#26 笑顔の魔法

「俺なんて、どうせここでも…」 


 怒り、迷い、悲しみ、苦しみ。


 力が抜けたように項垂れる響介からは、そんな感情ばかりがひしひしと感じ取れた。


 花音は居ても立っても居られなくなる。響介から目を逸らすと、その場からさっと離れた。


 そして、自分の譜面台と椅子の下まで行き、置いておいたホルンを掴み、また響介の下に戻った。


「…な、何?」


 響介は突然の花音の行動に、目を見開いていた。ホルンを持って目の前に立つ花音を、驚いた顔で見上げる。


 花音は、ただ覚悟を決めたような顔でホルンを構えると、息を思いきり吸った。


 ドドソソララソ、ファファミミレレド、


 ソソファファミミレ、ソソファファミミレ、


 ドドソソララソ、ファファミミレレド

 

「…え、は?」


 突然ホルンから鳴った曲に、響介は文字通り『は?』と顔を顰めた。


 花音が吹いたのは『きらきら星』だ。初心者の花音でも吹ける、難易度の低い曲。


 響介は花音の行動が理解できないのか、口をぽかーんと開いたまま唖然としている。


 花音はそんな響介を他所に、次々と曲を吹き続ける。


 『かえるのうた』『チューリップ』とにかく思いつくだけの吹ける歌を、ただひたすら響介の前で吹き続けた。


 花音は一通り歌を吹き終わると、真剣な表情を崩さないまま、響介の目をじっと見つめる。


 響介も、そんな花音の顔をただ呆然と眺めていた。


 しばらく、二人の間に沈黙のまま見つめ合うだけの時間が流れた。


 全く表情が変わらない響介を見て、花音はだんだんと不安になってきた。


 どうしよう、やっぱりこんなやり方じゃ、駄目だったかな。


 そう思ってしまい、花音は自身を失ったかのように俯き、眉尻を下げた。


 するとその瞬間、響介から『ぶっ、』と吹き出したような声が聞こえてきた。花音はハッとして、顔を上げた。


「…あははははっ!」


 響介は、笑っていた。可笑しそうに、堪えきれないというように。


 響介の笑った顔がなぜだがすっと頭に入ってこなくて、花音は固まった。


「あははっ…!何、おまっ、急に怖えよ!え、マジで何?!お前は歌のお姉さんかよって…はははっ…」


 響介はひたすら笑い続けた。馬鹿らしいと言うように、目に涙まで溜めて笑っていた。ずっと。


「しかもクソ下手だし、音外しすぎ、なんの曲か分かんねぇやつあったし、はははっ…まって、なんで俺こんな笑っ…」


「…った、」


 花音はようやく理解した。あぁ、笑っているんだ。響介が、笑っている。


「笑ったぁ!!」 


 花音は歓喜の声を上げた。さっきまで必死に保っていた真剣な顔をすべて崩すような勢いで、思いっきり笑った。

 

