#21 あなたに、吹いてほしい

 そのときだ。背後から声が聞こえて、その声は、怒りで震えていた。


「お前、ムカつくんだよ!!」


 花音が振り返る前に、愛梨がそう怒鳴る。ドカッ、と花音の背中を怒りのままに蹴飛ばした。


 ぎゃっ!と、その衝撃で花音は地面に転んだ。体全体を石張りのアスファルトに強く打ち付けた。


「いっ…!」


 起き上がろうとしたら膝に痛みが走って、花音は顔を歪めた。確認すると、皮が剥けて赤い血がうっすらと滲んでいる。

 

 すっと地面に影がさして、見上げると、顔を真っ赤にさせた愛梨が目の前に居た。


 怒りに満ちた顔で、地面にうずくまっている花音を睨みつける。


「なんなんだよさっきから!お前の癖に、私に歯向かってんじゃねーよ!生意気なんだよ!愚図で能無しのくせに、友達?仲間?調子乗んな!」


 花音に言い返されたことが、花音が自分の思い通りにならなかったことが、気に食わなかったんだろうか。


 化けの皮が剥がれた愛梨は、狂ったように花音に罵倒の言葉を浴びせ続けた。

 

 花音は地面にぺたりと座り込んだまま、愛梨をただただ見上げる。

 

 ここまでキレている姿は、花音さえも見るのは初めてだった。普段、どれだけ本性を隠しているのかが良く分かる。

 

 周りの友達もそれは同じだったのか、みんな呆然として、怒り狂う愛梨を後ろで静かに眺めているだけだった。


「ウザいんだよ。お前なんか一生虐められてろ。」


 愛梨はそう吐き捨てると、『チッ』と舌打ちをして、ズカズカと大げさに足音を立ててその場を去った。


 『待ってよ!』と、周りの友達はそんな愛梨を慌てて追いかける。


 たちまちその場には、花音以外誰も居なくなった。


 力が抜けきって、花音は起き上がれなかった。呆然としたまま、地面にぺたりと座り込んで動かない。


 花音は、自分の身に起こった出来事が信じられなかった。


 ついさっき、大声で愛梨たちに歯向かったわたしは、本当にわたしだったのだろうか。


 ついこの前まで、あんなに愛梨の影に怯えていたのに。


 愛梨に何をされても、言い返すどころか『わたしに原因がある』とまで思っていたのに。


 それなのに、さっきは嘘みたいに反発心が湧き上がってきて、勢いのまま『わたしは悪くない』と言い切り、おまけに絶縁宣言までしてしまった。


 確かに愛梨には前々から、もう関わらないでほしいと思っていた。だから向こうから突っかかってこなくなる日を待ち望んでいたのだ。


 でも、そんなふうに受け身じゃ駄目なんだ。   


 関わらないでほしいなら、こっちからそう伝えないと何も始まらない。そう気づいたのだ。


 だから花音は自分の行動に、後悔は無かった。


 その代償に逆上されて怒りをぶつけられて。怖くなかったと言えば嘘になるし、つけられた傷は今も痛い。


 でも、それでも『言わなきゃ良かった』なんて少しも思わない。むしろ、心はすっと晴れやかだ。


 たった短期間で、こんなに自分が変わるなんて。なんだか、嘘みたいだな。


 でも、花音がこうなれたのは、花音の力だけじゃない。花音の力だけじゃきっと変われなかった。


 それは、きっと…


 そのとき、花音はハッとした。また、何者かの人影が近づいてくる。


 まさか、また愛梨が来た?花音は恐る恐る顔を上げる。


「……え、」


 そこに居たのは、愛梨ではなかった。でも、花音も良く知っている人物だった。


「先生?」


 花音は驚いて目を見開く。落とされてぐしゃぐしゃになった花音の楽譜ファイルを拾って、座り込んだままの花音を見下ろしていたのは、顧問の吹雪だった。


「ちょっと、来てくれない?」



【♪♪♪】


 

「そこに座って。」


 吹雪に連れられ、花音は職員室に入った。


 部活に行っている教諭が多いからか、職員室は数人しか居なくて、がらんとしていた。インスタントコーヒーの香ばしい匂いが漂う。


 吹雪は椅子を用意すると、花音に座るよう促す。『失礼します』と言って、花音はゆっくりと座った。


 吹雪は鞄を取り出すと、そこから消毒液と大きめのカットバンを二枚取り出した。


「滲みたらごめんね。」


 吹雪は花音に特に何も聞かず、花音の膝の傷に消毒液を塗り、その上から絆創膏を貼り付けた。


 その手つきがあまりにも慣れていたから、花音は少し感心してしまった。


「あっ、ありがとうございます…」

 

「ちょっと待ってて。」


 吹雪は絆創膏のゴミをゴミ箱に捨てると、花音を残して印刷室へと入っていった。


 花音はずっと落ち着かなかった。なんで自分がここに呼ばれたのか分からなかったから。


 怪我の手当てをするためだけに呼ばれた訳では無いだろう。


 もしかして、せっかく貰った楽譜をこんなふうにぐしゃぐしゃにしたから、説教でもされるのだろうか。


 嫌な予感しかしない。本当のことを話せば分かってもらえる?


