#29 君の瞳

「うわー!これ懐かしい!」


 光輝が少しぼんやりしていると、沙楽はスコアから視線を外し、上を向いていた。


 光輝はハッとしてその目線を追う。その先には昨年と一昨年の吹奏楽コンクールのパネル、全体写真が飾られてあった。


「このとき何人いたんだっけ?まだ羽歌たちが居た頃だし、先輩も多かったもんね!もう、二年か…」


 沙楽は楽しそうな、でも少し寂しそうな顔をして、昔の思い出を懐かしんでいる。


「そうだね、なんだかんだあっという間だったよね。」


「ねー!ほら、この一年の真田くん、ほんとにちっちゃくて可愛い!信じられない、この時まだあたしより背が低かったよね?」


 沙楽は、まだ何も分からずに端っこで棒立ちしている一年時の光輝を指差す。当時、初心者で打楽器で出たからこんな立ち位置なのだ。


 アルトサックス…管楽器で出させて貰えている今では考えられない。


 まだ小学生のあどけなさが残っている少年が、両手を腕に上げてこちらに笑いかけている。


「あ、そう…だね…」


『可愛い』か。光輝はその言葉に少し落胆し、複雑な気持ちになって俯く。


 それは充分な褒め言葉のはずなのに、何故か素直に喜べない。どこか『悔しい』と感じてしまう。


「わぁ!ホルンのチカ先輩懐かしい!よく雑談したなー」


 沙楽は目を輝かせながら、昔の思い出を楽しそうに語る。


「ねぇ、覚えてる?一年の時に、先生が出張で居なかった日にこっそり音楽室で椅子取りゲームやったこと!バレないかずっとドキドキしてたけど、楽しかったよねぇ!」

 

 沙楽のテンションはどんどん高くなって、まるで玩具を買ってもらえた子供のようにはしゃぐ。


 その純粋無垢な笑顔に対して、光輝は猛烈な違和感を覚えた。

 

「あと、サックスの里歌りか先輩が…」


「……あのさっ!」 


 光輝はそんな違和感を抑えきれなくて、沙楽の言葉を遮るようにらしくもない大きな声を放つ。


 止められたことに驚いたのか、沙楽はきょとんとした顔で光輝を見上げた。


「……そんな昔のこと思い出して…」


 光輝は沙楽のその顔を真正面から見つめる。


「辛くないの…?」


 沙楽に対して感じた疑問を、ついありのまま言葉にしてぶつけてしまった。


「…え?」


 沙楽は首を傾げた。一体、光輝が何を言っているのか分からないというように。


 なぜ彼女は、そこで首を傾げるのか。その行動が、光輝の中の違和感を更に増幅させた。


「…あ!ごめん、あんまり昔の話はしないようにしようって、あのとき決めたんだった。宮沢先生の話じゃなかったらいいかなって思ったんだけど…」


 沙楽はハッとして、申し訳無さそうに項垂れる。『ごめん、つい思い出して』と、光輝に謝った。


「いや、そうじゃ…」


 しまった、と光輝は自分の放った言葉をすぐに後悔した。


 光輝は沙楽を責めている訳ではない。怒っている訳でもない。


 言いたいことを上手く言語化出来ない。自分のコミュケーション能力の低さにむず痒さを感じる。


「その、松坂さん昔、無視されてた…じゃなくて、避けられてたから…クラの先輩から」

  

 光輝は自分で考えつけるだけの最大限攻撃力の少ない表現を使った。


「……僕は、昔のことはあまり思い出したくないなって思ってる。」


 光輝は沙楽に真正面から向き合いそう言うと、沙楽は驚いたように目を見開く。


「それは、先生に怒鳴られたことを思い出すからで…だから、松坂さんがそんな楽しそうな様子なのが不思議で…」


 沙楽は宮沢に対しての恐怖心が、他の部員と比べると比較的薄いはずだ。


 沙楽が宮沢の攻撃の対象にされることは滅多に無かったから。


 経験者で、才能があり、努力も惜しまない。そんな沙楽の演奏。


 奏者のどんなに小さなミスでも見逃さず徹底的に絞っていた宮沢からしてみても、文句の付け所なんてどこにもなかったのだろう。


 だからこそ、あのとき…


『ごめんなさい。もう、沙楽ちゃんとは話さない。話せない。あなたと喋ったら私、あなたを傷つけてるかもしれないから。だから、用事があるとき以外は私に話しかけないで。』


 楽器を片付けに行ったとき、光輝はたまたま目撃してしまった。


『もう、限界なの。あなたの音、聞きたくない。』


 誰も居ない楽器庫で、自分よりもよっぽど実力のある後輩にそう訴えていた、一歳年上の先輩。


 その先輩はクラリネットをぎゅっと握りしめ涙を零していた。端から見れば心配になるほど体は震えていた。

 

