#21 あなたに、吹いてほしい
「……なんなの、あんたの癖に…」
そのときだ。背後から声が聞こえてきて、花音は反射的に立ち止まる。その声は、怒りで震えている。
「何にもできない劣等生のお前が、偉そうなセリフ並べてんじゃねーよ!」
花音が振り返る前に、愛梨がそう怒鳴る。ドカッ、と花音の背中を怒りのままに蹴飛ばした。
「ぎゃっ…?!」
その衝撃で花音は地面に転んだ。石張りのアスファルトの上に、体全体を強く打ち付けた。
起き上がろうとしたら膝に痛みが走って、いたい、と花音は顔を歪める。立ち上がれずにそのまま蹲っていると、スッと地面に影がさして、見上げると、顔を真っ赤にさせた愛梨が目の前に居た。
愛梨の手が、花音のポロシャツの襟元に伸びる。掴んだ胸ぐらを、愛梨は乱暴に引っ張り上げ、怒りに満ちた表情で花音を睨みつける。
「……ゔぅ…」
襟元が首に食い込んで痛く、息が苦しい。言葉にならないうめき声が小さく漏れ、目尻に涙が滲む。そんな花音を見て、愛梨はハッと嘲笑い、
「痛い?じゃあ言ってみろよ、いつもみたいに『ごめんなさい』って。そしたら放してあげるから」
あの愛梨にあそこまで言ったのだ。怒らせることは覚悟していた。だが、まさかここまでされるなんて。
こままで感じたことがないような圧迫感と、それに伴う猛烈な恐怖に襲われる。やめて、と懇願しようと、口を開きかけた。
しかし、ぐっと堪える。ここで
花音は歯を食いしばって、痛みを堪えて、愛梨の目を真っ直ぐ見つめ返した。
しばらくお互いに鋭く睨み合うだけの時間が流れたが、先に折れたのは愛梨だった。『チっ』と舌打ちをすると、花音を乱暴に振り払った。
力がすべて抜けきった花音の体は、そのまま地面に転がった。
「調子乗ってんなよ。お前なんか一生いじめられてろ」
忌々しげに吐き捨てると、愛梨はズカズカと大げさに足音を立て去って行った。『待ってよ!』と、周りの友達は愛梨を慌てて追いかける。
たちまちその場には、花音以外誰も居なくなった。なんとか残っていた力でよろよろと起き上がるも、花音は動かない。呆然としたまま、地面にぺたりと座り込む。
何か信じられないものを見たように、瞼を何度もパチパチさせる。もう解放されたはずなのに、全身の震えが止まらない。
視線を下ろすと、膝には血が滲んでいた。震える手でそっと触ると、鈍い痛みを感じた。手に付着した真っ赤な血を、どこか他人ごとのように眺めて、花音は思う。
今の、わたし?
さっき、大声で愛梨たちに歯向かったわたしは、本当にわたしだったのだろうか。自分で起こした行動なのに、自分で信じられなくなる。
だってついこの前まで、あんなにあの子の影に怯えていた。愛梨に何をされても、言い返すどころか『わたしに原因がある』とまで思っていたのに。それなのに。
それなのに、さっきは嘘みたいに反発心が湧き上がってきて、勢いのまま『わたしは悪くない』と言い切り、おまけに絶縁宣言までしてしまった。
確かに愛梨には前々から、もう関わらないでほしいと思っていた。だから向こうから突っかかってこなくなる日を、花音は待ち望んでいた。
でも、そんなふうに受け身じゃ駄目なんだ。
関わらないでほしいなら、こっちからそう伝えないと何も始まらない。そう気づいたのだ。
だから花音は自分の行動に、後悔は無かった。
その代償に逆上されて怒りをぶつけられて。怖くなかったと言えば嘘になるし、つけられた傷は今も痛い。
でも、それでも『言わなきゃ良かった』なんて少しも思わない。むしろ、心はすっと晴れやかだ。
たった短期間で、こんなに自分が変わるなんて。なんだか、嘘みたいだな。
でも、花音がこうなれたのは、花音の力だけじゃない。花音の力だけじゃきっと変われなかった。
それは、きっと…
そのとき、花音はハッとした。また、何者かの人影が近づいてくる。
まさか、また愛梨が来た?花音は恐る恐る顔を上げる。
「……え、」
そこに居たのは、愛梨ではなかった。でも、花音も良く知っている人物だった。
「先生?」
花音は驚いて目を見開く。落とされてぐしゃぐしゃになった花音の楽譜ファイルを拾って、座り込んだままの花音を見下ろしていたのは、顧問の吹雪だった。
「ちょっと、来てくれない?」
【♪♪♪】
「そこに座って」
吹雪に連れられ、花音は職員室に入った。
部活に行っている教諭が多いからか、職員室は数人しか居なくて、がらんとしていた。インスタントコーヒーの香ばしい匂いが漂う。
吹雪は椅子を用意すると、花音に座るよう促す。『失礼します』と頭を下げて、花音はゆっくりと座った。
吹雪は自分のカバンの中から、ポケットサイズの消毒液と、大きめのカットバンを二枚取り出した。
「滲みたらごめんね」
