#23 笑わない君

【7月9日】


「やった!また一番乗り!」


 休日練。花音と里津のふたりが音楽室のカギを開けて中に入ると、誰も居なかった。


 花音は感激の声を上げた。突然だ、だって九時から開始なのに、まだ八時十五分だから。


 誇らしげな気持ちで、花音はエアコンと電気をつける。


「眠…」


 そんな花音とは対象的に、里津はなんとなくだるそうにしていた。


 里津はふわぁと欠伸をする。朝は苦手らしく、この時間帯はいつも眠そうにしているときが多い。


「あ、ねぇそういえば吹けたの?先生から貰ったって言ってた激ムズ楽譜」


「いやー…」


 里津の言う『激ムズ楽譜』とは、花音が吹雪から託された『Beyond the Sound』のソロだ。


 花音は楽譜を貰った日の帰り道、里津にそのことについて話していた。


「とりあえず、なんとか吹けそうなとこ探したんだけど…」


 花音は楽譜ファイルを出し、『Beyond the Sound』のページを開き、里津に見せる。


「吹けそうなとこがすらない!一小節も!まず音が高すぎて出ません!」


 花音は『お手上げだ』と言わんばかりにそう嘆き、大きなため息をついた。


「これそんなにムズいの?」


「難しいよ!先輩もそう言ってたし…」


 二年の美鈴ならもしかしたら吹けるかもしれない。そう思って美鈴に楽譜を見せた。


 ちょっと吹いてみるわ。と、手本として吹いて貰えることになったけど、一分も経たないうちに『ごめんやっぱ無理』と呆気なく楽譜を返された。


 花音からすれば、先輩の美鈴は憧れの存在だ。美鈴の吹くホルンは本当に上手くて、迫力もありかっこいい。


 そんな美鈴すら吹けないのなら、花音は一生吹けないだろう。

 

「うえぇ、誰か代わりに吹いてー」


 花音は泣きそうになりながら里津に助けを求めたが、里津は冷めた目で『何言ってんの?』と一刀両断した。


「……うちサックスだからよく分かんないけど、まぁ頑張れー」


 里津はそそくさと楽器の準備をしに行った。全くそう思ってなさそうなのは気のせいだろうか。



【 ♪ ♪ ♪ 】



「えーっと、じゃあBからメロディーだけで下さい。」


 吹雪はスコアを目を凝らして見ながら、部員たちに指示をする。


 メロディーのサックスとクラリネットが、軽やかで愉快なメロディーを吹く。


「うーん悪くはないけど…なんか、のぺーっとしてるから、もっと抑揚つけてほしい。」


 吹雪は苦い顔をする。サックスとクラリネットが『はい!』と元気よく返事をした。


「でも一年生はピッチとか気にしなくていいから、とにかくもっと音出してね。今、先輩の音しか聞こえてない。」


 吹雪はここ最近やけに顔を顰めたり、少し苛々したような雰囲気を醸し出すことが日に日に増えている。


 着々と迫るコンクールに焦りを感じているのだろう。ただ、それが部員に伝わると、こちらからすればいい気持ちにはならない。


「じゃあ次は、低音だけで…」


 花音はふと視線を右に向けた。花音の目線の先には、チューバを抱えて座っている響介が居る。


 花音は最近ずっと響介のことが気がかりだった。


 様子がおかしいのだ。元々響介はそこまで明るい性格ではなかったように思うが、最近はどうも暗いというか、沈んでいるというか。


 周りの部員とも距離を取っているような気がするし、何より笑顔がない。


 まるで、自分の殻に閉じ籠もっているみたいに。


 何かあったのだろうか、と花音は心配していた。

 

 あっちからすれば余計な心配かもしれないが、一応相手は幼馴染だから、どうしても気になってしまう。


「……篠宮さん」


 すると、吹雪から突然名前を呼ばれて、花音はハッとして前を向いた。


 吹雪は険しい顔で花音を見ている。


「どこ見てたの?今、ホルンのオブリガート吹いてって言ったけど、何で吹かないの?」


 吹雪は厳しい口調で花音を問い詰めた。やばい、指示を聞き逃していた。


 完全に怒っている吹雪を目の前にして、花音は焦った。


「あっ…す、すみません!」


「よそ見しないでちゃんと話し聞いて。」


 吹雪はそう釘を刺すと、『じゃあ次は…』とサッと切り替えた。


 あぁ、ちゃんと集中しなきゃ駄目なのに。花音は恥ずかしいやら情けないやらで、しばらく項垂れていた。



【♪♪♪】

  


「聞いてよメロディー!また先生に怒られたぁ!」


 その日の部活が終わった後、花音はキタガミ楽器店の縁側で、猫のメロディーと戯れていた。


「もぉ、なんでわたしってこんなダメダメなんだろ…」


 花音はメロディーのもふもふの毛を擦る。あぁ、わたしの唯一の理解者は君だけだよ。と言わんばかりに。


 一方のメロディーはおそらく花音の話なんて聞いておらず、今にも寝そうに半目を閉じている。


「こんにーちは!」


 すると、ドタドタ…と足音が聞こえてきた。縁側の扉の隙間からひょこっと顔を覗かせたのは、親友の風歌だった。


「やっほ花音!」


 風歌はニコニコの笑顔で、縁側に座る花音に手を振る。花音も手を振り返した。


「風歌、部活?」


「うん!大会あるから!」


 風歌は練習後だからか、少し髪が汗で濡れていた。ジャージやらバレー用のサポーターやらが入った鞄を床にドサッと置く。


 風歌は『あー!疲れたー!』と脱力したように花音の隣に寝そべった。


「お茶居るかいー?」


 すると、台所からおばあちゃんの声が聞こえてきた。


「いるー!キンキンに冷えたの!」


 風歌がそう返すと、『分かったよ』と優しい声が返ってきた。


「花音も部活っしょ?」


 風歌は床に寝そべったまま花音にそう聞いた。


「うん、コンクール近いし…」


「吹部って誰が居るんだっけ?」


 風歌の質問に、花音は『えっと…』と、部員たちの顔を思い出す。


 しかし、その中で風歌と付き合いがありそうな子はあまりおらず、花音は誰の名前を挙げようか迷った。


 ただ、一人を除いて。


「…あ、北上くんは同じ!」

 

