#20 間違ってるのは……

【6月22日】


「最初はグー!じゃんけん…」


 いつもの放課後。花音と里津が音楽室に到着し、楽譜ファイルを鞄から取り出していると、楽器庫から何やら楽しげな声が聞こえてきた。


 楽器庫に入ると、中では一番に到着したであろう夏琴と裕輝が居て、なぜかふたりで白熱のじゃんけん対決をしていた。


「ポン!」


 と、ふたりは同時にチョキを出した。


「もー!これであいこ10連目!」


 夏琴が不満そうに頬を膨らませる。『なんでだろうね〜?』と祐揮はぼんやりと笑う。 


「あっ、二人も来たんだ!私達、一番最初に部活に来たんだけど、先生がこれを…」


 と、夏琴は机の上に置かれているメモ用紙を指差す。


 そこには、『靴箱に注文したロータリーオイルが届いているので、誰か取りに行ってください。川本』と、丁寧な字で書き置きが記されていた。


 ロータリーオイルとは、金管楽器のメンテナンス時にピストンのレバーとそれを留めている芯金(ネジ)に注入するオイルである。そうすることにより、ピストンがよりなめらかに動かしやすくなるのだ。


「だから、とりあえず私と大瀬でじゃんけんして、負けたほうが取りに行こうってことに。でも一向にあいこばっかでさー」


『もっかい!次で決めるから!』と、再び二人は手を出す。しかし、今度はお互いにグーを出した。


「もぉ!大瀬とやったらいつもあいこばっかり!」


 と、夏琴はまた不満そうに頬を膨らませた。


 このふたりは何だかんだ仲が良いし、気が合うんだなぁ。と花音は微笑ましく思った。


 が、これでは一生オイルを取りに行けない。花音は手をぎゅっと握りしめると、勇気を振り絞って、


「あ、あの!わ、わたしが行こうか?」 

「……えっ?いいの?」


 夏琴は首を傾げた。花音が自分から進んで何かを提案することなんて滅多にないことだからか、その場に居たみんなが驚いた顔をしていた。


 こくこくと、花音は大きく何度も頷く。不安げにちらりと夏琴の顔色を伺うも、夏琴は『えー!ありがとう!』と感激し、嬉しそうに笑った。


「じゃあお願い!」

「う…うん!もちろん!」


 喜んでくれて良かった。花音は内心ホッとしながら、楽器庫を出た。



【♪♪♪】


 オイルはすぐに見つかった。一年生の靴箱付近に、小さめの段ボールが分かりやすく置いてある。

 

