した美鈴の顔に、いつものような笑顔はなかった。悔しさを堪えているように、歯をキツく食いしばっている。


「美鈴ちゃん…?」


 沙楽は頭を上げると、呆然とした顔で後輩を見る。


 美鈴は周りのみんなの驚いたような視線を一身に浴びている。それらを一切気にせず、前にいる先輩だけを真っ直ぐ捉えた。


「先輩の言うとおり自分らはずっと、前の顧問の陰に怯えていました。また怒られたらどうしようって怖かった。部活辞めたいって数え切れないほど思いましたし、そう言って辞めてった友達も居ました」


 静かにそう語った美鈴の拳は、固く握り締められていて。拳の中にある青色のお守りが、手の力でぺしゃんこに潰れている。せっかく貰ったばっかりなのに。


 沙楽は再び俯いた。やっぱり、と。


「でも、それは先輩の…先輩たちのせいなんかじゃないです!」


 沙楽は『え?』とハッとしたように顔を上げる。はっきりとそう断言した美鈴の顔は、真剣そのものだった。


「守れなかったなんて、そんなの嘘です。だって先輩は、いつだって自分らのことを守ろうとしてくれてた。自分らが攻撃されないように立ち回ってくれてたじゃないですか」


「……そんな、こと…」


 沙楽は驚いたように目を見開いている。花音は隣で話し続ける先輩の顔を見上げた。


「……それに自分、去年だって充分楽しかったですよ。先輩と演奏出来て、楽器だって好きになれたし」


 美鈴は強張っていた顔をほんの少しだけ崩す。悲しさの中で無理矢理作ったように笑った。


 その顔を見て、花音はふと思い出した。



【♪♪♪】


『美鈴先輩って、沙楽先輩のことめっちゃ好きですよね!』


 少し前のパート練の休憩時間に、美鈴に夏琴がそう話しかけたことがあった。


 夏琴は積極的な性格で美鈴とも仲が良い。だから、この光景自体に珍しいことは何もなかった。


『あぁ、やっぱ分かる?』


 美鈴は少しだけ照れくさそうに笑う。ちょっと恥ずいな、と顔を赤らめた。


『はい!めっちゃ顔に出てます!何でそんなに好きなんですか?』


『っと…なんて言ったらいいんだろ…』


 んー、と美鈴は考えるように上を向く。


 すぐに答えは出てくるかと思われた。しかし、美鈴の口からはしばらく何も出てこなかった。


 その近くで楽器のメンテナンスをしていた花音は、二人の会話が気になって密かに聞いていた。


『やっぱり、沙楽先輩が可愛くて面白いからですか?』


『んーそれとはまたちょっと違うかな…』


 美鈴は曖昧に微笑む。いつもだったらもっと豪快に笑うのに。夏琴はきょとんと首を傾げる。


『あの先輩はね、ほんまに凄い人なんよ。自分さ、一年のとき先輩に助けられたおかげで、今でもホルン続けられてるから』


 美鈴は少し顔を俯けた。腕の中に握られていたホルンのピストンを、ボスボス何度も押す。


 美鈴は夏琴と、それから自分の方を見ている花音とも目を合わすと、両者に笑いかけて言った。


『やけ好きってレベルじゃなくてもう、大っっっっ好き!』



【♪♪♪】


 あの時の先輩の、子供みたいに純粋な笑顔。


 あの一途で真っ直ぐな言葉に嘘はひとつもなかったと、たった今証明された。


「先輩たちのこと悪く思っている人なんて、少なくともここに居るみんなの中には居ないと思います」


 美鈴は沙楽から視線を逸らし、座っている同期たちをぐるりと見渡す。


 その他の二年生は美鈴と目を合わせて、同意するように首を大きく縦に振った。


「だから、そんなこと言わないで下さい。先輩が本当にそう思っているのなら、自分は悲し…」


 ふと、美鈴は声を止めた。目線だけはそのままに、目を大きく見開いて呆然としていた。


 花音はさっきまでと一変した美鈴を不思議に思い、視線を前に戻した。 


 そこで目に飛び込んできた光景に、花音は息を呑む。

 

 呆然としている沙楽の瞳から、一筋の滴が光っていた。


 それは一直線に頬を伝って、そのまま零れ落ちて消えていく。


「あ、えっ…」


 一粒、また一粒。沙楽は自分の瞳から次々と流れてくる雫に気が付くと、焦ったように手を動かした。


「なんで…」


 沙楽は笑いながら手で雫を拭う。目の下がほんのり赤に染まっていた。でもそれは止まる気配はなく、降りしきり止まない梅雨の雨のようにどんどん流れている。


 すっ、と沙楽の背中に手が差し伸べられた。


 沙楽はハッとして振り返ると、そこに居たのはずっと黙っていた吹雪だった。


 吹雪は沙楽の背中を擦った。子供を労るお母さんみたいな、そんな優しい眼差しで沙楽を見つめていた。


 その瞬間、彼女の顔が一気に歪む。せきとめられていたダムが大決壊を起こしたように、目から涙が溢れだした。 


 顔をくしゃくしゃにして肩を震わせながら、小さな嗚咽を上げた。


 大衆の面前に晒された大粒の涙は、宝石のようにキラキラ光っている。


 沙楽はもうそれを隠そうとしなかった。彼女の悲痛な声だけが、音楽室に響いている。

 

 周りの反応は様々だった。驚いていたり、慌てて慰めようとしていたり。


 人が泣いている姿というのは、本来であれば痛々しいことこの上ない姿のはずで。


 でも、花音は沙楽の涙を止めたいと思わなかった。止めてはいけないような気さえした。


「せんぱ…」


 美鈴は足の力が抜けたようにガタンと座り込む。


 沙楽につられて、もらい泣きしている子すら居た。 


 副顧問の絃子は生徒たちから目線を外すと、メガネをそっと外す。ポケットから取り出したハンカチで目を抑えた。


 泣きじゃくっている沙楽の横で、光輝は笑顔を浮かべていた。どこか嬉しそうに。報われたように。


『移動する?』と吹雪が聞く。でも沙楽は『いい』と言うように手を横に降って、


「あっ、あり…」


 沙楽は必死に嗚咽を堪える。唇を噛み締め、再びみんなの方を向く。涙でぼやけてよく見えないだろうに。


 せっかくの可愛らしい顔は、濡れて髪の毛がぺったり張り付いて、もう滅茶苦茶だった。


 それでも、涙で光って輝いている星の目は、前に花音が感じだ人形のような瞳とは違ったのだ。


 れっきとした、人間の瞳だ。


「あっ、あ、ありがとっ…」

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