 だけど、それで愛梨たちとの事が学校で問題になるのも嫌だ。どうしたらいいんだろうと、花音は思考を巡らせる。


 すると、吹雪が戻ってきた。手には、一枚の紙を持っていた。


「あなた、臨時りんじ記号とか全部分かるよね?」

 

「一応…」


「じゃ、これ。」


 吹雪から渡されたのは、一枚の楽譜だった。ノートサイズの小さめの楽譜。


「び…び…?」


 花音は目を凝らしてその楽譜を吟味する。一番上に曲名が書いてあるけれど、英語表記で読めない。


「先生の手描きだけど、読みにくいとかある?」


「ないです…」


 題名や音符などすべて手で描かれた楽譜は、むしろ読みやすい。手描きでここまで綺麗に書けるなんてすごい、とさえ思った。


「今から音源流すから聞いて。」


 吹雪はパソコンを立ち上げると、カチカチと操作する。


 その間に軽く譜読みをしたが、花音はこんな楽譜を見るのは初めてだった。


 花音が出せたことも無い高い音が続いている。しかもクラリネットのような連符もたくさんある。


 しかもこのギザギザは…『グリッサンド』と呼ばれるホルンならではの奏法。これが三回も連続で書かれている。


 少なくとも、花音が持っている基礎練習用のコラールや、夏のコンクールで吹く『マーチエイプリルリーフ』より遥かに難しそうだ。


 明らかに初心者向けの楽譜じゃない。これを吹けと言われても、『無理です!』としか言えないだろう。


 まさか、吹雪はこれを吹けと言うのだろうか。花音は血の気が引いた。こんなの絶対吹けない。


「ちなみにそれは、曲中のクライマックスで吹く、ホルンのソロよ。」


 吹雪のパソコンには動画が映っている。真ん中の再生ボタンを、吹雪はカチッとクリックした。


「この曲の題名は…」 


 吹雪の声を掻き消すように、音源が流れてきた。無機質なピアノ音声だった。


 花音は耳を澄まして聞く。すると、冒頭のロングトーンを聞いて、花音はすぐ『ん?』と眉を顰めた。


 そのまま続きを聞いたが、どんどん花音の中での違和感が膨れ上がっていく。何かがおかしい。


「えっ…?!」

 

 三十秒過ぎた辺りのとあるワンフレーズが耳に入った瞬間、花音は地球がひっくり返ったように驚き、らしくもない声を上げる。


 その違和感は確信になったのだ。


「うそ…」


 花音は手で口を覆い隠して、目を何度もパチパチさせる。信じられない、と言うように。 


 花音は、この曲を知っていた。今でもはっきり覚えている。


 澄み渡る大空に、太陽に反射して流れる川。緑の自然豊かな木々や草花。


 花音の脳裏に浮かんだのは、そのときの光景だった。


「……゛Beyondビヨンド thatザット soundサウンド゛」


 吹雪が音源を聴きながら、そう呟いた。花音はハッとする。


『続いて演奏する曲は、「Beyond that sound」です。この曲は、来月この会場で行われる吹奏楽コンクールでも演奏する曲で…』


 花音の脳裏に響く。観客として聞いた、あのときのアナウンス。


 やっぱりだ。やっぱりだ。


 花音は目を大きく見開き、何度も瞬きをする。信じられなかった。こんな奇跡あり得るのだろうか。


 この曲を忘れられるはずがない。だってこの曲は、あの夏の日、と花音を出会わせた曲だから。


 花音を若の宮中学校まで、音楽室まで連れてきた運命の曲だから。


 おねえちゃんは、すごく楽しそうにこのソロを吹いてるように見えた。まさか、こんなに難しかったなんて。


「この曲の、題名よ。」


 驚きのあまり目を見開いている花音を他所に、吹雪は花音の持っている楽譜を指差す。


 どうして、この曲を?そう訴えるように、花音は吹雪の目を見つめる。


「あなたにこれを吹いてほしい。吹けるようになってほしい。」


 吹雪はそんな花音の視線に気が付かないフリをして、真剣な声音で言った。


「今すぐ吹けるようになれとは言わない。けど、いつか絶対に吹いてほしい。お願いなの。この曲のこのソロを、あなた吹いてほしいの。」

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