第六楽章 「星の涙」

#27 マドンナ

【7月24日】 


「Jのアクタクトの低音とシンバルの入り、さっきから何回やっても合ってないのでそこ下さい」 


 吹雪の指示に『はい!』と返事をして、Jの一小節前から低音とシンバルだけで演奏する。


 本来であれば低音の響きのある四分音符とシンバルの華やかな音が重なって、流れるようななだらかなメロディーへと移ってく…はずなのだが。


「だから合ってないって。低音はいいけどシンバルがワンテンポ遅い、そこのシンバルずれるとJからのメロディーも全部ずれるから!」


 吹雪は『何で出来ないかな』と言わんばかりに顔を顰め、髪を掻きむしる。


 ここ最近は少し苛々していることが増えたが、今日はより一層機嫌が悪いようだ。


 クラッシュシンバルを叩いているのはフルートパートから駆り出された一年生。『はい…』と少し気まずそうに返事をする。


「……ねぇ、もしかしてシンバル重い?」


 すると、スコアを眺めていた沙楽がシンバルの一年生にひそひそ声で話しかける。


「重いです、結構」

「多分、重いから叩くのが遅れるのかも。これの前は全部休み?」

「はい」

「じゃ、もう一小節前から叩くつもりで準備しとくといいかも」


 沙楽は笑顔でそうアドバイスする。一年生は救われたように『ありがとうございます!』と頭を下げた。


「先生、ここの指揮、シンバルが分かりやすいように大きく降ってあげたらいいかもしれません」


 沙楽はそれから吹雪にも声を掛ける。吹雪は一瞬ハッとしたが、


「そう……じゃね、ちょっと分かりにくかったかも」


『そうね、そうよね』と何度か頷き、沙楽の言葉に納得した様子だった。さっきよりも吹雪の顔つきが少し穏やかだ。


 すごっ!と、端から見ていた花音は思わず目を丸くする。


 教師と生徒というのははっきりと上下関係があって、普通、立場が低い生徒が教師に何か意見を言うと『反抗するな!』『言うことを聞け!』と否応なしに一喝されてしまうものだ。


 なのに、沙楽は先生に向かってこんなに自然な形で意見を言えるなんて…花音は深く感心する。 


 しかも、それで吹雪の苛々を収めて納得させているのだから。本当に凄いことだと思う。


「えっと、じゃあそれでもう一度…」



【♪♪♪】


 ――――ンタッンタッンタッ――


 花音は脳内でそのリズムを歌う。メトロノームがカチッと鳴ったら、その0,5拍後に入る、それを繰り返す……


 ここは低音が表打ちで、ホルンやスネアは裏打ちで入る。合奏では低音を聞くけど、今はメトロノームをよく聞いて────


 個人練、花音は裏打ちの練習をしていた。裏打ちはただンタンタッと吹くだけで簡単そうに思えるが、意外と難しい。


 意識していても、気がつけばメトロノームの音に合わせて、知らず知らずの内に表打ちになってしまう。


 だからつられないように常に耳を研ぎ澄まし、気を張っておく必要がある。


「ねぇ舞香ちゃん、ここの高い音が出なくて……」

 

 銀色のトランペットを構えた夏琴が、楽譜を吟味しながら、うーん、と苦しそうに唸っている。


「出ない?どこ?」

「ここ、小節Bのメロディーが…」


 夏琴が楽譜を指さす。舞香が覗き込むと、そこには五線譜を飛び越えた四分音符が書かれていた。


「あー、このGは難しいよね…」

「頑張って高いミ(チューニングB♭より上のⅮ)くらいしか…」


 夏琴はチューニングB♭から音階を吹き始めるが、E♭で音が掠れる。これは音を当てられていない証拠だ。


「じゃあこのメロディーはとりあえず自分が吹くから、夏琴ちゃんは小節Cのウンタタタッタから吹いて」

「了解!」


 よろしくお願いします!と夏琴は舞香に向かって両手を合わせる。


「はーいもっと出せるよー!」


 その後ろでは、顔を真っ赤にして楽器を吹いている祐揮と響介と、その二人を指導している美鈴の姿があった。


 二人が吹いているのは、小節Cの低音楽器だけのメロディーだ。低音ならではの重たい音がかっこいい。


 そこのメロディーを吹くのはトロンボーン、チューバ、バリトンサックスの三人だけで、他はみんなハモリ。


 そのため、合奏のときにメロディーが埋もれ気味になってしまいバランスが悪い。


 他のハモリのメンバーが音量を抑えるのも手だが、何しろ吹くだけで精一杯な初心者は音量を大きくするより、あえて小さく調整することの方が難しかったりするのだ。


「キッツ…」

「なーに言ってんの!ここは低音が大事なんだよ!あと5倍は出してもらわないと!」


 美鈴はスパルタ熱血教師さながら「もう一回やるよ!」と手を叩く。その目は炎のように燃え上がっている。


「もう無理…」

  