『……分かりました。配慮が足らずに、すみませんでした。』


 そんな痛々しい姿の先輩を目の前にして、沙楽はただ何事もなかったかのように頭を下げるだけだった。


 例え、あの先輩が沙楽に耐えきれないほどの屈辱を受け傷付いていたとしても。


 先輩が沙楽に対してやっていた行為はただの『拒絶』に過ぎない。嫉妬、憎しみ故の。

 

 沙楽に非は一つもない。ただ実力があっただけ。


……そんな『拒絶』を受けてもなお、沙楽は全く動じることはなかった。


『なんでそんなこと言われないといけないの?』


『酷い、悲しい、辛い』


 そう、沙楽の立場からすれば思って当たり前のような状況だったはずなのに、沙楽からはそれらの感情を全く一切感じさせなかった。


 ただただ目の前の可哀相な先輩を、憐れんでいるような瞳で見ていただけだった。


 二年間ずっと共に活動してきて、特に二年生の冬頃からは二人三脚で部活を回してきたのに。


 それなのに、光輝は沙楽のことが分からない。


 いつだって周りの人間に愛を振りまく『人気者』としての姿は知れても、その瞳の奥に隠された真の感情が全く掴めない。


 沙楽がなぜ、あのときあんな顔が出来たのか。それが、光輝は未だに分からない。


「あの、僕は別に思い出を懐かしむなって言ってるわけじゃなくて、ただ…そうだ、分からないんだ。松坂さんが、なんでいつも平気そうなのか。去年、が起きたときも…」


 気がつけば物凄く必死になっていた。そのせいで、光輝は段々と自分が何を言っているのか分からなくなってきた。


「……ごめん。こんなこと聞いて。」


 光輝はそれだけ言うと、黙り込んだ。


 知りたいと思っていた。沙楽のその瞳の奥の、隠された真の感情に、光輝は興味があった。一度、この目で見てみたいと思っていた。


 それはずっと共に協力してきた身近な仲間だからなのか、それとも沙楽に『特別』な感情を抱いているからなのかは、自分でも分からない。


 でも、結局ずっと出来ないままだった。沙楽の心に踏み込むようなことをする勇気が、光輝には足りないのだ。


 傷つけるのも、傷つくのも怖いから。


 今だって、探ろうとして、結局中途半端で終わってしまった。


 自分が情けなくて、後ろめたくなる。沙楽の目がまともに見れなくて、俯いた。


「……真田くんは、優しいね。」


 え、と、光輝は顔を上げる。目の前には、陽だまりのように優しく微笑んでいる沙楽の顔があった。


「ずっと思ってたけど、やっぱり優しい。」


「ぼ、僕は、優しくなんか…」


「優しいよ。だって心配してくれてるんでしょ?あたしが傷ついてないかって。」


 沙楽は目を細めて、ふふっと笑う。その顔を見て、光輝は胸がいっぱいになった。


 沙楽は光輝からふいっと目を逸らすと、少しの間だけ天を仰ぐ。窓の外をぼんやりと眺めていた。


 沙楽の瞳には、真夏の青い空と大きな入道雲が写っていた。


 沙楽が今のように窓の外から顔を覗かせて晴れた空を見上げている姿を、光輝はしょっちゅう見かける。


 空を眺めるなんて誰でもやることだとは思うが、沙楽は些かその回数が多い気がする。


 外か窓がある部屋に居て暇さえあれば、必ずと言っていいほどに沙楽の瞳には青色が写っているから。


 好きなのかな。と光輝は思っていた。本人に直接聞いたことはないけれど。そんな些細なこと、聞くまでもないことだし。


「き、だから…」


 沙楽は窓の外を見たまま、何かをぽつりと呟いた。光輝は沙楽の声にハッと顔を上げる。


「……好きだから、かな。」


 すると、沙楽は振り返り、光輝の目をじっと見た。何か、強く訴えるように。


「あたし、大好きなの。この楽器が。」

 

 沙楽は楽器を力強く握りしめる。長年使い古されたであろう、学校の備品以上に年季の入っているクラリネット。


 沙楽は手の中に静かに眠るそれを、抱きしめるように胸にギュッと引き寄せた。


「あたしは、後悔なんかしてないよ。どんなことがあっても、楽器だけは手放さなかったから。」

 

『ひとつも。』沙楽は真っ直ぐな瞳でそう言い切る。


「……あの、」


 光輝は無意識に声を出していた。何かを話そうとしてーーーーーでも、止めた。


 その真っ直ぐな瞳は、光輝を見ているようで見ていない。


 今見えている世界が、光輝と沙楽では違う。沙楽は何かもっと別の、遠い場所を見ているような気がして。


 沙楽が見ているものが何なのか、光輝には何も分からなかった。


 し、そこに自分が入り込む余地なんて少しも無いと思ったから。

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