#28 三年生
【2020年7月28日】
……暑い…
額から流れ落ちてくる汗を度々拭いながら、必死にシャーペンを動かす。エアコン常備の音楽室と比べて、楽器庫は湿気が籠もって暑苦しくて仕方ない。
吹奏楽部の部長・光揮は、部活動日誌をつけていた。
部員の出欠確認の○×や、体調不良の記録などを書き込む。これは毎日の部長の仕事だ。この他にもまだ大量に仕事はあるのだが。
ふう、と書き終えて顔を上げると、ふいに、飾ってある賞状が目に入った。
金色の文字と豪華な淵で彩られた厚紙。これはただの厚紙じゃない。何よりも価値のあるもの。
『第60回広島県吹奏楽コンクール・金賞』大きく書かれている。去年の夏に、吹奏楽部が取った賞だ。
……懐かしいな。
光揮はしみじみとそう感じ、記憶が蘇ってくる。光輝がまだ二年生の頃の、去年のこの場所を。
『うちの吹部は、世界でいっちばん仲良しな部活なんだよ!』
蒸し暑い室温。繰り返す五月蝿い蝉の鳴き声。練習のときは厳しかったけれど、それでも優しかった先輩達が、いつだって笑いかけてくれたあの声。
『来年こそは支部大会行けるかなぁ?行きたいよねぇ!最後にこのメンバーのみんなで行こうね!』
かつてこの場所に確かに居た、今は居ない『みんな』の楽しげな声。
同期の中で一人だけ男子で、初めは少し気まずくて居た堪れなかったけれど、それでもみんな、光輝と『友達』のように接してくれた。
そして―――――
『おい!お前ふざけてんのか!誰がそんなふうに吹けっつたんだよこのボケ!目障りだから合奏に参加すんな!』
『良かったなあお前ら、上の偉そうな奴らに甘やかされて!俺の指導が間違ってるだって?』
『こんな部活、とっとと廃部にでもなっちまえ』
光揮はくらっと眩暈がして、頭を横に振った。
駄目だ。やっぱり一番に『あの人』がよぎってしまう。だから、昔のことは思い出さないようにしていたのに。
『あの人』のことを思い出すとやっぱりまだ、当時の恐怖が蘇る。今はもうここに居なくても、あの怒号と暴言の数々は部員達の記憶にこびり付いている。
とはいえ、自分はまだマシな方だろう。光揮は、自分よりももっと大きなトラウマを抱えてしまった同期を、後輩を、目の当たりにしてきたから。
元顧問の影に苦しめられている二年生と、何も知らない状態で入部してきた新入生と、指揮経験の無い上に聴力障害を持つ新顧問。
そんな部員たちを気にかけ、支えながら部を回していくのは、とても容易なことでは無かった。物凄く大変な毎日だった。
それでもそれが部長の役目だと思って、光輝はなんとかここまでやってきたのだ。
……いや、僕だけの力じゃないな。
僕と――――
「真田くん!」
ふと、耳に高くて可憐な声が届いた。光輝が声の方を振り向くと、夜空色の髪の毛と、星のように光り輝く瞳がそこにはあった。
それを見た瞬間、光輝はドキリと心臓がうるさく高鳴った。
「あっ、松坂さん…」
「今ちょっといい?」
光輝は胸の高鳴りを抑えきれず、つい沙楽から目線を逸してしまう。頬が火照って熱い。顔、赤くなっていないだろうか。光輝はそれが心配になった。
「も、もちろん!」
「曲のことなんだけどさ…」
副部長で、光輝の唯一の同期・沙楽は自由曲『マーチエイプリルリーフ』のスコアを持ってきて、机の上に置く。
「ここ、Trioの、あたしと真田くんのsoliなんだけど」
沙楽が指さした先は、曲の中間部分ののクラリネットのアルトサックスのメロディーだ。
ここは先程までの盛り上がりを抑え、流れるような穏やかな曲調になる。曲の雰囲気をガラッと変えるための大切なパートだ
本来ならクラリネットとサックス全員が吹くが、敢えてここは『三年だけのsoli』という名目で、1stの二人しか吹かないのだ。
「で、さっき先生からここの音量のバランスが悪いって言われて、あたしの音が大きすぎるみたいでさ。でも小さく吹きすぎても聴こえないしどうしよっかなって思って」
沙楽は眉を顰め、『うーん』と唸りながら楽譜を凝視する。
「確かに松坂さんの音は大きいけど、そんな小さく吹く必要ない気がするけどなぁ。まぁここは割と静かな場面だから、ちょっと控えめにしたらいいか…も…」
光輝は喋りながら、ちらっと沙楽の顔を伺う。真っ暗な夜空に光り輝く一等星のような瞳がこちらを捉えている。
その視線のあまりの美しさに、光輝は思わず目を逸らした。
……本当、この人と居たらいい意味で調子が狂う。
自称するのもなんだが、光輝は『部長』だ。
部長である以上、常に部活のために邁進しなければならない。部員たちを支え、引っ張っていく一番の人物。