 花音は間違えて持ってきてしまった楽譜ファイル(たまたま手に持っていて、急いでいたので置いてくるのを忘れた)をその場に一旦置く。


「よいしょっと…」


 花音はしゃがみ込んでラベルを確認すると、両手で段ボールを抱えた。さてと、これを早く音楽室に運ばなきゃ。立ち上がろうとした、そのとき。


「なにこれ?」


 花音はピクリと固まった。その声が、背後から聞こえたから。


 この、嫌味な声の持ち主は、あの子しか居ない。


 そう理解した瞬間、一気にお腹の底から恐怖が湧き上がってきて、手の力が抜ける。ぼとっ、と鈍い音がして、段ボールが地面に落ちていた。


 いつもそうだ。愛梨たちが近くにいるときは、これから傷つけられるという恐怖心のあまり、一歩も動けなくなる。


「なにこれ、楽譜?」


 花音の予感は当たった。振り返るとそこには花音を虐めている愛梨と、その友達が屯していた。


 愛梨たちはバレー部だ。だからか、みんなジャージを着ていた。


「……?!」


 花音は息を呑む。愛梨たちの手には、さっき花音が地面に置いた楽譜ファイルがあったのだ。


「お前、部活入ってたんだ?てっきり帰宅部かと思ってたのに…まさか、吹部?」


 愛梨たちは中に入っている楽譜たちを面白おかしく物色している。


 多分、さっき花音が段ボールを持ち上げている隙に盗ったのだろう。


「……あ、あっ、かえ…」


 血の気が引いた。最悪だ。いつもの悪口ならまだ我慢できるが、私物に手を出されるのは本当に嫌なのだ。


「お前、小学生の時からなんか音楽の本?読んでたよね。あのクソつまんなそうな本!」


 楽譜のページをペラペラと捲りながら、愛梨がクスクスと笑う。


 捲り方が乱暴なせいで、中に入っている楽譜の端が所々折れている。


「まぁいいんじゃね?所詮しょせん、文化部なんて陰キャが入るような部活だし、それにうちの学校の吹部なんて廃部寸前のゴミ部活だし、お前にぴったりでしょw」


「ねぇ愛梨〜、それは流石に可哀想じゃない?」


「だってホントの事だしぃ?こいつ何やってもずっと黙ってるもん。」


 ギャハハハと、世界が揺れるような大きな笑いが起こった。


 ……大丈夫だよ。花音は愛梨たちの笑い声を聞きながら、いつものように自分にそう言い聞かせた。


 大丈夫だよ。こんなの慣れていたじゃない。前もあったことじゃない。苦しくないし、辛くないし、悲しくない。


 別に愛梨たちは、吹奏楽部を特別貶したいんじゃない。わたしが持っているものを否定出来たら何でもいいんだ。


 それが分かっているから、大丈夫。心を殺して、我慢するの。そしたら、この人たちはそのうち飽きてくるから。


 仕方ないんだ。わたしなんだから。わたしみたいな人間は、こんな事されてもしょうがな…


「てか全然楽譜入ってないじゃん、もういいやぁ」


 まだ基礎練習とコンクールの楽譜くらいしか入っていない空疎な中身を見るのに飽きたのか、愛梨は花音のファイルを投げ捨てた。


 バサッ、と花音の足元に落ちて。そのはずみで中身の楽譜たちがグシャグシャになった。


 汚したくない、綺麗に取っておきたい。そう思って、授業で使う教科書やノートよりもよっぽど大切に扱っていた。


 それが、愛梨たちの手によって一瞬で台無しにされたんだ。


 花音は、ふと空を見上げた。空は澄み渡る青で、やっぱり、ありえないほど広くて大きかった。


 花音の脳裏に、自分ではない誰かの声が響く。


 ――――きっとあの広すぎる空から見たら、ここは信じられないくらい狭くて小さいよ。


 苦しめてくる奴らも、そのせいで抱えた苦しみも、きっと世界から見たらちっぽけな存在だよ。  


 そんなちっぽけな奴らに苦しめられたせいで、自分なんか価値がない思うなんて、バカみたい。バカみたいだよ。


 そんな訳、無いのに。


「……てよ…」

 

 花音は俯いて、拳を固く握り締めた。握りしめた拳が、小刻みに震える。


「あ?何?声が小さくて聞こえませーん」


 その声に気付いた愛梨が、耳を傾ける動作をしながら花音を煽った。


 怖くないはずがない。怖い。心臓がバクバク鳴る。怖くて、怖くて堪らない。


 でも。

 

「……やめてよぉ!!」 


 花音は勢いよく顔を上げ、精一杯声を張り上げて叫んだ。いままで出したこともないような大声で。

 

 花音の突然の大声に驚いたのか、愛梨たちはビクリと肩をすくめた。当然だ。花音は何をされても、愛梨たちに声を荒げたことは無かったから。一度だって。


 一歩、花音は愛梨たちに詰め寄る。動揺している彼女らの目を真正面から見つめ、

 

「やめて、もう…こんな事するのやめてよ!わたしの大切なもの傷つけるのやめて!」


『やめて』と訴える声が震える。体中の震えも止まらない。


「なんで…なんでいつも酷いことばっかりするの?!わたしは山下さんたちに何もしてない。悪いことなんてしてないのに、なんでこんな目に遭わなきゃいけないの?!」


 ハァハァと、と息が切れる。いままで思ってきたこと、無理やり押し殺して気付かないフリをしていた感情を、隠さず全部ぶつけた。


 慣れない声を出したせいで、喉が乾いて、痛い。額から汗がダラダラと流れ落ちる。


「…は?なんなの急に。」


 しばらく呆然としていた愛梨が、急に目つきを変えて花音をギロリと睨みつける。


 そんな愛梨の顔を見て、花音は思わず後退りした。

 