 そんな花音を見て、響介は笑顔を崩し、驚いたような表情を浮かべた。


「笑った!笑った!笑ったよね、今!」


 心の底から湧き上がってくる喜び。それらを、花音は惜しむことなく露わにした。


「そんな顔、久しぶり見た!嬉しい…」


 響介は花音の真意に気が付いたのか、ハッとする。


「……お前、俺を笑わせたくて…?」  


「そうだよ。だって北上くんずっと笑わないんだもん。だから笑った顔が見たいなぁって…」


 花音は嬉しさで飛び跳ねたい衝動を抑えながら、笑いすぎて出てきた涙を拭う。


「わたしね、嫌なことがあったりして落ち込んでる時でも、音楽を聴いたら元気になるの!まるで魔法にかけられたみたいに!」


 花音は安心感のあまり、すぐ近くにあった椅子に、ふらりと倒れるように座った。


「……やっぱり、音楽って魔法だ」


 花音はホッと息をつくと、まだ心の中に残っている喜びの感情を、静かに噛み締めた。


「な…んだ、それ…」


 響介は呆然としたまま、瞼を何度もパチパチさせる。信じられない。と言ったような顔で。


「何でそんなことまでして…」


 響介はぽつりと呟いた。どこか呆れたような、気が抜けたような声で。


「あっ!そうだ、外練!」


 ふと時計が目に入って、花音はハッとして立ち上がった。


「じゃ、外行ってくる!」


 急いで楽器や譜面台を準備すると、それらを一気に手に持って、花音は音楽室を出た。


 花音に魔法をかけられた響介は、その間ずっと、去りゆく魔法使いの姿を見つめていた。



【7月18日】


「はいじゃあね、これから通知表とね、前期中間テストの結果票をね、渡すのでね、一人ずつ廊下に取りに来てくださいね。」


 相変わらず『ね』が多い横山の話に、クラス中がざわめき出す。 


「やっべー、絶対2があるわー」

「夏休みだけど意味ねぇよ、練習だわー」


 今日は待ちに待った終業式。明日からみんな大好き夏休み。


 だけどみんなの反応は微妙で、小学校の頃のようにはっちゃけたりする雰囲気はあまり感じない。特に運動部の人達は。

 

 何故なら大抵はどの部活も大会に向けての練習で、明日からも普通に学校に来なければいけないから。


 ちなみに通称、『文化系運動部』こと吹奏楽部も例外ではない。

 

 ここから夏休みに入ると、午前九時から午後四時までの一日練をコンクール当日まで休み一切なしで通す。というスケジュールをがっちり組まれている。 

 

 練習は好きだし、楽器も吹きたい。だけど流石にきついだろうな…と、花音は先に思いやられる。


「次、篠宮さーん」


 気がつくと自分の番が来ていた。花音は立ち上がり、廊下に出る。


「はいじゃあね、これが一学期の通知表の結果とね、前期中間テストの素点表ね。」


 と、横山の大きな手で二つの紙を渡される。机の上に置かれたそれらを花音は吟味した。


 通知表の方は、目が痛くなるほどの『3』のオンパレードである。


 5段階評価の『3』はちょうど真ん中ということで、良くも悪くもなく普通、といった感じ。


 その中でたった一つだけ『5』があった。音楽だ。そりゃあ、テストで93点も取ればな。


 通知表の方はなんら問題は無かったのだけど、問題はテストの方だ。


 テストは返却されているので点数は既に分かっていたが、それでも花音は『げっ』と憂鬱な気分になった。


 国語67点、数学38点、社会41点、理科48点…苦手科目の英語に至っては、31点。


 大抵どの科目も平均点が60〜65点前後だと考えると、花音のこのテストの点数は『悪い』ということになる。


 漫画やアニメなんかで花音のような大人しい静か系のキャラは大抵、運動は苦手だが賢くて勉強はできるという設定になっていることが多い。


 そういうキャラを見ると、花音は妙に心が痛くなる。


 花音は運動はからきしで、かといって勉強もあまり得意ではないし、むしろ成績は中の下といったところ。


 授業中に部活で演奏した曲を脳内再生したり、ホルンの運指の練習をこっそりとやるせいで、勉強の内容をあまり理解していないせいだろうが。

 

 ただ、授業中の態度は良くしている(一応真面目に聞いている風にはする)し、素行も悪くないし提出物もちゃんと出しているから、『関心・意欲・態度』の観点では割と良い評価を貰っている。


 だから内申点自体はあまり悪くはないのだ。


「篠宮さんは授業でも部活でもよく頑張っていると思うのでね、これからも続けていってくださいね。まあ、勉強の方はもうちょっと頑張ろうね。」


 横山はいつものように大らかな笑顔だった。花音はなんだか横山を騙しているような気がして申し訳ない気持ちになる。


 すみません先生、嘘です。授業は大して頑張ってません。だからこんな成績なんです。


 だけど、それ以上は特に何も言われなかった。もう終わり?と花音は少し拍子抜けた。


 小学生の頃の懇談と言えば、決まって『もう少し周りの子と自分から話せたらいいね』と積極性の無さについてとやかく言われていたから。


 ただそう言われてもこっちとしては余計なお世話というか、あまり嬉しい気持ちにはならなかったので、今は何も言われなくて少し安堵した。

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