 いけないいけない。自分達の一番の共通の人物を忘れかけていた。


「あいつ吹部なん?!え?!」


 風歌が急に起き上がる。目を大きく見開いて、驚いていた。


「ねー、まさか入ってくるなんて思ってなくて、ほんとびっくり。しかも北上くん、体験に一度も来なかったんだよ。」


「マジか!…てか『北上くん』って、なんでそんなよそよそしいの?」


 花音は風歌に共感するも、風歌は花音の呼び方に違和感を覚えたのか首を傾げた。


 仕方ないじゃない。思春期の女子が、同級生の男子を『ちゃん付け』できる訳ないでしょう。


 とはいえ苗字で呼び捨てもあまり好きじゃないから、『苗字+くん』呼びが、花音にとってはベストなのだ。


「あいつ、今どうなの?なんか、悪い噂しか聞かないから。」


 風歌は急に神妙そうな顔になり、花音の耳元でこそっと囁く。


「え?どうって…」


 花音が返答に困っていると、『おまたせ〜』という声と共に、おばあちゃんがグラスに入ったお茶を二つ持ってきた。


「あら、何の話?」


「おばあちゃん!なんか北上、変わった気がする!」 


 風歌は遠慮なしにズバズバと聞くので、側に見ていた花音は少しハラハラした。


 いくらおばあちゃん相手とはいえ、流石にもう少し言葉選びを考えたらいいのに、と。


「きょーちゃんのこと?」


 おばあちゃんはお盆を床に置くと、花音と風歌に氷の入ったグラスを渡す。カランカラン、と氷が揺れる音がする。


「うん、あいつ、なんかあったの?」


 風歌が興味深そうな顔をしている。おばあちゃんは、少しだけ眉を下げた。


「そうよね、そう見えるよね。」


 おばあちゃんは二人の間に正座で座ると、少し悲しそうな顔をして黙り込む。


「うん、ふたりはあの子の幼馴染だものね。あの子が、バスケやってたのは知っているよね?」


 おばあちゃんの問いに、花音はハッとした。


 前に何度か見たことがあった、響介の暗い影が落ちた姿。やっぱり、バスケが関係しているんだ。


「あの子、ね…」




【7月6日】


「あ…」


 花音が音楽室に戻ると、音楽室はシーンと静かだった。


 誰もいないの?そう思って周りを見渡すと、隅の方でただひとり練習している生徒がいた。響介だ。


 響介は息を吸うと、楽器を吹き始めた。ボンボンボンと、チューバのずっしりとした低音が音楽室に響く。


 うわぁ、綺麗。花音は感激した。音程が全然ブレていなくて、真っ直ぐで安定した音。


 四分音符の単調な伴奏なのに、凄く聴きごたえのある音だ。


 花音が突っ立ったまま響介の演奏を聴いていると、ふいに演奏が止まる。


 響介が花音の存在に気が付いたのか、後ろを振り返る。


「何してんの?」

 

 響介にそう声を掛けられ、花音はハッとする。


「あ、トイレで…ていうかみんなは?」


「外練行った。後でお前も来いって。」


 響介はチューバを地面に置く。床と楽器のベルがぶつかり嫌な音が鳴る。


「北上くんは行かないの?」


「俺、チューバだし。楽器地面に置けねえだろ。」


 響介はやっぱり笑わなかった。ずっと無表情のままだし、全く花音とも目を合わせない。


 花音の脳裏に、幼き声が流れてきた。


『お前さぁ、あいつらにいじめられたからってそんなに泣くなよ。今度なんかして来たら、俺がまたボコボコにしてやるから。なっ!』


 思いっきり花音に笑って見せる、幼い頃の響介の笑顔。


「あ、あのさっ…!」


 花音は思い切って声を上げた。響介が『え?』と驚いた顔をして、花音と目を合わせる。


 とっさに声を上げたけど、話すことを何も考えていなかった。どうしよう、何を言おう。


「あの…チューバ、上手だね!」


 咄嗟に思いついたことを、花音はそのまま口に出した。響介が驚いたように目を見開く。


「き、聞いてたけど、音綺麗だなって思って、お、音程とかも合ってたし、凄いね!羨ましいなぁ。わたし、そんなふうに吹けないよ…」


 決してお世辞なんかじゃない。本当に思ったことだった。


 響介はしばらく黙り込んでいた。そんな響介を見て花音はだんだんと不安になる。


 やっぱり余計な言葉だったかもしれない。いきなりこんなこと言って、不自然に思われて、引かれたかも。


「…別に、俺なんて…」


 響介は花音からふいっと顔を背ける。


「俺なんてどうせ、ここでも続かねえよ。」


 吐き捨てるように、そう零した。

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