 ……怖い…


 覚悟は決めたはずなのに、それでもやっぱり怖いと思ってしまう。


「なんでそんなこと言うの?私…あんたのためにやってたんだよ?あんたが鈍臭く友達も居なくて、いつもひとりぼっちで寂しそうだったから、構ってあげてるのに」


 花音は唖然とした。 『ひどいよぉ』と、か弱い声で話す愛梨の目には涙が浮かんでいた。

 

 すると、周りの友達が『大丈夫?』と言って、愛梨を慰め始めた。


 そして、花音を睨むと『ひどいよ』『愛梨に謝って』と、口々に批判し始めた。


 花音は状況を把握できずに一瞬だけ呆然としていたが、すぐに理解できた。


 愛梨は昔から自分の立場が悪くなれば、すぐに泣いて周りの同情を買っていた。


 そうすることで、相手のせいにできるから。周りに『お前が悪い』と加害者意識を持たせ、相手に罪悪感を植え付け反論する気力を奪える。


 それが愛梨のやり口だ。今もそうやって、花音を悪者にしようとしているのだ。


 きっと前の花音なら、こんなふうに集団で責め立てられたら、恐怖のあまりすぐに謝っていただろう。 


 集団とは、数の多さとは、時に絶対的で脅威的な暴力になる。


 例え、彼らの主張がどんなものであっても、一瞬で少数派をにしてしまう。


 花音もそんな数の暴力に圧倒されて、『わたしが悪い』とさえ思っただろう。


 でも、今はそうは思わなかった。


 愛梨の泣いている姿を見ても、それを庇う友達の姿を見ても、花音は罪悪感ひとつ感じなかった。


 だって、花音は悪くないのだから。


 ……そうだ。わたしは、悪くない。


 おかしいのも、間違っているのも全部、今目の前に居るこの人達だ。


 どんなにわたしのことが気に入らなくても、無視して、悪口を言って、嫌がらせをしてもいい権利などこの人達には無い。


 わたしは、何も悪くない。間違ってもいない。間違っているのは、わたしを傷つけるこの人達の方だ。


 今なら、花音は心からそう思えた。


「違う…」


 そんな愛梨たちに対する反感が、見る見るうちに湧き上がってくる。


 負けたくない。わたしを馬鹿にする心ない言葉たちに。


 わたしの生き方を否定してくる人たちに、屈したくない。絶対に。


「違う…違う違う違うっ!わたしはっ…」


 花音は泣いている愛梨の顔を、再び睨みつける。自分にも言い聞かせるように、『違う』と叫んだ。


 脳裏にはっきりと浮かんだのは、の顔だった。


 別になんともなさそうに、ただただ普通に笑いかけてくれるみんなの顔。


 なんでこんなわたしを、仲間として認めてくれるの?


 どうして、みんなと同じように接してくれるの?


 ずっと分からなかった。


 ……でもなんだか今、ほんの少しだけ分かった気がする。


「……!」


 愛梨は花音のその言葉を聞いて、ピタッ、と泣くのを辞めた。


「わたしには、友達が居るの!こんな駄目なわたしを認めてくれる、仲間が居るの!わたしは、ひとりぼっちじゃない!」


 今もあの場所音楽室で、ずっと帰ってこない花音のことを、待ってくれているかもしれない。


 あぁ、戻りたいな。みんなと練習したい。一刻も早く。


「だから、わたしは山下さんに構われる必要なんかない!もう、関わらないで。関わりたくないから!」


 花音はそう言い切って、ふぅ、と一息吐いた。火照っていた体から熱が冷めていく。だんだんと冷静さを取り戻した。


 もう戻ろう。そう思い、落とした段ボールを再び持ち上げようとしゃがみ込んだ。

 

「……なんなの、お前…」


 

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