吹雪は特に何も聞かず、花音の膝の傷に消毒液を塗り、絆創膏を貼り付けた。その手つきがあまりにも慣れていたから、花音は少し感心してしまった。
「あっ、ありがとうございます…」
「ちょっと待ってて」
吹雪は絆創膏のゴミを捨てると、花音を残して印刷室へと入っていった。
花音はずっと落ち着かなかった。なんで自分がここに呼ばれたのか分からなかったから。
怪我の手当てをするためだけに呼ばれた訳では無いだろう。
もしかして、せっかく貰った楽譜をこんなふうにぐしゃぐしゃにしたから、説教でもされるのだろうか。
嫌な予感しかない。マッピテストのときに受けた叱責を思い出し、花音は身構える。
本当のことを話せば分かってもらえるのだろうか。けど、それで愛梨たちとの事が学校で問題になるのも嫌だ。
どうしたらいいんだろうと、花音は思考を巡らせる。
すると、まもなく吹雪が戻ってきた。手には、一枚の紙を持っていた。
「あなた、
「一応…」
「じゃ、これ」
吹雪から渡されたのは、一枚の楽譜だった。ノートサイズの小さめの楽譜。
「び…び…?」
花音は目を凝らしてその楽譜を吟味する。一番上に曲名が書いてあるけれど、英語表記で読めない。
「先生の手描きだけど、読みにくいとかある?」
「ないです…」
題名や音符などすべて手で描かれた楽譜は、むしろ読みやすい。手描きでここまで綺麗に書けるなんてすごい、とさえ思った。
「今から音源流すから聞いて」
吹雪はパソコンを立ち上げると、カチカチと操作する。
その間に軽く譜読みをしたが、花音はこんな楽譜を見るのは初めてだった。
花音が出せたことも無い高い音が続いている。しかもクラリネットのような連符もたくさんある。
しかもこのギザギザは…『グリッサンド』と呼ばれるホルンならではの奏法。これが三回も連続で書かれている。
少なくとも、花音が持っている基礎練習用のコラールや、夏のコンクールで吹く『マーチエイプリルリーフ』より遥かに難しそうだ。
明らかに初心者向けの楽譜じゃない。これを吹けと言われても、『無理です!』としか言えないだろう。
まさか、吹雪はこれを吹けと言うのだろうか。花音は血の気が引いた。こんなの絶対吹けない。
「ちなみにそれは、曲中のクライマックスで吹く、ホルンのソロよ」
吹雪のパソコンには動画が映っている。真ん中の再生ボタンを、吹雪はカチッとクリックした。
「この曲の題名は…」
吹雪の声を掻き消すように、音源が流れてきた。無機質なピアノ音声だった。
花音は耳を澄まして聞く。すると、冒頭のロングトーンを聞いて、花音はすぐ『ん?』と眉を顰めた。
そのまま続きを聞いたが、どんどん花音の中での違和感が膨れ上がっていく。何かがおかしい。
「えっ…?!」
三十秒過ぎた辺りのとあるワンフレーズが耳に入った瞬間、花音は地球がひっくり返ったように驚き、らしくもない声を上げた。
その違和感は確信になったのだ。
「う、うそ…」
手で口を覆い隠して、目を何度もパチパチさせる。信じられない、と言うように。
花音は、この曲を知っていた。今でもはっきり覚えている。
澄み渡る大空に、太陽に反射して流れる川。緑の自然豊かな木々や草花。
花音の脳裏に浮かんだのは、あの光景だった。
「……゛
吹雪が音源を聴きながら、そう呟いた。花音はハッとする。
――――『続いて演奏する曲は、(Beyond that sound」です。この曲は、来月この会場で行われる吹奏楽コンクールでも演奏する曲で……』
花音の脳裏に響く。観客として聞いた、あのときのアナウンス。
やっぱりだ。やっぱりだ。
花音は目を大きく見開き、何度も瞬きをする。信じられなかった。こんな奇跡あり得るのだろうか。
この曲を忘れられるはずがない。だってこの曲は、あの夏の日、おねえちゃんと花音を出会わせた曲だから。
花音を若の宮中学校まで、音楽室まで連れてきた曲だから。
花音の運命を、大きく変えた曲だから。
おねえちゃんは、すごく楽しそうにこのソロを吹いてるように見えた。まさか、こんなに難しかったなんて。
「この曲の、題名よ」
驚きのあまり目を見開いている花音を他所に、吹雪は花音の持っている楽譜を指差す。
どうして、この曲を?そう訴えるように、花音は吹雪の目を見つめる。
「あなたにこれを吹いてほしい。吹けるようになってほしい」
吹雪はそんな花音の視線に気が付かないフリをしながら、真剣な声音で言った。
「今すぐ吹けるようになれとは言わない。けど、いつか絶対に吹いてほしい。お願いなの。この曲のこのソロを、あなただから吹いてほしいの」
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