 祐揮は今にも死にそうな魂の抜けた顔でぐったりしている。一方、響介は死にそうではないもの、膝に肘をついてゼェゼェと息が荒い。


「ちょ、これもう十四回目なんすんすけど…」

「出来るまで何回でも吹かすから!はいもう一回!」


 美鈴は妙に満面の笑顔でまた手を叩き、命令された二人は絶望だと言わんばかりに青ざめた。なんか、ただ美鈴が楽しいだけのような……


 花音そんな音楽室の様子を、遠目で眺めていた。


 花音は先輩が居る分、合奏で捕まることも少ないし(そもそもホルンはパート上あまり捕まらない)、普段の練習もとやかく言われることはあまり無い。


 決して余裕だというわけではないが、他、特に金管のみんなと比べると特に切羽詰まってはいないだろう。


 だから花音はいつも周りを見て『大変そうだなぁ』と同情したり、『先輩が居なくてもあんなに頑張ってて凄いなぁ』と尊敬したりもする。 

 

 わたしに何か出来ることはないだろうか、何かみんなの力になれることがあるんじゃないか…と花音は思考を巡らせようとした。


 しかし、いやいやと花音は首を降る。今はそんなことをしている場合ではない。


 わたしだって出来ていないところはあるし、まずは自分の練習をしっかりしなくては。


 みんなも頑張っているんだから、わたしも頑張らないと!花音は自分に言い聞かせ、再び練習を開始した。



【7月26日】



「うわっ!痛そう!」


 花音が楽器庫に楽器を取りに行くと、そこには一年生の人だかりができていた。


「先輩、痛くないんですか?」


「んー?まぁ出来たときは痛かったけど、もう慣れたよ〜」


 なんだろう。と花音は少しばかり近寄る。人だかりの中心には副部長の沙楽が居た。


 沙楽は自分の親指を後輩たちに見せている。


 ちら、と花音が隙間から覗くと、沙楽の親指はぷくっと膨れ上がって変形していた。


 青黒く染まった血豆は、直視するとかなりグロくて痛々しくて、花音はつい目を細めた。


「クラリネット吹いてたらこうなっちゃうんですか?」


「ちょうど指掛けが親指に当たっちゃって、そのまま何時間も吹いてたから…」


 うわぁ、と驚愕している後輩たちに使って、沙楽はえへへと笑った。


 クラリネットは、本体の裏の指掛の出っぱりに親指を掛けて楽器を構える。簡単に言えばリコーダーのような構え方だ。


 だから、その状態でぶっ通しで練習していたら血豆が出来てしまうのだ。


「吹いてる途中に今何時だろ〜って時計見たら六時間くらい経ってた時あったな〜」


 へへっ、と沙楽は軽い調子で笑い飛ばすが、言っていることはとんでもないことである。


 そんな長時間ぶっ通し、飲まず食わずで練習できるなんて、と花音は信じられなかった。


 尊敬の領域を超えたのか、周りのみんなは揃いも揃ってぎょっとしている。


「私、絶対そんなに練習できない〜」


 クラリネットの一年生の紫音が苦笑いする。『先輩スゴい〜』とらしくもない嬌声で沙楽に近寄った。


「先輩、凄すぎます!莉音は先輩のこと本当に尊敬してます!」


 莉音は両手を合わせて目をキラキラ輝かせる。その姿は本当に沙楽に対する好意や尊敬などといった思いがひしひしと伝わってくる。


「えー?でも嬉しいなぁ」


 まるで教祖様と信者のように、沙楽は口元を抑えながら後輩たちに微笑みかける。   


 成績はトップクラスで、生徒会で、副部長で、楽器も上手で、更にこんなに人気者。


 その輝かしい経歴も、青黒く腫れた親指の血豆も、沙楽のその努力の賜物なのだろう。


 誰がどう見たって完璧で、欠点なんて無さそうで、何でも持っていそうで。とても幸せそうに見える。


 それなのに、何故だろう。沙楽を見ると、猛烈なーーーー違和感、を感じて仕方ないのだ。


 あのとき見た先輩の、光のない空虚な瞳。あの瞳が未だに花音の脳裏に刻まれていて、忘れられなかった。


 あの瞳は、『人間』らしくなかったというか…本来持っているような温もり一つ感じなかった。


 人間がみんな持っているような当たり前の何かが、丸ごと抜かれているような。


 物みたいな、ロボットみたいな……玩具のぬいぐるみの目、のような。


 子供たちの娯楽のためだけに体を捧げ、どんなに乱暴に扱われても耐え、それなのに飽きが来たら呆気なく捨てられる。


 そんな可哀相なぬいぐるみの、感情のない虚ろなプラスチックの瞳のようだ。

 

 そんなことを感じるのは、わたしだけなのだろうか。他に同じことを思っている人は居ないのかと、花音は疑問に思った。


 花音は同級生たちの歓声を背に、ホルンを楽器棚から取って、静かに出て行く。

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