そこにプライベートや個人的な感情を持ち込むのは、部活の運営を行うに当たり時に妨害となる。
そこはきちっと切り替えないといけない。その意識を光輝は大切にしてきた。
そんな光輝だが、沙楽の目の前に居る時だけは、らしくもない邪なことばかり考えてしまう。
沙楽の光り輝く瞳と、『マドンナ』という言葉が似合うとびっきりの笑顔を捉えた瞬間、なぜだか理性が吹き飛びそうになるくらい見惚れてしまう。
こんな気持ちになるなんて、僕らしくもない。僕は、部長なのに…と、光輝は少し憂鬱になった。
「んー…じゃあとりあえず音量確認したいから、一回吹いてみるね。」
沙楽は手に持っていたクラリネットを構え、ピンク色でふっくらとしていながらも少しガサガサの唇に咥える。
「あ、りょうか…」
沙楽は光輝の返事を待つことなく、深く息を吸って楽器を吹き始めた。
運動部が実力によって選手は『レギュラー』『補欠』に別けられるのと同じように、吹奏楽部も奏者の演奏能力は個人個人で差がある。
中学校は高校とは違って、部員の大半が『初心者』として入部してくる。それは、ほぼ全員が同じスタートラインに立っている状態から始まるということを意味している。
とはいえ、その演奏技術は一人ひとり違ってくる。実力のある者と、無い者がいる。一見は同じように聴こえる演奏も、実は全く違ったりするのだ。
じゃあその『実力のある者』はどうして生まれるのか。そのパターンは大まかに分けて二つある。
一つ、『経験者』であること。
小学生の頃から吹奏楽部や金管バンドに入っていたり、家に楽器があって、親に教えてもらえたり。
そもそもスタートラインが周囲よりも早いから、実力があるのも当然といえば当然だ。
ただ、こちらは中学校では割とレアケースだ。『経験者』は学年に一人か二人居ればいい方だろう。
二つ、『才能』『努力』の有無。
楽器との相性が抜群だった、個の要領が良かった…などの『才能』が、特に努力しなくても備わっている者。
楽器を愛し、周りの誰よりも上手くなりたいと向上心を持ち必死に練習を頑張る…『努力』をする者。
これらが備わっているかいないかで、同じ時期から始めた者同士でも充分、実力差は出る。
ただ一口に『才能』と言ってもそれには限界がある。どんなに楽器との相性が良くても、要領が良くても、『努力』を怠れば結局のところ高見へは行けないのだ。
…それで言えば、沙楽はその二つ、どちらも備えている『実力のある者』だろう。
狭苦しい室内に沙楽の音だけが響く。光輝はよく耳を澄ませて聴く。
太くて芯があり、どこか『優しさ』を含んでいる低音。
リード楽器は耳障りが悪くなりがちな高音も、それらを一切感じさせない柔らかく透き通る音で。
音の一粒一粒が、まるで星のようにきらきらと煌めいている。
ここのフレーズの、なだらかな、でも爽やかなイメージを完膚なきまでに再現している。
別に光輝が沙楽に特別な感情を抱いているから、大げさにべた褒めしている訳じゃない。それだけ沙楽の吹く音は完璧なのだ。
「…どうだった?大分音量下げたけど。」
沙楽は静かに楽器を下すと、光輝の目を見る。光輝はハッとした。
「あ、演奏自体はほんと、文句のないくらいの出来だと思う。…でも、合奏でってなるとやっぱり目立ちすぎるのかもね。」
「そうなんだよねえあたし。めっちゃ怒られたもん、周りの音聞けーって。そんなつもりないのになー」
圧倒的過ぎる実力は、時に全体の演奏に不和をもたらす。周りを置いてけぼりにしてしまうのだ。無意識に。
沙楽がそれで何度も叱責を受けていたのを、光輝は知っている。『主張を抑えろ』と。
自分と周りとの実力差が、まだいまいち掴めていなかったであろう一年時は特に。
本人もきっとそれに悩んできたはずだ。……最も、当時初心者だった光輝からすれば、羨ましい悩みではあったのだが。
「それだけ上手ってことだよ。松坂さん、小さい頃からクラリネットやってるんでしょ?」
「そうそう!小3のときからかな、家に楽器あってさ。中学で吹部入るまではほぼ独学だったんだけどね。」
『もう七年目かな』と、沙楽は髪の毛を耳にかけなから笑う。そのとき沙楽の指の赤黒い血豆が至近距離で見えた。
沙楽は稀な『経験者』だったけど、その立場に甘えることはなかった。毎日誰よりも早く来て練習して、放課後は誰よりも遅くまで残って練習している。
その痛々しい血豆も、ガサガサの唇も、その努力の裏付けとなる立派な証拠だろう。
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